�蠧�記
DiaryINDEX|past|will
引き続き、エディットピアフ、G線上のアリア、張学友のCDなどを聴いて います。 まったく情けない気持ちです。相変わらず。でも今は聴きながら眠りたい。 マタイ伝の最初のあたりを読んでいます。山上の垂訓とかね。これ読んでもあまり変わらないと思うけど。 なるようにしかならないのにね。
わんこのお顔がもさもさしてきたので、カットします。
タイヤを冬用にしたみたいです。
おとうさんは川の流れに逆らって泳いでいるみたいでとっても気の毒だと 母は言っていたが、私も何でも下手だ。だけど私は生き方の下手糞な自分が嫌いじゃない。母もそれほど上手なわけではなかったんだろう。
CDなどの音楽は今パソコンで聴くことが多いけれど、ウォークマンみたいなのが欲しいなと思った。 G線上のアリアをパソコンで流しながら傍で毛布にくるまって寝ていたら 何だか傍らに神様かイエス様のような存在が寄り添っていて下さるみたいな感じがして、欝のときに悩まされる焦燥感や消耗するような気疲れのするものから安らげる気がした。 パパさんが朝そんなところで寝ていて疲れたでしょと気遣ってくれたけれど、眠りが楽で疲れる嫌な夢も見ずに済んだ。 これを布団で寝るときにウォークマンで聴けたらいいなと思った。
近所の自動車教習所に行ってみました。20代の頃は奮発して30万くらい使ったと思うけど、今30万出す元気あるかな。
そうだ。ヘッドセットわんこに壊されちゃったんだ。参るなあ。
不調でない時は来年の頭あたりわんこに赤ちゃんという話も出ることがあるんですけど、二匹は大変かなあ。 すごい大家族の人で動物もいろんな種類沢山飼っている人のホームページを眺めながら、いいなあと思ったりする。
でも10代の頃は自分に子供ができるとは思わなかったし、犬を飼うのも いんぽっしぶると言われていたんだ。 それを思えば今子供があるのも一匹でもわんこを飼えたのも奇跡的なのよね。
隣の芝生を見たらきりがない。それにしても本当にみんなすごいなあ。 井の中の蛙になって威張っていたい。私だってどっかすごいところあるのよって。
チェジウさんが泣くところですぐ泣けるというのも、女優さんならそういうものかもしれないけれど、やっぱりすごいというか違うんですねえ。いくら凡人にも泣ける曲とか映画とかあっても、はい、今泣いて下さい、と言われて、はい、といって、涙を流す、って。。どうやって泣くんだろう?やっぱり心の持ちようが違うのかな?ゆうべどうしてわたしは泣いたのか、その心情を再現しようと今頑張っても涙は出てこない。
にぎやかというのを和英で引いてみた。
lively merry cheerful
私は割合にぎやかな家庭で育ったので、どうも結婚してからにぎやかさが足りない気がするんです。兄が二人といとこが二人のほかにも沢山の人が出入りしていたんです。動物も沢山いました。それで結婚してからどうしても何だか寂しい気がするのですが、夫は二人生めば十分だって言うんですよね。だって夫は仕事に出て色々な人に出会うから全然寂しさとか感じてないんですよね。もう一人欲しかったなあと思ってかなしくなってしまうことがあるんです。よその人に種もらってこようかとマジに考えたこともあるんです。子供を欲しがるのは罪かなあ。最初の離婚の原因もこの辺にありますよね。一度は子をなした相手それも女性に気持ち悪いからやる気がしないなんて失礼極まりないですよ。自分のパンツ洗わせているくせに。据え膳食わぬは男の恥というのが男の優しさであり気概だったのに。ああ昔の人が羨ましい。私夫が外で子供作ったらその子絶対もらいますよ。 兄のところは、子供できたら大変なのに生んでもいいよっていうのは優しさのつもりなんですよね、って兄嫁が若い頃青筋たてて怒っていることがありましたが、私はそれを見てそういう風にまっとうそうに怒れる兄嫁が羨ましくて仕方がありませんでした。彼女は子供を欲しがらなかったから兄はそそられて生ませたくなって3人くらいできたんだろうな。 今はもう諦めていますけど、そうしたら本当に生きているのが嫌になってきました。セックスにも意味が感じられなくなってきた。よその男の人にも魅力が感じられなくなってきた。私はせれぶになりたいわけじゃないんです。肝っ玉母さんになりたかったんだ。 まったく月のものが勿体無くて仕方がない。自分のミルクを捨てて平気なその神経が信じられない。こんな正直な女はごめんですか。死んだ方がいいかな私。 そりゃあ人類が少なくなっても国敗れても山河ありでいいかもしれないし、二番手三番手の家が滅んだって構わないかもしれませんね。
G線上のアリアってやっぱりいつ聴いても泣ける。これを聴きながら逝けたらいいなあ。
子供の時ELPというロックグループのアルバムを熱心に聴いていた。ピアノを習っていたのでキーボードのキースエマーソンがすごいと思ってファンレターを書いたりしたが、今聴いてみると、グレッグレイクという人の詩とボーカルが今聴いてもいいなあと思う。
昨日は子供の学校の集まりでした。一応正直な意見は出したつもりですけど、どんなものだったかしら。アンケートは賛否両論でしたがやりましょうという意見が多かったので、前向きな方向でやっています。
そういえば、肺がん検診の結果は再検査の必要なしということでした。 やっぱり胸が苦しくなるのは気持ちの問題なのかも。
さて今日は。とりあえず、あれだ。
あ、郵便出すのもある。
そういえば牛乳の紙パックが沢山たまっちゃってる。
今ごそごそ部屋の中で整理していたら、いろいろなものが引き出しの中に ばらばらに入れてしまっている。
郵便も出したいけれども雷雨。さっきは晴れていたと思うんだけど。郵便って子宮ガン大腸がん無料検診の申し込みとか同窓会の欠席届けとかなので。肺がんがセーフなのでほっとしていて。
ご無沙汰しているけれどあの方はお元気だろうかと一つアクションを起こしました。気に入って頂けるといいけどどうだろう。昭和9年ということは。おいくつになられたのだろうか。子達の給食を取り仕切っておられた 頃の面影のままで。今も働いておられるのだろうか。
