女房様とお呼びっ!
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2003年10月26日(日) |
海辺のホテルにて 6 |
泣くだけ泣いて気が治まったのか、 涙を拭いたり鼻をかんだり忙しなく身繕いをしたあと、奴はコトンと静かになった。 起き抜けのようなぼんやりとした風情で、胡座をかいた床の上に目線を落としたままにいる。 激情に震え、慟哭する度に上下していた肩口は、今やだらりと腕をぶら下げて力なく、 そこから立ち上っていた感情の渦もすっかり消えて、祭りの後のような虚脱感を醸すばかりだ。
奴が泣き果てる始終を見ていた私にもまた、万事休すの脱力が訪れた。 確かに、思いがけず激しい怒りをぶつけられてショックは受けたが、 奴の真情を知れば、納得もし、全ての答えを与えられて、むしろ気が凪いでいく。 更には、奴のあまりの激昂ぶりに、なんだか癇の起きた子を眺めていたような気にもなり、 慈愛にも似た穏やかな感情が満ちる。
◇
改めて床の上の奴に視線を移せば、その位置がとても奇異に感じた。 そうか、奴はもうそこにいる必要はないのだ。 漸くそう気付いて声を掛ける。
「床に胡座かいてるくらいだったら、こっちいらっしゃい。」
依然口調に夢を引きずってしまうバツの悪さに、どうでもいい言い訳をした。 奴も習い性ゆえか、躊躇うことなくそれに従う。
そして、私たちはベッドの縁に横並びとなった。 実のところ、密室にあってこうするのは、来し方初めてのことだ。 後に聞けば、奴には非常に奇妙な感じを受けたらしいが、私はむしろ救われた気持ちだった。 ひとまず、この位置にあれば、奴に対面せずに済む。 それだけで、肩の荷が下りたような安堵を感じた。
主の杖が折れたとはいえ、やはり奴の目があれば、私はまるきり素ではいられない。 それが私の見栄なのか、奴への配慮なのかは判らないが、どうしても気を張ってしまうのだ。 この状況にあれば、必然に湧く負の感情も表に出すに憚られてしまう。 翻って、ここまで私が取り乱すことなくいられたのは、奴と向き合っていたからだ。
殊に奴とは、 私が泣くとか落ち込むとか、奴が対応に苦慮する振る舞いはしないと約した二年半だった。 それは主の体面というよりも、専ら奴の希望と器量に照らしてそうしたのだが、 そのせいか、奴とあるときに、その衝動が起きたことすらない。 けれどそれも、互いの関係性を重んじて自分を律すればこその成果だったわけで、 この期に及べば、そうする気力も体力も奮いようがない。 何より、そうする理由を失ってしまった。
◇
人ひとりぶんの間隔を空けて、奴がその上背を屈めるように腰をおろす。 慣れないことに身を処しかねてか、奴には実に慎ましくおずおずとそうしたのだが、 その重みは確かにベッドを沈ませて、その所在を明らかにした。
肩を並べてみれば、奴がヒト並みの大きさになった気がして面映い。 もちろん、元々痩躯とはいえ背も高く、当たり前に人並みの大きさなのだが、 上から見下ろす奴は、もっと小さく感じられたものだから。
私もまた、奴の目を逃れて等身大に戻ってしまうと、 それまで拘っていた様々なことが、どうでもよく思えてきた。 ここまでこじれるに至った二ヶ月間、奴と共にあるためにひたすら思考し続けたこと、 憂いや悩み、怒り、苦しみ、希望や期待、そして奴への気持ち…。 それら一切合切が遠い昔のことのように感じられて、なんだか可笑しくなった。
唯一リアルに感じられるのは、ついさっき奴が吐露した私への怒りだけだ。 おためごかしの思惑や期待はどうあれ、私が奴に「ひどいこと」をしたのは確かで、 その思惑も期待も意味をなさなくなってしまえば、 私がすべきは、奴に与えた辛さや悲しみをあがない、詫びては許しを請うことしかない。 いや…こう考える以前、もっとシンプルに、謝らなくちゃと思った。
既に余計な言い訳をする必要もなく、奴のほうへ上体を向け、平易な言葉でただ詫びた。
「ひどいことしてごめんなさいね……許してちょうだい。」
奴の怒りに比べれば、謝罪の言葉のなんと単純で薄っぺらいことか。 それでも奴は、何の言葉を挟むでもなく静かに聞いては、穏やかに受け入れてくれた。
◇
こうして、ようやく私のすべきことが全て終わった。 深い溜息をつきながら体を戻し、再び自分の足元だけを見つめる。
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