衛澤のどーでもよさげ。
2004年10月31日(日) 運動会。

毎年恒例(でもない)同級生大運動会に参加して参りました。種目は毎回の会合恒例(これはほんとう)「太鼓の達人」、テクニカルルーティン(規定競技)とフリールーティン(自由競技)を行ない、得点数の合計により順位を決定。6人参加。

テクニカルルーティンの規定曲は「ハンガリー交響曲」。「かんたんモード」でもとても忙しい譜面の曲です。この曲を叩くのはとても運動になる、ということで今年の運動会は「太鼓の達人」大会になりました。
去ること数年前は確か「ダンスダンスレボリューション」大会で、やはりとても低いレベル争いになりました。皆、体力がありません(泣)。

さてワタクシ、今大会ではテクニカルルーティンで3位、フリールーティン(ゆず「夏色」を選曲)で3位、総合3位でございました。
優勝者には賞品が出ました。

前回「太鼓の達人」大会では優勝者には「クレオパトラの湯」(温泉にある湯を吐くライオンの顔なんちゃって商品)が与えられましたが、今大会の優勝者に贈られたのはこれです。




贈られたのは、写真口許の黄色い「テープ」です。

「立入禁止」と書いてあります。裏面には「入らないでください」と書いてあります。滅多に貰えません。よろこんでよいでしょう。
でも貰った人(写真に写っている優勝者。プライバシー保護のために目線を入れております。目線が赤いのは黒で入れても芸がないなあと思ったからです)は「使い道がない」と文句を言っていました。

他所さまと我々の遊びが違うところは、今回のような大会が開かれても誰も「優勝したい」とは思わない(むしろ優勝「だけ」は避けたがる)ことです。
何故なら、例外なく碌でもないモノを押し付けられるからです。今回の賞品は比較的おとなしかったですね(素)。

2004年10月30日(土) テロリズム。

そんなに急に好転する訳もないとは思うのですが、何と一変して今日は心身の怠さもなく仕事をしておりますよ。御陰さまでそこそこ気分はよろしいです。
精神・神経系の症状って気まぐれで困りますね。

さて、そんな中にテロリズムのかほりぷんぷんのメールが届きました。
こんな感じ↓です。
「はじめまして。土屋オブジョイトイと言います。(中略)簡単なプロフを、自己紹介をします。名前は由美子ですが、友達からはオブジョイトイと呼ばれています。(中略)自分でも、オブジョイトイと名乗るようにしています。(後略)」

「オブジョイトイ」と言えば、あの「エロテロリスト」インリンさんの称号ですが、自称なさっている方がここに。
テロリストですか! 私にテロを仕掛けてどうしようと言うのですか!
無関係な意見をちょいと述べますと、私から見るとインリンさんは「エロテロリスト」というよりは「食テロリスト」ですね。エロさ加減よりつくる料理の方が殺人的だと思います。

さて、自称ジョイトイさんは何故に私にメールをよこしたかと言いますと、まあ、エロ関係です(笑)。いろんな手法で来るものですね、出会い強要メールって。やっぱりya○ooメールだし。
しかし、「土屋オブジョイトイ」は不覚にもちょっとウケてしまいました。「オブジョイトイ」より「由美子」って呼ぶ方が短いだろ。って。

2004年10月29日(金) Let's dance and BATAN Q!

寝くたばっております。

持病が出て参りましてね、床から起き上がれなかったりするのですよ。て訳で「基本的に毎日更新」の当日記も昨日一日お休みを頂きました。

この一週間、ひどく身体も精神面も調子が悪いので先週診て貰ったばかりですが、かかりつけの心療科で診て貰いに今日も行ってきました。取り敢えずは少し投薬内容を変えて様子を見てくださいとのこと。

食事を摂ろうという気にもならないし、胃が食事の仕方を忘れているような感じです。固形物を食べると胃痛に繋がりそうなそうでもなさそうな。せっかくQUOカードを貰ったからコンビニエンスストアで買いものしてきたのですが、あまりおいしく食事できませんでした。

帰宅した途端にバタンキュー。布団を広げる間もなく倒れ込んだりして。
……あ、表題の「Let's dance」には特にイミはありません。むかーしちょびっとだけヒットしたSEGA社の名作「ムーン・ウォーカー」ってゲームがこんな内容だったのです。それを流用しました。それだけ。

2004年10月27日(水) 人肌恋し。

サイト全面改装に当たり縦ルビさんを参考に縦書きページを制作。が、がんばったのにIEのみでしか「縦書き表示」されない。NNもOperaも駄目。哀しい。

睡魔猛襲。眠れないはずの私に強靱な睡魔が憑いた模様。きちんと薬を服んで予防しているつもりだけど過眠してしまっています。いまもまだ眼がしょぼしょぼして眠いです……。

おまけに肌寒いもので、余計に布団が心地よいものになってしまっているのですね。更には、肌寒いというのに私、まだ半袖シャツと半ズボンという恰好でおりますから、布団の中は天国に一番近い島っぽいですよ。
布団でなく人肌で温められたいというのは、贅沢でしょうかねえ。

2004年10月26日(火) …おかあ、さん…?

