2006年05月30日(火) 歌は流れるあなたの胸に。
ぼくが義務教育を受けていた頃はまだダイヤル式の電話が残っていた。小学校に通っていた前半の頃はどの家にもまだ黒いダイヤル式電話しかなかったし、その電話機だって置いていない家もまだあった。そういう御宅は学級連絡網などには(呼出)と書いてあった。大家さんだとか、御近所さんの電話番号を連絡先として公表していた訳だ。
用事があるときは大家さんだか御近所さんだかに電話を掛けて、「○○さんを御願いします」と言って呼んできて貰うという仕組み。たかだか二〇年ほど前のことで、当時はめずらしいことでもなかったのだけど、その頃を知らない人たちにとっては奇態なことなのだろうと思う。いまや「一家に一台」どころか「一人に一台」の電話がある時代だものね。
その、黒いダイヤル式電話がさまざまなデザインのプッシュ式電話に切り替わろうという頃、ぼくが小学校の高学年から中学生だった頃は、いたずら電話がやたらと多かった。受話器を取ったらいきなりハアハア言っているようなのはぼくは遭遇したことはないが、無言電話は割りと沢山掛かってきた。受話器の前に呼び出しておいて何にも言わない、という何を目的にしているのか判らない電話だ。
ナンバーディスプレイやコールバックなんてものはあと一〇年くらい経たないと現れないこの頃は、不審な電話が掛かってきても誰がどこの電話から掛けているのか判りやしなかった。だから電話帳に掲載されている片っ端からいたずら電話をしていた輩もいただろうし、その中におもしろい反応をしめす御宅などがあればきっと格好の標的にされてしまったことだろう。
無言電話は、ぼくの生家にも一ト月に三、四本の割合で掛かってきた。その中にはダイヤル間違いで目的とは違う電話に繋がってしまったことに吃驚して何も言わずに切ってしまう無言電話もあったのだろうが、無言電話の大半はこちらが切るまで何も言わずに通話状態を続ける。
こういう電話はぼく以外の家族は直ぐに切ってしまったが、ぼくはとことん付き合った。先に切ってしまうのは、何だか負けた気がして気分がよくなかったからだ。いま思うと、どうしてそんなにまで何にでも勝敗を持ち出してくるのか甚だ疑問だが、当時のぼくはそういう妙なところで負けず嫌いだったようだ。
無言電話との付き合い方は幾通りかある。お互い無言のまま、というのが最も判りやすい方法だ。何が判りやすいかというと、電話を受けた側の対抗意識だ。「お前が無言ならこちらも無言で付き合うぞ」という意思表示が無言電話の主に伝わりやすい、のではないか、と思う。当時はぼくの家だけでなく各家庭にいたずら電話が沢山掛かってきていて、他所さまの御宅でも無言には無言で対抗していたようだ。
ぼくはそのほかに、「一方的に喋り続ける」ということをやった。喋った内容は憶えてはいないが、相手を厭がらせるか笑わせるか、どちらかをしようとしていたことは憶えている。つまり、相手に先に電話を切らせるか若しくは笑い声を上げさせることで「無言」ではなくしてしまうか、そういうことをしようとしたのだ。
「一方的に喋り続ける」はかなり有効で、「直ぐに切る」だと切った直後にまた掛かってきたりしたがそれもなかったし、「お互い無言」より早く決着が着いた。しかしこの方法は、結構疲れる。
そこでぼくは新たに手段を考えた。これは窮めて有効な手段で、たった一回しか使ったことがない。それは即ち、この手段を実行して以降は二度と無言電話が掛かってこなくなったということだ。だが、さほど難しい方法ではない。
中島みゆきさんの「
うらみ・ます」を歌った。すすり泣くように。
お終いまで聞いて貰えなかった。無言電話が切れるまでの時間最短記録だったかもしれない。
【今日の基本】
スポーツドリンクは二倍希釈。
2006年05月29日(月) あまりにさわやかだったので。
連日のうっとうしさがうそのようになくなり、きれいに晴れた本日。さんさんと降り注ぐ陽光、吹き渡る初夏の風。そのあまりのさわやかさに自転車を漕ぐ私の口から鼻唄も出ようというもの。
