女房様とお呼びっ!
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2003年10月24日(金) 海辺のホテルにて 5

スプリングの効いたベッドに腰をおろすと、なんだか途端に気が抜けた。
それまで椅子にようよう支えられていた背が丸まって、足元ばかりを見つめてしまう。
その床の先、相変わらず奴は静かに控えているのだが、
もはやそこに奴隷の面影はなく、それが辛くて、目線をやろうにも胸苦しい。

主の杖が折れてしまえば、私は自分を支えるのに精一杯の無力な存在だ。
夢から醒めて思い知る己の無力さに、体が小さく縮んでいくような気がした。
意識までが萎縮して、小さな子に還っていくようだ。
次第に奴へ気も払えなくなり、ただ蹲るように自分の心だけを抱く。

いつのまにか外光に取って代わったシェードランプの灯りが辺りをオレンジ色に照らし、
まるで夕暮れ時にお砂場に取り残されたかのようで、酷く心細くなってしまった。
言い知れぬ寂しさに耐えかねて、奴に声をかける。


「あたしが酷いことしたから、嫌いになっちゃったの?」


未だ奴とはベッドの上と下に位置を分けていたが、このときはもう上下の隔てを感じなかった。
寧ろ、殆ど諦めながらも、縋って見上げるようなあどけない気持ちに満ちていた。
あたかも、子どもが大人に否応なく諦めさせられるときのような。



奴もまた、シリアスな局面を経て、気の強張りが解けたのだろう。
「そうですね…」と答える声音は、最前に打って変わって柔らかい。

もっとも奴にすれば、ようやく奴隷の肩書きが外れて、衒う必要がなくなったか、
あるいは、私が主の位置を下りたのを感じては、呼応したのかもしれない。
更には、自分の思惑通りに事が運んだ安堵もあったろうか。

その心象が、徐々に姿勢や言葉遣いに現れる。
横座りに揃えた足が、いつのまにか胡座に組まれ、一人称が「オレ」に変わった。
それは、私がついぞ知らなかった姿であり、響きであり、今更に驚きをもって見た。
と同時に、丹精こめて築き上げた作品が崩壊していく様を見るようで、
改めて絶望と諦めを感じざるを得なかった。



「オレ」に戻った奴が、ぽつぽつとこのひと月を回想する。
その言葉は、奴隷の位置で語られたときよりもずっと生々しかった。
同じ出来事、同じ心象を辿りながらも、感情そのものが混じってくる。
辛さを語る表情が、当時の感情のままに辛さを醸し、
「オレには無理だったんですよ」と自嘲気味に言っては、その顔が悔しそうに歪む。

やがて、奴の上体がぐらりと揺れて、身を支えるかのように両手が床をつかんだ。
直後首が落ち、何かに耐えるように肩口が震え始め、床に置いた手がぎゅうと握られる。
ただならぬ切迫感が奴の全身から立ち上り、不穏な沈黙が私の心を凍りつかせた。

と、その拳が床に叩きつけられるや、血を吐くような激しさで奴が苦しげに叫んだ。


「たしかにオレもひどいことしたとおもうけど、
 あんなにひどいことしなくていいじゃないかぁッ……」


奴の心の奥深くに押し込められていた思いは、本当に血反吐のようだった。
その肉色の訴えにたじろぎ、呆然としながら、私もまた身を抉られるように痛かった。



それが言いたいことの全てだったのか、一瞬絶句した後、奴は慟哭した。
それまで堪えていた感情が鉄砲水のように噴き出して、涙となって床を打ち、
搾り出すように始まった嗚咽は、次第に幼子のようなそれに変わった。
泣き崩れては床に這い、枯れ果てるほどに長く泣きじゃくった。

その姿に、私はつかのま主の目線を取り戻し、愛しい想いで見守った。


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