日々是迷々之記
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2005年01月31日(月) 頭蓋骨の色

先日、再手術となった。最初の手術では脳が腫れてきていたので、圧迫することを恐れて頭蓋骨を直径10センチくらい外したのだ。幸い、脳の腫れは引いてきたので、もう一回手術をして人工骨をはめる手術だった。

手術の前日に主治医の先生から手術についての説明を受けた。そして、先生は、「こないだの手術で外した頭蓋骨、どうされますか?」と聞くのだった。どうされますかって、どうするんだろう、普通は。「小さな切片でしたら医療廃棄物?として処理しますが、これだけ大きな物をいわばゴミとして捨てるのも忍びないかと思いまして。」とエアキャップシートにつつまれた頭蓋骨の切れっ端を出してきた。

!人骨である!本物の。もしこれを河原や公園なんかに放置したら大騒ぎになるんだろうか?などとしょーもないことを思いつつも、一応返してもらった。捨ててもらってもよかったが、先生が捨てるに忍びないと言ってるのに、「捨てて下さい。」というのも人非人かなと思ったからだ。

そんなこんなで私は、日々人から少しでも良く思われたいと思って生きているようだ。特に、母親関連のひとたちには、鬱病を患っていることを話していない。だからたまに感情がオーバードライブしてしまう。

2,3日前、奈良の親戚(母親の妹)が見舞いに行ったそうだ。その感想を電話してくれたのだが、その日の母親は上機嫌で饒舌だったそうな。(まぁ、ろれつは回らないわけだが。)執拗に私がどのような生活をしているのかを聞き、「仕事を辞めて、面倒を見て欲しい。そして仕事(テキスト打ちの内職)の後を継いで欲しい。」と言っていたそうなのだ。

おばちゃんは、「んなことするわけないやろに。結婚してあっちの生活があるんやから。」と言ってくれたそうだが、母親は未だに私に何かを期待している。そう思うと胸がつまる。寝起きにそのことを思い出し、軽く咳をすると小さく吐いてしまった。もう私を忘れてほしい。

それから病院へ行く足は遠のいている。リハビリ用のバレエシューズを持っていかなければならないのだが、饒舌に話しかけられたら気が狂いそうだ。看護婦詰所の婦長さんに事情を話して、事務的なことはするが、本人には会わないと言った方がいいのだろうか。

病人はずるい。病気になるだけで、先生や看護婦さんが世話を焼いてくれ、取り返しのつかないほどの深い感情の溝を作った人間さえ面会に来させることができる。きっとあの母親は今の状態をそれほど悲観してはいないのだろう。ボロアパートの独居老人から設備の整った病院で完全看護の身に格上げだ。体も洗ってもらえるし、食事だって口に運んでもらえる。

10年間絶交状態だった妹たちは会いに来てくれるし、「大阪に帰ってきて一緒にスナックやろう。」とか言ってあきれて相手にしてくれなくなった下の娘も遠路はるばる見舞いに来てくれるし、「あんたのだんなを殺して、私も死ぬ。アンタは恥を背負って生きていけばいいのよ!」と暴言を浴びせかけられた上の娘(私)ですら、おむつや尿取りパッドをせこせこと運んでいる。

よく生きるというのはどういう意味なんだろうと時折考える。「人間が後世に残せるものは生き様だけだ。」という言葉があったような気がするが、母親の生き様から一体何を学べというのだろうか。

頭蓋骨の色は黄土色であった。特に使い道もないが、捨てる理由もないので、実家から持ってきた郵便物などを入れる箱に入れておいた。


2005年01月23日(日) 母親のかんな箱

かんな箱とは鰹節を削るための刃と、削られた鰹節を受け止めるための引き出しが付いた箱である。

これは私が物心付いたときから実家にあった。がしがしと削ってほうれん草のおひたしにピンク色のひらひらとした鰹節を載せてくれていた。それは幼児期の記憶。

先日、年金手帳やらなんやらが必要と言うことで実家を尋ねた。鍵を開けて中にはいるとだんだんと饐えてきており、昼間じゃないととても来る気になれない。私は冷蔵庫を開けて、賞味期限の長いものは持ち帰り、切れている物はごみとしてまとめて捨てた。

冷蔵庫の中にそのかんな箱はあった。使われていた形跡はない。大本の大きな鰹節も乾燥して割れている有様だ。私はまだ食べられる食料とそのかんな箱、郵便受けの手紙を持って家に帰った。

かんな箱は底板が外れていた。大きめの固まりを削ってみる。刃がこぼれていて、子供の頃見たようなピンク色のきれいな鰹節は出て来なかった。外して刃を研がなければならない。

