日々是迷々之記
目次


2004年12月27日(月) それでも日常はまわる

抗うつ剤と抗不安剤、睡眠薬を真面目に飲み続けると、日常ははるかに楽になった。窓の外は木枯らしが吹いていても、自分だけは柔らかい膜のようなものにつつまれてのほほんとしている感じだ。

師走だ。なのに、のほほん。こんな小さな錠剤で人の心というのはこんなに楽になってしまうなんて…。

母親の件で、母の姉妹と金曜日に会った。そこでも知らない事実続出で、落ち込むかなぁと思ったが、どっか他の世界の出来事のように感じただけだった。お金、家族、友達、仕事、自分の周りの物を軽く考えて生きてきた浅はかな人間の姿。

愚かな親を持つものとして、今なら親が犯罪者の家の子供の気持ちが分かる気がする。もっとも母はわかりやすい犯罪を犯したわけでなく、目先の小金めあてに醜い姿を晒したに過ぎないけれども。極道相手の金貸し(もちろん回収出来ず)、玉の輿目当ての出来ちゃった結婚(2回)、先祖代々の墓を売ろうとしたり、出来の悪い小説でもこんなにベタなネタばかりは並ばないと思う。

結果的に私は必要以上に見舞いに行くことをやめた。看護婦さんからおむつや尿取りパッドが足りないと言われたときにだけ出向くようにした。今も意思の疎通は出来ないので、それで十分だろう。

それよりも年末年始のスキー行、年賀状、考えることはいっぱいある。冷たい物言いかもしれないが、今の人生はわたしが見つけた相方と、二人で築いてゆくもので、そっちの方が私には大切なのだ。

自分の我を相手に押しつけることでは、誰も幸せになれないし、心を通わせることもできない。私はそのことをこの母親から学んだと思う。



さあ、明日の夜からスキー行だ。次の日記は一月四日になりそうです。皆様、来年も宜しくご愛読ください。 naozo


2004年12月22日(水) 長い友との始まりに

先日の日記を書いた後、わたしは一睡も出来なかった。悲しいわけでもなく、怒りにふるえるのでもなく、ただひたすら心の中でうわんうわんと風の吹きつけるような音がしていたのだ。

だめだ、病院に行こう。そう思い立ち、家と会社の通勤路の上にある診療所を見つけた。9時になるのをみはからって電話をしてみる。優しい口調のおねえさんで少し安心した。最後に、「うちは精神科がメインになりますが、よろしいですか?」と聞かれた。精神科、思いこみかもしれないが、肛門科と同じくらい緊張する科名だ。内科や皮膚科のようなメジャー感がない。かくしてその診療所はエレベーターががこんがこんとなる、レトロなビルの2階にあった。

10分ほど待って、診察室へ。初めて見るタイプの診察室だ、大きめの木の机とソファ。血圧を測るスタンド、窓の向こうから日が差している。

「どうしましたか?」わたしは不眠、一人でいるときに食事ができない、顔の左半分(唇周りが特に)のけいれんがあると伝えた。そのあたりまでは平静を保てたが、家族の話に及ぶと、わたしは少しづつ涙を流しながら語ってしまった。

精神科の先生というのは一種独特な雰囲気がある。あいづちは打つけれど適当さを感じさせるものではなく、モノを尋ねるときも詰問したり、私が悪いと思わせるような尋ね方をしない。そしてものすごいスピードで私の言ったことの記録をとる。

診察の結果はごく軽度のうつ病。今回の出来事の直接の原因は母親が倒れたことによる心配や不安。もともと良く思っていたわけではないのに毎日顔を見ることへのストレス、そして顔を見ることにより、嫌な思い出ばかりが蘇って私はつらいんだそうな。

とにかく今はたくさん寝て、没頭できることを一生懸命やって、それから余力があれば病院に見舞えばいいですよ。と言ってもらった。意識がないうちは見舞う側の気持ち的な負担というのはかなり大きいそうだ。

わたしは2時間ほど話を聞いてもらい、睡眠薬、抗うつ剤、抗不安剤などを処方してもらった。

病院を出るとき、「ああ、わたしはうつ病なのだな。」とふと思った。弟が鬱病であることを隠して、母親になじられた父親のことを一瞬思い出した。あの母親が口がきけたら今の私を見て何をいうだろうか?何、甘ったれたこと言ってるの、そんなもの病気のうちに入りもしない、ああ、情けない。くらいは立て板に水のごとくまくし立てるだろう。今日の見舞いは止めよう。

かわりに友達にメールを打った。こないだ日本酒記念館に行った友達だ。年末年始は忙しいらしいけど、今日は7時くらいに終わるみたいだった。近所の巨大ブックオフで待ち合わせをする。待ち合わせは本屋が好きだ。多少遅れても暇つぶしができるし、第一暖かい。

会うなり、今日は精神科に行って軽度の鬱病だと言われたよ、と言ってみた。あー、そうなんと普通に言った。何でも話したくなったら溜めないで話さないとあかんよ。こんなこと言ったら引かれるかなぁとか思って、自分の中にしまうのが一番あかんから…。

