日々是迷々之記
目次


2005年03月30日(水) 実家をひきはらう決心。仕事を辞める決意。

4月一杯で実家のアパートをひきはらうことにした。賃貸の小さな二間のアパート。ここで私と妹と母は20年ほど暮らした。

今はみんなでわいわい暮らしていた頃の面影はなく、前も書いたが一人暮らしの老人が後ろ向きに老後をやり過ごす場所に成り下がっている。春になってもそこだけは冬のまま時間が止まった感じだ。

物はほとんど捨てる。茶碗も下着も。金銭的価値のありそうな物はリサイクルショップに引き取ってもらうかもしれない。母親の嫁入り道具であった、タンスや鏡台もさほど質の良い物でなかったようで、表面に貼った小綺麗な薄板が剥がれたり、反れたりしている。粗大ゴミになってゆくだろう。

4月一杯は会社を1時間早く上がらせてもらって、片づけをすることにした。上司はしぶしぶ承諾したが、その舌も乾かぬうちに派遣の契約を更新しないと告げてきた。理由があるにせよ、午前休みや10時出勤が多いと志気が乱れるとか何とかそういう理由で。ついでに月曜日の午前中に内科へ行ったことも気に入らないと言われた。月曜日なのに、ということらしい。忙しいのは分かるが、私も声が出ないほど喉が腫れ、咳が止まらずに苦しかったのだ。バイクにも自転車にも乗る気力もなく、一年間勤めて初めて地下鉄で会社へ行ったほど、しんどかったのだ。

それすらも気に入らないと言われれば私にはどうする術もない。これもまた人生なのだ。

しかしこのオッサン上司の気に入らないのはそこではない。最後に「あなたもそんな病気持ってたら、働くとこ見つけるの大変でしょう。がんばってください。ああ、そういう病気の人にがんばれっていう言葉を使ってはいけないんでしたね…。」と、救いのないことを言うのだ。本人は慰めかなんかのつもりなんだろうが。

辞める日に刺そうかな、と一瞬思った。が、思いとどまる。その日の晩読んだ中島らも氏の追悼本に「その両手は好きな人を抱きしめるためにあるのだ。」という一節があったからだ。そんな手は大事にしなければいけない。

後は消化試合。ベストを尽くすのみだ。本当に暖かくなる頃、身の回りはちょっとはすっきりしているだろう。


2005年03月27日(日) お寺さん見聞録

「一心寺に行くけど行く?」というお誘いのメールをもらったので、昼過ぎにカブで出かけた。一心寺というのは大阪では有名な「庶民のお寺」で「一心寺さん」とか「あっこのお寺さんで」など親しみを込めて呼ばれているお寺である。

そこは、遺骨を粉にして10年分くらい集め、それで大きな仏さん(お骨仏)を作り、それをみんなでお参りするシステムがある。一般的には先祖代々の墓に入るのだろうが、色んな事情で先祖代々のお墓に入らないことを選んだ人たちが集まっているのだ。

その友人のおばあちゃんも田舎のお墓には入らなかった。誰も尋ねてこない田舎のお墓よりも、いつもわいわいと参拝者で活気づいた一心寺さんのほうを選んだのだ。

友人はろうそくとお線香を買い、ろうそくに火をともし、お線香に火をつける。ここでは他のろうそくから火をもらったり、線香を息で吹き消したりしてはいけないと知る。常識なようだが私は知らなかった。でも、友人は普通に教えてくれたのでほっとした。何かお寺で物を尋ねると外国人にでもなった気分だ。

多分、私の母親が亡くなったらここに入れることにするだろう。田舎にも墓があるが、母親はそれを売り飛ばそうとしていたらしいので、田舎のお寺関係の人たちから、とんでもないヤツだと思われているらしい。(大恥)そこにお骨を持っていくのもなんである。

お彼岸はもう終わったのに、沢山の人がお参りに来ていて、参道もにぎわい、ハトがばたばた飛んでいる。こんなにぎやかなところで最後を過ごすのも悪くないというか、病院で寝てるよりいいんじゃないの?と思うのは、私が鬼なんだろうか?