「それ、どんな御話?」と訊ねて「…おかあ、さん…?」と謎の回答を得て余計に混乱してどんな話か判らなくなってしまった「輝夜姫」(清水玲子/白泉社)全24巻を読む。

ああ、確かに「…おかあ、さん…?」というコメントが出てきてもおかしくないわ。でも、最初の方だけね。

生まれ変わりとか輪廻転生とかと、SFチックなオカルトと交錯したセクシュアリズムが程よく混乱した、女性好みの御話なんじゃないかな、と思います。しかし、一部作者のセクシュアリティに関する智識の乏しさ故、不快を感じる部分も(私には)ありました。
この漫画の読者層にはそういうことを小うるさく言う人もいないのだろうけど。

しかも、「全24巻」だと思っていたのが、実は「以下続刊」ではありませんか。どひー。でも続きが特に気にならないからいいや。

同じく白泉社の「お迎えです。」(田中メカ)が、割りとおもしろかったかな。どちらかというと、こっちのが好き。
でもいま一番めろめろ(笑)なのは「すき。だからすき」(CLAMP/角川書店)の麻生先生(眼鏡さん)。

2004年10月25日(月) やる気が少しずつ。

鬱症状とやる気の狭間で睡魔と戦うヘイゴウゴゴー♪
とか、菊池俊輔先生風のメロディを想像しながら勝手に口ずさんでみました。深いイミはありません。そのまんまで。

ワタクシ、MSNメッセンジャーのユーザなのですが、メッセンジャーでのインタビューというのをはじめて受けました。とても愉しかったです。インタビュアーの杉木さん、御世話になりました。有難うございます。

体調が曖昧なのであまり飛ばして進めないのですが、次回作もやはりGIDを扱ったものにしようかな、と決めかけています。「決めてしまえない」のは、同じ題材を扱ったものだと、連載作と(テーマや人物像が)被ってしまったりしないだろうかな、という不安から。
もっと、違う視点、違うアプローチの仕方を考えてはいるのですけどね。

「こんなの書け」という正式な契約に結びつく依頼があればそれが最優先になるのですが、この間の交渉では契約できなかったしなあ。わしくらいのぺーぺーもの書きに支払う安ーい原稿料くらいケチっちゃいけませんよ、いくらWeb公開でも。
て訳で原稿依頼は常に受付中です。

2004年10月24日(日) __○_

ぶっ倒れて寝込んでおります。

という訳で今日は何もできないし何もしておりません。
取り敢えず死んではいません生きてはいますという報告をここにて。

……やっぱり入院した方がよいのか?

2004年10月23日(土) 境界はいつも曖昧で。

昨日行ってきた県人権啓発センターのO氏はこのように仰った。

「障害者と健常者の境界って何処にあるんでしょうね」

たとえば、足が巧く動かなくて歩けない人がいるとする。
でも、この歩けない人も「車椅子」という道具をひとつ得るだけで「自分の意志で」「自分が行きたいところへ」移動できるようになる。
道路や建物に車椅子で移動しづらい段差がなくなり、移動しやすいスロープができれば他人の手を借りなくても何処へでも行けるようになる。
雇い主に当たる人が「車椅子に乗っている人にさせる仕事がない」というようなことを言わなくなれば、車椅子に乗っている人の特性を見極めて雇ってさえくれるようになれば「自分で稼ぐ」こともできるようになる。
足が動かなくても、足が動く人と同じように生活することができる。

要は、障害は「足が動かない」ことではなく、「社会での生きづらさ」なのだと、O氏は教えてくれた。
つまりは、障害者の「障害」は、健常者がつくってしまっているのではないか、と思った。

足が動かない人も、眼が見えない人も、特定地域で生まれた人も、過去に罪を負った人も、心身の性が不一致の状態で生まれてしまったぼく等も、一ト括りに「障害者」という言葉でまとめられてしまうけれど、その障害は本人にあるのではなくて社会が生み出しているのだと。
障害者と言われる人々が障害者でなくなるためには、社会が大きく変わることが必要なのだと。

判っていたつもりで実は判っていなかったのではないかということを、改めてやさしく話して頂いて、ああそうだなと納得することができた。

さて、このような話に納得できない人、というのは、どれくらいいるのだろう。まったくいないとは、思えない。

【参考】
厚生労働省のICF採択

2004年10月22日(金) しあわせなおでかけ。

定期通院日。
台風が過ぎるのを待っていたら今日になってしまいました。日にちがずれてしまってホルモン投与のペースが崩れたせいもあるのか、過日より鬱症状が強くなっておりました。

しかし。
厭なこと、しんどいこと、苦しいことというのは結構重なったりもしますが、存外よいことも重なって起こったりするのですよ。

ホルモン注射してくれた看護師さん、はじめて当たる人だったけれど、とても愛想がよかったです。これまで当たった看護師さんはどうも身体の性とは異なる性ホルモン剤の投与を望んでやってくる者に対して少なからず偏見を持っていそうなよそよそしい態度を見せていましたが、今日注射してくれた看護師さんはそんな様子も一切なく、朝一番に行ったにもかかわらずとても明るくてきぱきと親切に接してくれました。
主に過日の台風で被害がなかったかなどを話し、上手に痛くない注射をしてくれたので「痛くない注射を有難う」と言って少しよい気分になりつつ病院を後にしました。

続いて心療科へ。主治医先生と話すと随分楽になりました。何を話したかというと、主に浦沢直樹(漫画家)作品について。
先生「PLUTOはおもしろいの?」
私「手塚派の漫画家の筆頭と言われる人ですから、作品の質は間違いないですよ。通常版とは別に特装版が出ていて、それは何と原作が同梱になっています。手塚先生の原作と並べても遜色がないということでしょうね。」
先生「それはすごいですね!」
私「浦沢直樹さんと言えばYAWARAとか……。」
先生「MASTERキートンとか。」
私「そうそう! あとパイナップルARMY。ぼくはこれが一番好きです。」
先生「私はMASTERキートンが大好きなんです。全部読みましたよー。MONSTERも人気ありますよね。」
私「悉くアニメーション化されてますしね。」
先生「MONSTERの結末はとてもつらいものでしたね。いっそのこと死なせてやった方がよかったのかも……。」
などなど、延々と。
投薬内容はほとんど変化なし。ここ1年ほど概ね調子がよくて服むのを忘れて余ってしまっている分を調整して貰いました。
先生の御陰でかなり気持ちが持ち上がりました。有難うございます。

