女房様とお呼びっ!
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2003年10月24日(金) |
海辺のホテルにて 5 |
スプリングの効いたベッドに腰をおろすと、なんだか途端に気が抜けた。 それまで椅子にようよう支えられていた背が丸まって、足元ばかりを見つめてしまう。 その床の先、相変わらず奴は静かに控えているのだが、 もはやそこに奴隷の面影はなく、それが辛くて、目線をやろうにも胸苦しい。
主の杖が折れてしまえば、私は自分を支えるのに精一杯の無力な存在だ。 夢から醒めて思い知る己の無力さに、体が小さく縮んでいくような気がした。 意識までが萎縮して、小さな子に還っていくようだ。 次第に奴へ気も払えなくなり、ただ蹲るように自分の心だけを抱く。
いつのまにか外光に取って代わったシェードランプの灯りが辺りをオレンジ色に照らし、 まるで夕暮れ時にお砂場に取り残されたかのようで、酷く心細くなってしまった。 言い知れぬ寂しさに耐えかねて、奴に声をかける。
「あたしが酷いことしたから、嫌いになっちゃったの?」
未だ奴とはベッドの上と下に位置を分けていたが、このときはもう上下の隔てを感じなかった。 寧ろ、殆ど諦めながらも、縋って見上げるようなあどけない気持ちに満ちていた。 あたかも、子どもが大人に否応なく諦めさせられるときのような。
◇
奴もまた、シリアスな局面を経て、気の強張りが解けたのだろう。 「そうですね…」と答える声音は、最前に打って変わって柔らかい。
もっとも奴にすれば、ようやく奴隷の肩書きが外れて、衒う必要がなくなったか、 あるいは、私が主の位置を下りたのを感じては、呼応したのかもしれない。 更には、自分の思惑通りに事が運んだ安堵もあったろうか。
その心象が、徐々に姿勢や言葉遣いに現れる。 横座りに揃えた足が、いつのまにか胡座に組まれ、一人称が「オレ」に変わった。 それは、私がついぞ知らなかった姿であり、響きであり、今更に驚きをもって見た。 と同時に、丹精こめて築き上げた作品が崩壊していく様を見るようで、 改めて絶望と諦めを感じざるを得なかった。
◇
「オレ」に戻った奴が、ぽつぽつとこのひと月を回想する。 その言葉は、奴隷の位置で語られたときよりもずっと生々しかった。 同じ出来事、同じ心象を辿りながらも、感情そのものが混じってくる。 辛さを語る表情が、当時の感情のままに辛さを醸し、 「オレには無理だったんですよ」と自嘲気味に言っては、その顔が悔しそうに歪む。
やがて、奴の上体がぐらりと揺れて、身を支えるかのように両手が床をつかんだ。 直後首が落ち、何かに耐えるように肩口が震え始め、床に置いた手がぎゅうと握られる。 ただならぬ切迫感が奴の全身から立ち上り、不穏な沈黙が私の心を凍りつかせた。
と、その拳が床に叩きつけられるや、血を吐くような激しさで奴が苦しげに叫んだ。
「たしかにオレもひどいことしたとおもうけど、 あんなにひどいことしなくていいじゃないかぁッ……」
奴の心の奥深くに押し込められていた思いは、本当に血反吐のようだった。 その肉色の訴えにたじろぎ、呆然としながら、私もまた身を抉られるように痛かった。
◇
それが言いたいことの全てだったのか、一瞬絶句した後、奴は慟哭した。 それまで堪えていた感情が鉄砲水のように噴き出して、涙となって床を打ち、 搾り出すように始まった嗚咽は、次第に幼子のようなそれに変わった。 泣き崩れては床に這い、枯れ果てるほどに長く泣きじゃくった。
その姿に、私はつかのま主の目線を取り戻し、愛しい想いで見守った。
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