今日は金曜日。あ、そうだ。あれを確認しよう。やはり出かけないことはないな。
あ、実は今息子はエロイカより愛をこめての創り方という本を寝る前に 私に読めというので。エロイカって英雄という意味ですけど、もう20年以上も前の、まだソ連とアメリカが冷戦の頃からの漫画の舞台裏のお話で。 子供に読んでいいものかわからないけれど、アメリカの熟女もヨーロッパの尼僧さんたちも軍人さんたちも歓迎されている漫画だから、ま、悪くないのでは?と、読み聞かせております。どうでしょうかね。
新規開店したお店に連れていってもらいました。
広くてとても一度には回りきれません。
また行ってみたいかな。自転車で行けるといいんだけど。無理かな?無理だって主人は言うんですけど、よっぽどサイクリングにいけるくらいの調子がいい時だったら行けそうな気がする。あの距離を雨や雪の中を自転車で行くのは余程差し迫った用事でないと嫌なんですけどね〜
車の運転ができる人はやっぱり自分の裁量でいろいろ行けていいなあと思うんですが、やっぱり慣れていなければ車でも気疲れは大変だろうし。
電車やバスで行けるところもあるけれど、首都圏のような感覚ではいけないからな〜
やっぱり免許取りたいな。免許持っているだけでも持っていたい。色々な手続きも免許証ないと面倒だし。旦那さんが忙しくなってきたら自分で小回りきかないと何かと不便だものなあ。別に雪が降らなくなった春まで待たなくても冬の間でも免許取りに行けるんじゃないかしら?自動車教習所自転車に乗らなくても傘差して歩いていける距離。
パソコンの配線が間違えていて、繋がりませんでした。自分で何とか繋げようとはしないのですが、繋がっていると使ってしまう。
あとね、強力な掃除機を買いました。今までの掃除機とパワーが違う。
今朝もまた雷雨。婦人科とかいろいろ行きたいけれど、この中を自転車でお医者さんへって気が進まない。また不調になった時のために行っておいた方がいいと思うんですが。
不調な時はほんと道端歩いていても、おかあさんおかあさん、っていい年して声に出ちゃうので、何だか暗い顔して伏せ眼がちにぶつぶつ言って変な人に思われるかもしれないと思います。要するに、いい大人のくせにおかあさん助けて助けて、という迷子の女の子のような気持ちだというだけのことなんですけどね。で、それでそばに子供とか夫とか居ても、話にならないと感じると、母を呼んでしまうんですね。しっかりしなくちゃと思うだに声が出てしまう。やはり戦後の自由民主主義を掲げた核家族の中で私は相当に母親に依存してしまったんですね。 で、少し不調から脱すると、やっと現実に生きてそこにいる旦那さんとか子供を頼りにするんです。どっちにしろ依頼心が強くてわけわかんないところがあって夫や息子は何なんだよおかあちゃんわんこと同じだよわんこより始末が悪いよって思われているかもしれないけど、やっぱり不安な時は家族と話が成立するかしないかで全然気持ちが違うんですよね。こんなつたない自分に少しでも、芥川龍之介の蜘蛛の糸の主人公のように、仏様がこの男は酷い男だがある時小さな生き物を助けたことがある、いいところもあった、と思い出されて蜘蛛の糸をたらして下さった時のような希望が感じられると、阿呆でもふつふつといい力が湧いてきたりする。でもそれですぐにぱっと善人になれるわけではない。それだけだと、ほかの人も大勢細い糸を上がってくると細い糸が切れてしまうんじゃないかというさもしい恐怖が自分さえよければという気持ちを引き起こして結局自分も奈落の底に堕ちていくような状況から抜け出せないままでいるような心理が、まったく私の心の中にあり得ないとは言えないと思います。自分が家族とかほかの人にどういう人であってほしいと願われているかということは、理想としては痛いほど知っている人が多いのではないかと思います。例えば妻だったら自分が良妻賢母だったらもっと物事うまくいったんじゃないかと考えたりする場合がある。けれど実際良妻ではいられないことの方が多いし、私をこんなやつにしたのはあなたのせいよと言いたくなったりもする。 子供は育つ過程で自分に期待されているものを敏感に感じ取ろうとすると思います。その期待を担おうとするか、親の期待が重いとかあるいは親自身が混乱していてわけがわからずうまくいかない不満を子供に当てられてつぶれてしまう、あるいは子供が親を反面教師にして親の期待を裏切っても乗り越えようとするとか。 私の両親は夫婦相和し朋友相信じの教育勅語を聞いて育った世代だったけれど、戦後自由民主主義と平和憲法の中で子育てをすることになった。その中で自由と言われても、心配と不安で一杯だっただろうと思います。一生懸命やっても報われるとは限らない。裏切られることが多い。自分が心ならずも人の信頼を裏切ることにもなってしまうこともある。親は子供たち兄弟は仲良くあってほしいと願うけれど兄弟は他人の始まりともいわれるほどだったりする。 私の親は自分が親の期待を裏切ってきた気持ちがあるから、子供に何を継げとかいうことを期待したりはしなかったけれども、抽象的なことを言うことがあって、例えば、女の子は素直で明るいのが一番よ、とかいうようなものが結構小さな私の心を苦しめたのでした。親心とわかってはいても、私には素直で明るくあれというのがすごく重たい期待だったりしていました。だって小さいときから憂鬱や泣きたいような気持ちにならざるを得ないことが多かったからです。それほど積極的にはなれない性質だった。休み時間に友達と一緒に駆け回ろうとしても体がしんどくて、友達が遊んでいる風景を眺めているほうが楽だった。心配して仲間に入れてくれようとしてくれる友情は光だったけれども、ひとたびそこに入ると、背後に控えている、いろいろな友達としてあるべき理想のような数々の抽象的なものが、大群のように私に 襲い掛かってきそうで怖かった。ただあまり活発でいないことが保身でした。