その帰路、県精神保健福祉センターと同じく県人権啓発センター、同男女共生社会推進センターに立ち寄りました。当県にはひとつもないというGID自助グループ発足のため、会合場所を貸して貰えるように要請したり、広報のためのチラシを置かせてほしいと御願いしたりのため。
精神保健福祉センターはやさしく対応してくれましたし、人権啓発センターの人は部署挙げて親身になって話を聞いてくれました。しかし、男女共生社会推進センターは課長(現場の一番偉い人)でさえ「性同一性障害」という言葉すら御存知なく、素気ないというか慇懃な態度。

同じ県庁の部署なのに、どうしてこうも対応が違うのでしょう。「男女の」つまり「性別の」垣根を取り払うのが表向きの仕事のはずの男女共生社会推進センターの態度にはがっかりしたけれど、人権啓発センターの人たちは応対が親身なだけでなく、私が書くものについても興味を持ってくださいました。て、私が営業トークに走ってしまったせいもあるのですが、厭がる風もなく聞いてくださいました。とてもうれしかったです。有難うございます。

中途で立ち寄った銀行にキャッシュカードを忘れるという大失態をやらかしましたが直ちに銀行のお姉さんが連絡をくれて、即日手許に戻ってきました。
引き取りに行った私を担当してくだすったお姉さんがまた愛想がよくて話しやすい人でここでも私は営業トークを展開。厭なカオせず聞いて貰えるってうれしいですね。お姉さん有難う。

と、これだけのことをやったら7時間掛かりました。一日仕事です。昨夜(今朝?)はほとんど眠っていないのでしんどいはずなのですが、みなさんがよくしてくだすったので、まだ元気でいます。
みなさん、ほんとうにほんとうに有難う。うれしい気分でいられるというのは、とても倖せなことです。有難いです。

2004年10月21日(木) 不信。

放電しきったかな、という状態です。入れるものを入れないと出さねばならぬものも出ない。という訳で充電のため蔵書量豊富な友人に「おもしろい本貸して」と御願いしてコンテナふたつ分ほど借りてきました。

その中の或る一作。少女漫画です。
出版社にもよりますが、少女誌掲載時には大抵「4分の1スペース」というのが取られます。
少年誌掲載作にはほとんどありませんので少女漫画を読むことのない方は御存知ないことかと思いますが、少女誌掲載紙の割付(ページの割り振り)によってはその出版社の広告を掲載するために1ページの縦4分の1を空白として予め空けておかなければないのです。
で、単行本収録の際にはそこには広告は載りませんので、作者自身がコラムなどなどを書く訳です。

読んだ中の或る一作の或る一冊の或る4分の1スペースには、制作の裏話のようなものが書かれていました。その一節。
「私はキャラクターを好きになることがないので……」
それが眼に触れた途端、読む気が失せました。信用できなくなったからです。

作品制作のスタンスなんて作者によって違うものですし私のような半端者が有名商業誌で御活躍の作家さんの姿勢についてとやかく言えるものではありません。
でもまったく読者の立場で考えてみたとしても。
私はその作家さんが信用できなくなったのです。

自分が生み出したキャラクタを好きにならないとは、どういうことなのでしょう。自分が産んだ或るいは育てた子供を愛せない親がその子供から、子供の周囲にいる人から、社会から、信用され得るでしょうか。
少なくとも私は、自分を愛してくれない親を、また自分を愛してくれない周囲の人を愛したり信用することはできません。

私個人の資質なのかもしれません。けれどもどうあっても私は自分が生み出したキャラクタを愛せない作家さんを好きにはなれませんし、その作品をも好きにはなれません。
とても、とても寂しい気持ちになってしまって、その本を手離した後は何もできませんでした。

その本と一緒に借りてきた「すき。だからすき」(CLAMP/角川書店)は、とっても「ほわわん」とした気持ちになれて愉しかったのですけどね。連載期間が充分に取れなかったのか未消化の部分もありますが、そういう部分も含めて私はこの作品が好きです。
麻生先生みたいな人、実際に身近にいたら苦手だろうけど、作中人物としては大好きです(ニヤ)。

CLAMPさんのキャラクタがそれぞれに活きているのは、やはり作者の愛があるからなのだと思います。公式サイトにはキャラクタの誕生日も掲載されています。ここに愛が見えるでしょう?