この子の話し方、聞き方は精神科の先生にちょっと似ていると思った。「なんでそのとき言わないの?」とか昔のことを今聞くようなことはしない。じっとこっちを見ながら、ゆっくりうなずいたり、ちょっとビックリしながら聞いてくれる。アドバイスも面白かった。日記もそうやけど、紙に書く、泣きたくなったら泣く、今よりもっと最悪なことを考え尽くしてみる、ほんの少し先に小さな希望を持つ。そんな話だった。

最後に石上神社で手に入れたという緑の勾玉を見せてくれた。石上神社といえば物部氏の斎宮である布都姫のことを思い出す。(@日出処の天子)この神社は奈良県の天理近辺らしい。カブで行こうかなと思ったがちょっと日帰りはしんどいらしい。

「春になったらバイクを買おうかな。」私がそういうと、「また一緒に走れるなぁ。」と言った。8年前、わたしが免許を取って、初めて他の人と走ったのはこの子なんである。地獄の酷道と呼ばれる暗峠(国道308号線)、朱雀門なんかに行って、リンガーハットで皿うどんを食べた記憶がある。結婚して、カブに乗るようになって、私は一人で走ることがほとんどになってしまっていたことに気が付いた。

帰り道、私は行きよりも心が穏やかになっていることに気が付いた。昼に薬を飲んだからと行ってしまえばそれまでだが、たくさん話して、少し先に小さな希望を持って、それだけで気持ちは変わる。私はなんぼ稼ごうが、強がろうが、絶対一人では生きていけないタイプの人間だろう。

でも今はそれでいいや。


2004年12月20日(月) それでもきっと生きて行く

今日は母親の見舞いに行かなかった。妹を乗せて病院まで行ったのだけれど、道が渋滞していて見舞っていたら仕事に間に合わなさそうなので、仕事の後に行けばいいやと思ったのだ。

が、仕事が終わったら今度は雨。カッパを着てまで病院に行くのも気が引けるので結局そのまま家に帰ってしまった。帰ってから郵便局に振り込みに行き、本屋で立ち読み。家にもう一度帰る頃、雨はすっかり止み、わたしはちょっとゆっくりできてほっとした。

結局私は見舞いなんか行きたくないのである。顔も見たくないというのが本音だ。

今で入院後約10日。たった10日で私の32年の人生をそのまますぱんとひっくり返してしまうようなことが判明した。母の妹に聞いて知ったのだが、私は長女ではなかったのである。母親は再婚で、前の夫との間に娘がいて、今37歳。大阪ミナミでホステスをやっているらしい。私は母親が再婚であったことも、子供がいた事も知らされていなかった。

ただ一度、祖母のお葬式の時に知らない人が来ており、母親と深刻げに話をしていたのを覚えている。その人が姉にあたる人だったのかもしれない。母親が墓場まで持っていこうとしていた秘密がもうひとつ追加された形だ。

私は長女としての責務を与えられ、子供なりのプライドを持って生きていた。特に母子家庭なので母親が働く人、私が家を守る人、そんな役割分担がほぼできあがっていた。親が離婚した後、親戚の家に預けられ、そこを逃げだし母親の元に居着いた形の私は、少しでも嫌われたくなかったので好かれる努力をした。たくさん勉強をして学年で2番くらいを保っていたと思う。

しかし、いくらいい子で居続けても、離婚後も私は母親の姓を名乗らせてもらうことはできず、父親の姓のまま同居していたので、その時点で愛情もへったくれもないのが今となってはわかるのだが。当時は、父親が私に嫌がらせをするために父親の姓から母親の姓に変わることを許可しないという母親の言葉を信じていたが、大人になってから調べてみれば、そういうものは既成の事実に基づき、父親の許可がなくても母親が訴えを起こすことで比較的簡単に母親の姓に変われることを知ったのだ。それは最近の話。

そんな母親が瀕死の状態で病院に運ばれ、親族のことを聞かれたときに出したのが私の名前なんである。その真意はどこにあるのだろうか。30年以上も大切にひた隠しにしてきた長女よりも、私の方が御しやすいと思ったのだろうか。それとも寝たきりになって迷惑をかけてやれとでも思ったのであろうか。

昨日の日記を読んだ友人からメールをもらった。そこにはある作家の小説の一部分が引用されており、それはまさしく私そのものだった。

「「父なき子」は父親が不在な分だけ、圧倒的な母親の支配下に置かれる。

周りの父なき子達を見ていると、
母親の凄まじいまでの支配にボロボロにされているのがわかる。

特に一人っ子だったり、長女だったりした場合は大変だ。
なぜか父なき子の母親は長女には冷たい。辛く当たる。
そのくせ徹底的に支配しようとする。
もちろん、母親は悪気があってそれをしているのではない。
娘のためによかれと思っていろいろ考えている。


