女房様とお呼びっ!
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2003年10月23日(木) |
海辺のホテルにて 4 |
「じゃ、今は?」 「嫌悪感を感じない程度です。」
奴の吐いた言葉は、突如として、私に厳しい現実を突きつけた。 それまでの行儀よい暇乞いがまとっていた嘘臭さがぱっくり割れて、 狂暴な真実が飛び出したような感じだった。
確かに、その真実を導き出してしまったのは、ほかでもない私だ。 が、これ程シビアな現実が吐き出されたことに、心底うろたえてしまった。 正直なところ、奴の気持ちがここまで変容しているとは、思ってもみなかったのだ。
だから、先の質問を投げることが出来た。 よしんばそうであっても、黙り込むとか婉曲に答えるとか、多少の配慮があるものと思い込んでいた。 けれど、そんな甘い期待はこっぱみじんに砕かれて、容赦なく現実に晒されることになったわけだ。 そして、当然のこと、私は絶望の奈落に落ちた。
◇
それにしても、改めて記すに、あれはやはり愚問だったと今更に頭が痛い。 対し、奴の返答も、真情だったにせよ酷すぎる。 最前まで理路整然と話していただけに、その切って捨てたような物言いには唖然とするばかりだ。 実際、耳を疑うほどに驚いたし、 奈落に落ちながらも、ナンダソレ?と呆れるような感覚もあった。
とはいえ、奴としては、あれで精一杯の表現だったかとも思う。 「好きじゃない」と答えるに憚って、「嫌悪感を感じない程度」と言い換えたか。 それにしたって酷いにかわりないのだが、 咄嗟のことに思慮を欠いた発言をしてしまうのは、誰しもままあることだ。 特に奴は多分にこの傾向にあり、これまでも幾度か失言を犯している。
もっとも、こう答えるに至った最大の原因は、私が愚問を投げたせいだろう。 それが愚問であるは、反面、奴には想定外の問いだったに違いない。 つまり、奴には思いがけず、好きか嫌いかというベタな質問をされて、答えに窮したのではないか。
思うに奴は、’奴隷を辞める理由’を周到に組み上げたつもりが、 この、互いの関係性に係る最も根源的な問題を見落としていたのかもしれない。 あるいは、この期に及べば、言わずもがなのことと身勝手に納得していたのかもしれない。
けれど、少なくとも私にとって、情の部分はないがしろに出来ない問題だったのだ。 それを確める術が、いかに愚問に成り果てたにせよ。
◇
今でこそあれこれ考察もできるが、 そのときは、あまりのインパクトに打ちのめされて、本当に体から力が抜けてしまった。 そのせいか、その後暫くのやり取りをよく憶えてない。
恐らくは、「それじゃ、仕方がないね…」とか答えて、 「いくら好きな人でも、いきなり嫌いになることもあるわねぇ…」と 殆ど自分に言い聞かせるように、奴にはとってつけた理解を示そうとして、 たぶん、その辺りで力尽きたように思う。
ただ、言葉に詰まって、再び視線を移した窓の外に夕暮れの色が滲み、 雑然とした構造物が薄闇に沈みゆく風景だけは、鮮明に記憶に残っている。 その夕闇が私の心底にまですぅと流れ込むようで、胸苦しかった。
徐々に暗さに向かう空の色が、今日一日の終わりを告げる。 そして今まさに、長い間見ていた私たちの夢も終わろうとしている。 そう思うだに、やりきれない悲しみが込み上げては、唇を噛んだ。
つい泣いてしまいそうになって、椅子から立ち上がった。 これ以上、窓の外を見ていたくなかった。
◇
その後、わざと奴の脇を抜けて、ベッドの上に腰掛ける。 と、それまでと同じ距離を保って退かれてしまう。 物理的な距離だけでも縮まれば、 せめてこの悲しみくらいは伝わるかしらと思ったがダメだった。
それでも奴は、移動した私のために、細々と世話を焼いてくれる。 そのことに慰められる一方で、切なく寂しい思いがいや増していく。 夢の芝居を続けながら、その頭上、既に幕は下り始めているのだから。
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