「一心寺」http://www.isshinji.or.jp/


2005年03月26日(土) ダメ主婦寝たきりの一日

朝起きたら寒かった。風もつよく、街路樹がごうごう揺れている。ネットの天気予報で「晴天 16度」の予想を見ていたので、激しく落胆する。が、洗濯をして適当に片づけをする。本当ならば春の日差しの中「山辺の道」(奈良県桜井市〜天理市あたりの歴史的散策道)にでも行ってこようと思っていたのに。気分がだるいと体もだるくなるから不思議だ。

洗濯物を干して、空気を入れ換えしていたら、風邪っぽい。喉が痛くて微熱がある。風邪薬を飲もうかと思ったが何も食べていない。アウトドア料理の本に載っていた「海苔もちチーズめんたい」を作ってみた。その名の通り、フライパンでもちを焼き、柔らかくなったところでめんたいこを適量塗り、その上にスライスチーズを多めに載せ、それを大きな海苔でくるんで食べるというシロモノだ。予想以上にうまい。それと自分で焙じたほうじ茶でひといき。焙じたといっても、緑の番茶を買ってきて、耐熱皿に広げ、トースターで軽く焼くだけである。でも、買ったほうじ茶より香りがフレッシュでうまい。

抗うつ剤とパブロンを飲んで布団に入る。先日実家の物置から出してきた昔のマンガを読みながらうつらうつら。松苗あけみの絵はいつ見ても楽しい気持ちになれる。細くてふわっとした線で、これも描きたい、あれも描きたいって感じでいろんなものが楽しげに書き込まれている。好きで描いていますというのがよくわかる。

次に読んだのはくらもちふさこの「東京のカサノバ」もうむちゃくちゃどきどきする。主役である17歳のターコに異常なまでに感情移入。血のつながらない20歳カメラマンの兄であるちぃちゃんとの恋愛物なのだが、恋愛と言っても何もない。まぁキスするくらいだもんで。小さなやりとりが愛しさの証のように感じられる。ちぃちゃんのバイクが初期型のVTなのが時代を感じる。でも、くらもちふさこの描く男性はほんまかっこいいなぁ。

というようなことを考えていたら寝てしまった。起きたら夜の8時。多分2時頃寝たので、普通の日の睡眠サイクルを12時間ずらしたかんじだ。

空腹なので作り置きの豚軟骨のとろぷる煮と煮卵、冷や奴をしょうがを効かせて食べる。ふーっ。再び薬を飲んでから、友人達のウェブ日記を読む。

私の世代だと半分くらいは結婚していて、その半分くらいは子供がいる。子供のいる人のバイタリティーはすごい。節分の豆まき、卒園式で号泣、毎日が全身で感じるドラマのようだ。それにひきかえ、わたしの人生はどろーんとしている。まさに流れない煮こごりのような感じか。

私に子供がいたらどうなんだろ…と考えると実に現実味がない。自転車の二人乗りが出来ないので、この下町で暮らすのは大変そうだ。カブに乗せればいいのかもしれないが、ちゃんとつかまってくれるのか心配だ。一番困りそうなのは思想的なものかもしれない。なんであかんの?と聞かれたら、私は答えられないことが多そうだ。例えば、遅刻とか。

そんなことを考えてたらまた眠くなってきた。風邪薬は眠くなるようにできているのだろう。さて、今度は通信販売のカタログでも見ながら寝るとしよう。


2005年03月24日(木) 友達は偉大すぎて

3月15日は誕生日だった。それに伴い、色んな人から色んな物を贈られた。

海外に住む友人は向こうのアウトドア雑誌を数冊、東京に住む友人は今一番気に入っているものを贈りあう仲なので、本とキッチン用品を数点。そして、妹と彼氏からはiPod Shuffle。

どれもどきどきするものばかりだった。添えられていたカードに並ぶ言葉は暖かくて、まるで学生の頃に戻ったような気すらする。

「あん時は悩みなんかなかったなぁ。」と本当に思う。朝起きられないとか、水飲んでも太るとか、それなりに悩んではいたものの、今の暗澹とした気持ちと比べれば屁のようなもんだと感じてしまう。

そして私はその友人達に誰一人として返事が書けていない。迷うのだ。文体を、どこまで伝えるのか、そして余計と心配をかけてはしまわないだろうかと。

先日会った妹には顔がやつれていると暗に言われた。そういえばほっぺたを親指と人差し指で作った丸の中に納めて、「タコヤキ!」っていう一発芸みたいなのができなくなっている。(というか、普通の人は「タコヤキ!」なんてできるほど肉がないのかもしれないが。)

