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2002年05月20日(月) ココロ 〜ゆきずりSM〜

過日記事で、ココロと表現したものについて、あれこれと思考している。人ふたりの間で取り沙汰するなら、それは、相手に対する信用とか信頼とか恋情とか愛情といったものかしら。そして、自分と同等のそれらを相手にも望む感情。更には、相互のやり取り以前に個々人が抱く、思惑とか心理状態もが含まれるように思う。

そこで、相手との関係性や場面を変えて、ココロについてウダウダ考えてみたい。


***


長年テレクラで遊んだお陰で、ゆきずりでセックスしたことは何度もある。直に会えば、大概は食事や会話を共にして、それも楽しかったんだけど、純粋に行為だけを振り返るに、ヤってヨカッタと満足することもあれば、正直損したナと腐ることもあった。ま、ヤリタイと思ってヤっても、満足度に差が生じるのは当然だわね。

欲深な私の場合、端から「ゆきずりましょうネ」と約束して会うんじゃなくて、結果としてゆきずりマシタ(笑)ってことが殆どだった。けどまぁ、それは「テレクラ的ご縁」てことで、刹那的な関わり合いを相互に納得しているワケで。だから、行為に伴うココロは、打算とか刹那に見合う信用とか好意とか、その程度のモンだ。

じゃ、その程度の薄い関わりで、なぜヤるのかと問われれば、専ら自分の性的な好奇心や欲望を満たしたいから、と答えるしかない。同じ位置の男性が、「刹那でも、抱く女を愛する」と仰る心境にはなれないや(笑。ま、愛がなくても、自分本位なゆきずりセックスはそれなりに充実したし、さほど空しい行為とも思えなかった。

・・・・・。

実は、ワタシ、このテレクラ時代に、後から思えばSMデシタてな行為を経験している。夫と出会い、SMという概念を得、「愛と信頼に基づくSM行為」を体験する以前の話だ。付き合いの継続したSFが相手の時もあったし、正にゆきずりでそうなったこともある。誰もそれがSMだとは仰らなかったので、私も知らないままに行為した。

それらは、愛のないセックスと同等の「愛のないSM行為」だったことになる。お気楽な好奇心だけに支えられて、私は請われるままにS的行為に興じた。ここに僅かに信頼関係があるとすれば、相手が私に行為を請い、それを私が了承したことだけで、信頼としては薄っぺらいよね。それでも、私はとても楽しんだし、満足もした。

たぶん、相手も同様に・・・いや、私以上に満足したかもしれない。ゆきずりのような薄い関係だからこそ、彼らは特異な欲望を満たす機会を得たのだから。もっとも、私のほうには、ゆきずりだから変態なことやっちゃえ的な動機は薄かったような気がする。テレクラでしか男と関わらない私にとって、非日常なんてなかったの(笑

・・・・・。

私が再びテレクラで遊び始めた時、私の性的な好奇心や欲望は、SM的なそれに置き換わっていた。勿論、ご縁があれば長いお付き合いをと望んだが、そうそう相手が見つかるはずもない。相手を吟味する中で行為して、結局それきりになるとか、以前のテレクラ時代のように、ノリで会ってゆきずりSMするなんてことを繰り返した。

しかし、ゆきずりでするSMは、ゆきずりセックスよりも遙かに難しいことに気づく。好奇心を晴らして満足してる時分はよかったけど、ダイレクトな性感に訴えないぶん、醒めてしまうことが多くなった。プレイの展開に未熟だったせいもあって、M側に搾取されてるような虚無感を感じてしまうのだ。これは、かなり堪えたヨ(笑

・・・・・。

色んな人と色んなことをしてみたい初心者の頃。各種の行為をなぞるだけなら、機会は幾らだってあるだろうし、それで済む時期もあるだろう。けれども、殊S側に立つ都合だけで考えれば、ゆきずりSMはやっぱり空しいと思う。或いは、この結論を得る為に、通過儀礼的にゆきずりSMをしてみるのも悪くないと思ったりもする(笑



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