女房様とお呼びっ!
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2003年10月28日(火) 海辺のホテルにて 8

 
「くッ…くびッ…首輪を…いただけますかっ?」


その一声を発した瞬間の奴の様子は、今も印象に深い。
感極まったように頤(おとがい)が持ち上がり、薄い顎の肉が引き攣れて、
のけぞった喉元の内、咽頭がコクコクと震えた。
乱れた呼吸を縫って絞り出される言葉は切れ切れとなり、それを圧して叫ぶように音を繋ぐ。
言葉を終えてもなお、全身がフルフルと痙攣しているようだった。

その始終を、私は不思議な思いで見た。
奴の言葉が届いてさえ、何が起きたのかわからなかった。
けれども、首輪を請われた自体には何の疑問も湧かず、「いいですよ」と即答した。
それは私にとって、条件反射に等しいほど自然な判断で、最前の成り行きを考える余地がなかったのだ。
当然、そこで改めて奴の意思を問うべくもなかった。



もちろん、あまりに突然のことで吃驚したし、そこまで切迫した奴を見ては胸が詰まった。
しかし、奴が前言を翻し、再び戻る意思を示したことそのものに、さほど驚きはしなかった。
死んだはずの夢が蘇生して、思わず安堵の息をついたのは確かだが、
それもなるべくしてなったというか、抗いようもない流れのように受け止めていたのだ。

もっとも、その直前まで奈落に落ちた心境にあって、奴が戻ることを予想していたわけではない。
強がりにもそうは思えないほど、私は完全に絶望していた。
だから、思いがけない展開に驚くというよりも、ワケのわからないまま呆然とした印象だ。
どこまでが夢でどこからが現実か、その境目を見失ったような感覚もあった。

そのせいか、感無量の面持ちで奴が一礼し、首輪を授かるべく支度するのを、
狐につままれたような心持で、今ひとつ実感の伴わないままに眺めていた。
脱衣した奴が再び床に跪き、首輪をかけたその瞬間も、ぼんやりとした意識のままだった。
この成り行きからすれば、もっと感動してしかるべきなのに、
至極当たり前に、殆ど自動的にそうしたような気がする。



その後、私たちは何事もなかったかのように、再び夢の芝居の演者となった。
しかし、この奇妙な感覚は依然としてあり、
いつも通りに奴を使い立て、世話を焼かれながらも、足が地に付いてないような心許なさが残る。
今起きている現実がまた突然に覆り、やっぱり夢と終わるのではないかとどこか怯えてもいた。

とはいえ、馴染み深い光景が蘇ってよほど安心したのだろう、
持ち込んだ食べ物を食べ、酒を少し飲んだあたりで急激な眠気に襲われて、そのまま眠る。
ベッドに倒れこみながら、見るともなく時計を見ては、まだ日付が変わってないことに気付いた。
この部屋に入ってから、恐ろしく長い時間が過ぎたように感じていたけれど、
そんなもんだったんだなぁと変に感心したのを憶えている。

目覚めると当たり前に夜が明けており、束の間の夢かと案じた奴の態度も変わりなかった。
それでもやはり、その状況がつい儚くなりそうで、
夢が夢であるうちにと急くような、祈るような思いで奴を抱く。
私が快感を恵むたび、奴はいつものように反応し、熱い吐息を漏らした。
その様を見、感じるだに、昨日の出来事が嘘のように思えてならなかった。

しかし、奴が仰け反っては軋ませる、まさにこのベッドの上で、
私は絶望を抱え、その脇で奴は慟哭したのだ。
奴に跨りながら見遣る窓の外の風景は、
空の色こそ違え、悲嘆に暮れながら眺めたそれと同じだった。



部屋を後にし、ロビーラウンジでコーヒーを飲んだ。
どこまでもリゾートを気取る、まがい物の花や果物の装飾が嘘っぽくて落ち着かない。

が、それより私を居心地悪くさせていたのは、
真向かいに見る奴の顎が、うっすらと伸びた髭で覆われていることだった。
単に剃り忘れたのか、敢えて剃らなかったのか、剃らなくてもいいと思ったのか、
奴隷に戻ったはずの奴の真意を測りかねて、戸惑う。

場つなぎの話題に事の次第を振り返るうち、
「まさか、またフられそうになるとは思わなかったわ…」と茶化すように言えば、
応えて奴が、「見込みが違ったんですね…」と、まるで他人事のように言ってのける。

その物言いに再び打ちのめされながら、
奴のその不精ひげの口元が、やれやれと呆れて歪んだように見えた。
そして私は、一層落ち着かない心持ちになってしまった。


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