母が傍若無人になった時、娘はなす術がないのである。
せいぜい突き飛ばして逃げるのが関の山だ。
しかし母親というのは執念深くてどこまででも追ってくる。
どこかで子どもは自分の一部だと思っているからだろう。
無くした片腕を探すかのごとく娘に迫ってくるのである。」

客観的に見れば恐ろしいことだ。しかし、事実これは私の育ってきた世界だ。私の頭は実はおかしくなってしまっているのではないかという恐怖に目がくらむ。これから先、人生のどこかでおかしな育ち方をした弊害が出てきてしまうのではないか。暗闇の一本橋のようで足がすくむ。

父親と母親は私が生まれた5年後に結婚していることを考えたとき、私はこの世に望まれて生まれてきた気は全くしない。単に母親が離婚後に父親とつきあい出し、子供ができたものの結婚もせずずるずると行くのもあれなんで、今更だけど結婚しますか?みたいなノリが想像できる。

まぁ勝手な想像だが、父親が亡くなり、母親が脳梗塞でほぼ半身不随となってしまった今では何も確かめる術がない。いまさら確かめてどうこうする気もないが、よくぞここまで私をバカにしてくれたなぁと思う。騙して隠してよくぞ育ててくれたものだ。

ここまでくると涙も出ないというのが本音だ。むしろここで泣いたら私の負けだと思う。「ほらあんた、そら見たことか。お母さんの言うことを聞かないからそんなことになるのよ。」という自己満足感たっぷりのいつもの言葉が聞こえてきそうだ。

死ぬほどくだらなくて、俗で、浅はかな母親。これは紛れもない事実。私の中にはその血ががっつりと流れている訳だが、それでも私は生きて行くだろう。

母親の声が聞こえない、気配も感じないどこかへ向かって。


2004年12月19日(日) 黒い瞳のお母はんにバウリンガル

夜中の3時に寝て9時過ぎに起きる。遠くに住んでいる妹が土曜日の夕方から来ているので、何かしら生活に張りが出る。友達と待ち合わせをしている妹を、近所の駅まで送り、洗濯、掃除、買い物をする。友達からメールが来た。デジカメでバイクの写真を撮って遊ぶ。

この写真をあの風景と合成したら年賀状に使えるよなぁと考えたりして現実から逃避した。スキーの時もそうだったが、こういうときの私は母親のことなどすっかり忘れている。太陽が夕日に変わる頃、友達と別れ静寂が訪れる。

ああ、病院に行かなければ。と現実のことを思い出す。本当ならば今日は実家に戻り家の整理や、空気の入れ換えをするつもりだった。が、したくなかったので行かなかった。留守電に入っている、母親の友人のしつこいメッセージもうざったい。私の記憶の中で母親が親しくしていた人には連絡を入れたのだが、この人だけは反応が過剰だった。「○○でェす。心配してまァす。病状を教えて下さいねェ。」というメッセージを実家の留守電に毎日入れている。意識が戻ってきたら連絡すると言っているのだが、私が連絡を怠っているとでも思っているのだろうか?

私は母親が培ってきた人間関係というのが苦手だ。オバハン同士のお互いを慰め合う振りをして、この人より私の方がましだわという優越感に浸り合う関係。時には子供すら持ち駒になる。相手の子供が短大に行き、自分の子供が大学なら勝ち。相手の子供より、自分の子供がより知名度の高い会社に就職すれば勝ち。そして最初に娘を嫁がせた方が勝ち。この手の戦いを飽きもせずに延々と続ける。

その戦いの不毛さと、「誰それのところみたいに、あんたも親孝行しなさい。」という暗黙のプレッシャーから、もっと他のことにエネルギーを使えば?みたいなことを何度か言った。しかし、「親に指図をするな。」というのが決まり文句だ。なので私は指図もしないし、関わらないことを選んだ。私はそういう価値観の支配する世界で生きていきたくはなかったからだ。

そして自分流の生活スタイルを貫き、数年後に悪い生活習慣から来る病気で倒れた母親。

私の選択は間違っていたのだろうか?指図するなと言われても、おせっかいなまでにあの人に関わり続けることが正しい選択だったのだろうか?

ベッドの上にただ転がる母親を妹と見舞う。鼻に管が刺さり、酸素を送り込まれている。体にはセンサー類が貼り付けられ、ベッドサイドのモニターに、心拍数、血圧などのデータが表示されている。「お母はん。来たで。分かったら手を握ってや。」と言い、手を持つ。何度も問いかけると覚醒したように手を握り返してきた。左目を開いて、黒目はこっちを見ている。

「あ、ちゃんとこっち見てるで。」妹が言った。私は瞬時に身構えた。母親がこっちを見据えるときは、いつも何か文句を言うときだからだ。でも、半分意識はないわけで、いきなり小言を垂れられるわけはない。私は平静に気持ちを戻した。妹が来たこと、今が夜であること、また明日来ることなどを告げ、その場を離れる。