「時代や流行に媚び過ぎ」だとか「手法があざとい」だとか、いろいろと揶揄されることも多い作家集団ですが、私は、企画・制作・プロデュース等々を自作への責任を持って一貫してやってしまう、「作家」という括りにとらわれない彼女等の作品がその姿勢とともにやはり好きです。

2004年10月20日(水) 御役御免。

手を掛けていた我が子等がそろそろ私の手を離れてゆきます。

彼等はこれから自分の意志でいいことも悪いことも経験してゆくでしょう。彼等のこれからに私は必要ではありません。

そういう訳で、もう自分は要らないかなあ、と思っています。

2004年10月19日(火) 移転など。

2005年1月1日に当サイトは移転致します。
「…の予定」ではなく、決定事項です。ただいまの閲覧頂いていますURLには何も置かなくなるか、スペースを空けて別のものに流用するか、どちらかになります。

このまま移転する訳でなく、模様替えもします。基本は「シンプルに」。コンテンツを減らします。何かと「忙しい」とかいう言い訳の許に管理しなくなってもきていますので、管理の手間が少なくなるように単純なサイトにします。
「なくす」ことは考えないのです。「世界中」という大きな視点から見ればなきが如しの僅かな数の人でも毎日訪れてくださる方がおりますので、細々とでも続けていきます。

それどころか、携帯版もつくっちゃおうかなー、とか夢見がちなオトシゴロですよ(?)。丁度1年くらい前にも似たようなことを言っていたような記憶がある方もおられるかもしれませんが、それは気のせいです。

さて、携帯版など拵えてみたところで閲覧にやってきてくださる方はおられるのでしょうか。携帯端末のメディアネットワークは侮れない、などといま更のように考えていますので、ここはひとつ案を練り込んでみようかと考えていますが賛成の方は挙手願います。私に見えるように。


【今日の素朴な疑問】
肉まんに芥子を付けるようになったのはいつからですか。

2004年10月18日(月) どろどろ。

御仕事一段落。
ちょっとゆとりの時間など取ってみたいと忙しくしているときにはずっと思っていましたが、いざそれができるようになると今度は「こんなにゆとりがあると不安だ」と思うようになってしまいました。
「忙しい、休みたい」と文句を言いながらでも忙しくしている方がいいのかな、などとも思ってみたり。

この1年間に手掛けたものはどれもできるだけ単純になるように書いてきたので、今度は複雑にどろどろしたものを書きたいな、とか考えています。
読んでいてしんどいのだけど途中でやめることもできなくて、しかも読了後には「生きてるのが厭だ」と思ってしまうような、そんな陰惨さが身近に感じられるような、凄絶なものを。
……て、こういう分野のものを手掛けたことはまだないのですけどね。

ただいま執筆の契約が交渉の段階にあるものが1件。これが成立しても「どろどろ」はおそらく書けないでしょうけどね。私に向いているのか向いていないのかもまだ判りませんし。
取り敢えずはまた三人称の練習をした方がいいかな、と考えています。この1年間に書いたものの大半が一人称だったので書き方を忘れているかもしれません(苦笑)。

2004年10月17日(日) しやわせ。

Oisixさん有難う!

先日、Oisixさんから荷物が届きました。
「☆秋の香りい〜っぱいの国産“きのこづくし”セット☆」です。
プレゼント企画に応募して当選しました。タダで旬のきのこと「ひとめぼれ」2kgを入手したのです。

今日、早速きのこ御飯にして食してみました。
……美味……!
旨いこと甚だしい! ていっ! と、何故だかちょっと怒ってみたくなるくらいおいしかったです。流石「おいしっくす」さんです。

アワビタケとかカキノキダケとか、めずらしいきのこにも出会えました。マイタケやマッシュルームも炊き込んでみるとおいしいです。私、シイタケはルックスが苦手(笑)なのですが、抵抗なく頂きました。
ビバ秋の味覚!

きのこもまだ残っているし、ひとめぼれもたっぷりありますから、明日はホイル焼きかバター焼きにして白御飯と一緒に食べてみます。
ああ有難い有難い旨いものが喰えるなんて有難いことこの上ないです。

2004年10月16日(土) 誘っても無駄だぜベイベー。

とうとう見知らぬ人にも「大将」と呼び掛けられるようになりました。「社長」はまだ経験がありません。

そんな大将の許には続々とおバカさんメールが届いておりますよ。全文紹介しておりますと大変な長文になりまして、疲れるわ馬鹿馬鹿しいわでどうしようもなくなりますので、今回は件名のみを御紹介です。

「明日から出勤するね☆」
「スカウトメール着信のお知らせ【LOVEサーチ.】」
「包茎だと聞いたのでメールしました。。」
「初めまして☆あみです。。」
「★★期間限定★特別公開★★」
「貴方様に20万円までならすぐにでも振込みます。」
「お一人三名の逆援助女性無料紹介」
「大人のパーティー開催の為男性様超優遇」
「最新 AV 流出 DVD が1万円(裏)」
「貴方様の整理番号は115です。決定しました。」
「【完全無料】女の子のPRを載せてます。欲求不満オンリーの即会い型出会いコミュニティー」
「☆探偵・調査☆現在の連絡先調べます」
「無料の[暗証番号]」
「金メダリスト達」
「切り札」

何を思ったか後生大事に保存していたおバカさんメール件名17件。
この何れもが一例の洩れもなくアダルトサイトの勧誘だったというのがスゴイでしょ。「金メダリスト達」とか「切り札」なんて「何だ何だ?」って気になりますよね。要は「当サイトは出会いの金メダリストで溢れています」とか「出会いの切り札はやはりココ」とかその類いのものなのですが。

「包茎だと聞いたので…」って誰に聞いたんだ(笑)。おれのナニを見たことがある奴なんてこの世にひとりとしていないんだぞ。おれでさえ見たことないんだから(笑)。
「貴方様に20万円…」は金融関係ではなく「私とえっちしてくれるなら20万円お支払いしますわうっふん」というメールでした。
件名に堂々と「(裏)」って書くのもすごイな。
「決定しました。」って、勝手に決定しないでください。