親の勝手な期待を担うのも大変でしょうけど、幸せであって欲しいというようなあまりにも漠然としたものもとても不安で重たいものです。 例えば親御さんが事業だとか会社の社長さんだとか政治家だとかいうような 人も子供の頃から私には到底想像の及ばないような様々な相克があったことでしょう。そのような世界で闘って何か得て世の中を泳いできた人から見れば、私のようなものは小さな小さな笑っちゃうような子供っぽい存在感の薄いものでしょう。それでも夫はそんな頼りない私を頼りにしようとしてくれて、信じようとしてくれているのですから、とても有難いことに違いないと 思います。 話ができる状態でない時もある。気持ちを持て余して。そうすると、すぐに性的な欲求不満に結びつける向きもあるかもしれませんが、そういう不満とは限らないんですよね。旦那さんといちゃいちゃくっつきたい時にはくっつける時もあるんですが、そうではなくて、何か話がしたいんです。何か共感とか安らぎが欲しい。だけど私が気持ちを持て余してとんがっている時は、夫などにしてみれば、何を怒っているのかわからない、相手してられない、という感じがするんじゃないかと思うんですね。壁を作って防御しながら、それでも壁を越えていきたいものはある。 で、例えば精神科のお医者さんに話を聞いてもらえればいいのかというと、 今はとりあえずやっぱり夫や子供と話がしたいんですね。夫や子供は同様に私が自分達の苦境を理解して引き立てて助けて欲しいのが山々で、妻や母がやっぱり心ここにあらずでは困るんですよね。家族の方向性がどちらを向いているのか理解できればやっぱりほっとしたりもする。勿論外敵のようなものに対する備えもないと怖いけれど、やっぱり似たようなところがあったからくっついたんじゃないかと思います。最初夫が似たもの同士だと言った時はどこが似ているのかと思いましたけど。割れ鍋に綴じ蓋だったんですね。 最初好きになって子供を生んだ人の家に染まろうとしても染まれなかったので、今度は夫の希望に答えられるとは約束できないということを明確にしておかなければ心配でした。女が親に決められた結婚に何があっても努力して添い遂げるというようなまねは戦後の教育を受けた私には自分で望んで努力しても無理でした。自然が拒んた。それでも私にはやはり今度も夫に添う努力をする以外に自分が生き残る道は見出せません。自分の種に続いていく力があるかどうか疑問なことがあるんですが。でも私は弱くても強いのだ。やはり二心なく誠実に一筋に生きるのが、間抜けな凡人の乏しい力を何とか集中して続けていく道ではないかと考えています。これって当たり前の理かもしれませんけど、世の中って怖いんですよね。怖いものがあることを知ることが怖いもの知らずの乙女が嫌でも大人になっていかざるを得ないというか、えっちらおっちらそれでも自然に成長していかせてもらうプロセスかと思います。怖いですね〜本当に怖いです。例えまたしても離婚しなければならなくなる時がきたとしても一人ではとても生きていけないと思います。
あ、いい加減にしとこう。
Jane: Beck, how's the new project going? Jane: Beck, 新しいプロジェクトはどんな感じ? Beck: Not good. The data they've given us is really complicated. I can't make head or tails of it. Beck: あまり良くないね。もらったデータが本当に複雑なんだよ。まったく理解できない。 Jane: Are we going to meet our deadline? Jane: 〆切りには間に合いそう? Beck: Not unless I get some help. I really think I'm in over my head with this one. Beck: 助けがなければ難しいと思う。今回は僕の力ではなすすべがないような気がするよ。 Jane: Well, see what you can do. I'll talk to John about getting someone to help you. Jane: そうねえ、とにかく善処を尽くしましょう。人手を増やせないかどうかJohnと話してみるわ。 excerpts from msn @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
あられだか雹だかが降っていましたが、あられでも雹でもhailなのかな。 また日が差してきた。
雨が続いていたので、今日はわんこを散歩に出したいけど、お腹痛い。 バッファリンなくなったなあ。二日目なんです。昨日はまだそんなでも なかったから、雨の中子供迎えに行けたんですが。とにかくすごい量の レバーみたいなのが突然どぼっと出てきて、ナプキンしていてもズボンに 血が出てきちゃったりするんです。タンポンもしてます。来週は絶対婦人科 行こう。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ In many ways, Taoism was a rebellion against Confucianism, which was already in full swing by the time Lao Tzu appeared on the scene. Whereas Confucius' teachings emphasized tradition, social responsibility and ethics, Taoism called for absolute spontaneity, individuality and naturalness—a state of harmony with the Tao—which precluded the sometimes schoolmarmish wisdom of Confucianism.
