女房様とお呼びっ!
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2003年10月27日(月) |
海辺のホテルにて 7 |
ついに夢の幕が下り、私はしばし途方に暮れる。 書割りの背景が払われ、照明の落ちた闇の中では、もうひとり芝居すら続けられない。 何より役柄を失ってしまえば、もう舞台に立つこともない。 いや…舞台そのものがなくなって、突然現実に放り出されてしまったのだ。 その現実たるや、皮肉にも、舞台に穿たれた奈落のようにどこまでも深く暗い。
現実を思い知った途端、恐ろしく空虚な感覚に襲われた。 足の先から何かが流れ出していくようで、体が酷く頼りない。 このまま空っぽになってしまいそうだ。
何も考えられずに、ただ自分をあやすようにポツポツと言葉を紡ぐ。 何か喋ってでもないと、本当に体が溶けてなくなってしまいそうで怖かった。
◇
今となれば、具体的に何を話したのかは既に記憶に薄い。 しかし、またもひとり取り残されたことで、過ぎ去った記憶が呼ばれてしまった。 いや、先途を断たれた折から、過去を振り返るしかなかったのだ。
…こうやって、いつも私は置いてけぼりにされてしまう。 しかも突然に、信じて疑わない明日をバッサリと奪われる。 手の中で確かに慈しんでいたモノが、気付けば砂のようにこぼれてなくなってしまう。
…私が何をしたというのか? ただ愛しく抱きしめていただけなのに? 私はそんなに酷い人間なのか。こうして罰せられねばならないのか。 私に非があれば、せめてこぼれてしまう前に教えて欲しかった。 こぼれる前に償いたかった。 あのときもあのときもあのときも…。
突如、十年前の光景がフラッシュバックする。
…自らリードを外した「犬」を見たときの驚愕。 目の前が暗くなり、へなへなと腰が砕けた。 床を這いずり、半狂乱で泣き叫び、悲鳴を上げるようになじった。
「アタシの犬を返してっ!」
そのときの「犬」の悲しいような、哀れむような目の色。 体がズタズタに裂かれたように痛く、壊れてしまいそうだった…。
その痛みが再び蘇り、体を軋ませる。 当時の辛さがありありとした塊となり、熱を孕んで喉元にせり上がってくる。 あぁ泣いてしまうと思った瞬間、’今まさに私は、あのときのように辛いんだ’と気付いた。
そして、そのまま暫く泣いた。 奴の手前、まだ少し憚られたけれど、溢れる涙を抑えようがなかった。 もう主じゃないんだから泣いてもいいでしょう?と無言のうちに言い訳しながら…。
◇
一旦堰を切った涙はなかなか止まず、自分でも驚くほどだったが、 もはや取り繕う術もなく流れるに任せた。 涙が流れるごとに張り詰めていた気がほどけて、体の感覚が還ってくる。 ありのままの感情に身を委ね、当たり前に悲しみ、当たり前に涙して、 私もようやくタダノヒトに戻ることができた。
自分を取り戻して一息ついてみると、改めて、この状況が可笑しくも感慨深い。 大のオトナが子どもみたいに交互に泣いて、 今や仲良くベッドに隣り合って、ボーッと同じ方向を見ているのだから。
一仕事終えたように力が抜けて、何も考えてないし、感じてもない私。 隣する奴が何を考えているのかも、どうしているのかも、まるで気にならなかった。 ただ、とうとう奴の前で泣いちゃったなぁと今更に気まずいような、照れ臭いような気分だけが残った。
◇
再び静けさが訪れて、時が過ぎる。 どうでもいいことを話していたんだか、黙ったままでいたんだか、 不意に奴が「許してくれますか?」と言った。
実のところ、その言葉が耳に届いた瞬間、何を許せばいいのかわからなかった。 けれど、既に何をか許さないはずもなく、「いいですよ」と答える。 ふと、奴がそう言うのを待ち焦がれたなぁと遠い昔を懐かしむような感慨を覚える。 過ぎてしまえば、夢のまた夢だ。
許されたことに礼を述べ、奴がまた黙り込む。 その様子が何か言いたげで、ぼんやりしたまま目を向けていると、突然奴の表情が強張った。 今にも泣きださんばかりに顔を歪めて、再び口を開こうとしている。 けれど、しゃくりあげるような息遣いに阻まれて、一声がなかなか出てこない。 思いがけない変化に驚きつつ、促してやることも出来ず、黙って次の言葉を待つ。
「くッ…くびッ…首輪を…いただけますかっ?」
ようやく奴の喉から絞り出された声はたどたどしく上ずって、まるで悲鳴のようだった。
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