気分よく歌いながら走ったさ。
歌っていたのが「諦念プシガンガ」だったところが大きく間違っているけどな。
「諦念プシガンガ」がどれくらい「さわやかである」ことから遠くへ向かうベクトルを持っているかをお伝えしたくて歌詞検索サイトを渡り歩きましたが、何処にもありませんでした。インターネット上に公開することが憚られるほどキケンな歌詞なのか、と、曲自体の旧さは棚上げで直感してしまうほどの反さわやかです。
でも、きれいな日本語だと思う。
「諦念プシガンガ」は戸川純さんの曲で、近年巷では彼女と椎名林檎さんとの類似性が指摘されていますが、一見似通っているだけでまったく違うものだと私は思います。近代文学で言うなら江戸川乱歩と夢野久作のような。
【今日の決して加齢のせいでは】
極力油脂分を除く生活をしていたら、コロッケ一個ではげしく胸焼け。
2006年05月26日(金) よいよい。
「エコロジー」という言葉が普及することで「
エコエコアザラク」から禍々しさが奪われたような気がしている衛澤です。
今日は、ちょっとだけ幸運な日でした。
定期注射をして貰いに行った病院で、注射器に薬液を吸い上げた看護師女史が注射器から空気を抜こうとして指でぽんぽんと弾いていたところ勢い余って着脱式の注射針をぽんっと弾き飛ばしてしまった瞬間をばっちり目撃したり、病院帰りに立ち寄ったコンビニエンスストアで買いものをして引いたくじが当たってアイスクリームをひとつ貰ったり、自転車で二〇分ほど走って出掛けなければならない日の出掛けている間だけ雨が降らずにいてくれたりしたのです。
ああ、こうやって振り返ってみると「ちょっと」どころではありませんね。大変幸運な一日でした。どうも有難う。
【今日の近似】
次長課長河本くんとKinki kids剛くんの芸風はかなり近い。よね。
2006年05月25日(木) フォーリンラヴ。
「恋」という事象をまだよく理解できない私がそのことを話して
「恋をした経験があるかないかと問われたら、ないとしか答えようがない」
というようなことを言うと、そのとき話していた相手がとある有名な台詞を引用してこう言った。
「恋はするものじゃない、落ちるものなのよ」
だから私はこう答えた。
「落ちる、ですか」
「そう、落ちるものなのよ」
「落ちる、即ち落下ですか。自由落下ですか。等加速度直線運動ですか。フリーフォールが苦手な私はどうすればいいですか」
かくして私は沈黙を勝ち取った。
【今日の一分一秒】
「待つ」時間を「無駄」と言ってしまう人は、「待つ」ことが下手なのだと思う。
2006年05月24日(水) 何れも覚悟を。
ホルストの組曲「惑星」の第四曲「木星」だけを抜粋して日本語詩を付けた歌を非難するクラシックファンは多いようですが、そんなみなさまには「
パンク蛹化の女」なんてとてもじゃないけど許せないのでしょうね。
ホルスト先生に楯突くつもりは更々ありませんが、作品は作者の手を離れて受け手の手に渡った瞬間から作者だけのものではなくなる、ということを、何かをつくる立場にある者は念頭に置いておくべきだと私は思っています。
それから、引用されたり盗用されたり剽窃されたりってことは、その作品が秀れていることの証しでもあるのだから、あんまりうるさく言うのも如何かな、と。
だからと言って、幾らでも引用も盗用もしていいという訳ではない、ということは言うまでもないことではあります。
【今日のいま更気付く】
しまった、「
フライトプラン」を観に行くのを忘れていたぞ!
2006年05月23日(火) さいわいなきものはさいわいなるかな。
おそらく誰が見ても賞賛に値するものを見たのだとしても、どうしても蔑んでしまう人というのはいるもので。
ぼく等はそういう人やそういう人の言動を見聞きして腹が立ったり哀しくなったりするのだけど。
そういう人にこそ、さいわいよ、あれ。
【今日のはげしいディラン効果】
一度で二度効くコン○ット〜♪ み、耳から離れないっ。たすけて、お蝶夫人!
