日々是迷々之記
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2005年04月29日(金) 人生いろいろ

と、今日は思った。実家を引き払う準備ができたので、大家さんのところに鍵と賃貸契約書を持ってゆき、色々と話しているうちにそう感じた。

保証金のうち、いくらかが返ってくるのだが、それを2回の分割払いにしてほしいと言われたのだ。大家さんは私が小学生のころから知っている人なので、よほど何か理由があってのことだと思い、快く了解した。すると、大家さんは話し始めた。

母親の住んでいた部屋の真下に妹の同級生の一家が住む家族が住んでいた。お父さんは寿司職人だったように思う。男3人兄弟だったので5人であの2DKに住んでいたのだ。寿司屋を営んでいたお父さんはお店が潰れ、雇われ職人としてアルバイトをして家族を支えていた。

ところが、私が結婚して家を出たころ、奥さんがくも膜下出血で急死、サラ金各社に借金があることが判明。その一家は家賃を溜めて夜逃げ同然でいなくなってしまったようだった。

大家さんにとってそれは金銭的に痛いだろう。だが、大家さんは話を続けた。

「そこの空いた部屋にね、おたくのお母さんが話を持ってきてくれて、是非住みたいって言ってくれはってね…。」

おいおい、何かしたんじゃないやろなーと嫌な予感がする。こういうときに何か話持ってきて、一丁がみするのはうちの母親にありがちな行動だ。

「すぐ住みたいけど、和室を洋室に換えて欲しいと言われてね、替えたんよ。そしたら、やっぱ辞めた、と言いはってなぁ。ごっついお金かけたのに…。おたくのお母さんも、あんな人やとは思わへんかったわって言うてはったけどな…。」

結局うちの母親が紹介した人が変な人で、和室を洋室に改築して損したということのようだった。…。私だったら、先に金をもらっておくけれど、大家さんは基本的に善人なので、そういう考えには及ばなかったのだろう。

そうですか、それはなんぎですね…。と言い私は保証金分割払いを受け入れその場を去った。

サラ金、くも膜下出血で急死、夜逃げ、嘘つき、なんか暗い話ばかりである。私の人生には幸運にもそう言ったキーワードは今のところ関係して来ないが、これから先は分からない。人生いろいろなのだ…。私は自分にそう言い聞かせながら家に帰った。


2005年04月28日(木) 不作法な体質

明日からゴールデンウィークなので、今日で仕事は終わりだった。いつものように黙々とやるべきことをこなし、昼食は送別会で、小さなフレンチレストランへ行った。会社の交際費として処理されるようだ。その時、同じ歳の上司の女性から、帰る前にみんなに挨拶に回らんとあかんで、と言われた。

うーん、これが何とも苦手なんである。うちの事務所は100人弱の人たちが2つのフロアに別れて仕事をしている。そこに、ウスラ笑いを浮かべながら近づいて行き、「へへへ、短い間でしたけど、お世話になりました。えへへへへ。」みたいな挨拶を個人個人にする。今まで辞めていった人たちはみんなやっていたけれど、私はそういう儀礼的なのが苦手だ。

ということでメールで済ませることにした。わたくし事で、仕事の手を止めさせてまで、ご挨拶を差し上げるのは本意でないので…。と書いて送信したところ、一瞬で15人くらいの人から返信を頂いた。…、うーんなんだか私は不作法者ではないかい?これだけの人が気遣ってくれているのに、へへへと笑いながらトンズラしようとしているわけである。私は背中に脂汗をかきながら、やっぱり挨拶にまわった。小一時間かかったが。

みんな基本的に良い人たちばかりなんである。のどあめをあげたことを感謝してくれている人や、ファックスの使い方をアドバイスしたことを覚えていて感謝してくれる人もいる。いわゆる悪役である一番上の上司ですら、今日はがんばれと言わなかった。昨日まで「刺したろか。」というほど憎たらしかったが、何だか自分が恥ずかしい。

何かこう、わたしは引きずりやすい性格のようだ。誰かが何の気なしに言った一言をしつこく覚えている。そして憎悪したり、必要以上に喜んだりしている。これがいいことなのか悪いことなのかはよく分からないが、子供っぽいような気がする。

