2004年01月03日(土) |
年賀状はとにかく大変なのである |
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毎年200枚を超える年賀状を書くのは大変なのである。思い切って書くのを止めてしまえばスッキリするかも知れないが、なかなかそういうわけにもいかないのである。これはオレにとって大切な儀式だからだ。
高校生の頃、オレは謄写版(いわゆるガリ版)の印刷機で年賀状を作っていた。そのころはプリントゴッコなどという便利なものはまだなかったのだ。大学生になってからは原版を作成してそれを一枚10円でコピーするという方法で作っていた。やがて写真がかなり鮮明にコピーできることがわかって、モノクロだが写真つきの年賀状を出すようになった。大学でサイクリング部に所属していたこともあり、自転車で訪れた場所の写真入りのものを作ったのだ。その作り方は社会人になってからもしばらく続いた。
枚数が増えてくると今度は住所録の管理が大変になってくる。そのころ職場で導入されたニンジャというカード型データーベースソフトにとびついたのも無理はない。データの管理に使用するソフトは変わったが、そのときに作成したデータを更新しながら今に引き継いでいる。今はデジカメで撮った写真を写真画質のプリンタで印刷し、そこに近況報告の文章を添えている。文面は出す相手によって少しずつ変える。結果的にずいぶんと時間がかかってしまうがそれでもがんばって元旦に届くように投函している。ちゃんと出せなかったのは年末に過労で倒れて12月29日まで入院した年くらいである。
200枚以上出すということは、同じくらい届くということでもある。届いた賀状を見て思うのだが、印刷された定型の挨拶だけの年賀状はやはり味気ない。一言でも手書きの文字や近況報告が添えてあると嬉しいものである。たとえ「お元気ですか」のひとことでも、「まだしぶとく生きてるのか」という罵倒文句でもいい。そこに相手の息づかいが感じられるのがいいのだ。
長い間逢っていない旧友であっても、年賀状が届くということは生存報告のようなものだ。子どもの写真だけではダメである。やはり本人の写真が見たいのである。自分同様におっさんおばはんになった顔でもそれなりに確かめたいのである。オレの方がまだ若いなどと優越感にひたりたいのである。(もしかしたら相手もそう思ってるかも知れないのだが)
中学や高校でお世話になった何人かの恩師にもずっと賀状を出していたのだが、その中にはすでに亡くなられた方も居る。削除してしまうのはなんだか寂しくてパソコン上の住所録データはそのままにしてある。データを削除してしまうと相手がこの世に存在した足跡まで消してしまう気がして、いつまでも消せないのである。自分の心の中では決して「故人」ではないのだ。思い出せばいつでもそこにいる、そんな存在だからである。
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