女房様とお呼びっ!
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呼び出し音が止み、一瞬間があって、奴の抑えた声音が耳に届く。 こちらから掛けたのに、「XXです…」と応答する。これは、いつものことだ。 その度、どこまでも律儀な男だと思う。律儀がゆえに不器用なそうだなとも思う。 このときも、出てくれたことに安堵しながら、そう思った。 そして、何となく安心した。
◇
いきなり夢から醒めるのはやはり怖い。 殊に私の場合、突然何もかもが失われることへの恐怖を強く抱いている。 しかも、それは未知の恐怖ではなく、これまで幾度か経験したからこその恐怖だ。
また、奴とのことに限れば、私たちを結ぶ「主従」なんて関係性は、 やはり夢々しいママゴトに過ぎず、その儚さが一層恐怖を根深いものにする(※)。 夢は不意に醒めるものと思えば、尚のこと恐ろしい。
その上、私は過去に一度奴にフられている。 関係を始めて間もない頃の話だから、今更話題にひくに忍びないのだが、 この経緯が、元々ある恐怖を増しているのは確かだ。 あのとき、僅かな関わりにしても突然夢を断たれて、私は電話口で号泣した。 その電話の向こう、奴の声音が冷たく変化したのを今でもありありと覚えている。 思い出すだに、心臓がギュウと掴まれるような、忌まわしい記憶だ。
それから二年半経って、また奴にフられそうになって、 勝手は承知でただ自分の身の上を呪いながら、再びあんな目に遭うのかと怯えた。 いや、あまりに恐ろしくて、無理やり意識下に押し込めては、やり過ごそうとしたきらいもある。 それでも、あのときのようにあしらわれてしまうことを、どこか覚悟はしていた。
◇
果たして、耳慣れた声音のまま、奴の応答は続く。 短い挨拶を交わしたあと、黙り込む奴に、「だいじょうぶ?」と訊いた。
その問いに奴が何と答えたか、既に記憶にない。 恐らくは、二言三言返事があったのだろう。 そのうちに、ぐっと息を詰める気配がして、咽ぶような泣き声が漏れ始め、それは長く続いた。 私は黙ってそれを聞いた。
堪えていた気持ちが決壊して、ごぼごぼと溢れかえるように、奴が泣く。 それはまるで、道に迷った幼い子が、親を見つけた途端泣きじゃくるかのようにあどけない。 そして、私もまた親となり、「仕方ないわね」とあやすような、 「もう迷っちゃダメよ」と諌めるような、愛おしい気持ちに胸が詰まる。 けれど、そう言葉にするに躊躇った。
長い嗚咽が切れ切れとなり、ようやく「申し訳ございません…」と奴が言う。 そこに、夢のしっぽを見た気がして、少しだけ救われた。 そして、今しばらくは夢を見ていようと思う。 奴の中で既に夢が潰えているとしても、せめて私は主ヅラをして、夢のゆくえを見届けたい。 そのことで、奴に疎まれても、恨まれてもいいと思った。
◇
「キミはまだ私の従だから…」
心を決めて、そう言った。 この期に及べば、我ながら嘘臭い物言いに冷や汗が出た。 そう言われて、心潰えた奴がどう反応するかと怯え、身が震えた。 けれども、未だ嗚咽やまぬ奴は、ようよう返事をしかねており、私のひとり相撲は続く。
「辛くてたまらないときは、許して下さいって言えばいいのよ?」 「私は、キミがそう言うのを待っていたの…」
醒めかけた夢に縋り付いては、今更な言葉を重ねた。
そう…、今更だとわかっていた。 もちろん、私の言葉が奴に届いて、今一度夢の中へ還ってきてくれればと願った。 けれど、今となれば届かないかもしれないと、あるいは、 届いたところで、一旦離れた気持ちは引き止めようもないだろうと、諦めてもいた。 だから、私は、ただただ自分が夢から醒めたくないばかりに、そうしたのだ。
◇
電話を終えて、近い将来を思う。 終わるなら、せめてきちんと終わらせたい。 けれど、諦めるに諦めきれない、取り戻せるなら取り戻したい。
葛藤を抑えて、静かな言葉でメールを書いた。 未だ夢を見ているフリをして、「キミは私の従である」と添えた。
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