このかんな箱を見てと思ったのは、母親に生きる意志が強くあったのだろうかということだ。私たち子供がいた頃は、出汁用も、おひたし用もこのかんな箱の鰹節で鰹を削っていた。それがこの有様だ。刃はこぼれ、ピンク色の切片を削り出すこともできない。

あの人は生き続けることを望んでいるだろうか。仮に望んでいなかったとしても私には手を下すことは出来ないし、主治医の先生や、看護婦さんみたいに「リハビリがんばってください。」と言うのが関の山だ。

意識がはっきりしない母親だが、もし何かを尋ねられるとしたら、どうしたいか聞いてみたいと思う。子供みたいに扱われて、おしめをはめられて長生きしたいのか、それとも今終わりにしたいのか、あの人は何を考えているのだろう。


2005年01月18日(火) この一週間

また一週間日記、というか週記になってしまった。

相変わらず仕事は忙しいが、唯一自分が普通の人になったように感じられる時間なのでそれはそれで構わない。新しいトピックとしては、3月あたりから正社員としてどうか?とオファーされたこと。給料もアップしてくれるようなので好待遇なわけだが、これでほぼ半永久的に別居が決まる。だんなさんに相談したところ、キャリアにプラスになるのだからいいんではないか?とのことだった。相方の頭の中では「一緒に住むこと」が一番のプライオリティ(優先権?)を持っていないらしい。まぁ、私もどっちでもよくなりつつあるが。

土曜日は雨の中お祓いに行ってきた。数えで34歳。後厄なんである。詳しい友人に聞いて、天理市の石上神宮に行く。青春18きっぷの最後の一片を使った。奈良駅で桜井線に乗り換え。天理駅からタクシーで10分とのことなので、歩く。多分一時間もかからないだろうという予想で。途中は商店街で楽しみながら歩くことができた。番茶、さくらの柄の手拭いなどを買いつつ歩く。アーケードがあるので雨にも濡れない。

石上神宮は本当に神様がいそうだった。そこだけ雨が霧雨なのだ。やわらかい雨の中、お祓いを申し込む。一番安い5000円のにしてみた。これでこの一年が「家内安全」で過ごせればいいのだけれど。

翌日日曜日は寒いがよく晴れている。今日、石上神宮に行ったら良かったなぁと思いつつ、フル回転で洗濯をする。ニットやら、シルクのアンダーシャツやら、手洗いものも淡々とこなす。結局昼過ぎまで洗濯する。それから商店街へ行き、すじ肉、ぶりの切り身、じゃこ、大根、日本酒などをカブのカゴ一杯に買い物する。一週間分なのだ。

夕方はバイク屋に行き、カブにひざかけカバーを付けてもらう。カバーをつけたカブはどこから見ても立派な米屋バイクになった。今度写真撮ろう。3月ごろ中型のバイクを買う相談をする。一応どのバイクにするかは決めたが、400ccなのでちょっと気が引けたりもする。でも、250クラスでいいのがないので多分これにすると思う。もちろん、カブは手放さない。増車である。(えっへん)

帰り道、日本橋の中古CD屋で泉谷しげるとTMネットワークのアルバムを買う。どっちも180円。その晩は懐かしさと、泉谷の詩に焼酎が進んでしまい、思わずアマゾンのマーケットプレイスで憂歌団のアルバムをワンクリックで購入してしまった。

月曜日はヤマダ電機に行った。なんとなくパソコンラックを見に行ったのだが、中古のコーナーに釘付けになってしまった。キヨシロートリビュートのライブのDVDがあった。しかも500円引きのクーポンを持っていたのでポイントと合わせて購入。なんか買いすぎやねん、自分。

さて、振り返ってみるとちっとも母親の見舞いに行っていない。簡単に言うと足が向かないのである。メンタルクリニックの先生も気が向かないのならムリして行くこともないと言っていたので、気が楽になり行かなかったのである。

が、今日の夕方病院から電話があった。おむつと尿取りパッドが足りないので持ってこいという話だった。今日は自転車通勤だったので、家に帰ってカブに乗り換えてからジャパンでおむつを買い、病院へ行った。

母親はグースカピーとのんきに眠っていた。右側頭部は頭蓋骨を剥がしているのでふにゃふにゃしている。手術をしてからちょうど一ヶ月。菅原文太くらいに髪が伸びている。ほとんど白髪なのにあらためてしみじみする。私が32歳、母親が64歳。あと30年で白髪のババアに私もなるのだ。

眠っている横顔を見ていると複雑な気持ちで吐きそうだ。この人のやってきたこと、浅はかな嘘、自己満足の押しつけ、非常識な子育て、そんなことを考えるとどっかに消えて欲しいというのが本音だが、安らかな横顔を見ていると、とても死ねとは言えない。面会者の続柄を書く欄に「次女」と書く屈辱(次女が嫌なのではなく、長女として生きてきたアイデンティティの崩壊が耐え難いのだ)を感じた直後の安らかな横顔。この手の感情のかみくだき方、いなし方が分からない。

