日々是迷々之記
目次


2007年04月14日(土) 仕事の向き不向き

今月から新しい派遣先に行っている。契約書上の職務は、「翻訳、通訳」でそれに付随する業務とある。この仕事に就いてから2週間、翻訳も通訳もしていない。「それに付随する業務」オンリーな日々だ。

金曜日はひどかった。クレームで来たお客さんを迎える準備で終わった。まず部屋にエアコンを入れ、お茶を出し、昼ご飯の準備をして、食後のコーヒーを入れ、タクシーを呼んで…思いっきり気を遣ってアホみたいな気持ちになった。

だいたいこの昼食が馬鹿げている。3000円のにぎり寿司「松」とお吸い物が寿司屋から届く。吸い物はポットに入っていて、お椀に具が入っている。そのお椀にお出汁を注ぎ、饗するのだが、これまためんどくさいルールがいっぱいだ。まず、上座からお寿司を置き、その横にお椀を置く。お椀の柄がお客の方を向くように置かなければならない。置くときは左手に乗せ、右手は添える。次にお茶を出すのだが、これまた茶碗の柄を意識しなければならない。そして箸。割り箸の袋の開いているほうをどっちか右だか左だかにそろえる。それが8人前もあるのだ。

それを一人で出すのは大変だった。給湯室から寿司桶を運び、並べて、今度は大きなお盆でお吸い物を運び出し、並べるのだが、私は熱い物があんまり持てないので辛かった。そしたら次はお茶。気がつくともう昼休みだ。45分しかないので急いで食べていると、お茶が足りないから持って来てほしいとのこと。急須にお茶を作って持って行く。すると、早々に食べ終わった人が、コーヒーが飲みたいと言い出す。

いったいこれは何なんだろうか。会社は食事をする場所ではないし、他人の世話がいるような食事など、会社で取るべきではないのでないだろうか。8人のうち、来客は1名というのも訳がわからない。何で7名もこっちから出席するのだ。しかも松の寿司なんか食べる必要があるのだろうか。

私に仕事を引き継ぎしている女性から駄目出しをくらった。お盆は両手で持たずに、片手で持ち、右手で饗するほうがいいらしい。あと、灰皿は入り用かどうか聞かなくてはならないとのこと。ビル自体が禁煙で、吸う人は外で吸っているので、聞くまでもなく禁煙だと思ったら、クレームで来ているお客さんと、社長のお客さんは別とのこと。あほらしい、と思うのは間違っているだろうか。

あと、コーヒーが濃いとのこと。インスタントを入れるのだが、ティースプーンに軽く一杯でいいとのことだった。その入れ方だと濃い麦茶みたいになるのだが、おじいさんばっかりだとそんなもんらしい。

それから、食後にまんじゅうとお土産用のお菓子詰め合わせを買いに行かされた。戻って来たら洗い物の山だった。それを洗い終えると社長がタバコの灰を捨てに来て、「あんた家どっから通ってんの?」と話しかけられた。わたしは「あんた」と呼ばれるのが嫌いだ。

まあ、こんな小間使いみたいなことをやって、通訳や翻訳の仕事と同じ給料をもらっているのだから、楽なものだと思うべきなんだろうが、どうもいまいち納得できない。

…というようなことをだんなさんに言ったら、「まあ、向いてないんちゃう?人の世話とか。」とのこと。後、誰かと協力して何かをやるとか、グループワークのたぐいはあかんやろとのことだった。そんなもんかもしれないなあと思う。通信簿にも協調性がないみたいなことをずっと書かれていたし、集団登校の途中で失踪したり、親とデパートに行っても勝手に帰ったりしてたし。

その理由は全部、「つまんないから。」だった。なんか、やらなきゃいけないことは全部つまらない気がする。学校、仕事、親とつきあうことなど。一人で遊んだりするのは楽しいのだけれど。

うーん、仕事楽だけど、アホみたいやなあ。


2007年04月13日(金) 趣味の夜

最近は本を読む時間もでき、精神的にかなり安定している。早起きは相変わらずしんどいが、「○○しなければならない。」と考える事をやめるように心がけているので、「だめならだめ」ということで割り切るようにしている。すると日々はかなり楽だ。