まいど〜。プレゼントどーもですぅ!みたいないつものお気楽のんきなノリで行けばいいのかな…と、便せんを前に今も悩んでいる。


2005年03月23日(水) 吸い込まれるように日常は

連休明け、しかも大雨ということで、かなり気分が沈んでいる。会社はもの凄く忙しく、淡々とした上司が鬼に見える。単に慣れているだけなんだろうけども。

携帯電話が鳴る。マナーモードなのでぶるる、ぶるるとふるえるのだが。出てみると、母親の入院している病院の集中治療室からだった。ついに!と思ったがそんなこともなく、「○○さんという方がお見舞いをしたいと言って来られてるんですが。」と言われた。

で、それがどうしたん?と思ったが、集中治療室は親族以外原則見舞いが出来ないのだ。それで私に確認を取りに来たのだろう。名前くらいは聞いたことある人だったのではぁどうぞと答えたが、これから誰かが見舞いに行くたんびに携帯に電話がかかってくるのだろうか。ひぇー!!

ついでに今日も朝から大雨。だが、区役所に行って書類にはんこをもらわなくてはいけない。高額医療費を免除してもらう書類で、月一回行かなければならないのだ。今日行くのは3月の分。はんこをもらうだけやからと思い、会社に電話をして10時半ごろの出社になりそうですと連絡した。

が、これが読みを外す。役所は混んでるし、役所のおっちゃんの動きは遅いし、大雨で道が川みたいに流れてるしで、11時を過ぎてしまった。うまくすれば、はんこをもらったその足で病院に行き、入院費用を払うつもりだったのに。役所だけで11時を過ぎてしまったんである。

会社に行くと同じ歳の上司に怒られた。「10時半ていうからそれで段取りを組んでいる。もし、10時半が無理ならもう一度その時点で連絡をしなさい。」とのことだった。ごもっともである。私が基本的に会社にいるときは会社のこと、役所のことをやってるときはそのことと、それだけしか考えないタイプの人間だからこの手の軋轢は良くある。社会人としても家庭人としても失格だなぁとこんな時はよく思う。

でも、それを埋め合わせるのは仕事して見せるしかないのだ。マシンの如く手を動かし、お茶もたくさん入るサーモスのボトルに入れて仕事に集中する。肩が凝るがこれしかわたしにできることはない。

夕方トイレに行った。鏡に映る自分の姿を見て唖然とした。白髪がしょぼしょぼ見えて、地肌から2センチほどが黒くなった、髪の毛。そういえば美容院に行ったのはいつだろう。瞼の二重が五重くらいになっている。口角の皮が乾燥して白くなっている。そういえばリップクリームすら塗っていない。

こういうのが、「にこやかさが足りない」という評価の中に入っているのだろう。見ている人は見ているし、横を通るだけで感じるものもあるだろう。

今のままでは私はだめだと感じた。でも、どうやって、何をどうすれば、にこやかで陽気なころの自分に戻れるのだろう。それとも時間はこのまま進んでゆくのだろうか。何かを探さなくては。もっと自分を持ち上げるための何かを。


2005年03月20日(日) 生き抜くことのせつなさを

金曜日の朝5時過ぎに携帯電話が鳴った。嫌な予感とともに電話に出ると、案の定母親が入院している病院からだった。自発呼吸が止まって、鼻から肺へ管を通して酸素を送り込んでいる状態なので、親族の方に集まって頂きたい、とのことだった。

まだ亡くなったわけではないが、ぼちぼちですよ、みたいな意味なんだろう。私は、奈良に住む母親の妹さんと、茨城県に暮らす私の妹に連絡した。それから着替えてカブで病院に駆けつける。

まだ夜が明けきらない街は空いていて、真冬の寒さだった。病院に着くと、母親は全身がむくみ、血圧は80以下(高血圧なのでいつもは190とかである)、酸素を送り込む機械の拍子に合わせて胸が盛り上がり、へこむ。

酸素を送り込む機械に命を握られている。今、停電になったり、地震が来たり、この機械が不意に故障したら間違いなくこの人は死ぬだろう。それでも生きていることになるのだから、不思議だ。

最後の瞬間を見守るために私は呼ばれたんだろうと、傍らに腰掛け見守る。時折機械から警告音が鳴る。自発呼吸をして、それとタイミングが合わないと鳴るようだった。30分に一度くらいは呼吸しようとしているようだった。

