2003年05月23日(金) |
無償の愛に包まれて〜韓国映画『おばあちゃんの家』 |
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ゲームばかりしていて、自分の思い通りにならないと文句ばかり垂れてまわりに当たり散らすといういまどきのクソガキ、そんな7歳の少年が突然何もない山の中の村にあるおばあちゃんの家に預けられて一夏を過ごす。これが映画『おばあちゃんの家』の設定である。2002年春に公開されたこの映画には韓国の400万の人が胸を打たれる大ヒットとなったという。
文字が読めず、口も利けないおばあちゃんに向かって7歳のサンウは悪態をつき、靴を隠したり壺を蹴って割ったりと意地悪をする。そんなサンウを叱ることもせず、おばあちゃんは黙々とわがままな孫の望むことをできるだけかなえてあげようと奮闘する。いつしか、わがままなサンウはおばあちゃんの無償の優しさに気づき、心を開くようになっていく。母が迎えに来て、ソウルに帰ることになったサンウは初めて気が付くのだ。おばあちゃんがまた一人ぼっちになることに。文字が書けないおばあちゃんのためにサンウは自分宛のメッセージカードを残す。そこには「会いたい」を意味するハングルが記される。「会いたくなったらいつでも送ってね。ちゃんと会いに来るから。」その場面になるともはやスクリーンを見つめることすら困難になるほど涙がこみあげている。
いまどきの子供というのは残酷だ。祖父や祖母から無償の愛情を与えられているのに、「くそばばあ」などの暴言を吐き、汚いもののように接する。親や教師に対してさえ従おうとしないのだからそうした行動も当然なのかも知れないが。そんないまどきの子供が変わるためには何が必要なのかをこの87分の小品は教えてくれる。
今朝のオレは「テアトル梅田」の開演時間ぎりぎりに入ったために前から二番目という最悪の席しか空いていなくて、画面右側の字幕を見るためにはいちいち首を曲げないといけなかったのだが、途中でわざわざ字幕を追う必要がないことがわかった。おばあちゃんが口が利けなくても村人たちとちゃんと交流し合っているように、登場人物の心を感じ取ることができたならもはやセリフは不要だった。何度も胸を円形に手でさする動作が出てくる。それが何を意味しているのか、映画館のスクリーンの前で観ているあなたは感じ取ることができるだろうか?
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