明日からは無職だ。写真の整理に家の整理、ホームページの更新というか作り直しにバイクツーリング。やることがいっぱいでわくわくする。まぁ、そのうちのいくつがちゃんとできるのかは不明だけれど。


2005年04月27日(水) 惜しまれながら去ってゆく

明日で仕事も終わりである。昨日の晩、結局3時までかかったが、全員の似顔絵を描いたカードを作った。これがまた喜んでもらえ、うれしかった。ポラロイド写真風に処理した桜の写真部分をデスクに飾ってくれている人もいる。

別のフロアに用事があって、書類を持ってゆくと、階段の踊り場で同じ派遣会社から来ている女子に声をかけられた。急に辞めるのがどうしても気になっていたらしい。私は、いつものように母親が倒れ、その関係で多忙な日々が続いており、居眠りやため息を咎められることが多々あり、上司の方から母親の方に専念したらどうかと勧められたからと答えた。

で、お給料はどうなんですかと聞かれた。うーん、いい質問である。契約自体は5月末まであるので、派遣先からの一方的な解雇なら働かなくても5月分の給料はもらえる。が、今回はどちらかといえばこちらに非があるので、まぁ無給やねん、と答えた。

すると彼女は、「えー、それっておかしくないですか?そんなん、しょうがないじゃないですか。」若いなぁ。私も普通にそう思うけど、それを口に出すのははばかられる。何も親が倒れたら皆がうつになるわけでも、睡眠薬や精神安定剤を必要とするわけでもないからだ。結局は自分の中の何か弱い部分が、親の突然の半身不随という引き金によって引かれたに過ぎない。

生きてゆくというのはこういうことなんだと最近思う。楽しいことばかりをつないで、いつも笑ってはいられない。暗くてはじっこのつかめないくらい大きな毛布を頭の上からかぶせられて、もがいている。そんなもがいている時間も自分の人生の一部だと認めなければならない。

もうすぐ4月が終わる。大阪では自転車に乗るのに一番心地よく感じる季節だ。しかし私は一度も自転車通勤できずに、この季節を終えようとしている。実家を引き払うのを決意してから、終業後に埃にまみれて実家の整理。家と会社と実家はそれぞれ離れているので自転車で行き来する気にはなれなかった。

季節は人を待たない。また来年って言いながらどっかへ行ってしまうのだ。


2005年04月26日(火) 似顔絵はむずかしい

さて、この会社で働くのもあと2日。ということで、今日はいつも一緒にランチを食べている面々に招かれ、近所のイタリアンレストランでパスタを食べた。昼休みは45分しかないので超特急である。

招かれたので、お金は払わないでよかった。一年ちょっと、楽しいランチタイムを過ごしたお礼を兼ねて、カードを渡すことにした。「サンキューカード」である。

帰り道にロフトに寄って、紺色の厚紙でできたカードと中に挟む白い紙、クラフト紙の封筒を購入。カードの表には桜の写真をポラロイド写真風にプリントアウトしたものを貼り付けた。中の紙には挨拶と似顔絵を描くことにした。

これが難しいんである。描くだけなら簡単で、それなりに似ている。が、似ていればいいってもんじゃなく、もらった本人が気に入ってもらわないとだめなんである。藤子先生の「まんが道」にも同じようなことが書いてあったが、まったくそのとおりで、いくら似ているからといって、目立つ部分を強調したような似顔絵はもらった人が嫌がる傾向にあると思う。

実際私も、鼻が丸くて眉毛が薄く、髪の毛は常時膨張している訳だが、そんなものをリアルに描いてもらっても嬉しくない。かといって、美人の絵をもらっても困ってしまう。似顔絵のそのへんのさじ加減が難しいのだ。

2時までかかって3人分描いたが、肩が凝ってきた。これから先が難しい。みんなおかっぱ風のヘアスタイルで、二人はメガネをかけている。これを的確に描きわけるのが難しい。(最初に描いた3人は、ショートヘア、ソバージュ風ロング、ストレートのセミロングと、髪型が分かりやすいのだ。)