2006年05月22日(月) 当然の疑問を。
「
卵かけ御飯専用醤油」にはじまって、「刺身専用醤油」などの「専用」商品が一部で評判を呼んでいる、とのこと。
「ほんならシャア専用はいつ発売されるのん?」と当たり前のように訊いたのは1970年代生まれの私。「もう直ぐ」と即答したのは、自己紹介しようと「私」という単語を口にすると自動的にその後は「…の名はクイーンエメラルダス」になってしまって自己紹介できた例しがない友人同じく1970年代生まれ。
我々の共通点は言うまでもなく「ヲ」ってことです。……ま、
こういうものもあることだし、ね。
【今日のただひとつ願いが叶うのなら】
菱沼さんになりたい。なりたい。
2006年05月21日(日) 求不得苦。
たとえば、ね。
Aという人がいたとしよう。そのAさんはお金に乏しい。だから、あなたに「金をくれ」と言った。でもあなたは「他人に分けてやれるほど沢山の金を持ってはいないんだ」と断る。或るいは「どうしてお前に金をくれなきゃならないんだ」と怒る。するとAさんは「何てけちくさい奴だ、多少他人に分けてやれる程度の金くらい持ってろよ」と怒り出した。
さて、あなたはAさんに対して「手前だって持ってないくせに偉そうに怒ってんじゃねえよ」と思うだろうか、「尤もなことを言っている」と思うだろうか。
では、置き換えてみよう。
前の段落の、Aさんがくれと言った「お金」を、「やさしさ」や「デリカシー」や「常識」に置き換えてみたら……どうだろう?
自分が持っていないものを他人に求めて、ないことを怒る人って割りと沢山いるんだよ。求めなければないことに腹が立つこともないのにね。
ほしいのに得られないという理不尽な腹立たしさには名前が付いていて、西暦を数えはじめる頃にはその名前は既に存在した。二千年以上も前に付いた名前は、だけども知らない人の方が多いんだけどね。でも、紀元前の人も現代の人と同じことで苦しんでいたのはほんとうのことらしい。
【今日のやってみましょう】
まる一日、一貫して語尾は「ニャ」。やってみるニャ。
2006年05月20日(土) 見つけにくいものですか。
なくしものをして、家捜ししていました。片付けたと思っていた場所に片付けていなくて、普段開けないような抽斗や鞄のポケットを開けて探してみたけど見つからない。或る鞄の、あることさえ忘れていたポケットを開けたとき、思いも寄らぬものを見つけました。何と現金三万円。
その鞄は行軍用に買ったもので、おそらく初行軍時に「念のため」と入れておいたお金をずっと忘れていたのでしょう。よくもこんな大金のことをこれほどきれいさっぱり忘れ去ることができたものだと感心するほどの忘却振りで、だからとても驚きました。
もともとその三万円は自分が稼いだもので、ただ収い込んでいただけなのですが、ないと思っていたものが手許に出てくると何だか得した気分です。
得した気分だけでなく、急に金持ちになったような気にもなってしまって、いままで躊躇していた買いものをしてしまいました。トレーニングジムに通うためのスポーツバッグと、リフティング用のグローブと、ベルトと、スクワットパッド。
リフティンググローブはすべり止めであり、手掌の保護をするものでもあります。重量があるものを力一杯引っぱったり押したりする訳ですから、手のひらにタコができたりするので、グローブは着けている方がよろしいです。
リフティングベルトは、腰の保護と腹圧の調整に役立ちます。デッドリフトやバーベルスクワットなどの数十キログラム単位のウエイトを提げたり担いだりの運動は腰を痛めやすいし腹部を強く締めておく方が力が入りやすいので着けるとトレーニングしやすいです。
スクワットバッドは、バーベルスクワットをするときにバーベルのシャフトが肩に食い込んで痛いのでシャフトにクッションとして巻いておくものです。
何れもなくてもトレーニングはできますが、あった方が快適です。
これ等を入手して先日からトレーニングジムで使用しているのですが、どうもその辺りから、居合わせたジム利用者から指導を請われることが多くなりました。トレーニングマシンの使い方から運動部位による適切な負荷までを、軽く訊ねる有閑マダムから熱心に質問してくる青年まで。
グローブやベルトを使っているだけでパワートレーニーに見えるのですね。見掛け倒しに終わらないように精進しなければいけないなあ、と思った次第です。
「同一部位のトレーニングのインターバルは四八時間以上取った方がいいですよね」という質問を頂く一方で、「古池や蛙飛び込む水の音、は誰の俳句でしたっけ」などのウエイトトレーニングには関係のない質問も頂くようになりました。もしかして、パワートレーニーに見えるようになったのではなく、質問しやすい人に見えるようになってきた?