と、まあ、飽きもせず懲りもせず続々とやってくる出会いを強要しようとするメール達はやっぱりどれもこれもがya○ooフリーメール。これ、何とかしないと企業イメージもアレでナニだと思いますよ孫さん。

2004年10月15日(金) 自惚れて。

一部で有名になった「カンドーもの」の作品をやっと拝読。
その読後感。
「作品としてこれもありなのだろうけど、わしの書くものの方が切り口が鋭いですヨ」
と、ちょっと自惚れておきます。

この作品をお読みの方が更に拙作を読んでくだされば趣きの違いや問題点の何処が問題なのかとか、そういうものに気付いて頂けるものと確信に近い推測。
作者が「取材をした非当事者」と「取材をした当事者」という違いがある時点で、問題提起の仕方、提起する問題そのものが違っていることがお判りになれるものと思います。

つー訳で、例の漫画を読んで「もっと理解したい」とか「カンドーした」とか「泣いた」とか仰る方が身近におられましたら更に拙作をおすすめ頂ければ有難いな、とWebの片隅で地道な宣伝活動。

あーそうそう。
手前味噌になりますが、私の作品集「道草」に収録の或る短編をお読み頂いた方から「号泣した」という御感想を頂きました。
未読の方にはどの作品のどの辺りでどのように泣けるのかを探って頂きたく思います。ふふふ。

2004年10月14日(木) そんな時期ですか。

矢野徹さんが亡くなった。
矢野先生は、一度も直接お会いしたことはありませんが、私の恩師です。矢野先生がおられなかったら私は「Wizardry」という高品質なコンピュータRPGに触れることもなかったでしょうし、R・ブラッドベリやR・A・ハインラインの名作に触れることもなかったでしょう。

還暦を迎えてからパソコンをさわりはじめるという冒険をして、その冒険記を通してコンピュータRPGの愉しさを教えてくださいました。また、アメリカSFと我が国との橋渡しをしてくださり、自らも物語を紡ぎ私たちを愉しませてくださいました。

おつかれさまでございました。
生前はとてもとてもお忙しかったようでしたから、いま暫くはごゆっくりお休みください。

2004年10月13日(水) 貢がれた?

例月より遅くなりましたが告知です。
私の連載小説を掲載して頂いていますデジタルノベル「Silence revolution」10月号が、去る10月10日に発売されました。月刊のデジタルメディアとしては大変安価な価格設定となっております上に、拙作はともかくとして、他作は非常に高品質なものばかりです。ぜひどうぞ。

更に、同じ版元から私の個人作品集「道草」も発売して頂いております。こちらのCD版と「Silence revolution」CD版を同時購入して頂きますと、何と送料がおトクになるという特典付き。更には「Silence revolution」掲載の連載作がそれのみ読むよりもおもしろくなる(かもしれない)ちょっとした仕掛け込み。
この日記をお読みになったのは、それは運命ですね。直ちに購入手続きをどうぞ。

さて、ここからが本文です。
今朝まで仕事をしていまして、ちょっと寝て、昼少し前に起きて買いものに出掛けました。ここで大前提を示しておかなければならないのですが、ワタクシ、マンションにひとり住まいです。きちんと施錠して出掛けました。

必要な買いものをして帰ってくると、マンションの前に家電屋さんのトラックが停まっていました。どうやら私の御近所さんがちょっと大きな買いものをなすった御様子。何処の御宅かな〜などと考えつつ自宅に向かうと、何と扉が開け放たれているではありませんか。
ケーサツの手入れかと思いました(何故)。

そう言えば、合い鍵がほしいと言われて、渡した相手がいます。その女性が室内にいました。家電屋さんと一緒に。扉を開けて直ぐの台所に、我が家にはなかった電子レンジを設置してくれていました。
「ああ、オニイサン帰ってきたよ」と引けめも何もなく手招きする彼女に招き入れられて、一緒に家電屋さんによる電子レンジ使用方法の説明を聞きました。

何でも、実家の家電製品を幾つか新調したときに「これだけ沢山買いものをするのだからオマケしてよね」と電子レンジを購入品にくっつけて更に「勉強」して貰ったのだそうな。彼女は「サービスで置いていくから使ってよね〜」と言い残して帰っていきました。
タダで高価な電化製品を入手してしまいました。

ほんとうに自分は貰いもの人生を過ごしているなと思いました。いろんなものをタダで貰って何もお返しもせずに生きています。やらずぶったくりです。

と、ちょっと思わせぶりに書いてみましたが、合い鍵を持っている女性とは私の実母です(がっくり)。私の生活が不規則で「いつ寝ていていつ起きているか判らないから差し入れに言っても扉が施錠されていて無駄足になることが多くて厭だ。合い鍵をくれ」と言われて渡してあったのですね。

それにしても。
記念日でも祝いごとがあった訳でもないのにこんなに高価なものを貰ってしまってよいのだろうか、と些かならず不安にもなるのですが、例によって「出世払いでよい」というようなことを言われました。
しかし、「出世払い」というのは「出世すること」が大前提となる訳で。

……善処します。

2004年10月12日(火) それぞれの役割。

長い間「書く役割」にこだわってきました。
意識してそうしていた訳ではなく、無為に。「読む立場」を想像でしか判らないでいる時間を長く過ごしてしまいました。
そのせいか、勘違いをしていることが多々あります。

「書き手は読み手がすべてを判ることができるように、完全に自分の伝えたいことが読み手に伝わるように書かなければならない」
初心者にありがちな「間違い」です。書き手として伝えたいことが読み手に充分に伝わらないのは書き手自身の仕事(つまり書き方)が悪いからだ、という短絡的な考え。これは、間違い。