When Siddhartha left his fig tree behind—which is now known as the Bodhi Tree—and stepped back out into the Himalayan foothills, having finally found "the way," the people were dazzled by his radiant appearance. "Are you a god?" they asked. "Are you an angel?" The former prince and ascetic smiled and said, "I am awake." From this point on, Siddhartha was no longer Siddhartha—he was the Buddha, the "one who has awoken." On this day, Buddha "set in motion the wheel of the dharma [spiritual teaching, the way]"2 with his teaching of the Four Noble Truths. These truths are the pillars of Buddhist thoughts.
excerpts from Mr.Robbins @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 山形は雪だよ、と昨日か一昨日仕事から帰宅したパパさんが言ってましたっけ。
かけっこではびりだし、自転車もまだ乗れない息子が、筋トレをしています。奇声を発するので何事かと聞いたら、声を出してやると力が出るって聞いたんだとのこと。今はお父さんと腕相撲しても私と腕相撲しても息子が 負けるんです。
そういえば、ドッジボール大会というのもありました。パパさんにヘルプに 行ってもらったんですが、パパさんによれば、息子は嬉しそうにぴょんこぴょんこしていたそうです。ドッジボールでは逃げるだけなんですが、スリルがあるんだよ、とは息子本人の弁。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
The emphasis of Christ’s message is, however, different from that of Buddha’s. Although all spiritual seekers share the goal of perfect self-knowledge and liberation, the methods taught by Buddha and Christ describe unique paths. Typically, the Buddhist cultivates direct perception, or bare awareness, through meditation and other solitary, inwardly-directed acts of focus and contemplation. The Christian path, by contrast, tends to be more externalized; the follower of Christ’s teachings makes acts of service and unconditional love his or her meditation. In striving to love one another with perfect, Christ-like compassion and understanding, we naturally grow to know one another as we really are, begin to encounter the divine presence the Christians call the "Holy Spirit" living deep within every being. As we merge with one another in love, we begin to see past our own desires, to directly experience the spontaneously perfected "other" person that once was hidden behind our own projections of prejudice, envy, and judgment. Consequently, in following Christ’s teaching of love, we begin to perceive our own, divine nature reflected back to us everywhere we look—in Buddhist terms, an act of direct perception of Chuang Tzu’s mysterious "source." @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
息子はお友達からお誘いの電話で外に遊びに行きました。
何か鎮痛剤ないかな〜。
ホットなノニジュースとか飲んでみようかしら。
少し掃除機かけたら何だか山登りの途中みたい。
子供が帰ってきて、何と今日のお友達は、遠くからおじいさまと車で迎り迎えして下さったということで、びっくりです。その男の子は私学校でお顔見たことあるんですがうちの子より背が高くて鷹揚な感じのお子さんでした。待ち合わせの場所とか言っていたのでいつものお友達と違うような気もしましたが、あまり誰かとか確かめていませんでした。そしたら息子が出かけた後いつものお友達から電話があった時、誰と遊びに行ったかうる覚えだったことに気がついて、いつものお友達に悪いことしてしまった。謝らなくては。でも今日のお友達もゆったりしていて魅力的。
あるお寺のお坊さんが、仏教とキリスト教が喧嘩をしたら仏教は負ける、と おっしゃったことがありました。 マハトマガンジーのインドは無抵抗不服従主義で植民地支配から独立したのか。 それにしても、どうして喧嘩する必要があるの?どうして勝敗を決める必要があるの?
| 2005年11月18日(金) |
Creation is as it is/ The Four Noble Truths四諦An Eightfold Path八正道 |
Conquering Yourself
The material world and its passions invariably cause one's mind to wander outside in search for lasting peace. The material world being inherently transient and impermanent can only bring results that are equally transient and impermanent. How can the mind, which is so restless, attain lasting peace?" The Lord Buddha replies, "The mind can be controlled through meditation and detachment. Those who are self-controlled, striving earnestly through the Dhamma, will attain the liberation."
This constant wandering of the mind creates fatigue and dissipates one's vital energy. Thus, one cannot concentrate and turn the mind inward and, therefore, one fails to realize the unity with the Dhamma within oneself. The key to being at peace with oneself is to realize this essential truth of one's being and reject whatever contradicts this truth. The Buddha's teaches that selfishness, hatred, anger, fear and so on are contrary to one's practise and learning of the Dhamma.
When one practices the right path, such as meditation, equanimity of mind and self-control, one develops moral and spiritual awareness. Then, through selfless work and loving compassion toward others, one's innate perfection will manifest as a living force of love and healing. Only then will inner peace and harmony prevail. In the Dhammapada Verse 103, the Buddha says "Though thousand times a thousand in battle one may conquer, yet should one conquer just oneself one is the greatest conqueror."
