女房様とお呼びっ!
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2003年10月28日(火) |
海辺のホテルにて 8 |
「くッ…くびッ…首輪を…いただけますかっ?」
その一声を発した瞬間の奴の様子は、今も印象に深い。 感極まったように頤(おとがい)が持ち上がり、薄い顎の肉が引き攣れて、 のけぞった喉元の内、咽頭がコクコクと震えた。 乱れた呼吸を縫って絞り出される言葉は切れ切れとなり、それを圧して叫ぶように音を繋ぐ。 言葉を終えてもなお、全身がフルフルと痙攣しているようだった。
その始終を、私は不思議な思いで見た。 奴の言葉が届いてさえ、何が起きたのかわからなかった。 けれども、首輪を請われた自体には何の疑問も湧かず、「いいですよ」と即答した。 それは私にとって、条件反射に等しいほど自然な判断で、最前の成り行きを考える余地がなかったのだ。 当然、そこで改めて奴の意思を問うべくもなかった。
◇
もちろん、あまりに突然のことで吃驚したし、そこまで切迫した奴を見ては胸が詰まった。 しかし、奴が前言を翻し、再び戻る意思を示したことそのものに、さほど驚きはしなかった。 死んだはずの夢が蘇生して、思わず安堵の息をついたのは確かだが、 それもなるべくしてなったというか、抗いようもない流れのように受け止めていたのだ。
もっとも、その直前まで奈落に落ちた心境にあって、奴が戻ることを予想していたわけではない。 強がりにもそうは思えないほど、私は完全に絶望していた。 だから、思いがけない展開に驚くというよりも、ワケのわからないまま呆然とした印象だ。 どこまでが夢でどこからが現実か、その境目を見失ったような感覚もあった。
そのせいか、感無量の面持ちで奴が一礼し、首輪を授かるべく支度するのを、 狐につままれたような心持で、今ひとつ実感の伴わないままに眺めていた。 脱衣した奴が再び床に跪き、首輪をかけたその瞬間も、ぼんやりとした意識のままだった。 この成り行きからすれば、もっと感動してしかるべきなのに、 至極当たり前に、殆ど自動的にそうしたような気がする。
◇
その後、私たちは何事もなかったかのように、再び夢の芝居の演者となった。 しかし、この奇妙な感覚は依然としてあり、 いつも通りに奴を使い立て、世話を焼かれながらも、足が地に付いてないような心許なさが残る。 今起きている現実がまた突然に覆り、やっぱり夢と終わるのではないかとどこか怯えてもいた。
とはいえ、馴染み深い光景が蘇ってよほど安心したのだろう、 持ち込んだ食べ物を食べ、酒を少し飲んだあたりで急激な眠気に襲われて、そのまま眠る。 ベッドに倒れこみながら、見るともなく時計を見ては、まだ日付が変わってないことに気付いた。 この部屋に入ってから、恐ろしく長い時間が過ぎたように感じていたけれど、 そんなもんだったんだなぁと変に感心したのを憶えている。
目覚めると当たり前に夜が明けており、束の間の夢かと案じた奴の態度も変わりなかった。 それでもやはり、その状況がつい儚くなりそうで、 夢が夢であるうちにと急くような、祈るような思いで奴を抱く。 私が快感を恵むたび、奴はいつものように反応し、熱い吐息を漏らした。 その様を見、感じるだに、昨日の出来事が嘘のように思えてならなかった。
しかし、奴が仰け反っては軋ませる、まさにこのベッドの上で、 私は絶望を抱え、その脇で奴は慟哭したのだ。 奴に跨りながら見遣る窓の外の風景は、 空の色こそ違え、悲嘆に暮れながら眺めたそれと同じだった。
◇
部屋を後にし、ロビーラウンジでコーヒーを飲んだ。 どこまでもリゾートを気取る、まがい物の花や果物の装飾が嘘っぽくて落ち着かない。
が、それより私を居心地悪くさせていたのは、 真向かいに見る奴の顎が、うっすらと伸びた髭で覆われていることだった。 単に剃り忘れたのか、敢えて剃らなかったのか、剃らなくてもいいと思ったのか、 奴隷に戻ったはずの奴の真意を測りかねて、戸惑う。
場つなぎの話題に事の次第を振り返るうち、 「まさか、またフられそうになるとは思わなかったわ…」と茶化すように言えば、 応えて奴が、「見込みが違ったんですね…」と、まるで他人事のように言ってのける。
その物言いに再び打ちのめされながら、 奴のその不精ひげの口元が、やれやれと呆れて歪んだように見えた。 そして私は、一層落ち着かない心持ちになってしまった。
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