マンガで髪型は重要である。あだち充先生のマンガはみんな顔が似ているが、髪型が微妙に違う。横分けだったり、ぼさついていたりしていて微妙な差がでているのだ。

しかしまぁ、そんな画力もないわけで、だんだん眠くなってきたし、挨拶と適当なイラスト(シンプソンズとか、あさりちゃんとか、パタリロとか見なくても描けるやつ。)でも描いてお茶を濁してしまおうかと思いだした。高校の卒業文集には全員の顔イラストを描いたはずだが、よくあんな40何人ぶんも描けたものだ。

ということでどないしようか悩んでいる。しかし眠い。


2005年04月25日(月) 流されるのも人生

先週の火曜日はあるメーリングリストの飲み会だった。そこで指摘されて気が付いたのだが、最近、この日記は母親とのことばっかりであったようだ。よく考えればそーだよなってことで、まだ日記に書いてないけど起こったことについていくつか書き記そうと思う。

3月下旬に相方が大阪の家に戻ってきた。愛知県に2年ほど行っていたのだが、次の仕事は大阪になったのだ。恐ろしいことにレンタカーで2トントラックを借りて、満載の荷物とともにやってきた。ということで、我が家は段ボールハウスと化し、ドロボーが入っても何が取られたかわからないと言い切れる主婦としては恥ずかしい状況にある。

その後、4月に入ってすぐ、バイクが納車された。ホンダのVTR250。数年ぶりにバイク復活、しかも初めてのロードバイクである。納車した次の週にバイクショップ主催の夜のラーメンツーリングで奈良県に行き、彩華ラーメンを食べ、その翌週にはまたもやバイクショップ主催の温泉ツーリングで和歌山の二の丸温泉に行った。ということで納車3週間で600キロほど走った。すでに一回立ちごけしているのは秘密である。

まぁ、こんな感じで人生はいろいろとある。楽しいこともあれば、しょうがないこと、やらなきゃいけないからやってるだけのこと、そのどれもが全部自分の人生のパーツなのだ。

週末、やっとのことで実家の物の廃棄、掃除を終え、あとは契約書と鍵を持って大家さんのところへ行くだけとなった。片づいた、と思う反面、本人の意志を無視してやったことに対するひっかかかりがあるようで、今朝は悪夢でうなされた。母親が奇跡の復活を遂げ、勝手に物を捨てて、アパートを引き払った私を罵倒するのである。「あたしなんか死ねばいいと思ってるんでしょ!」そんなことを夢の中で言っていた。

んなこと言われたって…と思う反面、どっかでさっさと消えて欲しいと思っているのだろうか。寝起きに吐いてしまった。吐いてしまったので会社は休むことにする。会社で吐いたらみっともないからだ。睡眠薬を飲み直し、12時まで寝る。今度はすんなり眠れた。

銀行に母親名義の預金を下ろしにゆく。これが1時間くらいかかった。まず、キャッシュカードを作っていないので、はんこと通帳を持って窓口へ。本人ですか?と聞かれたので違うと答える。どういうご関係ですか?ときかれるので、親子ですと答える。それを証明する物はありますかと聞かれる。

親子関係を示す書類って何があるんだろうと思う。父親の戸籍を取り寄せれば、母親と結婚して長女として私が産まれたことは書いてあるだろう。それ以外には思いつかない。そんな物は当然ないので、母親の保険証、私の免許証を出す。それでも渋い顔をしているので、母親の入院している病院の看護婦詰め所に電話をかけて、母親が入院していることを確認してもらうことにした。

で、病院に電話をしたら、「お答えできません。」とのことだった。個人の情報を守るための法律があるので、外部からのそういう質問には答えられないというようなことのようだ。でもこの場合は困る。私は半分キレかけで、「構わないので入院していると言ってください。ここで出金できないと、今後、病院の支払いはできません。母親が入院していることの証明が必要なんです。」と言った。すると婦長は、私の氏名、生年月日、住所、電話番号を言わせた。本人確認のつもりなのだろう。私は声を聞けば婦長だって分かるが、向こうにはそれほどわからないのだろう。

そんなこんなでどうにかお金をおろすことができた。なんでこんなことでテンション上げて、キレかけたりしなければならないのだろう。「銀行が本人でないと出金できないと言っているので、入院代は払えません。ごめんね。」そう言ってしまうことができればいいのだろうが、そう言えないのが現実である。