「そこ」に書かれているものごとを間違いなく余すことなく読み取るのは、読み手の仕事。それは勿論、「読み取れるように」書いてあるものからしかできないことだけれど、きちんとしたもの書きが書いたものなら少なくともそれくらいの仕掛けはしてあるもの。「何が書いてあるかよく判らない」というのは、読み手の読み取り能力の欠如でしかない。

或るひとつの作品を、長い時間を空けて読んでみると、そのときどきで少しずつ解釈が変わるのは、つまりそういうことなのでしょう。長い年月を経て少しずつ読み取り能力が充実してゆく。だから解釈が変わって深くなるのでしょう。

というようなことを、久し振りに純粋に「読み手」になってみて改めて思いました。
「書き手」は「書き手の役割」を、「読み手」は「読み手の役割」を、それぞれに果たしていればそれで充分、ということ。「書き手の意図とは違う解釈」は決して「間違った解釈」と等号では結ばれ得ないものなのだということを、常々考えるまではしなくとも、忘れ去るようなことがないようにはした方がよいな、と思います。

そげなことを考えつつ、次回作の構想を練り練りしています。
草案だけは沢山あって、中には連載のために中途で筆を止めてしまっているもの(既に草案ではない)もあります。うっかりすっかり忘れてしまっていたのですが、或る1本などは500枚(予定)のうちの300枚近く書いています。
それも含めて次回作の候補となるのですが、現在書いているものと同じ題材を取ってもっと掘り下げたものを書くか、まったく違う題材を取って分野を広げてみるかを、少し迷ったりもしています。

2004年10月11日(月) うれしいようなそうでもないような。

TVシリーズ「ブラックジャック」が今日から放送開始です。初回放送時間拡大版を見てみましたよ。

TVシリーズということで制作期間や放送時間などの制約があるので仕方がないのかもしれませんが、手術の腕を矜る外科医の物語を描くのに術野を見せないのは何ごとかと思いました。原作ではきちんと描いてくれているのにね。似非医療モノ、という印象がついてしまうのではないかと心配。

ブラックジャック先生が手術道具を用意したり術衣に着替えたりする場面が、まるで変身ヒーローのよう。それがよいとか厭だとか言いませんが、ちょっと笑いました。

脚本の仕方に疑問。
まるでラジオドラマのような脚本だと思いました。と、こんなことを言ってしまうとラジオドラマの脚本を書いている方に失礼でしょうか。
状況描写も心理描写もすべて「台詞」で「説明」してしまうとはどういうことですか。せっかくアニメーションなのに、せっかく「絵」が「映像」があるのにどうしてそれで描写しないのですか。
という疑問が大量発生。今後に期待。

ブラックジャック先生が「いい医者」として描かれているのが、何だかなあ。「正義の医者」っぽくて、何だか厭だ。ほんっとーに「個人的な」意見なのですけどね。ブラックジャック先生は「悪徳医者」として描かれていないと手法としてそれは間違いではないか、なんてことも考えたりします。
細かい不満を言うと、ブラックジャック先生の「岬の家」が何となく裕福な感じ(リビング家具だとかアンティーク風御洒落電話だとかがあったり)もアレだな、と。

ほんとーにどーでもよさげなのだけれどこれだけは許し難いと思ったコトを言わせて頂くと、ブラックジャック先生の「両眼が一度に」見えてはいけないと思うの。どんなアングルを取っても、ね。両方の眼が一度に見えてしまっては、あの髪型の意味を成さないと思うのですよ。

で。
これだけ文句を連ねましたが、作品としてダメかというと決してそんなことはありません。作画も初回だからという理由を考慮から外してみると充分な質だったと思いましたし、「手塚オールスターシステム」を捨てることなくTVシリーズに導入したのはよい判断だと思います。和登サンのキャラクタが上手に組み込まれていましたしね。

OVAシリーズからずっとヴォイスキャストは変わっていないようです。ブラックジャック先生は大塚明夫さん、ピノコは水谷優子さん。
水谷優子さんはいろいろとヒロイン役をこなしてきた方ですが、ピノコは「窮極の」ヒロインですよね。水谷さん以外には考え難い配役だと思います。
ブラックジャック先生の声でスポンサーが読み上げられるのを聞いてときめいてしまった私はとことんヲ(以下省略)

取り敢えずは来週も見ます。
できれば長寿番組になってほしいな、と(いまのところ)思っています。

2004年10月10日(日) 見てくれではなく。

「見ためではなく中身」という「きれいごと」を嫌う人は割りと多く存在するようです。でも私はきれいごとは必要なのだと思うのですよ。きれいごとを言わなくなったら理想を求めることをしなくなってしまって、そうするとそのうち「理想」そのものがなくなってしまうのではないかと危惧します。
理想がなくなったら理想に近付くこともそのための努力をすることもなくなってしまいますからね。
ということで、「きれいごとは必要」と大決定。

それはともかく、「やっぱり見ためは大事」という意見をまったく否定する訳ではありませんが、すべてが「見ためではない」というきれいごとを唱える派です、私は。
そしてそのきれいごとが真実の一部を担う事実を体現していたことを体験しました。と、ここまで判りづらい文を書ける自分に感心。

ちょっと所用で出掛けなければならなくなりまして、その所用は無事に済んだのですが、帰りがけに出来心で(!)土産物屋に立ち寄ったのです。
その土産物屋では土産物に似つかわしくないものも販売されていました。かたちの揃わない野菜だとか熟していま直ぐにでも食べなければ身が崩れてしまいそうな果物だとか。