追記しますと、スポーツバッグとリフティンググローブ、リフティングベルト、スクワットパッドの四点で降って湧いたような三万円を使い切ったのではなく、これ等は締めて一万円程度で、残りの二万円のうち一万円は自宅の火災保険支払いに、もう一万円は貯金に充てました。なかなか堅実。
家捜ししていたなくしものは、片付けたと思った場所にやっぱりありました。探し方が不味かったようです。
【今日の呪文】
やる気でろ〜やる気でろ〜やる気でろ〜。
2006年05月19日(金) ぜんぶすべてえぶりしんぐみらこー。
「奇跡を信じない」なんて人は、自分自身が奇跡であることを判ってないよねー。
世界の大部分が奇跡でできていることの素敵に気付かないのは、うれしいことが起こったときによろこぶことができないのと同じくらいつまらないよねー。
【今日のただいま療養中】
無理をするより
こうの史代さんで和む。
2006年05月18日(木) いろいろあって当たり前。
この話題に触れていないかを確かめにこの頁においでになった方もおられるかと思います。
「
性同一性障害を受け入れ 小2男児、女児として通学」
この記事は主要四紙Web版でも正午前後にはトップ記事として配信されたり、近畿地方では夕方のテレビニュースで報じられたり、かなり大きく扱われていて、ぼくはニュースの内容よりも扱われ方の大きさにちょっと吃驚しました。
このニュースに関してWeb上で意見を述べている人は既に大勢いますが、まだまだ誤解している人や、間違った情報や僅かな智識で偏った見方をしている人も沢山いるようです。「性同一性障害」という日本語ができて、国内での公的な治療がはじまって、たかだか一〇年ですから、それは仕方がないことでしょうし、あんまりとんがって抗議するのも如何かな、とぼくは思っています。
当事者も非当事者も、よくよく知っている人もあんまり知らない人も、それぞれの意見を言えばいいのだと思います。その意見が間違っていたり好ましくないものだったりしても、それをまったく否定してしまうようなことはしたくないな、とぼく個人は思っています。肯定の意見があって、否定の意見があって、中庸の意見があって、それぞれを聞いて頷く人がいて首を傾げる人がいて、そういう状態が正常な世の中なのではないかな、と。
そう考える一方で、多くの意見の中にまだまだ「性同一性障害者は性別を〈択んで〉いる」というものがあることは、やっぱり哀しいなあと思っています。
性別を択ぶことができるのなら、性同一性障害は「障碍(障害)」ではなかったでしょう。
何となーく厭だなあと思ったのは、夕方ワイドショー内のニュース枠でこれが報道されたときに、いつもはその枠で読まれたニュースに何らかのコメントを付け加える司会者やほかの出演者が、この話題はなるだけいじらないように気を付けていたのがありありと判ってしまったことです。
【今日のよい】
TARO MONEY、いいね! 手のひらに載せるだけで愉しくなる。
2006年05月15日(月) 怒濤の。
夜中に結構大きな地震が来ました。当地方は震度3程度の地震なら日常茶飯事ですが、眠っているところを地震に起こされるなんて阪神・淡路大震災以来のことです。
箪笥や棚の上に載せてあるものが盛大に落下するほどの揺れで流石に眼が覚めて、直ぐにテレビを点けて地震情報を確認。点けたのが地元テレビ局で、そこは夜中に決まって通販番組を流します。震度4でマグニチュード4.5、津波の心配はありません、という情報確保でほぼ安心して眠ったはいいけれど、地震情報越しに見たEMS(低周波腹筋運動装置)が頭の中に残っていて、翌朝起床と同時に「買わなきゃ」と思ってネット上から申し込みしてしまうところでした。一種のサブリミナル広告ですか。
こまごまと余震が続くものの、台所の床が棚から落ちた塩と胡椒でざらざらになっていたこと以外はさして被害はありません。
地震よりも、今日の午後に突然「今月末までに五〇枚以上」という依頼が入ったことの方がダメージが大きいです。昨日書きはじめた三五枚口は後まわしにして、明日の日中に手早く取材を済ませて資料にまとめて……と声に出して日程の確認をしないと自分で把握できないくらいに恐慌状態です。
できるかなあ、ではなく、なさねばならぬなにごとも。
【今日の不思議】
改めて考えると「トースト」って変な料理ですね。焼いてあるものをもう一度焼くなんて。
2006年05月14日(日) 手掌凝視。
月初めから書いていた短編五〇枚口が第四稿になり、締切までにもう少し時間があるので幾らか手を入れたいのと熟成させたいのとで、一旦棚上げすることに。続いて別口の短編三五枚口に取り掛かっています。こうして毎日書いているのですが……どうしてこんなに上達しないかな、と手のひらをじっと見てしまうこの頃。