8時ごろ主治医の先生が来た。容態を聞くと、先週末から肺炎にかかっており、今はかなりこじらせている状態だそうである。ついでに、腎臓の機能が低下してきているので、肺に水がたまっているらしい。余談を許さない状態で、今から集中治療室に移すつもりだとのことだった。

9時過ぎに奈良から妹さんが駆けつけてくれた。昨日も見舞いに来てくれていたようで、昨日は、声を出したりしていたのに…と言っていた。私は入れ替わりで会社に行くことにした。同僚が引っ越しをするので有給休暇を取っていて、とても休める日ではなかったのだ。人非人だろうか?

会社に行き、遅れた事情を話すと、帰ってもいいと言われたが、仕事は机にこんもりと盛ってある。とりあえず午後休を頂いて、無言で仕事を片づける。午前中、一度も席を立たなかった。

茨城の妹から連絡があり、今日のお昼頃大阪に来るという。お金もかかるし悪いなぁと正直思うが、母親も長くないだろうから、やっぱ来てもらった方がいいだろう。夕方病院で落ち合うことにした。

おばちゃんはまだ病院にいるということなので、一度家に帰って、食事をしてから病院に行った。朝の5時から何も口にしてなかったので、食べると胃がきしみそうだった。

昼過ぎに妹がやってきて、母親に話しかけた。が、反応はあるんだかないんだか、って感じであった。まもなくして集中治療室に運ばれてゆき、私たちは物を持って帰った。

実家をひきはらうこと、葬式のこと、お骨をどうするかということ、そういうことは全部私が考えなくてはいけないようだった。頭がぼーっとしてしまう。

土曜日の夕方、妹を見送りに駅まで行った。すると携帯電話が鳴った。見ると公衆電話からだった。誰だろうと思ったら、母親の友人からだった。何で私に連絡をくれないの!と怒っている。古い友人の人で、母親は外面がいいので仲良くしていたようだ。いつものように見舞いに行ったら、集中治療室に入っていて、親族以外は面会禁止だと言われ、びっくりした。何かあったらちゃんと連絡してね!とのことだった。

じたばたしていたので連絡できませんでした、もうしわけありません。と謝り、電話を切る。はぁ、と一つため息が出た。そんなに知りたかったら知りたい人を募集して、連絡網か、メルマガでも発信しようかなと思う。こういうことも私がしないといけないようだ。

まぁ、なんかどうでもいいんだけど…。と思う。妹とその彼氏がくれた、誕生日プレゼントのiPodシャッフルだけが、嬉しい出来事だった。

また2,3日したら携帯電話で呼びつけられるんだろうか。


2005年03月15日(火) 33歳の春だから

昼休みに銀行へ行く用事があったので、通帳を持ってダッシュで会社を後にした。思いの外ATMは空いており、ゆっくりと歩いて会社に戻る。街角に宝くじ売り場。わたしはなんとなく近寄り、なんとなくスクラッチを5枚と、近畿くじバラ5枚を購入。するとスクラッチの方は1000円が1枚と、100円が2枚当たっていた。

イエーィ!と心の中で高島忠夫の如く親指を突き出し換金する。いいぞ、後厄がなんだ!と鼻息荒く、とうとうバイクを今日買うことにする。

と言っても、領収書の日付を今日にしてもらうというだけで、しかも自動車税(毎年4月1日に登録してあるバイクやクルマにかかってくる)を払いたくないので、納車は4月以降なのだが。午後は上の空で仕事をしつつ、近所の百貨店で一人用ロールケーキを4つ買ってバイク屋に行った。

いきなり50万円くらい持っていったので笑われた。昔は前金5000円とかしか入れてなかったのを考えると大人になったなぁとしみじみする。何で今日なん?と聞かれたので、誕生日であること、スクラッチで5枚のうち3枚当たったことなどを、伝えた。

めっちゃ値引きをしてもらい恐縮してしまう。ついでに4月のツーリングも決めた。バイク屋のツーリングなので平日だが、3人以上で走ったことがないので楽しみで、会社は有給休暇で決まりだ。

どんな人生にも春は絶対来るのだ。「平凡な幸せが訪れますように。」と朝一番に妹からメールが来たが、ほんの少しそんな気持ちを味わえた気がする。メールなどで祝ってくれた友人達、これからもよろしくです。

