2004年04月09日(金) |
我が子のキンタマを切る母親 |
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生後4カ月の二男の下腹部を一部切除して重傷を負わせたとして、大阪府警捜査一課と和泉署は4月6日、傷害容疑で母親の無職田村静絵容疑者(24歳)を逮捕した。田村容疑者は「発作的にやった。安全カミソリを使った」と容疑を認めている。
母親は119番通報した際、救急隊員らに「室内で飼っている犬にかまれた」と説明していたが、診察した医師が傷の形状を見て犬のかみ傷と異なることを不審に思い、大阪府警に届けた。事情聴取に対して母親は当初「帰宅すると子供が血を流していた。だれかが侵入して襲ったのかもしれない」などと話していたが、後に容疑を認めた。
我が子を好んで人殺しにしたい親や、連続婦女暴行魔にしたい親などいない。それなのに現実にはそんな少年たちが育つ。子育ては難しい。思い通りにならない理由は、どんな子どもも一個の独立した人格を持ち、主体性を持って行動することが可能だからである。親とは、よりよく育つための手助けはできても、そのすべてを支配することなど現実には不可能なのだ。
箱入り娘に育てた娘が突然禿げたオッサンと駆け落ちしたり、童貞の少年が母親よりも年上の人妻に恋をしてしまった時、親は「そんな育て方をしたつもりはない」と嘆くだろう。しかし、人生とは不条理なモノなのだ。この世に生きる以上その不条理もまた運命として受け止めるしかないのだ。
女の子が生まれることを熱望したのに生まれてきたのが男の子だった。どうしてもその子を女の子にしたいのならば、小さい頃から女の子のおもちゃだけを与えて長い年月掛けて洗脳し、自らニューハーフになることを望むようにするしかない。もっとも思い通りに育つとは限らない。親に反発してドラえもんに出てくるジャイアンのような乱暴な子になるかも知れないのだ。間違っても睾丸を切除するなんて乱暴な方法でその夢を叶えてはならない。
我が子のキンタマを切ったこの母親は、自分の残虐な行為の理由を幼い頃の性的虐待による男性不信と主張している。彼女の男性不信は、この世に存在するすべての男性性器を消滅させなければ消えないほど強いものだったのだろうか。それでまず手始めに我が子のキンタマを切ったのか。だったらなぜその子の父親となる男性を自分の身体に受け入れたのか。そうでなければ子どもは産まれないではないか。
この世には塾に通わないというただそれだけの理由でわが子を絞殺する母親もいる。無抵抗の赤ん坊にタバコの火を押しつけるクソ野郎もいる。「おまえの子なんかに生まれて来るんじゃなかった。」虐待の末に死んだ子どもはそうして親を呪うのだろうか。でも、子どもには親は選べないし、逃げ出すこともできない。
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