早く眠らなければならないが、遊びたいときは遊ぼう。というのが最近のモットー。遊ぶといっても私の夜遊びは「オタクな時間」なのであるが。

今週はカブの整備と包丁研ぎに精を出した。車庫はあるが、電灯はないので、日没後の整備はキャンプ用のランタンを吊るして、ヘッドランプを頭に点灯させてやる。今回はチェーン引きとテールのバルブ交換。でもまあ、暗いとやりにくかった。どうにかして車庫に電灯をつけたいものだ。

包丁研ぎはたまにやりたくなる。

私が普段使用しているのはヘンケルスの果物ナイフ、堺包丁の小さめの万能包丁、スノーピークというアウトドアブランドの小出刃である。堺包丁は鋼で、その他はステンレスだ。

中くらいの砥石と仕上げ用の目の細かい砥石に水を含ませ、しゃかしゃかと研ぐ午前1時。研げたと思うと何か切りたくなって、大根のきれっぱしをさらに刻み、なぜかみそ汁を作る。そして気がつくと、4時間くらいしか睡眠時間がなくなっている。

春になったら、朝顔を植えて、庭で家庭菜園をやって、バイクの方はサーキットの練習会に参加して…などと考えているが、それだけの時間があるんだろうか。人生は長いようで短いのかもしれない。


2007年04月06日(金) 先週読んだ本

久しぶりだが、思うところあってこっちの日記も書くことにした。まず、最近読んだ本のことから。

「フロン 結婚生活・19の絶対法則」(岡田斗司夫著)
http://www.amazon.co.jp/ フロン?結婚生活・19の絶対法則-岡田-斗司夫/dp/4907727194


今まで読んだ家庭論の中で、一番現実を見据えているな、と感じた本。私は結婚しているのだが、「何だかおかしいな。」と思ったことがこの本ではうまく説明されていた。

この本で提案されている、夫婦別居状態を家人の単身赴任という形で経験したものとしては、旧来の結婚体系(同じ家に住み、形だけでもだんなは一家の大黒柱)はあまり合理的でないことが経験上わかっている。

「運命のひと」「この人しかいない」、そういった幻想が人生を生きにくいものにしている。この本に書かれたように、生まれたときから選択の自由があった世代の人たちには、日本古来の結婚生活は何でがまんばっかりしないといけないの?ってなるのは事実だ。今日はごはんは重たいから、朝はヨーグルトを食べよう、と思うのと同等に、今日は残業してしんどいから、だんなとの会話はさっと切り上げて寝ちゃおうと思うのは普通なんではないだろうか。

それよりもお互い余裕のあるときに、会って会話や食事を楽しむ方がいいというのは前向きな選択であるという意見には賛成だ。

ただ、現実として、別居すれば2世帯分の維持費が必要であり、妊娠、出産をしようとすると、フルタイムの収入を継続することが難しく、なおかつ男性側に「父親としての経済的任務を遂行する意志」がしっかりと備わってないと、大変なことになってしまう。

乱暴な意見かもしれないが、男性は女性ほどに物を深く考えてないと思う。女性は子供の頃から夢を見たり、夢に破れて途方に暮れてみたりを繰り返しておばさんになってきているのだ。

一方男性は、あまりにもその場のことしか考えてない傾向にあると思う。例えば子供がおらず、両親のいない私にとって、老後どう生きるかというのは今から考えるべきことなのだが、家人は楽なものである。年齢差、性差を考えると先に旅立つのは家人の方で、一人になることを考える必要もなく、ただ毎日仕事と趣味のことばかり考えて生きている。

それが結婚生活の現実なのだ。「ともに幸せな家庭を作り上げて行こうね♪」というのは幻想であり、子供の頃から個性を尊重され、自分らしく生きることをよしとされてきた世代には、あくまで結婚後も個人であり続けるのだ。

これがいいとも悪いとも思わない。ただ、現実を見ないで幻想だけにすがり続けるのはそれはそれで大変だと思うのだ。


nao-zo |MAIL

My追加