The month of June marked a major milestone in the history of Panna Youth Centre. Mr Samuel Hue Chin Leong, 26, became the very first full-time staff of PYC. Samuel graduated from Singapore Polytechnic in year 2001 and has been serving as a fund raising ministry leader before serving full-time in the ministry. He is currently employed as the Chief Coordinator of PYC.
CREATION IS AS IT IS Creation is neither good nor bad; it is as it is. It is the human mind which puts all sorts of constructions on it, seeing things from its own angle and interpreting them to suit its own interests. A woman is just a woman, but one mind calls her "mother," another "sister," and still another "aunt" and so on. Men love women, hate snakes, and are indifferent to the grass and stones by the roadside. These value-judgments are the cause of all the misery in the world. Creation is like a peepul tree: birds come to eat its fruit, or take shelter in its branches, men cool themselves in its shade, but some may hang themselves on it. Yet the tree continues to lead its quiet life, unconcerned with and unaware of all the uses it is put to. It is the human mind that creates its own difficulties and then cries for help. Is God so partial as to give peace to one person and sorrow to another? In creation there is room for everything, but man refuses to see the good, the healthy and the beautiful. Instead, he goes on whining, like the hungry man who sits beside the tasty dish and who, instead of stretching out his hand to satisfy his hunger, goes on lamenting, "Whose fault is it, God’s or man’s?
James Robbins holds an M.A. in creative writing from The University of Texas at Austin. He is a published writer of both literary fiction and non-fiction work which examines a variety of spiritual traditions and practices. His latest title, Build A Better Buddha: The Guide to Remaking Yourself Exactly As You Already Are is scheduled for release in May of 2003. With his wife, Dr. Heather Robbins, a clinical psychologist, James is co-founder of Dallas Mindfulness Practice, an organization which offers guidance and training within several Eastern wisdom traditions and meditative paths. He has over 15 years teaching experience, both with individuals and large groups. In support of Better Buddha, James will be traveling around the country offering lectures and seminars on meditation, lucid dreaming and other aspects of the spiritual path. James and Heather are currently at work on a book titled, The Tao of Relationships: A Husband and Wife Dialog for Chaotic Times. This book examines interpersonal relationships within the context of Taoist principles, as well as addressing further reaching relationships—namely, those of individuals to the unpredictable world around them. Considering the state of political and social unrest of the world at present, this book offers timely insights toward resolving both internal and external conflicts.
ひと月のうち、女性は生理前に多少情緒不安定になる傾向があると言われるけれど、どうもぜっ不調な日がすぐにやってくる気がする。生理前の一週間から15日くらい前が精神的に落ち込みやすいような気がするし、生きているのがしんどく、また怖いので何とか死ねないかと本当に苦しい。リストカットの経験などはないですが。ひたすらうなっているかな。また生理になるとこれまた出血量が多くて赤ん坊のオムツをあてたりするし、生理痛も酷い。欝はやみますが。やはり婦人科の更年期障害の治療も必要かと思われるけれども、薬を飲まずに心理学的にもっと自分の心理的な癖を自覚して整理したい気もする。それでJames Robbinsという人のサイトを読み始めました。
それを読んでいて、うちの旦那さんはただ生活のために休日出勤しても休日以外の日に休むことはほとんどしないで働き続けてきたから、仕事や暮らしの中に楽しみを見つけるすべは持っているし、不調のために出勤しなくなったことはないけれども、環境に適応した自分の生き方考え方の癖のようなものはできているような気はする。旦那さんにはこうしたセラピーは必要ないほど健康的な精神なのだろうかとふと思いました。
THE FOUR NOBLE TRUTHS
ONE
"The First Truth," said Buddha, "is the fact of suffering. All desire happiness. . . . Yet all find that life brings . . . frustration, dissatisfaction, incompleteness. . . . Life is change, and change can never satisfy desire. Therefore everything that changes brings suffering."3 We all see this simple truth playing out in our lives over and over again. I finally get that big vacation and it’s great. I’m sipping drinks by the pool, sleeping in late, reading that book I’ve been meaning to get to . . . then what? Well, then the vacation is over and I’m back in the daily grind, waiting for that next Big Vacation in the Sky. But it is somehow never the Big Vacation, right? It always ends sooner or later, because life is change. Everything we love, life and all its varied pleasures, are, by definition, impermanent. No matter how much security we carve out for ourselves, how much money we save, how much food we stuff in the refrigerator, it is never going to be enough. That’s just the way life works, Buddha said. We all carry this tangled knot of fear deep inside our gut because we know that life itself is a temporary vacation. We sip our drinks for a while, take in some sun and then, suddenly, it’s over.
TWO
"The Second Truth is the cause of suffering. It is not life that brings sorrow, but the demands we make on life. . . . Thinking life can make them happy by bringing what they want, people run after satisfaction of their desires . . . [demanding] what experience cannot give: permanent pleasure unmixed with anything unpleasant. But there is no end to such desire; that is the nature of the mind. Suffering because life cannot satisfy selfish desire is like suffering because a banana tree will not bear man-goes."4 This last point is particularly important. There is nothing wrong with expecting a banana tree to bear bananas; it just won’t work if we keep looking to it for mangoes. I point this out because this truth is often misunderstood. People sometimes say, "Okay, Buddha, I can see that I suffer because I want stuff. Therefore, I will simply quit wanting stuff." Some seekers shut themselves up in caves and eat insects or, less dramatically, they avoid the natural pleasures of sex, food, and drink.