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せっかくのおめでたい席ですから、
左から芋焼酎、マッコリ、バーボン、ビール、ワイン、ウオトカ、日本酒ということで。
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↑こんなメールまでもらった。そんなに飲むようにみえるのだろうか。


2005年03月14日(月) 母親と人生

今日は重い腰を上げて母親の見舞いに行ってきた。3週間ほど前に引き上げた洗濯物を持ってゆく。会社で残業した後なので、7時を回っていた。

母より前に主治医の先生に会って様子を聞く。術後の経過は良好。ただ一つ問題なのは、元気がないこと、気力がまったくないことらしい。脳を調べてもどこが悪いということもなく、なのに話しかけても返事はおざなり、食事は口に入れられても、咀嚼せず飲み込むこともしない。なので今は鼻から管をいれて流動食だ。

ついでに週末にけいれんの発作があり、その後急に熱が上がり今は軽い肺炎らしい。先生にありがとうございましたと一礼をして、病室へ向かう。

鼻から胃に通じる管を通されており、なおかつ酸素補給の管も鼻の穴の舌に固定してある。動かすことのできる右手には鍋つかみのような布がかぶせられており、ベッドとヒモでつながれている。鼻の管類を外してしまわないようにということでそうなっているのだ。

しんどいの?と声をかけたらしんどくない、と言った気がした。入れ歯を外しているのではっきり分からないのだ。痛いところあるん?と聞いたらない、と言ったような気がした。以下同文。

私は洗濯物を、適当にしまい病室を後にした。可哀想とか、あわれなとか、そういう気持ちはしなかった。感情自体が別に湧かないのだ。頑張って!とも思わないが、死ね、とも思わない。ただ、あの人はあれで人として生きていると言えるのだろうかと考えた。沢山の管を付けられ、唯一動く右手は拘束され、時間や努力や治療で治ることはありえない病気。先生や看護士さんたちは毎日こういう人たちと接しているわけだが、どんな気持ちなんだろうとふと思った。

明日、15日は私の誕生日だ。33歳になる。母親は33歳になってすぐ私を産んだ計算になる。33年も前にバツイチながら未婚の母ついでに父親の愛人、それを6年続けたのだからある意味根性あるのだろう。

実家から持ってきたアルバムを見る。窓枠に腰掛けたランニング姿の父親が私を抱いている白黒の写真。73年だから私は1歳だ。写真の中の父親はとてもうれしそうだ。が、これも冷静に考えると、外で子供を作っていた訳で、たまにその女(母親)のところへやってきて、ランニング姿で我が娘を抱いている図なのだ。そう思うと複雑だ。

33歳。この歳をわたしはどういうふうに生きるだろうか?


2005年03月13日(日) だじゃれの秘密

先日、トリビアの泉をビデオに録画していたものを見た。それは、「日本人がよく使うだじゃれは何か?」というお題だったのだが、はっきりいってびっくりした。

「だじゃれ」というのは一つのセリフの中に音が同じ単語が二つ入っていて笑いを取る、というものだったのである。「布団が吹っ飛んだ。」とか、例えば。

実は私はそれを知らなかった。座るときに「よっこい(横井)庄一。」、「当たり前田のクラッカー」、「なすがまま(ママ)なら、キュウリはパパだ。」とかそういうどーしょもないギャグのことだと思っていたのだ。

「ほえー。」とトリビアの泉を見て関係ないところに感心していたわけだが、それを見てただんなの目は冷たかった。「知らなかったの?」と。

でもだんなさんは、「横井庄一」を知らなかった、この場合、私が勝ちだと思うのだがそんなことないだろうか?