その中に、小粒のじゃがいもがありました。1kgくらいがナイロン袋に入って100円でした。
丁度じゃがいもが食べたいと思っていたし100円で沢山買えるので味がそれほどでもなくても構わないから、と購入して帰りました。このじゃがいもは塩ゆでにしてバターをつけて食べる予定にしていました。所謂「じゃがバタ」ですね。

かたちも悪いし大きさもまちまちで、「商品」にはならないようなものが安値で投げ売りされていたのだと思います。でも、このじゃがいもはとてもおいしかったのです。バターなどつけなくても塩ゆでの塩味だけで充分に御馳走と呼べるくらいに。

おそらくは、同じくらいにおいしくて、かつかたちのよいもの、見栄えのするものは、スーパーなどでもっと高値で売られているのでしょうね。けれども、じゃがいもは「食べもの」として売られているのだから最も重要な要素は「味」ではないでしょうか。
それなのに「味」以外の部分で評価されてしまって真価を見て貰えない「不揃いの」じゃがいもは不遇だな、と思いました。

私はおいしいものがとても安価に沢山入手できたのでうれしかったし有難かったのですけどね。

2004年10月09日(土) 好きこそ。

ちょっと前の話ですが、関西ローカル情報番組の1コーナー「何集まってはりますのん?」(共通語で言うと「どうして集まっておられるのですか?」)でこのようなサークルが紹介されているのを見ました。

いいなあ。
いいなあ、こういうの。御手軽で、でもとっても大切で有用。
簡単なものにもちょっとした発想と工夫を付け加えると、豪華で高級なものに匹敵するものにもなる。ぼくは実際に豪華で高級なものよりも、こういう豪華で高級「ぽく」なるチープなものの方が大好きです。

そして何より素敵なのは、こちらのサイトさんに集まっているみなさんが、ほんとうに「100スキ好き」で、一銭にもならないことに一生懸命になって愉しいことを考え出しているということ。
やっぱり「不要不急のもの」に一生懸命になれる「余裕」とか「ゆとり」とか、そういうものは必要なのだと思います。

ちょっと100円ショップへ走った後に直ちに入会しようかという気持ちにもなりましたが(笑)、うっかり足を突っ込むとスキ道一辺倒になってしまいそうなので、控えています。
でも100スキは近いうちに入手する所存であります。

2004年10月08日(金) 最強は母なり。

私が生きる世界にいる「動いてまわる生物」の中で最も強いのは「母親」なのだろうなあ、と改めて考えました。

よくよく考えると、「母親」になるにはいろいろの条件をクリアしなければなりませんね。ただ「女性に生まれる」だけでは駄目なのですよね。女性に生まれても悲しきかな、MTFの女性には母親になることは難しい。レスビアンの女性にも母親になることを望んでいる人はいるのかもしれないけれど、これもちょっと難しそうだ。
ストレート(ヘテロセクシュアル)の純女さんに生まれたとしても、そしてその人が望んでいたとしても、必ず母親になれるとは限りませんしね。
ま、これは人間の場合。

いろいろクリアしてやっとひとつの生命を生み出す、または育てることが、或るいはその両方ができた「母親」という存在や生命はとても強くて偉大なのだな、と感じます。「豊饒の神」だとか「大地の神」だとかが大抵の神話で「女神」であるのは、つまりこういうことなのかな、とか。「母なる大地」とか「母なる大河」ってよく聞くけれど「父なる○○」ってあまりありませんものね。「母なる」の対句として「父なる」が使われることはありますが。
大本になるものはだいたいみんな「母親」です。「母国」だとか「母船」だとか「母校」だとか。

母が最強。そして次に強いのはおそらく「おばちゃん」じゃないかな、なんてことも思ってみたりしています。
おばちゃんはコワいですよ。おばちゃんが100人ほどいたらゴジラとも戦えるのではないかと(半分本気)。地球の平和を守るのは変身ヒーローでも軍隊でもなくておばちゃんの団体かもしれない。

2004年10月07日(木) 悪人相。

久方振りに散髪して貰いに行きました。
馴染みの理髪店に見慣れない理髪師さんがいました。
散髪自体は「いつもの」理髪師さんがやってくれましたが、髭剃りをその「見慣れない」理髪師さんがやってくれました。

髭剃りの理髪師さんは何だかおっかなびっくりで、私の方が何だか怖いなあと思っていたのですが、理髪師さんは理髪師さんで、私を怖がっていた様子でした。
平日の真っ昼間に作務衣姿で現れる裾5厘(0.5枚)のスポーツ刈りさんは、「ヤ」の付く自由業に従事している人に見えたらしいです。

そんなにガラ悪いですか、私。

2004年10月06日(水) 満たされないままで。

満足してはいけないな、と思います。満たされてはいけないと。

飢えている方がよいのですよ。飢えている方が「どうすれば満たされるのか」と常に考えるから。「満たされたらどんなにか倖せだろう」と想像することができるから。
実はほんとうに満たされたときよりも「満たされたら……」と考えているときの方が倖せなんじゃないだろうか、なんて思います。

空腹のときは「あんなもの喰いたいなあ」とか「腹一杯食べられたらなあ」とか考えますが、満腹になっちゃうと「思う」ことすらしなくなるでしょう。丁度、こんな感じかな。

何かを生み出そうとするなら満足しない状態を維持しないといけない。何かが欠けたままでぼくは生きていくべきなのかな、と、そんなことを考えました。

2004年10月05日(火) 風を切り進んでゆこう。

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ほんとに、これからは、
「自分の力量以下のことを、全力をつくしてやる」
という人生にしていこうと思います。
それこそが、きっと
自分の力以上のことができる方法だと、
つくづく思いました。