二、三年前の方がもっと上手に書いていたような気がして、そういうときというのは何を意識するでもなく、自分の手を見てしまうものなのですね。啄木が歌に詠んだのはこういうことなのだな、などとしみじみ思ったりしています。
でも、「働けど働けど」の一節で思い出すのは
戸川純さんだったりするところがヲだよね、わし。
【今日の失言】
「海猿」の主人公役の人はほんとうに猿顔だな。
2006年05月13日(土) 視線も肩も落ちて。
やっと「名探偵コナン」劇場版第10作「探偵たちの鎮魂歌」を観てきました。前売観賞券を販売開始直ぐに購入したもののなかなか劇場に出向く機会を摑めずにいままでずるずると先延ばしにしていました。……別にこのまま上映が終わってしまってもよk(寸断)。
ま、10年続いている年中行事ですから。
事前情報を可能な限り遮断して観る、というのはいつもの通りにしていまして、御話の舞台すら知らずに観はじめたもので、去る大型連休中に
江戸川コナンみなとみらい駅一日駅長なんてことをやっていたのはこういうことか、ということが判りました。
今年の当たりは横浜市在住のみなさまです。舞台がみなとみらい周辺なので、みなさまに御馴染みの風景が沢山登場致します。
実在の風景が登場して、その中に架空のものが上手に溶け込んでいます。観るだけでその街に行った気分になれる、或るいは行ってみたくなるという仕掛けは劇場用第7作「迷宮の十字路」以降恒例となりましたね。馬車道も氷川丸も海側に大きく張り出すジェットコースターも、何れも見てみたくなりました。
観るべきところは、そこだけ……かも。
「10周年だし」「お祭りだし」「オールスターキャストだし」ということで、まともな御話は期待していませんでしたが、ほんとうに薄味で……まるで病院の糖尿食のように。一見おいしそうなのですが食べてみると「んんん?」と首を傾げてしまう、という感じの。作画の質も年々落ちてきているように感じます。ジェットコースターの場面なんて第4作「瞳の中の暗殺者」の方がずっと迫力があったように思います。
監督の山本氏にはぜひとも早いうちに「劇場版」の構成を把握して頂きたい。氏が監督なさった第8作「銀翼の魔術師」第9作「水平線上の陰謀」、そして今作と、何れもテレビシリーズ30分枠の構成をつぎはぎして無理に長編に仕立て上げた感が否めません。カット割りに妙なタイムラグがたびたびあったのは、長編を意識してのことだったのでしょうか?
「映画10周年記念作品」だし、いままで「コナン」って観たことなかったけど一遍観てみるか。そんな風に思って御覧になる方も大勢おられるのではないかと思います。何かを期待して御覧になったみなさまには大変申し訳なく思ってしまいます。まるで制作関係者のように。むしろこの作品は逆効果なのでは。
全体として、コナン・平次・キッド・白馬の人気キャラクタを揃えて「女性のみなさんこんなの好きでしょ」という場面を羅列するあざとさが見えてしまって、それが厭でした。これが「オールスターの豪華さ」なら、こういうのはテレビの特番2時間枠でやって頂きたい。各場面の整合性や動機づけも薄く、昔々の香港映画並みにあんまり細かいことを気にしないように気を付けながら観ないといけないものか、と観客であるこちらが気を遣ってしまうこともしばしば。
「依頼人」が実は優作パパで、「日本の名探偵たちが揃って難題を解く姿を見たかったのだよははは」などと人死にの出ない事件を設定した(そして最後に有希子ママが「やっぱり新ちゃんが一番ね」などと恥ずかしげもなく公言)、という「オールスター」の方がまだ納得できたかも、と私は思います。今回の事件は凶悪さの割りに根が浅かったと言うか。同じ奔走させるなら最後に「どっひゃー」とか言ってひっくり返るようなものがいいですよね。劇場版だし。
今作を観て何が一番驚いたかと言えば、白鳥警部の背広が青色ではなかったことです。それから、原作第30巻「黄昏の館」エピソードの茂木・槍田両探偵が名前だけとは言え登場したこと。これは白馬くんを登場させることから発想された小芝居だったかな?
それにしても某ユニットはほんとうにコナン映画との相性が悪い……主題歌を担当した作品は何れも「コナン」としてはアレなもので。エンドロールがはじまった途端に関係者でもないのに思わず謝ってしまいました。歌が巧いだけに余計に申し訳なくなるのですよ。
あ、愛憎劇の中心となる二人の声を演じていたのがもと夫婦ということに作為はないのですよね?
