2004年02月28日(土) |
最高でも死刑、最低でも死刑 |
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その昔、田村亮子(おっと、今は谷亮子だ)がオリンピックの目標について訊かれて「最低でも金、最高でも金」と答えたそうである。死刑以外の答えが何一つ用意されていなかった今回の裁判も同様に例えることができるだろう。刑事裁判とは、検察側と弁護側がさまざまな証拠資料を駆使して丁々発止とやり合うディベートの一種であるとオレは思っている。その意味で、戦う前から結論が用意されている今回の裁判は、およそディベートの名に値しないものであった。
地下鉄サリン事件が教祖の命令であったのか、それとも一部の側近の暴走であったのかは、麻原教祖が何も語らなくなった今となってはもうわからない。ただ、東京の上空から大規模にサリンを散布して日本国民を恐怖のどん底にたたき込むことが、オウムの意図した革命の一つの過程であったことは確かである。そのために教団はロシアからヘリコプターを購入していた。
もしも松本や地下鉄で実験せずに、いきなりサリン数トンを空中散布されたらどんなことになっていただろうか。オレはその最悪の事態を想像してしまう。そして、これほど厄介な集団に対して、公安関係のスパイが偽入信してその内情を探るなどの捜査方法を取らなかったことを残念に思うのである。しょせん日本の警察の捜査力はこの程度なのだ。
オウムに集まった若者たちは、その多くが現実世界の人間関係に絶望して入信してくる。その他の新興宗教にしても自己啓発セミナーにしても同様だ。地域社会や家族という絆が崩壊しつつある今、居場所を失った人たちの受け皿はこのような団体や組織しかないのである。
確か1992年だったと思うが、京都大学の学園祭で行われた麻原彰晃講演会にオレは聴衆の一人として参加していた。自分の目でどんな男かを確かめたかったからである。教義には何の関心もないが、教祖に対しては野次馬的な興味を持っていた。300人収容の教室には実に1000名を超える聴衆が集まっていたという。そのときに教祖の周囲を警備していたメンバーは、後に逮捕されて次々と死刑判決を受けることになった面々だった。オレの目の前には新実智光が立っていた。彼がそのときすでに坂本弁護士一家を殺害していたことなど、オレは思いもよらなかったのである。
目が見えないのに美女を好み、巨人ファンで大食いだったというただのおかしなオッサンを教祖に祭り上げて、連中はいったい何を目指していたのだろうか。死刑判決を告げられた時の新実被告はなぜニヤリと不敵な笑みを浮かべたのだろうか。彼らの革命ごっこの犠牲になった多くの人々にとって、「死刑以上の罰はないのか」という怒りは当然だ。しかしオレはあえてこのオッサンに対して「すべてしゃべれば死刑にしない」と司法取引を持ちかけて欲しかったのである。そうしたらもっと多くの真実が明かされたかも知れないのだ。
死刑こそ免れても、この外道の運命はどうせ二度と娑婆の空気は吸えないのである。絶海の孤島にでも島流しにして、思う存分修行させてやるという罰もあったのである。
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