2005年03月11日(金) この雨にやられて

会社に着くなり雨が降ってきた。かっぱも持ってないし…ということで今日の見舞いは中止。昨日は行くと書いたけれど、いいかげんなもんである。雨ひとつで止めるわけだから。

午前中で早退して、家で食事をしてから雨の中母親の住んでる地域の社会保険事務所へ行く。が、残念。戸籍抄本が足りなかった。前相談に来たときに、住民票とどっちかでいいって言われた気がするんだけど。土日も午前中だけ受付しているらしいので、帰りしなに戸籍抄本を取り、明日出直すことにする。

つーかこの年金関係、めんどくさすぎると感じる。国民年金に入っていたか、厚生年金に入っていたか、またどちらも入ったことあったらどーのこーのと、要る書類が違うのだ。大体65歳になったとき、過去、どこで何年間会社の保険に入っていたとか全部覚えている人間なんておらんやろと思うのだが。それをまず調べてもらい、加入年数によって役所か社会保険事務所の管轄か別れるようだ。

次は配偶者の有無。いるんだったらその配偶者は年金をもらってるかもらってないかでまた書類がいろいろ変わってくる。(らしい)

そんなこんなで、じたばたしている訳だが、別に私が儲かるわけではないのでなんだかなーという気分だ。しかも冷たい雨の中、会社を休んでである。

こんな事を書くと、「自分の親やろうが。」とか、「不謹慎な!」とかそういう反応をする人がいて、これがちょっと困ったさんなのである。会社の同僚の女子とかみんなそうなんだが、早退するときに、かいつまんで事情を話し、最後にちょっとオチをつけるとさささぁ〜っと引いてしまう。

でも、現実問題として冷え切った特殊な親子関係から、ドラマのように泣き崩れる娘と、あんたには迷惑かけたくなかったけどと涙ぐむ美しき老婆なんつーもんにはなり得ないわけで、「まあ、過去のことは忘れたふりをして。」(でも精神安定剤飲んでます。)みたいな生暖かい状態である。

こういうのがきっと、山の手の一戸建てで両親が揃った家庭で有名私立大学を卒業して、今30ウン歳、毎日おかあさんがお弁当をつくってくれます。みたいな人には理解不能なんだろう。(あ、かなりひがみっぽいな。この書き方。自分の汚れキャラが身にしみるなぁ。)

とりあえず、明日の社会保険事務所はうまくいけばいいなぁ。


2005年03月10日(木) 今書き留めておくべきこと

残業をして帰りしな、更衣室でリップクリームなぞを塗っていると、チャララ〜と携帯電話が鳴った。着信音は懐かしの「ロックミー・アマデウス」。ファルコのアレである。その前は「酒と涙と男と女」。着メロ心理テストというものがあったら私は分類不能に違いない。

電話の主はおばちゃん(母親の妹。奈良に住んでいる。)だった。今日、見舞いに行ったら、とにかくしょぼくれていたので、もう長くなさそうだと感じたそうだ。食事も吐き出し、私は間違っていたと何度もつぶやいており、とうとう鼻から送管して胃に流動食を入れているらしい。リハビリもまったくやる気なし。ついでに両手、両足がむくんでぼよぼよになっているらしい。

それを見たもう一人の妹が、「あれはもう長くないで。」と言ったそうだ。

なおぞうちゃん、いろいろあったやろうけど、ああまでしょぼくれた状態ではもう何も言わずに見舞っておかないと後悔するで、と言われた。確かにそうかもしれないなぁと一瞬思ったので、とりあえず明日行きますと答えておいた。

そして今、考えている。肉親が死ぬというのはどういうものなのだろう。父親は数年前に亡くなったが腹違いの兄が看取ったらしいので実感がまるでない。20年ほども会っていないし。

しかし、母親は人生のかなりの部分で影響を受け、嫌だけれど今でもその影響は強い。先日書いたスミレの話だけでなく、あの人のエピソードはろくなもんがないのだが、それでもあの人が私の実の母親であるのは確かなことなのだ。

最近睡眠がうまくとれずに、会社で落ちるように居眠りをするようになってしまった。それに目をつけられ、クビになりそうな今日このごろだが、出来るだけ寝ないようにと、デスクの下で左腕にハサミで刺激を与えている。具体的には先の丸いハサミを押しつけて引くだけで、ほんの少しみみず腫れができる。それを繰り返していたら、なんか見るも無惨な感じになってきた。

居眠りでクビになるか、自分で腕を切りつけて起き続けるのか、何が正しくてやるべきことで、いいことなのか全くわからない。私は病んでいるのだろうか。全部他人のせいにしてもいいが、結局逃げ場がないのに気づく。母親はあんなんだし、上司はどないしたかて私より偉い。

明日はまだ金曜日だ。夕方はマンションの点検なので早退する。そのぶん早出をするのにまだ寝てもいない。点検が終わったらダッシュで社会保険事務所に行き、母親の年金の手続きをする。