帰り道、カブで信号待ちをしていたら、咳をした瞬間ちょっと戻してしまった。ぐぶっと飲み込んで家に向かう。集中して料理を作った。圧力鍋で牛すじを柔らかくし、キクラゲ、干し椎茸、レンコン、大根、人参で中華風おでんを作る。紹興酒、八角、豆鼓(トウチー)でかなりそれっぽく仕上がる。

今日は焼酎を2杯だけ飲んだ。会社で会う人、会う人に「顔色が悪いですね。」と言われるのは、多分酒のせいだろうから。焼酎ロックを中ジョッキで3杯はさすがにへろへろになってしまうし。なんかぱぁ〜っとと思うが、自分が動かないことには「ぱぁ〜っと」もやってこないのは分かっている。飲み会の企画でもしようかなぁ。


2005年01月10日(月) たまにはこんなバカ話

久しぶりに電車で移動する。今日は「えべっさん」という商売繁盛のための祭りが大阪では執り行われている。ということで、道路には露店がでたり、交通規制があったりしてバイクではめんどくさそうだ。なので、JR大阪環状線で町へ出る。

いつものように先頭車両で前を見る。空が青くて気持ちがいい。運転手さんは信号ごとに指さし呼称で確認。子供の頃からこれを見るのが楽しかった。

私の背後では新成人と思われるギャル&その連れ(安物ホスト風)が香ばしい会話を交わしていた。(全て真実です。)

「大正〜。大正〜。やて。次の駅は昭和駅やったっけ?」
「おまえホンマにアホやなー。大正の次はえーとなんやったっけ?」
「あんたかて知らんねやん。でも昭和って駅あるよなー?」
「知らね。」
「てか、今って平成何年?もう平成の次になったんやったっけ?」
「何言うてるねん。天皇陛下が変わったときに平成から次のんに変わるんや。」
「次って何?」
「知らね。まだ決まってへんのんちゃん?」
「真美って書いて「しんじつ」とかえーと思えへん?」
「それはあんたの名前やろ。」
「あれってそんとき流行ってる言葉みたいなんに決まるんちゃん?」

もうなんだか車窓の景色なんか耳に入らないくらいの暴走会話だが、このへんから話はもっとすごいことになっていった。 年末に行われる今年一年を漢字一文字で表すと?という行事と、故小渕首相の「平成」という新元号を筆文字で発表したのが、彼らの中でごっちゃになっていたらしい。

「それやったら、やっぱ『残念』で決まりやろ。残念1年、残念2年…。」
「ってことはさー、TSUTAYAの申し込みの紙とかで昭和生まれだったらSにマルつけるやつとかあるやん?それって『Z』になるやんなぁ。それめっちゃしぶいやん!」
「しぶー!Z. 17年とかやろ?平成やったらHやもんなぁ。えらい差や。」
「つうかそれって最後のアルファベットなんですけど〜。次がありませんから〜。」
「残念!」

さすがである。10分たらずの乗車時間でちゃんと落ちた漫才が聞ける。大阪人はこれだからやめられない。


2005年01月06日(木) 柔らかい女子の空気

私は勤勉なほうではないが、会社に行くのは嫌いではない。

ルーティンワークの中に身を潜ませ、やるべきコトを淡々とこなし、ちょっとした同僚との会話で大げさなほどに笑ってしまう。一日8時間。空調の効いた静かな室内で50人ほどの同僚の人たちと関わっていると、何か大きな流れの中で、私までが真人間になったような気がする。

未だにちゃんと意識の回復しない母親のこととか、これからの経済的なこと、飲み続ける精神の為の薬、だんだん効果の見えなくなってきた睡眠薬、そんなことはまぁひとまず置いておいて…。そんなゆっくりした空気がうちの事務所には流れている。

そして女子が多い。しかも老いも若きもいい人ばっかりなのだ。私は32歳なのでちょうど真ん中よりは少し下かな?という位置づけなのだが、ちょっと上の人達からは子育てとの両立の話、もっと上の人たちとは、ガーデニングや、韓国ドラマの話、そして年下の女子からはスキーやマック、おいしいケーキ屋さんの話なんかで盛り上がる。

私自身女子なはずだが、会社の女子を見ているとみんな非常にかわいらしくて見守ってあげたいような気持ちになる。(そっち方面の嗜好はないのだけれど。)きーきーときしんだ音のする椅子にクレ556という潤滑剤を吹き付けてきしみを取ったり、フロッピーを入れたまま起動して警告音を響かせるマシンを黙らせたり、いつも文章しかスキャナで取り込まない子に写真を上手に取り込むコツを指南したらめちゃくちゃ感動されてしまったりする。

