2004年01月11日(日) |
芥川賞を与えてはだめである |
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第130回芥川賞・直木賞の候補作が1月8日発表され、芥川賞に早稲田大教育学部二年綿矢りさ(19)の「蹴りたい背中」、立教大学文学部一年、島本理生(20)の「生まれる森」、すばる文学賞を受賞した金原ひとみ(20)の「蛇にピアス」(すばる十一月号)が入った。この三人のいずれかが受賞すれば、史上最年少となる。
純文学雑誌などほとんど売れない時代である。公共図書館に納入されている冊数を除けば、個人で買ってる人などごくわずかである。このオレも買わずに図書館で読む一人である。どうやって純文学に若い読者を呼び込めるかに業界が躍起になっている今、若者に人気がありすでに多くの読者を獲得している彼女たちに芥川賞を与えることはそれなりにいい戦略かも知れない。少なくとも暴力とセックス描写しかなく、嫌悪感以外何も感じられなかった前回の受賞作「ハリガネムシ」(吉村萬壱)よりははるかにどれもいい。
しかし、芥川賞をもらうことは当の受賞者にとって果たしてよいことなのだろうか。歴代の受賞者を見たとき、その中で消えていった人の多さを思うのである。芥川賞はあくまでもデビューから2,3年目までの「新人」に授与されるのだが、少なくとも選考するときにその作家の可能性を十分に予測して与えて欲しいのだ。たとえば現役作家の中でノーベル文学賞にもっとも近いと思われる村上春樹は芥川賞を受賞していない。三島由紀夫や古くは太宰治など、純文学の世界で頂点に立った作家はこの賞には縁がなかった。なぜそのようなことが起きるのか、それは選考委員たちが作家だからである。彼らはすぐれた書き手であってもよき読み手ではなかったからである。そして自分を超える能力を持つ作家は理解不能なのである。
誰が自分の存在を脅かす可能性のあるライバルをわざわざ世に出すものか。真に優れた新人はその芽を摘みたいに決まっているのである。新たな商売敵など登場して欲しくないのである。そこで必然的に「こいつ程度なら安心」という人に受賞させるのである。その繰り返しで年々レベルが下がるといっても過言ではない。大正時代に空前のベストセラー作家だった島田清次郎が文壇のいじめにあって失意のうちに発狂して死んだように、文壇というムラ社会の雰囲気を壊さない程度の仲間しか受け入れたくないのである。
晩年の林芙美子がライバルの女性作家を激しくいじめたのもその存在が自分を脅かすと知っていたからである。オレは今回候補になったこの三人には大いに期待している。特に綿矢りさは中でも一番かわいいので大好きなのである。だから芥川賞を与えて欲しくないのである。誰とは言わないが、悪文しか書けないあの選考委員に認めて欲しくなどないのである。
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