誰か、寄っかからせてくれる人、募集。そんな気分だ。


2005年03月06日(日) そうだ世間は春だから

3月は春なのだと思う。桜はまだだけど、梅は咲いている。大阪では昼間は10度を超えたりして、バイクに乗ると家に帰りたくなくなり、日が高いうちはびーんびーんと90ccのエンジンをうならせたりする。(でも日が沈むとさぶいです。)

今日はレーシングワールドというバイクグッズショップに行った。「ヘルメット祭り」をやっていたので、4年目になる今のヘルメットを買い換えようと言う魂胆だった。結果、レーシングワールドではサイズが無く、欲しい色もなかったので、ジャケットを買って帰った。

ジャケット。これがかっこいい。今まではオフロードバイクもしくはカブの人だったのでおしゃれとは無縁だったわけだが、この春には初めてのロードバイクを買う予定だ。なので、イタリア製のお洒落なジャケットをセールで買った。これがまた、走る気持ちをプッシュするジャケットなのだ。

タイトな袖周り、体にフィットして家で着ていても着心地は悪い。バイクの前傾姿勢で初めて生きるようなジャケット。赤と黒のカラーリングもその気にさせる。

白のシャツ、黒のジーンズ、そしてこのジャケット、なんかすごく決まりそうだ。まあ中身は後厄の白髪が気になる年頃のおばはんなわけだが。

4月になったらバイク屋主催の温泉日帰りツーリングがある。こういうちょっとだけ先の楽しみを目標にしてやってくと、人生もさほど悪くない気がする。しゃくとり虫みたいに一個一個の楽しいことをつないで進んでいく。

30を過ぎると人生はこんな感じなんだろうか?少なくとも今の私は一ヶ月先の温泉ツーリングがとても楽しみである。その次はゴールデンウィーク。スキーにするかバイクにするかは未定だけれど、どちらにしてもわくわくであることは変わらない。

ぬかるんだ嫌な水のような人生に舞い降りる清水のようなイベント。こうやって生きていくのかな。私は。


2005年03月02日(水) 春に降りてくるもの

世間は3月だが、まだまだ冬の気分だ。定時に上がると空がまだ青いのがせめてもの救いか。

見舞いには行くが母親の顔は見ていない。結局鬱病であることを婦長さんに話して、物を取るときなど看護士さんに取ってもらうなどの便宜を図ってもらっている。

明日、ひな祭りの日は母親の65歳の誕生日だ。誕生日。昔私が中一で母親と二人暮らしだったことのことを思い出す。せめてものプレゼントをと思い、私は同級生の花屋でスミレの小さな鉢植えを買った。花は一つだけ開き、つぼみが2つくらい。持って歩くのがちょっとわくわくするかわいいスミレだった。

が、母親は「なんでそんなムダ遣いするの?」と一蹴し仕事へ行った。(当時スナックをやっていたのだ。)一瞬でスミレは地味な存在に成り下がってしまった。じゃあ、お菓子でも買えばよかったかなぁと思うが、この誰にも気にかけられないスミレは私と同じなのだと思った。台所の窓の脇に置き、つぼみがふくらむのを見守った記憶がある。

こんなことは20年前のことなのだ。忘れて、献身的に母親を見舞えばいいのだろうが。ひっかかる。「この人はスミレに託した気持ちを一蹴した人なのだ。」そう思うと足が向かない。

おばさん(母親の妹)によると、「わたしの子育ては間違っていた。」と嘆いているそうだ。それは、「間違った子育てをしたから見舞いにも来ないような情のない子供になってしまった。」なのか、「私はちゃんと育てたのに、あいつは見舞いにも来ない。」なのか母親の気持ちはどちらなのだろう。まぁ、65歳になったからといって、悔い改めるようなキャラではないので、私が悪者なのだろう。

先日夜中の2時頃携帯電話が鳴った。入院している病院からだった。自発呼吸があやしいので、気管に送管してもいいかという。別にどうでもいいけれど、まぁやってくださいと言っておいた。泥酔して睡眠薬を飲んでおり、その状態で熟睡していたので訳が分からなかったというのもあるが。

世間は春かもしれないが、私はすんなりその中に入れずにいる。会社の上司への不信感、うつに対する偏見、そして母親。私には明るい顔になれる要素がひとつもない。

春は私の上にも降りてくるだろうか。


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