どーっと疲れた。生きていくことは、わたしのようなへたれ者にとっては時としてそれだけでめんどくさいシロモノになってしまう。明日こそは会社に行かねば。


2005年04月19日(火) さよなら会社

いつものように出社すると、パソコンにぽろぽろとメールが来る。「辞めちゃうんですね。」「知らなかったです。」「We will miss you.」そうかわたしはやはり辞めるのかと、気が付いた。

何でも、今、「なおぞうさんは今月いっぱいで辞めます。」みたいな回覧が社内を回っているらしい。で、当然の流れとして、「何で辞めるの?」と聞かれる。ある程度正直に、そして適切な量のオブラートをかまして私は答えた。

「実は実家の母が、脳梗塞で倒れて寝たきりなんですよ。で、入院してるんですが、容態が急変すると病院に呼び出されたりして、ちょっと疲れが溜まったりして。夜中に呼ばれて朝まで付き添いとかも何度かあって、仕事中に居眠りしたり、ため息ついたりしてたみたいでそれが、全体の志気に悪影響を及ぼすから、今は母親のことに専念したらどうかと○○さんに提案されましてね。」

こんな感じだ。志気もへったくれもあるかよ、ファック・ユー!単に気に入らないだけなんやろ?という気もするが、まあ別にどうでもいいので、惜しんでくれる同僚達にはこんな感じで答えておいた。中には私が落ち込んでいることを察して、家に招待してくれる人もいたりして、何だか申し訳ない気持ちだ。

あと一週間。実家の片づけと、自分の気持ちの整理。大人になるのは大変なことだ。って33歳が言うなよなっていう気もするが。


2005年04月18日(月) 金の話でオラオラオラ!

前の日記から10日が経過していた。そして2万アクセスを越えていたことに気づきました。ひまつぶしに来ていただいた皆様、ありがとうございます。

で、毎日何をしていたかというと実家の片づけ。これに尽きる。たった二間のぼろマンションだが、出るわ出るわどーでもいいもの達。廊下の物置からは私が過去に投稿したマンガの原稿まで出てきた。

今読んでみると、面白い。批評欄に、「物語は読ませるものがあるが、絵柄がいわゆる少女漫画っぽくないのが問題。」と書かれている。今の少女漫画は多様化しているが、当時は少女漫画、少年漫画、青年マンガはきちんと別れていた。(ような気がする。)

これは捨てずに家に持って帰ることにした。

週末には関東から妹が来て掃除を手伝ってくれ、久しぶりに開放感を味わった。そして、リサイクルショップを呼び、金目のものを引き取ってもらった。

着物が10着で3000円というのは安いのか高いのかわからない。毛皮(ブルーフォックス)は引き取ってもらえず。が、電子ジャー、25インチのテレビ、トースターはそれぞれ1000円で引き取られて行った。

本当はキャビネットとタンスとコタツ、ミシンなんかも持っていって欲しかったが古すぎてダメだった。ので、最後の手段、廃品回収業者に頼むことにした。早速見積もりに来てもらうと、この部屋の一切合切を引き取るのに18万円だそうな。

18万円で引き取ってくれるといっても私が18万円もらうのではない。18万円出すのである。正直高いと思い、あと2ヶ月余計に家賃を払って、全てをのこぎりかなんかで切り刻んで普通ゴミに出そうかと考えた。でも、そんな根性もないので18万円でお願いすることにした。

それが今週末の土曜日の午前中である。昼からは別の業者にハウスクリーニングを依頼した。2DKなので3万円らしい。今度は逆に安すぎる気がするが、3万円というのだからそれでお願いした。ちなみに、壁や天井が20年間堆積したタバコのヤニとホコリでただれたように模様が付いている。こんなのもきれいにしてもらえるのだろうか。

ともかく今週末、合計21万円を払って実家はこの世から、そして私の気持ちの中からなくなる。そしてとりあえずの次なる敵は、田舎の家の固定資産税か。祖母が亡くなったときに母親が相続し、今は賃貸で貸している。今日、請求書が来たが、自動車税よりも高い。これって払わなかったらどーなるんだろうと、めんどくさがりの私は思ったが、まあ払うのが筋なんだろう。