離れ際にベッドサイドのモニターを見た妹が言った。「このモニターに何を考えてるかとか出たらええのになぁ。」それを聞いて私は、「バウリンガルの人間版やな。」と言いそうになったが、それは余りにも不謹慎やろということで黙ってその場を離れた。

明日からまた先週と同じ日常が始まる。


2004年12月18日(土) 偽善者の遠吠え

金曜日は会社を休んで遊んだ。木曜日は定時で会社をあがり、家に帰りおにぎりを握ってザックを背負い家を飛び出した。青春18きっぷを握りしめ、目的地は岐阜県の中津川。普通列車で5時間ほどかけて向かい、そこでだんなさんの車に拾ってもらった。

向かう先はおんたけのスキー場。親が死にかけてるのに…と世間の人は思うのだろうが、親のことを考えない時間が欲しかったのだ。今年買ったブーツと板はかなりいい感じだった。でもブーツは慣れるのに時間がかかりそうだ。ころげまわって、ひだまりの雪の上に寝転がってだんなさんとしゃべる。乗鞍の山が晴天の空に映える。

帰りに、白樺の林を抜け、温泉に入る。ぽかぽかの体でクルマに乗り、コンビニでコーヒーを買い、サザンを聴きながらだんなさんの家に向かう。(だんなさんはサザンのファンなのだ。)途中のスーパーで夕食とビールを買う。

何だか幸せだなぁと思った。息が詰まるようなことばかりで、今誰かに殺されても文句は言わない、むしろ感謝するよと思っていた昨日までが嘘のようだ。結局私は楽がしたい。ベッドの上の母親のことなど放置してしまいたい。

なのに毎日見舞いにゆく。嫌なら行かなきゃいいのだが、生かしてくれようとする先生方、私を勘当されたにも関わらず献身的な娘だと褒める母親の妹たち。そういう人の目があるから、私は行くのを止めることができないだけだと思う。いい人だと思われたい、私はそういう浅ましい人間なのだ。

今日も愛知県から18きっぷで帰ってきた。帰りたくないと、思わず本音が出てしまうと、「帰りたくなくなるのはいつものことやろうが。」とだんなさんは言った。そうだ、いつものことなんだよ、と思いつつ日の沈み行く車窓の景色は暗くにじんで見えた。

本当なら連泊してスキーを思いっきりやろうと思って、一ヶ月前から根回しして金曜日を休んだ。その矢先に倒れた母親。軽く恨んだ、鬱陶しいなと思ったのが本音だ。その気持ちを悟られないように私は旅先から病院に直行する。スキーブーツを持ち、ザックを背負い、そしてドラッグストアで紙おむつを買う。ディスカウントストアで買えば半額なのに、と思いつつ自虐的な気持ちでお金を払う。

私は偽善者なのだ。本当は愛情なんかひとつもないのに病院に見舞う。心と体をすれ違わせるようにして半笑いで生きて行く。いつからこんな姑息になったんだろう。

「人は神様が死んでもいいと言うまで死んではいけない。」と昔読んだマンガにあった。何をもっていいとするのか分からないが、私のような半端な人間にもそんな日はくるのだろうか。

こんな気持ちのまま、明日も、明後日も病院に行くのだろう。語りかけても何も反応のない母親の前で、思いやる振りをして実家の家賃や入院費用、病院から必要だと言われた物の買い出し…片づけるべきことに頭の中はいっぱいだ。

そして今日も眠れない。


2004年12月14日(火) ライフ・ゴーズ・オン。それでも人生は続く。

マッハの速さで週末は終わり、月曜日がやってきた。仕事が始まると一日2回の面会は時間的にきつい。早出をすれば晩の面会に間に合うかなぁといった感じだ。婦長さんに相談してみると、前もって伝えておけば時間の融通は利くという。

残業をやり、20時頃病院に駆けつけた。ぐうぐうとイビキをかいて寝ている。夜だから寝ているのかなぁと思っていたら、主治医の先生がやってきた。まだヤマを越えていないので…と言っていた。ヤマを越えれば後は回復を待つだけだが、今は悪化し続けているのだろう。

「よく眠ってますよね。」と言うと、寝ているというよりは意識がはっきりしていないのと、一生懸命呼吸しているので、いびきをかいているように聞こえるのだと言う。右手を握って、耳に向かって大声で話しかけても、反応はない。素人目には寝ているようにしか見えないのだが。

母は桁外れのヘビースモーカーだった。実家にいるとき、夏場に学校が終わって家に帰り、玄関のドアを開けるとぼわんと煙幕のような煙が出てきた。エアコンをかけながら締め切って、タバコを吸っていたのである。妹は「犬が肺ガンになるから別の部屋に犬を入れてから吸え!」と怒っていた。それくらい吸うんである。

