2004年08月23日(月) |
70年前に奪われた優勝旗 |
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駒大苫小牧が春夏連覇を狙った済美を13―10で破り、北海道勢として初の全国制覇を果たすという形で今年も甲子園の熱い戦いは幕を閉じた。優勝旗は初めて津軽海峡を渡ることになったのである。駒大苫小牧は初戦の佐世保実戦で甲子園初勝利を挙げてからは、優勝経験校を次々と倒し、準決勝までの4試合連続2けた安打、決勝でも20安打を放った強力打線はすばらしかった。オレはテレビで観戦しながら確信していた。「今年の阪神よりも絶対に強い!」と。
さて、今回初めて北海道勢が優勝したわけだが、実は70年前にも優勝のチャンスはあったのだ。1934年、旭川中学のエースはスタルヒンだった。亡命ロシア人で、父が殺人事件で服役中という彼の生活は野球部の部長や部員がお金を出し合って支えられていたのである。彼が活躍すればきっと優勝できると仲間達も夢を託していたし、スタルヒン自身も甲子園で優勝することを目標にしていた。
ところが甲子園出場を目前に控えた7月、讀賣新聞社は自社の主催する日米野球にスタルヒンを出場させるために強引に引き抜こうとした。このとき讀賣は服役中の父の減刑、高額な支度金というエサと、言うことを聞かなければ特高警察を動かして国外追放(強制送還)という脅しの両面戦術で迫ったという。その結果、スタルヒンは18歳の夏、旭川中学を中退し、野球部の仲間の目をはばかるように夜行列車で夜逃げ同然に上京して大日本東京野球倶楽部(今の巨人軍の前身)に入団したのである。
夏の甲子園大会が朝日新聞社主催であり、日米野球が讀賣新聞社主催だったことを思えば、この争いは朝日と讀賣の代理戦争であり、当時から讀賣は現金という実弾を使っていたということになる。讀賣新聞社としては、全国高校野球選手権という人気のある大会に対抗できる目玉が欲しかった。それが後のプロ野球につながっていくのである。
スタルヒンの実力は当時の高校生のレベルをはるかにこえていた。巨人軍のエースとして活躍して1939年には42勝15敗、この年の巨人は66勝26敗で優勝している。191センチという長身から投げ下ろすストレートは、全盛期は160キロ以上は出ていたと言われる。昭和19年に戦況が悪化して職業野球が中止になってからは彼は外国人キャンプに収容され、戦後はパリーグで活躍した。
もしも彼が大会直前に旭川中学を中退することがなければ、70年前に優勝旗が北海道に渡っていた可能性はきわめて高い。北海道勢が優勝するまで、それから70年もの長い月日が掛かったのである。この夏、駒大苫小牧は70年前の夏に奪われたものをやっと取り戻したのである。
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