「自分の力量以下」というコトバは、
誤解を招きやすいと思うんですけれど、
これを言うためには、まず、
「自分の力量」をジャッジできないといけない。
しかも、その「自分の力量」内のことを、
「全力をつくして」飽きずにやり続けるんだから、
これはもう、できないことなんかなくなると思うよ。
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とあるところでこのような文章を見つけました。
その通りだと納得も得心もしました。
主観・客観両面から先ず自分というものを見つめ直して「できることをできる限りに」やっていこうと、いつまでも悔恨に捕われていてはいけないと、思い直しました。

少林寺拳法の開祖、初代宗道臣管長が遺された「修行の心得」のひとつにも「数をかけること」というのがあります。
「人10度なら我100度、人100度なら我1000度、数をかけて繰り返し修練せよ。地道な努力こそが凡人を非凡に変える唯一の方法である」と。

若くして世界一の記録を築き上げたイチロー選手も
「ほんとうに優れた野球選手になりたいなら、宿題をきちんとやってほしい」
との言葉を野球ファンの子供に対して贈っています。

やっぱり「基本を習熟すること」と「努力」と「忍耐」は必要なのですよ。
「何か」を積み重ねて新しい自分をつくろう。
今日の自分はきっと、昨日の自分とも明日の自分とも違う。

2004年10月04日(月) 過ち。

「あれ?」
「……あれ?」
とは、思ってはいたのですよ、ぼく自身も。
これは不味いな、と。

そもそも何が不味かったかと言うと、一番最初に引いた図面、設計図が間違っていたのですよ。その図をもとにいろいろやったから、そのいろいろまで間違ってしまった。もう取り返しがつかない。

やっぱり批判は必要ですよ。徹底的に反対意見を出してくれる人というのは必要です。ぼくのこの問題に関しては徹底的に反対してくれる人がいなかった。ぼくの意見が無理も道理も引っ込めて通ってしまった。……これはいけないでしょう。

結果、間違った設計図でも何とかなるんだ、という「勘違い」が生まれてしまった訳です。いや、ぼくが悪いんです。この書き方だと他人さまのせいにしているように読めるけれど、徹底的に反対意見を出す人というのは、自分自身でも構わなかったのですから。

生命を懸けてやってきたのにな。
生命を懸けたことで失敗をしたのにまだ生きている。
何て不公平なんでしょうね、この世は。

2004年10月03日(日) 助けてください!

ぐずついた天気が何とか晴れたので洗濯をしたですよ。選択ではないですよ洗濯ですよ。
全自動洗濯機(と、わざわざ「全自動」と書くところが年寄り)に汚れものと洗剤を入れてスイッチオン!ですよ。

もう寿命が近いのか、最近は「洗濯終わりましたよ」とブザーを鳴らしてくれることもしなくなったウチの洗濯機くん。動かなくなったから「洗濯終わったかな」と近寄ったら再起動(笑)したりします。そろそろ暇をやった方がいいのかな、とは思いますが、代替機が手に入らない(つまり新しく買う金がない)ので「まだ動くし」と言い訳しながら使っています。

そんなこんなで「不調だなー」と思いながらも洗濯をしていた今日。いつものようにスイッチ入れて洗濯機を動かして、数十分の後。
機械音ではなさそうな音が洗濯機から聞こえますよ!

何ですか! 何の音ですか! もしかして危険ですか!

慌てて近寄ろうとしましたが、傍に寄った途端に「ボン!」とか煙吐きそうな気もしてちょっと躊躇して「助けてください!」とか大沢たかおさんの声で自分の中心で叫んでみました(苦笑)

2004年10月02日(土) 中心は何処だったのですか。

かなり以前に姉が購入して「あーあ」とか言っていた本を借りました。「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一/小学館)。また「ぽこん」と時間ができてしまったので読んでみました。
そうかー、泣く話なのかー、と劇場版公開時に思っていたのですけどね。

4時間ほど掛けて読了。
第一声「何処で泣けばよかったですか?」
あーいや、「この辺かな?」と思ったところはあったのですけどね、泣きそうにはならなかったのですよ。こういう所謂「恋愛小説」って、私の肌には合わないのかもしれませんね。夢見る乙女のみなさんには号泣ものなのかもしれません。
あと、どの辺が「世界の中心」だったのかも教えて頂きたい(悩)

思ったのは、「興行的に成功だったのかもしれないけれど作品として失敗となってしまって片山さん(作者)は気の毒だな」ということです。
このハーラン・エリスンの短編集に酷似した表題は、片山さん御自身が付けた表題を却下して編集側が付けた表題だったらしいです。この作品にこの表題は間違ってはいないかな、と私などは思いました。

このような結果になって片山さんは残念だったのではないかな、と書く立場で考えてみるとそんな気がします。
……ぼくは朔太郎には共感できなかったなあ。申し訳ないけど。

2004年10月01日(金) ふと思った。

「あの人、みっともないね」
簡単に言うあんたの方が余ッ程みっともないよ、と思っているぼくこそがみっともないよな、と思っている人がきっと何処かにいるのだろうな。
なんてことをよく晴れた空の下を歩いているときに思ったりしました。

「みっともない」なんて人の主観でしかないのだから、ほかの人が思っている「みっともない」を気にする必要なんて何処にもないのにね。


エンピツユニオン


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