一緒にカナダに行ったことがあったのだが、その時も恥ずかしいくらい吸いたがる。バンクーバーは公共の場所で一切の喫煙ができなかったので、レストランも禁煙席しかなかったのだが、食べ終わると、無意識にタバコをまさぐり吸いだす。灰皿はもちろんないので、カップの受け皿に紙ナプキンを折って乗せ、水でしめらせて灰皿がわりにしようとしていたのには呆れた。当然店から追い出される。バカだ。

それくらい吸うので、呼吸機能に問題があっても何も驚くことはないのだ。手術中もずっとぜんそくのような音を立てて息をしていたらしいし。

ぐずー、ぐずーといびきをかきながら眠っている姿は、実家にいたときコタツでうたた寝していた姿と変わらない。こんな近くで顔を見たことがあっただろうか。思い出すのは嫌なことばかりだ。私が母のことを好きだったのは幼稚園くらいまでだった。大好きなスヌーピーを刺繍した座布団カバーを作ってくれたり、そういう頃だ。

学校に入ると、うちが他の家と違うのが嫌でしょうがなく、なんでうちはこんなんなんだろうとばかり思っていた。その頃は父親が酒乱だったので父親が悪いと思っていたのだが、今となると、その原因は母親にあったのかなとも思う。

あの人の前では、皆が嘘をつかずにはいられないのだ。宿題をやったかと言われれば嘘をつき、誰それちゃんと遊んではだめと言われれば、はーいと言いつつその子と遊ぶ。父親は弟(私から見たらおじさん)が鬱病であることを隠していた。おじさんが自殺をしたとき、それがばれたのだ。しかもそのとき、血縁者にそういう人間がいることが分かっていれば結婚しなかったのに、みたいなことを言ったようだ。その頃から父親は外に事務所を構え(フリーの翻訳家だったのだ)、あんまり家に帰ってこなくなった。

父親は酒が好きで、自分のやりたいことしかやらないタイプで読書好き。白黒フィルムで写真を写し、英語が得意だった。幼稚園児に「天動説の絵本」だとか「マチスの画集」、「谷川俊太郎の詩集」、「スヌーピーのピーナッツシリーズの単行本」などをおみやげに買ってきていたので、かなり変わり者なんだろう。まぁ、私に近い。それに気が付いていたのか、母親は「あんたはあいつにそっくりやわ。」としつこく言った。

そっくりだからなんやねん!と言いたかったが、言えなかった。「だから気にくわない。」と言われるのが怖かったのだろうか。全ての親は子供のことを愛していると一般には言うが、私はそうは思わない。愛せないことももちろんあるのではないかと疑っている。

15分ほど眠っているような母親の顔を見ていた。この顔を見ているとそんな感じで嫌なことばかり思い出すわけだが、不思議と生き延びて欲しいと願う。これは本当に母を思ってのことなのか、それとも父のことなど今までのことを知りたいと思う自分の欲求のためなのか。多分後者なのだろう。

まぁ、左半身不随は決定なのでどれくらい会話ができるようになるのかはわからないのだけれども。もっともこの人は墓の中まで全ての秘密を持って行くつもりなのかもしれないが。




「日本酒記念館」のことを書こうと思ったのに、何故か三たび親の話になってしまった。「酒かすアイス」おいしかったのになぁ。


2004年12月11日(土) 母を訪ねて一日2回

金曜日の晩に緊急手術だった母が、ICU(集中治療室)に入るのを見届けたら、もう日付が変わっていた。手術は成功しましたという主治医の先生の言葉にほっとし、病院を出る。ママチャリをがしがしとこいで家に向かう。空腹なはずだが、おなかが空いてないような変な感じ。夜中の風が冷たい。

50分ほどこいでやっと家の近所にたどり着いた。「すき家」の看板が眠る町のオアシスのようにオレンジ色に輝いている。私は自転車を停め、店に入り「豚丼おしんこセット」を注文した。

ふぅ。小さく息をつきお茶を飲む。まもなく豚丼、おしんこ、おみそ汁、生卵が運ばれてきた。もくもくと食べる。ごちそうさまを言い店を出たらもう夜中の1時を過ぎていた。

その日の晩は死ぬ前に見ると言われている「人生が走馬燈のようにめぐりくる夢」だった。幼稚園くらいのときに出席した親の結婚式。(いわゆる私生児だったのだ。)親が離婚してどちらにも引き取られず親戚の家に預けられて辛酸を舐めまくった日々。大学受験に失敗して罵倒されまくったり、結婚するといったら「あたしの生活費はどうするの!」と訳の分からないことをのたまわれ、ある程度の収入とだんなという新しい家族を得た私は母から卒業した。

翌朝、おなかが痛くて目が覚めた。胃炎で薬を飲んでいるのに夜中に豚丼を食べてしまったからかもしれない。くしゃみをしたとたん、小さく戻してしまった。

時計を見るともう10時を過ぎている。ICUの面会時間は11時、18時からでそれぞれ45分。歯を磨いて病院へ急ぐ。ICUでは母親が手術のためにそり上げられた頭に伸縮するネットの包帯を巻き付けて、どんぐり坊やのようにしてベッドに転がっていた。血圧は上が186。かなり高めだ。看護婦さんはずっとこんな調子だと言う。熱があるようでアイスノンを巻いていた。