後日、「季節限定 キットカット抹茶味」を私にくれて、「私、なおぞうさんみたいに結婚しても、派遣で働いて、ちゃんと責任ある仕事をこなすのが理想なんです。」と言われてしまった。確かに私はキットカットの限定が好きだ!と何かの拍子に言ったことはあるが、ついでに褒められながらもらっちゃうのである。ほんとにどうしていいんだかわからんではないか…。

ちなみに彼女は田中麗奈を普通の人にして肌をぷにっとさせて、ストレートのロングヘアにしたような、普通にかわいらしいお嬢さんである。私のように、斎藤清六、パタリロ、ヘビ女など異形のいきものに似ているタイプではまったくない。

そんな風な若手女子軍団が、たまには異常な発言を交えつつも仕事は真面目にやっている。そのゆっくりした柔らかい空気に触れることは、今の私には大変落ちつく時間だ。

しかし、派遣社員である以上職場との別れは唐突にやってくる。それが運命というもので、今までは運命様々やな、止めて正解!みたいなところばかりだったが、今回はその日が来たら、ちょっとくらいは泣いてしまいそうだ。


2005年01月04日(火) 年明けの実感もないままに

いつものように青春18きっぷを使って愛知県に行き、帰ってきた。残りはあと1枚。今月の20日まで使えるのでどっか行きたいものである。

19日からはスキー三昧の日々だった。途中2泊を除いて全て車中泊。うちのクルマはただのステーションワゴンなので、寝るときは要らない物を巨大なベランダストッカー(ガーデニングのホースとか、肥料なんかをしまう大きなプラスチックのケース)に入れて車外に放り出す。スキーとストックは、屋根の上のジェットパックに入っている。

シートを倒すとだいたい平らになるので、そこに各自のキャンプ用マットを敷き、寝袋で寝るのだ。私がモンベルの化繊のものでスーパーバローバッグゼロ、相方はさほど寒がりではないので、ダウンハガー3という3シーズン用を使っている。

今回宿泊したのはいずれも新潟の妙高近辺と野麦峠らへん。夜中は-15度ほどだったと思う。朝起きたら、ペットボトルのお茶がしゃかしゃかと凍っていた。傍らのメガネをかけると温度差で曇ってしまう。

そんな環境でも人は眠ることができる。朝ごはんは前日に買ったパンとチーズをかじりながら、コンロで湧かしたコーヒー。この時期、宿に泊まれば一人1万円はくだらないことを考えると堅実なようだが、毎晩5号瓶を開け、宿泊したスキーペンションでは毎日ワインを開けていた。何が節約で何が贅沢なのかよく分からない。ただ一つ確信したのは新潟は、日本酒、地ビールともにとてもうまいということだ。

スキーそのものは、関スキー場でパウダーを満喫というか、パウダーに翻弄され、赤倉温泉スキー場では毎日吹雪でカナダのようなパウダーの中を滑りまくり、まるで自分がうまくなったかのような錯覚に陥ってしまった。そして移動日を挟み、野麦峠スキー場へ。

ここははまってしまった。年末に1日しか雪が降っていないので全て人工雪。私が好きな林間コースはほとんど誰も滑っておらず、調子に乗りまくった初心者なわたしは豪快にこけまくり、古傷である右膝を強打。テレマークターンなんてとんでもねー!ということになってしまい、中級バーンの真ん中でレスキューを呼び、そりで下ろしてもらうという体たらくだった。

右膝はテーピングを施してもらい、昼頃スキー場を後にした。多分、交通事故のときの癒着が剥がれたようで、熱を持って腫れている。わたしは頭痛吐き気とともに車に揺られ、愛知県の家にむかったのだった。

その日は鬱病の薬、抗不安剤、睡眠薬、パブロンを薬をフルコースで頂き、1997年物のドイツワインを1本空けて素直に寝た。ちなみにこのワインは会社の頂き物をみんなで分け合う福引きでもらったもので、2位の賞品だった。さすがにうまい。自分では買わないレベルの味だった。

翌朝は妙にハイテンションで目が覚めて、録画しておいたK-1を見る。こういうのをみるといつも思うのだが、ここに、ロッキー・バルボアとか、ドラゴ、スティーブン・セガール演じるケーシーなんかが参戦したら一体誰が強いのだろう。まああれはドラマだから、といわれればそうなんだけど、映画の中のスティーブン・セガールは文句なしに強いと思う。(頭もええし、熱くならないということで)

そんなこんなで全然年越しっぽくないただの長期休暇だった。明日から会社ってのがつらいなぁ。見舞いのことなんか途中で1ミリも思い出さなかったし。(地獄へ堕ちるだろうか?)


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