そんなこんなで毎日、金の心配やら何やらで生きていることすらめんどくさい。会社では不完全燃焼、実家ではゴミとほこりにまみれ、家に帰ると気力もなく、適当に食事をして眠る。

ゴールデンウィークは何かぱぁ〜っと行きたいものである。


2005年04月08日(金) 母親というやつは

毎日3時になると、帰っていいですよ、と声をかけられる。私は仕事が中途半端でも帰る。それが好意的なのか、それとも戦力外通告なのかは微妙である。多分後者かな、と神経症気味の私は思ってしまう。

まず接骨院へ行く。2月に妙高のスキーで痛めた肩の筋が痛む。思ったより深刻なようで触ったら、エンピツくらいのごりごりとした感触がある。今日はうつぶせ寝による寝違いもあって、体ごとふりむくような情けないさまであった。

それから実家へ。今日のターゲットはタンスと押し入れである。片っ端からゴミ袋に放りこめばいいや!と思っていたが、現実はそうも行かなかった。ああ、これは一緒にカナダ旅行へ行ったときに買ったトレーナーやなぁ、とか、このカーディガンもう10年くらい着てるちゃうかと思うと、なかなかゴミ袋に突っ込めない。

あと手編みのニット類。母親は編み物の先生をしていたことがある。その手の雑誌に名前入りで作品が載ったこともあるし、私も学生時代、ニットといえば親の編んだものと決まっていた。彼女自身、ニットは自分で編んだ物をいつも身につけていた。私が3歳くらい。雪の残る小さな裏庭で母親が洗濯物を干しながら、私と遊んでいる写真があるのだが、そのときに着ているセーターもあった。

さすがにそれをゴミ袋に突っ込むことはできなかった。私にも少しは情けがあったみたいだ。とりあえずヘタレ切った下着類、パンスト、ぼろぼろのタオルなどをゴミとして袋に入れた。ニット類はとりあえず別に分けておいた。

私が明日死んだらどうなるのだろうと一瞬思った。マックとか、自転車、テント、寝袋、マンガ、小説、そしてこの日記などネットの中の私の世界。それらは主人を失い、ぼろ下着のようにゴミになってしまうのだろうか。悲しいけれど、そうなるだろう。きっとそれが死んでしまうということだ。

タンスの引き出しからなつかしい物が出てきた。私が幼稚園児くらいのときに、九州の田舎で着ていたキャミソールとワンピースのあいのこみたいな服である。それを着て、下に半ズボンをはいていた記憶がある。それらは母親の手作りで、胸のギャザーの所は手縫いであった。薄い水色に、車輪がピンクと黄色の白い車が並んだその柄がとても気に入っていた。25年経った今見てもやっぱり可愛らしい。これも捨てることができない。

こんなものを狭い2DKに住んでるくせにわざわざとっておく、母親の気持ちがわからない。嘘つきで隠し事も多く、小金にせこい自己中心的な母親のくせに。

わたしにはあの人がどういう人なのか未だに理解できずにいる。わたしが母親になればわかるのだろうか。


2005年04月06日(水) 強敵は冷蔵庫

月曜日、火曜日と会社から実家へ直行。掃除の任務をこなす。ゴミ袋(大)一日5袋のノルマはあれよあれよという間にこなされてゆく。冷蔵庫の中身だけで3袋達成。相変わらず賞味期限切れが多い。倒れたのは12月なのに、賞味期限が9月の納豆っていいのだろうか?

野菜室に魔物は住んでいた。ごぼうはまさしく根っこ!という感じでひからびていて不潔感は無いが、緑色の浴用スポンジが、と思いつかんだら、カビきった半切りかぼちゃだったのには泣けた。指食い込んでるっちゅーねん。

うつろな目で手を洗い、冷蔵庫の中の物を全部出し終わったことを確認すると、電源を落とすことにした。電源は冷蔵庫の後ろを通っていたと思う。両手で冷蔵庫をつかみ、ずりっと引きずり出そうとすると右肩に痛みが…。しかし冷蔵庫はもっと引っ張り出さないといけない。うごごっ!と渾身の力を込めて5センチくらい前に引っ張り出すことに成功。そして無事電源を落とす。