「娘さんが来ましたよ〜。」看護婦さんがびっくりするような大きな声で母親に話しかける。「わかったら右手をぎゅっと握ってくださいね〜。」母親は看護婦さんの手を握り替えしたようだった。「話しかけてあげてくださいね。分かっておられますから。」そう言うと看護婦さんは別の患者さんのベッドへと忙しそうに移って行った。

「お母はん。分かる?わかったら握り返して。」といい右手を握る。すると力強く握り返してきた。見た目はどんぐり坊やで管だらけだが、ちゃんと分かっているのだ。喉の奥に熱い固まりが湧き上がってきた。「どっか痛いところあるん?」別に聞きたいわけではないが、言葉がうまく出ない。母は私の手を握ったままぶんぶんと手を動かす。喉には酸素用の管が通されているので話すことはできない。知ってか知らずか、何かを伝えようと手をぶんぶん振っていた。

「また夕方の面会にくるわな。」私はそう言うとその場を離れた。病院の片隅のフェンスの脇でカブにもたれて考えた。重い。あまりにも重すぎる。少しも優しくなく、こういう人間にだけはならないでおこうと密かに思い、ある意味軽蔑していたが、今の姿を見ると憎むことに意味があったのだろうかと自問してしまう。けんか別れして4年目の再会がこれである。

実家の大家さんのところで鍵を借りて実家に入った。とりあえずの片づけが必要だと思ったからだ。ドアを開けた瞬間すえた匂いがする。ごみやその他もろもろ。が、一番ショックを受けたのは実家の荒廃具合だった。妹と私が結婚して家を出てから4年。たった4年である。その間にこの家は独居老人が後ろ向きに余生をやり過ごす空間に変わってしまっていた。

大昔の洋服、学校のジャージ、発泡トレイ、そんなもん捨てればいいのにっていうモノが狭い家に押し込まれている。食べ物はせんべいや果物など自分の好きな物とテレビで取り上げられた体によいと思われる食品群。

あまりにもやるせない。私はこの家で育った。その頃の家の中のわいわい感はどこにもない。私は茶碗をかき集め、洗い、洗濯をした。夕日が沈むと実家はあまりにも寂しく、一人でいることすら辛い空間だった。再び病院に向かう。

母は朝と同じ様子で手をばたばたと動かしていた。私が「来たで。」と言い手に触れると、強く握り返してきた。そして私の手のひらに何か文字を書くような仕草をする。看護婦さんに紙とペンを借りた。「ごはんはたべた?」と書いているようだった。私がまた食べていないよ、と言うと、自分のおなかをぽんぽん叩き、「おなかすいた。」と書いた。

頭の思考力は寝起きのねぼけたような状態らしいが、右手は器用に動いている。もし、片手だけで打てるキーボードのようなものがあればいろんなことが出来そうだなぁと考えた。(母はタイピストだったのだ。)

また明日来るわな、と言い残し家に帰った。まだ8時前だがもう眠たい。よく考えると今日はまだ何も食べていない。「すき家」に行こうかなと思ったが、連ちゃんは辛いので、買い置きのほうれん草と豚肩ロース薄切りで常夜鍋にした。熱燗が胃袋にしみる。飲んでいるはしから胃がきゅっと痛むような気がするが、どうしょもないと思った。とりあえず鍋を食べ終わってから薬は飲んだが。

その後、友人とチャットをした。大人になってからできた貴重な友達だが、何もかもを知っているわけではない。この2,3日のことをかいつまんで話した。文字チャットだから当たり前といえば当たり前なんだけど、静かに聞いてくれた。同情するでもなくただ耳を傾けてくれていたようでそれだけで少しだけ泣いた。

「明日の昼間は空いてるん?日本酒記念館みたいのんがあるから行けへん?」と誘われた。多分気を遣って気分転換すれば?と誘ってくれているのだろう。有り難く一緒に行く約束をした。

熱燗を3合ほど飲んでフトンにもぐり込むと何も考えずに寝てしまった。胃炎のことを考えると飲まないほうがいいのだろうが、悩まずに眠ることに重点を置くのなら、飲んだ方がいいように思う。こうやって私は「ゆるやかな自殺」へと向かっていっているのだろうか。


2004年12月10日(金) 4年ぶりだよ、おっ母さん!がしかし…

4年ぶりに母親に会ったんである。なんでそんなに疎遠なのかと言うと、結婚に反対されてその後もいろいろとしょーもないことをしてきたので、険悪な状態になりどちらも無視するようになってしまったのである。

それが今日は会った。病院のベッドの上で管を刺されて、手にはなべつかみのようなカバーをかぶせられ、柵に手を固定されていた。暴れて管類を外さないようにだ。意識はないが、苦しいと暴れるらしい。