【今日の半月に一度】
小さな倖せ「
ひとくち焼きいもようかん」(やおきん)。
2006年05月10日(水) みみみるみみかき。
短編五〇枚の初稿がようやく書き上がって一ト息ついている衛澤です、まいど。
五〇枚に一〇日も掛かってたらいけないではありませんか、とも思いますが一ト先ず結末が付いたのでよしとします。初稿が仕上がらなかったら決定稿も仕上がりませんからね。
季節柄か、崩れ気味だった体調も安定してきましたので、一気に短編を二篇仕上げて、九月末までに長編を一篇……と予定を組んではいるものの、上記の通りの遅筆ですからどうなることか判りません。
持病のために体調が崩れるときというのはえてして浅眠になりがちで、先月半ば辺りから今月初旬にかけて、やはりそんな感じでした。厭な夢を高確率で見てしまったり、二時間置き(レム睡眠とノンレム睡眠の一周期)に覚醒したり。それから、耳の中があまりに痒くて眼が覚めることもありました。
眼が覚めるほどの耳の痒みとはどれほどのものなのかと自分でも思うのですが、痒くなる心当たりはあるのです。ぼくは耳掃除がとても下手なのです。
耳の穴に耳掻きを突っ込むのが怖いのです。妙なところに突っ込むと痛かったり鼻腔が痒くなったりで奇ッ怪な声を上げてしまったりします。中が見えないので何処へどのように耳掻きを差し入れれば痛くなかったり突飛なところに刺激がいかなくて済むのか見当も付きません。上手に耳掃除ができる道具や方法はないものかとときどき探します。
「光る耳掻き」というものを時折見掛けて「これはいいかも」と思うこともあります。でも購入は見合わせています。耳掻きの先が光って、暗い耳穴の中もよく見える、というのは便利な機能だとは思うのですが、幾ら明るくなっても自分の耳穴の中は見ることができないのですよ。鏡を使っても駄目です。デンタルミラーで自分の奥歯が見られないのと同じです。
「自分で自分の耳の中がよく見える耳掻き」というものは、まだ発明されていないのでしょうか。自分の胃の中や腸の中は見たことがあるのに耳の中は見たことがないというのは、何だか釈然としません。
【今日のいつでも夢を】
「近頃の子供は夢がない」のは、大人が夢を見ることを忘れているからではないのかな。
2006年05月09日(火) 豆。
ぼくは豆が好きです。「小さいもの」という意味の豆ではなく、食べる豆です。小さいものも好きですけどね。豆本とか豆電球とか豆鉄砲とか。
煮豆やゆで豆や、そういうものが好きで、だけどあまり食卓には出さないようにしています。きりがないのです。
豆というのは一ト粒一ト粒が小さく、そのため一ト粒や二タ粒食べたくらいでは満足しません。だから箸で一ト粒つまんでは口に入れ、咀嚼しながらもう一ト粒つまみ、つまんでは口に入れ……と繰り返す訳ですが、何処でやめていいのか判りません。
自分で煮る手間を省いて出来合いの煮豆を買ってきたりしたら、一パックくらい一回の食事で食べてしまいかねません。
「豆を食べる」という行為を巧く切り上げる方法があるのなら知りたいなあ、などと考えながら今日も塩ゆで青大豆を食べていました。案の定一パック食べきりました。
豆を食べているときって、意識が白くなるんですよ。
【今日の無間】
書いても書いても仕上がらない。おしごといっぱいしめきりいっぱいいっぱいいっぱい。
2006年05月07日(日) 印度生まれ英国経由日本育ち。
エビちゃんと同じ髪型にしてみました。
ときどきほんとうにどうでもよさそうな明らさまなうそをついてみたくなる衛澤です。
毎年暖かくなって明度の高い色の服を着るようになると、食事どきにひやひやすることが多くなります。特にカレーうどんなど食するときに真っ白のシャツなんか着ていると気が気ではありません。そもそも、白いシャツを着ているときにカレーうどんを選択することが間違っています。
しかし先日、上半身はシャツも上着も白だったにもかかわらず、どうしてもカレーが食べたくて、気を付けながら食べました。カレーはカレーでもカレーライスだったので跳ねることはないから多少気を付ければ大丈夫と思っていたのですが、そういうときに限ってスプーンを持ち上げた途端に背後を通り掛かった人がよろめいてぶつかってきたりするのです。
実際にそのようなことが起こった訳ではありませんが、似たようなアクシデントで白いシャツのお腹の辺りに黄色いしみをつくってしまいました。