But this strategy—especially when pursued from a place of fear and defensiveness— can never work. Why not? Because that’s simply replacing one desire with another, exchanging desire to drink with desire to not drink. True, we’re not asking the banana tree for mangoes anymore—now we’re asking for oranges. So what are we supposed to do? If wanting stuff doesn’t work, and wanting to not want stuff is the same problem, how are we ever going to cure ourselves of suffering?
THREE
"There is a Third Truth. . . . Any ailment that can be understood can be cured, and suffering that has a cause also has an end. When the fires of selfishness have been extinguished, when the mind is free of selfish desire, what remains is the state of wakefulness, of peace, of joy, of perfect health, called ‘that which is extinguished’: nirvana."5 Okay, so there is a way to quit asking the banana tree for mangoes and oranges, but what is this way?
FOUR
"The Fourth Truth . . . is that selfishness can be extinguished by following an eightfold path: right understanding, right purpose, right speech, right conduct, right occupation, right effort, right attention, and right meditation. If dharma is a wheel, these eight are its spokes." The first spoke on the wheel, "right understanding," is the key to all the others. In fact, if we truly and fully comprehend this one, which is the very essence of direct perception, we automatically comprehend all the others. What exactly is right understanding? "Right understanding," said Buddha, "is seeing life as it is."6 Once again, we encounter the frustratingly slippery, for-tune-cookie elusiveness of Eastern wisdom. It’s as if we’ve asked an Olympic sprinter for advice on sprinting and she says, "Wait until the whistle blows, then run as fast as you can!"
ぜっ不調ですが、何かいいことを見つけたい。いいことを考えたい。感じたい。
例えば、日が差していることとか。
昨日は多分雨だったような気がします。
雲の間から日が差していると素敵です。
出かけていくのが気の進まないけれど、しかし行かないわけにもいかないところへは、やはり出かけていくことにしました。 でもその会議に出かけていって、そして自分の意見をどうするか。妙案が 浮かびません。でも出席はしなくちゃと思います。人の意見を聞くだけでも 出席の意義ってあるんですよね。
近くやってくる個人面談も憂鬱だ。
ほかの人はおそらくもっと大変なんだと思うけど。
前向きにいかなくちゃ。というのが戦地に出かける兵隊さんの勇気とか 心意気とかを必要とする。って大袈裟ですか。人間の集まりがどうしてこんなに憂鬱なのか。以前五月病っていうのがありましたけど。11月ですね。
プラス思考で行こうよ、って子供が言っていましたけど。朝起きるのが 辛くても学校休むとは言わないということは、息子は今結構それなり好調なんじゃないかな。パパさんも前向きです。何だか少し羨ましい性格です。パパさんは私を羨ましいと言いますけどね。
よく、鬱病って状況が悪い時になるとは限らず、むしろ、人から見ると 昇進したりして、おめでたい時になることがあるっていうじゃありませんか。
子供のクラブ活動は表彰されたんだからもっと喜んであげればいいのにね。
私が幼児の頃と変わらず泣き虫なのは、生命力の表れと思います。 私だって社会の一員さ〜!っと大空に向かって大声で叫んでみるかな。本当に叫んでいるところを見られたらどうしよう。それでしょっぴかれたりしませんよね。 パパさんは信号見落として罰金取られたりしていたけど、くそ〜本当に気がつかなかったんだと悔しがっていたので、何だか私は責めませんでした。普通奥さんだったら責めませんか?どうしてため息だけで終わってしまうんでしょうか。
ブログは縮小しました。私はこのエンピツでぼそぼそ独り言を言っていたい気分なのです。容量が小さいのかな。
