女房様とお呼びっ!
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そのメールに目を通し始めた瞬間、私は息を飲んだ。 こめかみの辺りから、血の気がサーッと引く。その音すら聞こえたような気がした。 咄嗟に、何かの間違いかと思った。いや、思いたかった。 しかし、型通りの短いメールは、その望みを僅かも待ってくれない。 わずか数行ののち、私はそれが間違いでないことを知る。
そこには、奴にはあり得ない署名があった。 これがすなわち、間違いであって欲しい文頭の一文と符合してしまったのだ。 その事実に愕然とした。
◇
それまで、奴が寄越すメールは必ず、「XXでございます」と始まり、「XXXX 拝」で終わっていた。 私たちが関わって以降、そのスタイルが崩れたことは一度もなかった。 どんなに短い文面でも、奴は頑なにその体裁を守った。 その頑なさたるや、そこに、奴のアイデンティティがあるかのようだった。 いや、実際あったのだろう。 だからこそ、意図してであれ、無意識の発露であれ、それが破られることになったのだ。
一方私にとって、それは、見慣れた風景のようなものになっていた。 永遠不変を疑ったことすらなかった。 だから、その見慣れた風景が忽然と失われた事実に、心底驚愕してしまった。 と同時に、酷く混乱した。 理性では受け入れても、感情の奥深い部分が抵抗する感じなのだ。 「XXです」という一文と、「拝」のつかない署名を見るたびに、吐き気を覚えた。
それでも、繰り返し読んでしまう。 読むといっても、本文はたかだか二行で、それが却って恨めしい。 きっと、そこにも相応の意味が込められているはずなのに、あまりに短い。 けれど、短いがゆえの意味深長もあろうと、またも同じ文字列を追う。 しかし、いくら読み返そうと、そこに窺う真意の変わろうはずもない。
恐らく、奴は、奴の気持ちは、既に潰えてしまったのだろう。 それを認めたくなくて、何度も読んでしまった。 読めば読むほど、認めざるを得なくなった。
◇
そのメールは日課に寄越す定時のメールではなく、 同行して別れたのち、無事に帰着したことを知らせるものだ。 これも、私たちが関わって来、慣例になっている。
つまり、メールが着信する一時間あまり前、 奴はいつものように私を見送り、帰途を辿り、習慣通りにメールを打ったわけだ。 その一連のどの時点で、ここに表れた心境に至ったのだろう。 いや、それは、もっと以前のことかもしれない。
しかし、前日のメールを改めて読んでも、それらしい兆候はない。 更に遡ってみたが、読み取れない。 とすれば、まさにその当日に、奴の気持ちが著しく変化したことになる。 いうまでもなく、その変化を招いたのは、私でしかない。 そして、当日のことを思い出すだに、その事実に納得出来るような、し難いような複雑な気分になった。
いや、誤魔化してはいけない。 納得しかねるのは、自分の非を認めたくないだけだろう。 やはり、私には明白に非があったのだ。それは、否定しようもない。 相変わらず、仏頂面をして奴の車に乗り込み、殆ど会話も交わさず、またも目を閉じたままだった。 確かに、それ以前から別件で不機嫌にいたが、奴にそこまで辛くあたる理由になろうはずがない。
結局、私は奴を追い込み過ぎたのだ。 母獅子の言い訳を盾に、その実、むごい仕打ちに及んだだけだ。
むろん私が望んだのは、それで奴が許しを請うことだったけれど、 思えば、その前に逃げ出そうとするのが、よほどヒトの現実だ。 私はまた夢を見過ぎてしまったのだろうか…。
◇
そのメールの翌日も翌々日も、文頭と署名の体裁は変わらなかった。 偶さかの間違いか、気の迷いであればと待ってはみたが、その一縷の望みも絶たれてしまった。
仕方なく、奴の思うところを問うメールを出して、返事を待つ。 時刻は21時、夢から醒めるまで、あと三時間…。
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