昼過ぎに携帯に電話があった。いやな感じがしたのでかけ直してみると、社会保険事務所の人で、母親が倒れて運ばれたが、身よりの人間を捜していたのだと言う。それで私の携帯番号がどうして分かったのかは謎である。有り難い反面、個人情報というのはどこでどうつながっているのだろう。(実家にいたときはドコモ、結婚してからはJフォン、ツーカーと何度か番号は変わっている。それに、母親はツーカーの番号は知らないはずだった。)

倒れたのは水曜日、発見されて搬送されたのは木曜日の夕方。で、身寄りが見つかったのが今日、金曜日の夕方。手術の承諾書が要ったのだそうな。そしてさっき3時間ほどの手術が終わった。手術は成功したが、意識は戻っていない。先生によると、意識は戻っていても寝ぼけているような感じになるので、モノはあんまり考えられないような状態になるらしい。

病名は脳梗塞。左半身は完全に麻痺しており、言葉ははっきりわからない。死んでしまって腫れあがった左脳に脳幹が圧迫され、瞳孔が開きつつあった。頭蓋骨を一部切開して、脳幹の圧迫を食い止めるのが精一杯。脳幹がダメージを受けると、呼吸、視覚など、生きるのに必要な機能が失われてしまうとのこと。

頭の血管の写真を見せてもらった。心臓からやってきた血管が、頭のまんなかで左右に分かれる。その別れてすぐの血管が盛大に詰まっているのがよく分かる。主な原因としては、不整脈に由来するもの、生活習慣病があるという。が、今回の場合は生活習慣病ではないか、とのことだった。油っぽいものには気を使っていたが、甘いモノは好きなだけ食べて糖尿に。みのもんたや、「あるある」に影響されやすいタイプで、家には黒酢、酢大豆、ごま、ココア、赤ワインがホコリをかぶっている。

ちなみに母はアルコールが全然だめだ。分解する酵素を全く持っていない体質で、コップ一杯のビールを同窓会で飲み干し、救急車で運ばれたこともあったらしい。なのに、健康のためにポリフェノールを含んだ赤ワインを買ってしまうのである。

これが実の母親だと思うとめまいがするが、いくらぼやいても、昔の憎そい(にくったらしい)母親はもう戻ってこないだろう。「憎む気持ちからは何も生まれない」という事実を受け入れ、自分なりの最善を尽くそうと、手術を待つ間に決心をした。

まぁ、一般的に考えれば、私は冷徹すぎるのかもしれないが。


2004年12月05日(日) 飲んで飲んで飲まれて飲んで

一ヶ月に一本書かせてもらっているインターネットのコラムがあるのだが、11月の分を書くのを忘れていたのである。その催促が来たのが週の初め。ネタ集めやらなんやらで、土曜の朝イチに送ります!と丁重に返信をした。

で、あっという間に金曜日。会社から帰るなり、文章を書き出す。肩こりで頭がぼーっとしつつおもしろいことを書くのはマゾヒスティックな気分だ。30cmの竹のものさしで肩をぐりぐりやりながらどうにか書き上げる。気が付いたら「元祖!でぶや」はもう終わっていた。ううう…、石ちゃん。

気を取り直して「探偵!ナイトスクープ」を見る。ピンクレディーの振り付けが完璧なおっさん二人組がすごかった。自前のサウスポーの衣装はやはり自作なのだろうか?

ナイトスクープを満喫しているうちに、イラストを描くのをすっかり忘れていた。しかし、眠い。目覚ましを5時半にセットして寝ることにした。

そして土曜日の5時半。飛び起きてお茶を飲みながらイラストを描く。A4の紙に下書きして、それをトレシングペーパーで写し、ペン入れしたものをスキャナでマックに取り込むのだが、ペンがカスカスで描けなくなっている。数年前に無印良品で購入した筆ペンなのだが、朝の6時にそんなものを買いに行けないので、そこらへんの「名前ぺん」と書かれたフエルトペンで描いた。なんか適当だなぁ、と思いつつも。

それをとりこむのも一苦労だ。私のスキャナはMacOSXに対応してないのでクラシック環境で使わなければならない。クラシックの方のフォトショップを起動して、そこで取り込み、保存。次にマシンを再起動させる。何故かというと、クラシックのフォトショップを起動させた後は、OSXの方のフォトショップが不審な動きをするからだ。文字が入力できなくなったりする。

だんだん夜が明けてくる。しかし土曜日の早朝のテレビ番組はつまらない。速攻消してラジオを聞く。最近のお気に入りはBlack Eyed Peas、大塚愛、BUMP OF CHICKEN. なんかむちゃくちゃな組み合わせだ。

そうこうしているうちにもう8時。ペン入れの段階で線を整理しておかなかったので、パソコンの作業がめんどくさい。最初っから線をつなげておけば、選択するときが楽なのに…というのは毎回感じている。学習せーよ、自分。

