女房様とお呼びっ!
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私はここで、「S女でござい」とエゲツナイ事を書き散らし、DS関係なんて嘘っぽいことをほざいて、挙げ句の果てに、とある男達の主ヅラをしているワケだが、実は、私がどなたかの下僕となり、滅私とみまごう忠誠を発揮する状況に陥ることなんざ、造作ないことなのだ。その時、私はあっけなく決壊し、陥落するだろう。
方法は単純だ。私が、自身の存在意義に関わる程の意義を見いだせる役割を、その方から与えて頂けばいい。或いは、自身で見いだせばいい。つまり、その方に認められることと、自分の存在意義を同義に捉えるベースが出来れば、それで充分だ。そしたら、私はどんな困難にも歯を食いしばって耐える。死をも厭わぬ激しさで。
その方が私を従え続けるためには、お前が必要であるとアピールしながら、同時に私を否定し続ければいい。必要とされることは、私が生き続ける理由になり、否定されることで、私は盲目的にその方に追いすがるはずだ。ここに、その方に生かされる構図が生じる。やがて、私は自己の存在に関わる、強い依存に気付くことになるだろう。
この依存は、宗教的な帰依や、自我を得る前の子が親(と同等の大人)に依存する様に似ている。だから、その方が必ずしも、人格優れた人物である必要はない(笑)。もちろん、依存に至る過程で、その方を絶対的と錯覚する時点は必須だけれど、恒久的にそう認識する必然はないということだ。
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大人の嗜好としてのDS関係は、性愛の中の依存を目指すが、各々の自我と自立を尊重する前提があるので、これ程の強い依存は意図されない。逆説的に、嗜好に限られた範囲だから、絶対支配とか唯一無二の関係とかを夢想できるとも言えるだろう。時に、夢想と現実の境目を見失ってしまうケースもあるが、大抵は一過性であるのが幸いだ。
しかし、私は、自身の身の上に一過性であれ、単なる性愛の範疇であれ、他者依存が生じるのを怖れている。過去に二度、他者依存で苦しんだ。そうなってしまう自分に暗澹とした。と同時に、その自分を形成した「母との関係性」を憂えた。積年培われた「依存癖」は、あっさりと蘇ってしまう。その状態が、再び喚起されるのが怖い。
前述した、私がどなたかの下僕たる方法は、母が私に及ぼしたものだ。母の元を逃げ出しても、尚、私は母の支配下にあった。母から逃れようと足掻く中で、ひとりの恋人とひとりの女友達の支配に堕ちた。彼らが特別に支配を意図したわけでも、強要したわけでもない。私が自ら、彼らに取り込まれたのだ。無意識のうちに。
もちろん母とて、意識して支配したのではなく、血の親密さが過ちを招いたと理解している。が、理解しても、記憶はこの身に刻まれており、情けないことに、今でも若干の後遺症が残っていたりもする。母から逃れて20年も経つのに、実家に帰れば、母のたてる物音に逐一反応してしまう。そして、緊張と不安の中で疲れ切る(苦笑)
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今の私の幸いは、この経験を客観視し、弱点が表出した時に、起因するところを眺められることだ。・・・といっても、依存の全容を初めて俯瞰したのは、たかだか5年前なので、すぐに腰が砕ける弱体を自覚してはいる。だから、ゆっくり丁寧に生きていこうと思っている。慌てると、また足元すくわれるからね(笑)
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そんな私が、何故、性愛において「支配側」に回るのか?これも、長々自問してきたところだが、結果論として、それが自身の幸せな状態だから指向するってことになる。もちろん、更に深層を探れば、幸せだと錯覚したがってるのかもしれないし、被支配の反動、代償行為と捉えることも出来るかもしれない、と解ってはいる(笑)
だから、いっそ過去と訣別するために、今一度「被支配側」に回る有効性も否定しない。けれど、その必要を今は感じてないし、そう感じない原因が、自身が「被支配側」に回るには、時期尚早だと怯えているからかもしれない、と知ってもいる。いやはや、たかが我が事に思考は巡る。・・・けど、根マゾだから、それも楽しい(笑)
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