水を含ませたナプキンなどでカレーがついてしまった部分の表裏を叩くと(擦っては駄目)或る程度の応急処置ができるのですが、この日はとても腹が減っていたので処置もそこそこに食事を再開しました。
すると見事にシャツは色付いて、後に何度洗濯しても落ちません。
カレーの黄色のだいたいはターメリックつまり鬱金で、カレーのしみが落ちにくいのはまさに「ウコンの力」なのであります。
これほど落ちにくいなら、いっそターメリックでこの白いシャツをカレー色に染色してやろうかと思いました。紅茶染めみたいな風合いのある染まり方をするのではなかろうかと。巧く染まったとして、そのカレー色のシャツを着るかどうかは判りませんが。
さて、一方で「ホワイトカレー」なるものも販売されていますが、白いということは、あのはげしい黄色のもとであるターメリックが入っていないということです。では何が白色を発色させているのだろうとずっと不思議に思っていたのですが、ようやくパッケージ裏に書かれた原材料一覧を見る機会に恵まれ、謎が解けました。ホワイトカレーの白は、生クリームの色です。
ホワイトカレーは確かにカレーの風味はします。飽くまで「風味」であって「味」ではありません。食べてみたらカレーの匂いがほのかにするクリームシチューだったので何だかがっかりです。カレーパウダーは入っているのに、不思議だなあ。
ホワイトカレーが紛れもなくカレーの味がするカレーならば、これを利用してカレーうどんをつくれば白い服を着ているときでもカレーうどん怖るることなし、と思ったのになあ。白くてもしみにはなるのですけどね。
【今日のリバイバル】
蓮井朱夏「ZOO」。確かに上手な歌ではないけど、ECHOESより好き。
2006年05月05日(金) ひとりものはこんなもの。
五月五日は柏餅を頂いて菖蒲湯に入る日であって子供の幸福を考えてなどいる場合ではないと思っている衛澤です。子供の幸福は子供が考えればよろしい。
晴天になる確率が高い五月五日はぼくの暦では大掃除に当たっています。暖かいしよく晴れるしやる気も出やすいのでいろいろやりやすいかな、と。布団の夏冬を入れ替えたり毛布を片付けたり炬燵布団を片付けたりにも丁度いい頃合いなので。
毛布や布団カバーを洗濯しながら布団を干しながら掃除用品を揃えにスーパーマーケットに出掛け、柏餅も一緒に買ってきます。大掃除が終わったら御三時に頂くのさ。売場近くで「ごまプリンミックス」がお安くなっているのを見掛け、気が向いたのでこれも購入。
掃除をはじめる前にプリンミックスを仕込んでおいて作業開始。掃除が終わる頃には洗濯ものも乾いていて、布団もふかふか。プリンもよく冷えています。
箱の説明通りにつくれば誰でもできるプリンミックス。きちんとできています。わあいとよろこんだプリンの器が計量カップのさみしさ。だって適当な器がうちにはないんだものさ。
底を見ると、ちゃんとごま成分が沈殿しています。別の器に開けたときに天辺が黒くなる仕掛けがプリンミックスには施されているようです。マアハイテク。
で、このプリンは見るだけ見て冷蔵庫に片付けました。だって今日は柏餅を喰わないといけないからさ。
【今日の脅し文句】
「L●VE定額」は最早や脅迫の道具にしか使われていないような気もします。
「あんまり我が儘を言うとおれとお前のケータイをL●VE定額にするぞ!」
「ああっ、それだけは!」
2006年05月04日(木) 赤い色との和解。
ぼくは赤い色が嫌いだった。もっと詳しく言うと、赤い色そのものが嫌いだったのではなく、赤という色が負わされていた意味や役割と、赤色を身に着けることでその意味や役割を自分にも負わされてしまうという事実によって、赤色を逆恨みしていた。赤色には、いまも昔も、何の罪もない。
ぼくが幼かった頃は、赤色は「かわいい色」=「女の子が身に着ける色」だった。「女の子がかわいく装うために先ず取り入れる色」だった。女児として生まれはしたものの女の子として扱われることを受け容れられなかったぼくは、赤色に着色された「女の子のための」道具や「かわいらしい」洋服をはげしく嫌った。それ等を身に着けることをぼくにすすめる人をも嫌った。
だから、小学校に入学するときに親が用意してくれた赤いランドセルも赤いエナメルの靴も、親には申し訳ないが、身体にくっつけるのがとてもとても厭だった。