帰りはまだ食べられる、捨てるに忍びない食べ物をもらって帰ることにした。中華三昧とかシーチキンの缶詰とかである。一人暮らしなのになんで7個もシーチキンがあるんだろう、と思いつつ。

病院に寄って、紙おむつを置いて帰るともう8時前だった。「あなた、その病気ほっとくと大変なことになりますよ。」というビートたけしのナレーションを聞きながら、持って帰ってきたラーメンを食べる。ちょっとメールに返事を書いたりしているうちにもう12時だ。急いで風呂に入り、洗濯をし、干す。右肩が痛い。くそ、冷蔵庫め…と思いながら床についたのはもう2時だった。

目覚めたら首から肩にかけてどわんと重い。手も上がらない。ので素直に休むことにした。午前休とかで無理して出勤しても、イヤミを言われるのが関の山だからだ。

さあ、掃除でもしよっと(自分の家の)。


2005年04月01日(金) 泣ける掃除

といっても、感傷の涙ではない。リアルににじむ涙。臭い、やりたくない、なんで自分がやらなきゃいけないのだぁといういやいや感の末の涙。実家を引き払うための作業の初日である今日は、そんな感じだった。

会社は4時に上がらせてもらう。それから実家に直行。そして片づけ。ドアを開けた瞬間、けものの匂いがした。なんでだろうと思ってふところころ車のついたキャビネットの下からはみ出た物体に目をやる。粘着式のねずみ取りにねずみがくっついている。もちろんお亡くなりになっており、ご丁寧に他の虫が集まって、一生懸命分解にとりかかっているではないか。

私は新聞をばさっと乗せ、キャビネットの下から引きずり出す。見ないようにしていたが、長いしっぽがでろりんとはみ出ていた。○△◇!!!よくわからない心の叫びを上げつつ、黒いポリ袋に入れることに成功した。他の古新聞を突っ込んで廊下に出す。

ふっと思わずため息が出る。

片づけた物はとりあえず、ねずみと古新聞の一部のみである。なのにこの疲れはなんだ。涙までにじんでるではないか。まだ外が明るいのがせめてもの救いか。

次に食器棚を開けて、調味料などの食料品を捨てる。賞味期限が1900年代のものがごろごろ出てくる。小さな虫がわいているものもある。がしゃがしゃと捨てまくる。みのもんたの影響だかなんだか知らないが、大量のシナモンがあったのが謎。それに謎の健康食品のタブレット。みんな黒いポリ袋に入れる。二袋目が一杯だ。

その次はリサイクル用にストックしていたと思われる物体を捨てる。ミネラルウォーターのペットボトルに、牛乳パック、ばんばん捨てる。ふう、これで三袋目が一杯になった。

ふと玄関のたたきに目をやると靴が目に付く。私が高校生の時に体育の時間に履いていた靴である。こんなんどこに履いていっとったんや!と思うと頭がくらくらする。下駄箱を開けると、出るわ出るわ、私が昔に履いていた靴たち。全てちぎれたりなんかしてぼろぼろである。何でこんなものを取ってあるのだ。私は無言でゴミ袋に突っ込む。母親自身の靴もあるが、安物のふにゃふにゃの合成皮革のダサ靴ばかりである。

何だか泣けてくるのはこういうものを見たときだ。60過ぎてぼろ靴の女、ってどうなんだろう。どっかの問屋で買ったようないまいちイケてない、品質もアレなものばかりが、大事そうにしまわれている。私は今年で33歳。初めてビルケンシュトックの靴を買った。高いなぁと正直思うが、履きやすさ、質感、そして「あ、それってビルケンシュトックですよね。」と言われることの、分かりやすいステイタス感。全てがその価格には含まれているのだ。

そうやっていろんなことを考えながら4袋のゴミ袋を一杯にしたところで初日は終わりにした。それ以上やる気力もないし、胸がいっぱいで手は真っ黒だ。

夕焼けの中家路を急ぐ。カブで走りながら、悲しいんだか、嫌なんだか、訳の分からない気持ちで一杯だった。これが一ヶ月続く。2,3日前から口の中に小さな膿の溜まったはれ物が出来ているのだが、これは気持ちと関係あるのだろうか。そんなことを考えていると、一気に日は沈み、家に着いた。

リミットは30日。わたしは頑張るのだろう。


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