2004年01月02日(金) |
よりよく生きるということ(『葉っぱのフレディ』論) |
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今、私の手元に葉っぱのフレディ―いのちの旅という絵本がある。副題として「いのちの旅」ということばが添えてある。新年を迎えるたびに私はこの絵本を開く。そして「いのち」への思いを新たにする。今、生きているということの重みをかみしめる。
フレディは葉っぱだ。春に生まれたばかりのフレディは、夏にはもう厚みのある、立派な葉っぱに成長した。五つに別れた葉の先は力強くとがっていた。フレディのまわりには数え切れないほどの葉っぱの友達が居た。日光浴の時はじっとして、雨が降ればいっせいに体を洗ってもらう。
フレディの親友ダニエルは、フレディにいろんなことを教えてくれた。あいさつに来るのは小鳥たちであること。月や太陽や星が秩序正しく空を回ってること、めぐりめぐる季節のこと。フレディは「葉っぱに生まれてよかった」と思うようになる。公園に木かげを求めて集まってきた人に、フレディたちは葉っぱをそよがせて涼しい風を送ってあげた。「フレディ これも葉っぱの仕事なんだよ。」楽しい夏は駆け足で通り過ぎ、やがて秋になり冬が近づき、寒さがやってくる。そして、みんないっせいに紅葉する。フレディは赤と青と金の三色に変わる。そして、きのうまで仲良しだった風は急に襲いかかって来て、仲間はどんどん地面に吹き飛ばされてしまう。
「ぼく 死ぬのがこわいよ」
「考えてごらん 世界は変化し続けているんだ。変化しないものはひとつもないんだ。死ぬというのも変わることのひとつなんだよ。」
フレディのおりたところはやわらかな雪の上でした。フレディは目を閉じねむりに入りました。
この絵本を読んだ後でいつも感じる不思議な読後感はいったい何なのだろう。いのちは尊い。でも、いのちには必ず終わりがある。そしてひとつの命の終わりは必ずひとつの始まりでもある。私たちにできることは、こうして与えられた生を粗末にせずによりよく生ききることしかない。それ以外に造物主が付与してくれた生に感謝する気持ちを表現する手段はない。
かつて私はある女性から「あなたが突然死んだら私もその時は生きてはいないわ。」と言われたことがある。自分なんかにつきあわなくてもいい、長生きしてもっといい男を見つければいい、そう答えたかったけど、嬉しくて涙ぐんだ私は黙って手を握り返しただけだった。その相手と別れてしまうことなどどうしてそのときに予想できただろう。私はその瞬間を思い出すだけでどんなに楽しい時でも急に悲しくなれるのだ。二葉亭四迷が I LOVE YOU を「あなたのためになら死んでもいいわ」と訳したごとく、それが恋人たちの時間を盛り上げるための常套句であったのだとしても。
「死んでもいい」だなんて、なんてすてきな殺し文句なんだ。命の重みをなんと思ってるんだバカたれ。そんなふうに告白されたらYESと言うしかないじゃないか。
文字や言葉にすることは存外簡単なのかも知れない。そして、瞬間的にそのような気持ちを恋人たちが持っていることはまぎれもない事実であるのだろう。ところがあらゆる感情は流れていくものであり、季節のうつろいとともに変化する。小田和正はかつて「夏の日」という曲の中で「時よ 愛を試さないで」と歌った。永遠なるものにあこがれることは、自分が永遠不変の感情など持てないことの裏返しなのかも知れない。
かつての恋人と共有した時間をゆっくりと振り返りながら、私は一人で考える。彼女が自分と共有してくれた時間に、どれほど二人がやさしい気持ちになれたのだろうかと、私は自分の胸にそっと問いかける。よりよく生きること、命の重みをかみしめるということは、そんなところからはじまるのかも知れない。
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