三〇年ほど前はかように「赤色=女の子」の図式が成立していたのだが、男の子が赤色を身に着けることが一切なかった訳ではない。男の子のヒーローである特撮番組やロボットアニメーションの主人公のイメージカラーは大抵赤だった。
ぼくはこのイメージを身に着けるのも厭だった。物語の中心にいて積極的に悩んだり怒ったり戦ったりする最も強い主人公よりも、主人公に次ぐ立場にいてやや冷めた視点でものを見てちょっと厭なことを言ったりもする虚無的で冷徹な青色をイメージカラーとした二番手キャラクタの方が好きだった。年令が一ト桁だった当時から物語の読み解き方がひねくれていたようだ。
以上のような理由が重なり合って、ぼくは赤色を避けて青色を好んで身に着けるようになった。赤い色が伴う意味や役割が厭だったのだが当時は短絡的に「赤は嫌い」と思っていた。赤い色の洋服を自分が稼いだ金で自分の意志で買う日がくるとは思いもしなかった。
しかし、その日がついにやってきた。
ぼくは昨日、生まれてはじめて赤い色の洋服を自分で択んで自分が稼いだ金で買い、自分で身に着けた。純色よりやや明度が低い赤色のTシャツである。着てみた感想は、少しも厭ではなかった。むしろ、一度袖を通してみることで更にそのシャツをぼくは気に入った。シャツのデザインはもとより、その赤い色も好きだと思う。
赤いシャツを着ることで、住んでいる世界が風景が、彩度を増したように見えた。
赤い色を、ぼくは受け容れることができた。赤色自身は、この三〇年の間に変わったことなどなかったに違いなく、ぼくを好きも嫌いもしていなかったのだろう。ぼくが一方的に嫌ったり好きになったりしているだけだ。
これほど左様に、広く大きな世界は如何にもちっぽけな自分の気持ちひとつで大きく姿を変えてしまう。それは勿論、「ぼくから見えている世界」の姿に過ぎないのだけど。
【今日の推進活動】
みんな、もっと牛乳を飲むんだ!
2006年05月02日(火) 否定はとても簡単で気持ちがいいことだけど。
たとえば、誰にも必要とされない人がいるとする。誰にも必要とされないことを自分でよく判っている人がいるとする。
その人が、望んで内臓なり皮膚なり肢体なりの移殖を受けて欠落した部分が補われたことをとてもよろこんでいる人を、移殖した部分をとても慈しみ、ドナーに心から感謝している人がいることを知ったとする。
そうして必要とされない人が、必要とされるために「自分」を捨てて「部分」になることを択ぶのは、いけないことだろうか。
「自分」というひとりの人のかたちでいても必要とされないのなら、心臓なり腎臓なり肝臓なり皮膚なり腕なり脚なり角膜なりの「部分」になって、移殖を受けて生きる人の身体の一部になって必要とされながら生きていきたいと望むのは、間違ったことだろうか。その生き方は多くの生き方のうちのひとつとして認められないだろうか。
これは飽くまで「たとえば」の話で、ぼくの傍にこんな風に考えている人がいる訳でもぼく自身が望んでいることでもないのだけれど、ぼくはこれを否定されるものではないと思った。
「誰かの一部として生きる」のも「生きる」ことに変わりはないのではないか、と。
逆のこともまた言えて、動物なり植物なりほかの生物の生命を断ってその身体の一部または全部を喰うことはただ殺すことではなく、喰った生物の生命をも生きることなのだと、ぼくは思っている。ぼくの生命はひとつでいて、数えきれない生命の集まりでもある。
ぼくの考え方が一般的であるとは自分でも思ってはいないけれど、特殊で異常で唾棄すべきものではないかどうかはぼく自身が判断できることではないし、判断することではなさそうだ。
それはともかくとして、ただ、こういうことをふと考えました、というだけのこと。
【今日の習慣】
トーストはごみ箱を抱えて食べる。
2006年05月01日(月) くる、きっとくる。
やっと暖かくなった。
冬季五輪トリノ大会が終わった三月辺りにぐんと増えた、やる気満々の俄かアスリートたちは大型連休に差し掛かるいま頃にはやはりほとんどがいなくなってしまった。
ぼくはジムトレーニー二年生になった。ただ通いはじめて二年めに入ったというだけなのだけど。トレーニング用のちょっといいウェアやダンベルグローブやリフティングベルトを購入しようか迷っているところ。
自宅とトレーニングジムを結ぶ遊歩道の桜はすっかり花を散らしてしまって、とても鮮やかな濃い緑の葉っぱを沢山付けている。
釣りに行きたいなあ。夏がくる。
【今日の衣替え】
当分靴下は履かない。