だけど、お父さんやお母さんがすごくいい人なのに、お子さんの語ることがすごく癇に障ることってありました。こんなにご両親が素晴らしい人なのに、お嬢さんそんな考え持っていたのかってがっかりしたことがありました。その子は私やうちの子に対して批判を持っていたわけじゃないかもしれないんですが、何だか自分の子供の人格を馬鹿にされたみたいにとても不愉快だったんです。打楽器はどんな馬鹿でも変な人でもできる楽器だ、って言った子があったんです。そんなことないよ、ってそのお母さんはおっしゃったんですけど。こんなことで一人のまじめな女の子に悪い印象を持つのは早計ですよね。物事ってその時の気分によって色々な風に見えるものですよね。 だから人に自分が変な人だと言われたからといって傷ついて自分が変なのかと考える必要もないなと思いました。その子の精神状態がその時いろいろな不満やストレスで一杯だったからたまたまにこやかにまたは一生懸命太鼓を叩いている人が利口に見えなかっただけで、自分の意識が人を傷つけているという意識はないんだろうと思うことにしました。 それに、その時はとてもよくできて賞が取れるんじゃないかという期待と緊張感とプライドがあったのに、私はほかの学校にもいい演奏があったとか 言っていたのも無神経だったかもしれないし。 でもせっかくいい賞だったけれど、何だか安っぽく感じられてしまって 素直に喜べませんでした。
これからまた大会というのもあって、息子はいくつもりらしいのですが、私はあまり気が進まない。どうしようもなく疲れているんです。
でも、主人の祖母の言葉に従って、ドンマイドンマイで行くしかありませんね。誰も馬鹿ではないのですから。 自分を馬鹿だと思うのもやめます。もし私と同じような感覚の人があったとしたら、その人の苦しい感覚を馬鹿にすることにもなるかもしれないから。 多分子供たちは親の建前と本音を越えて正直なんだろうと思います。
もう自分の限界を悲しむのはやめた。
http://au.news.yahoo.com/051117/15/wu99.html
相生市でアスファルトを突き抜けて生えてきた大根のニュースがオーストラリアのサイトにもあったのが、面白く感じました。
そういえば、チャングムはどうして追放になったんだろう?土曜日は寝ちゃってよく見てなかったし、子供が日曜に録画しといてくれたんだけど、 しっかり見ていなかったわ。
昨日は子供のクラブの県大会についていきました。 聴きに来て下さった先輩のお母様が完璧とおっしゃってくださって、うちの学校も今まで出一番よくできたしうちの息子の演奏にも大きな失敗もなくてよかったと思ったのですが、ほかの学校も様々に個性豊かな素敵な演奏だったので、一番は無理かなと思ったのですが、どうやら賞が頂けて、一番いい賞だということです。本当かしら?と少し狐につままれていますが、とても嬉しいです。 私はついていくのが何だかいっぱいいっぱいで、子供の名札をつけていくのもぽかっと忘れていて、演奏会に行く前にほかのママさんに名札を用意して頂いたり、係もほかのママさんに大半お世話になっています。 うちのように子供が一人というところは少ないのに、よくいろいろきがまわられるなあと感心することしきりです。 お天気も、朝のうちは雨降りかと思いましたが、晴れました。
ぺいやんぐのカップヌードルとトマトジュースがんまい。
どうして段階的な核廃棄がいけないのかな。何捨てるにしても、やっぱりとりあえずここ一つそこ一つと捨てていくしか、どーんと一度に捨てるなんて自分だけじゃ無理があるし、それに実際どーんと一度に大量に何か廃棄して叱られている人あるじゃない?やっぱりやんきーっていらちなのかな。私も日本人なのになにかのテストでやんきーっていわれたことあるしな。
捨てるの手伝ってくれるんなら助かるけど、ただ一方的に捨てろ捨てろと 言われてもなあ。
| 2005年11月10日(木) |
めぐみさんについて ぼそ |
まあ親権がないので何なんですが、娘に笑うと笑窪がきゅっとできて とってもかわいいと言ったことがありました。それまで笑顔の記憶や写真がほとんどなかったので、本当に笑窪がよかったんですが、色々なプロセスでは、あばたも笑窪がはたまた笑窪があばたにあることもあるかもしれませんので、親としては気をもむところです。そして、いつも笑顔でなくてもちっとも構わないと思ったりします。 勿論笑顔が一番と思うのですが、いつも笑顔でいるのも疲れることもあるだろうと思うので、無理をせずに頑張って欲しいです。何故かと言いますと、親としては、いくらかわいくても早世されて欲しくないので、いつかは バトンタッチ可能なおばあちゃんかひいおばあちゃんくらいになって欲しいので、いい笑顔は大切な時にとっておくのもひとつではないかと思ったりしてしまうのです。 本田美奈子さん、四六時中思い続けることはできないかもしれませんが、 きっと私がおばあちゃんかひいおばあちゃんになっても、もし私が生きていましたならば、お名前も、その笑顔も思い出すに違いないと思います。 それにしても治る病気だと思うんですがとても残念なことです。美奈子さんの心意気のほんの少しでも見習って私も天使に近づきたいです。 そういえば、何があってもにこにこしている人、これもちょっと信じられないなどと申し上げてしまったことがありまして、美奈子さんのことをその後考えたら、信じられないなんていうことはなかったと思いました。本当に素晴らしい女性だったんだと思いますが、しかし病気は治って欲しいですよね。。天に愛されて召されてしまったのが恨めしいことです。
ところでめぐみさんのおとうさまやおかあさま、政府のかげでやきもきされているよりも、直接金正日さんにコンタクトするわけにいかないのですかしらね。
私、子供を夫の家族に任せて実家で療養していた頃、父の旦那さんはもういやだといっているという話や兄のやめろという話でもう子供に会ってはいけないのだと思っていたのですが、別れてだいぶたってから前夫に直接子供に会いたいのだけれどと連絡できたら、別に子供に会うなとは一言も言っていないということでした。それで会えたのですけれど。国際問題はそうもいかないのかしら。それともめぐみさんを隠しておきたいのかしら。めぐみさんの遺骨というのは本当にDNA鑑定で違っていたのか日本のDNA鑑定が間違いなのかやはり何らかのために北朝鮮が違う遺骨をめぐみさんのものだと画策したのか?
