女房様とお呼びっ!
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2002年01月22日(火) 性癖と性愛と結婚について #1

掲題の件。
先日、あわびさん板での記事を拝読し、私なりの共感や考えもあって、
投稿しようと思ったものの文章がまとまらず、そのままにしておりました。
そこへ、みーなさんからご投稿賜ったことで、
まとまらなくとも、あれこれと書き連ねてみようと思った次第。
乱文に終始するのは必至ですが、お読み頂ければ幸いです m(__)m


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割と最近の話。ふと思い付いて、身近な奴隷に訊いてみた。「私がSじゃなかったら、キミは私とつき合っていたかしらね?」すると、暫し考えた後に彼は「たぶん、つき合うと思います」と答える。「私と五分五分のセックスが出来ると思う?」意地悪な私はそう質問を重ねて、結局、彼を困らせることに成功したけれども(笑

「私は、キミがMじゃなきゃ、いや隷属願望を持ってなければ、つき合ってないヨ」とも言った。相槌を打ちかねて、彼は「ありがとうございます」と応えたが、それはこっちだって同じだ。いくらSとM(DとS)という性的なスタンスで対をなそうとも、人としての相性が合って、個人的な繋がりに発展するのは希有なご縁だ。有り難いと思ってる。

奴とは、性癖を目印に出会ったのだけど、縁が結ばれる過程には、性癖と愛情がどうリンクしているかを知る必要があった。関わり始めた一等最初に確認したのが、そのことだ。SMの関係と愛情関係を同列に語る彼にほだされる格好で、私の彼に対するスタンスが決定した。てのも、最初はプレイメイト程度の思惑しか持ってなかったから。

・・・・・。

この過程は、やりてぇと思ってナンパした奴が意外にもイイヒトで、真面目に交際することにしたってな過程とよく似ている。もちろん、イイヒトだからって、必ずしも愛情を感じることが出来ないように、私が奴を「奴隷」と呼ぶに至るには、私の中に奴への愛情や執着が育ったのが、ご縁がカタチをなした何よりの原因だ。

つまり、私的には、SMの関係でも特にDS(主従)関係を結ぶにおいて、愛情の存在は不可欠なのだ。従に対する支配欲やサディスティックな欲情は、愛すればこそ湧き、行為を生む。その性愛のありようを求めて、愛情の対象を探す。これが不純だと誹りを受けるかもしれないが、性愛の成り立ちとはそういうものだと思っている。

セックスしたいから、愛する人が欲しいと言えば、如何にも不純だけれど、愛の表現としてセックスを交わすと言えば、まともだ(笑)けれど、性愛の対象を求める部分では、同じだろう。「性欲」と「愛情」が支え合って、性愛となるのだから。更には、性癖も含む性欲の傾向と、愛情の持ちようの傾向は、関連するような気がしている。

・・・・・。

ヒト二人で行う性行動において、「能動好き」「受動好き」という傾向が出るように、性愛に基づく愛情を他者に向けるにおいても、「愛したがり」「愛されたがり」があるように思う。ま、いずれにおいてもニュートラルってのが多数派なのかもしれないが、個々性として、はっきりとした傾向を持つ人がいるのは、明らかだろう。

私の場合、「能動好き」で「愛したがり」の傾向が強い。勿論、受動も好きだし、愛されるのを求めもするが、その傾向において、相手にハマってしまう己が実態を見るに、そう言わざるをえない。一方、私がハマるべき相手は、当然のごとく、「受動好き」で「愛されたがり」となりがちだ。これも、実態に則して、痛感している。

私が夫を愛した根本は、恐らく、この傾向による。確かに、夫とはDS関係を目指して付き合い始めたけれど、交際当初の私は、殆ど好奇心だけで関わっていた。なので、彼がハマれる(好みの)タイプだったからこそ、DS関係になだれ込めた感が強い。やがて、形から入った主従関係に、どっぷり浸かる経過を辿ったにしても。

事実、DS関係を解消しても、私は彼を愛し続けている。彼は、愛されてるから、私と共にいるらしい(笑)・・・この点で、現在夫たる「犬」とのなれそめと関係性は、身近な奴隷とのそれとは微妙に違うことになる。同様に、身近な奴隷とのDS関係が破綻する未来があるとすればどうだろう。やはり、微妙に違うんじゃないかな。

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以上、だらだらとなりましたが、前述通り、まとまりなく書き進める予定です。


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