山手線不通だったのか。東京も戦後の復興から60年たっているからなあ。 あちこち老朽化しているんだなあ。
それにしても、採算が取れないからというリストラはいつまで続くのだろう?お金やノルマを達成できる気の強い人ばかりで成り立つものかな。うちの旦那さんは辛うじて気を張っているけれど。。随分お世話になったのに倒産していく中小企業のおやじさんたちを惜しみながらも手薄になり、自分の家族を食わせていくためにノルマを達成できるところに手厚くならざるを得なかった悲しみ。七転び八起きで頑張って欲しいけれど。
イスラムの人たちもヨーロッパも大変そうだし。災害は後を絶たないし。自分の貧しさと罪や無知を嘆くこともできない気の毒な子もあるし。
炉の中で心中された老夫婦。
私、年取ったら迷惑かけないように考えたいなんて言っちゃって。世話ばかりかけているくせに。
わんこのワクチン。息子の目医者歯医者。予防接種もあった。源泉徴収表。郵便出し。
ここにふらりと今日やってきたら目に付くように。
新潟県の行政上の地域区分って、省庁によって違っているんですか? よく戸惑うことがあるんですよね。
私は長いこと新潟は北陸地方だと思っていました。北陸農業試験場略して ほくりくのうし、というのがあったからです。
日本海側なので、関東地方に住んでいて新潟へ住むようになると、とても ここは太平洋側の地域とは違うと感じます。関東地方とは決して思えない。 いくら新幹線や関越自動車道で思いのほか早く関東へ行けるとしても、非常に違和感を感じますね。
越後の国だったということで、甲信越地方という呼び方があればここに 入れたりできるのですが、例えばネット上で全国の不動産情報とかの地図を見ても、関西や関東はあっても甲信越はなかったりして、すると新潟は 何地方なの?全国的には無視されているの?ITの世界では新潟は問題外なの?などと思わされます。それでやむなく地方を書き込む欄を関東地方に したりするのですが、ちがああう!と内心思うのです。
電力会社が東北電力だから東北地方に入る?でも越後の国って東北かなあ?と思います。今は何となく慣れていますが、東北電力の請求が初めて 来た頃は、新潟って東北勢力に侵略されているのかしら?なんて感じました。失礼。
武田信玄と上杉謙信が長いことライバルであっても、敵に塩を送ったり なさるのですから、艱難に辛抱強くて人情が優しいんだなあ。
とちょっとわき道にそれましたが、ところで、新潟って何地方なんでしょうか。
私は庶民なので皇室が男系でも女性容認でもどちらでも構わないけれど、持統天皇や推古天皇は男性だったのでしょうか。 推古天皇は曽我氏か。推古天皇は自分が天皇になるなどとは思っていなかったし、天皇後継問題はその時々でわっさわっさと大変だったとしても、もし見識や人柄が信頼されている人であれば、女性の考えも割合尊重されたのですね。叔父の馬子が領地を所望した時に、親戚だからといって優遇はできないと退けたというお話が光っていますね。この頃は本当に邪魔な存在は天皇でも殺すと言うような渦巻きのような権力闘争だったようですが、象徴に なってもやっぱりさらさらとはいかないのですね。
それにしてもどちらもいろいろ大変そう。
見ざる着飾る言わざるではいられないのか。
瀬戸内海にあったのはどんな渦だったか。
私にはなるようにしかならないんだなあ。今生きているのがとりあえず ラッキーなのかしら。
私がニュースを見て何か感じたとしてそれで何かできるわけでもないけれど、せめて自分の気持ちは大切にせざるを得ない。
このところ不調でしたが、幼馴染の女の子とメールしていていくらか現実感を取り戻せたので感謝。
今一番年上の甥っ子は20代だろうと思うのですが、その子やその子のお姉さん、まあ、姪っ子ですが、この子達が3つくらいの頃は母もとても元気でした。 そういえば、母は私の娘もお風呂に入れてくれたのでした。 長男長女って人格的にも生活の細かいところもちゃんといろいろ手が行き届いていて羨ましいなあと思います。努力ではとても及べません。手の掛けられ方が違う。
その甥っ子が夢に出てきました。かわいかった。
夢の中で、母は亡くなったのだろうかそれとも回復して元気になったのだろうか、と胸が急くように私は心配していたが、眼が覚めてみたら、もう母は20年も昔に亡くなっていたのでした。ばかだね私。
だから時々夢から覚めたくないと思うのです。
インスタントの焼きそばを食べました。塩味。
やっぱり駄目なものは駄目なのかな。
おかあさん会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いに行っても いい? おかあさん会いに行っちゃいけない?
私の代わりなんて沢山あるよ。
私がいなくてもみんな大丈夫だよ。
私より元気でいいひとたくさんあるもの。
おかあさん会いたいな。
会えないと思う?私には会えないと思う?
おかあさんどこにいるの?どうしていってしまったの?
本当に駄目なの。本当に駄目なの。おかあさんは駄目じゃなかったの?
ねえ、何も考えずに夢の中でなら、おかあさんと面白おかしくやじきた 道中みたいに楽しい旅ができるよね?
まちこおばさんとも旅行がしたかった。まちこおばさんに会いたかった。 どうして会えなかったんだろう?
神様にお願いすると願い事を叶えてくださるんだって。
まちこおばさんともお会いしたいな。まちこおばさん会いたいって私が 言ったら、嬉しそうだったのよ。どうして会えなかったんだろう。おとうさんもおにいちゃんもいい顔しなかった。
会いたいなあ。
年配の人たちのHPのチャットへ行きました。
お久しぶりで楽しかったです。
カカア殿下が家庭の平和と教えて頂きました。
そういえば、子供のクラブのコンクールへ行くバスの中でも、おらが かかあは日本一だか世界一だかというカカア殿下だか天下だかの素晴らしさ というのを、バスガイドさんのように楽しくお話してくださったママさんが ありまして、これが実に美人なのです。
|