やっとこさ先方にメールしたのは9時ちょい過ぎ。朝イチのメールチェックに間に合っていますようにと祈る気持ちだった。

ふと気が付くとおなかが痛い。恒例、土曜日のハライタ参上である。平日の朝のんびりとトイレに行けないので、時間にゆとりのある土曜日におなかが痛くなる。た、助けてくれ…などとうめきながら個室にこもる。後に大量の水とともにビオフェルミンを飲んでもう一度寝ることにした。

その前にやるべきことがあった。友達に電話して、今日会うのに行けなくなったと言う。10時半に地元の駅なんだが、極度の脱力感で動けない。肩こりでバイクにも乗れないし。(後方確認ができないのだ。)

そして寝る。起きたら夕方だった。ついでにMLの忘年会でもあった。そこでカニを食べ、笑い、しゃべり、何故か少し泣き、よくわからないほど焼酎を飲んでしまった。朝の腹痛はなかったことにして。

翌朝日曜日。これまた地獄のようにしんどい。水を飲み、吐く。何も出ないが吐く。昼過ぎに外へ出るも、気分が悪くて歩けない。なので家に帰り寝る。起きたらもう8時過ぎだった。

飲酒はゆるやかな自殺かもしれないとふと思う。やってられないから飲むが、飲めば飲むだけしんどくなる。飲んでも飲まなくてもしんどいのなら飲まない方がいいとは思うが、飲まずにいるときのやってられなさは限界が見えない。二日酔いは一日で終わるけれど、やってられないと感じる日常は永遠ですらあると感じることもある。

「永遠に続くことなんか一つもないんだから、あんまり落ち込まんとやりすごしやぁ。」最近楽しいことがなくて、落ち込みがちな友人に送ったメールの一文である。本当にこの言葉をかみしめるべきなのは、自分の方かもしれない。

12月の忙しさは12月で終わるはずなのだから。


2004年12月03日(金) 一週間分まとめてドン!

エンピツのトップページから自分のID番号を入力して検索した。自分が前回の日記で何を書いたか忘れていたからだ。読んで、ああ、これかぁと思い出した。書いてあることは事実だけれど、言葉のトーンが淡々としすぎていて、まるでリアルに夫婦の危機ってかんじだ。

知り合いの皆さん、危機ではないのでご安心下さい。m(--)m

あれから一週間、それ以上が経つが別に取り立てネタになるようなことがない。毎日家に帰るのが遅いので、いいかげんなものをぱくっと食べて、敷きっぱなしの布団に寝るという生活。いい加減なものとは本当にいい加減で、ゆでた人参をすり鉢であたったごま、みりん、赤みそで和えたものとか、シーチキンにキムチとマヨネーズを乗せたものとか、そういった何ともメニューにすらならないものである。

しかし酒はよく飲む。先日もネットの焼酎屋で焼酎の1升瓶を6本買った。全てどーんと来るタイプの芋焼酎で大量には飲まない。寝る前とかにコップ一杯飲む程度だ。食事の時は小ジョッキに氷と韓国焼酎、やかんに沸かしたウーロン茶を注いで飲む。それを飲みながら社員旅行のスライドショーを作ったり、iTunesのプレイリストを編集し、CDに焼き、コンポでMDにダビングしたりする。誰かUSB接続のMDプレイヤーを作ってくれよと思うが、そういう人のためにiPodがあるのだろう。

その社員旅行のスライドショーだが、こないだ会社で上映会をやった。会社のパソコンはサウンドボードを積んでいないし、クイックタイムはインストールされていないしということで、愛機iBookをザックに入れて持っていった。これが思いの外大好評でCD-Rに焼いて配った。で、気が付いたのだが、世間の人たちはパソコンを毎日使っているわりに、パソコンのことを知らない。CD上で再生するとコマ落ちするから、ローカルのハードディスクにコピーしてから再生してといっても半分くらいの人はCDの上のアイコンをクリックしていたようだった。

そういう感じなのでこの日から私はパソコンでちょっと困ったら声をかけられる人になってしまった。マックユーザーにウィンドウズのことを聞かれてもなぁ。

最後に悲しみをひとつ。最近の布団の中で読むお気に入り本として、群ようこさんの「群ようこの良品カタログ」がある。写真もキレイだし、紙の手触りもいいし、群さんのキレのある文章がいい。とりあげられている良品も、手拭い、ビタクラフト鍋、ル・クルーゼ、などなど。私の好きなものばかりだ。そのなかにビルケンシュトックの靴が取り上げられていた。腰痛にいいらしい。

私はよし、とばかりに心斎橋の新橋交差点にあるビルケンシュトックの店に行って来た。目的は群さん愛用の「ミネアポリス」(ベルトの革靴)を見るため。ほとんど買うつもりだったといっても過言ではない。

意気揚々と履いてみる私。5本指のソックスを履いてきていたことに気が付き脂汗が出る。でもくじけずに靴に足を突っ込む。…。入るよ、入るけどさ、もうみちみちですよ!甲の部分が、ふっくらとドーム上に盛り上がっていて、ベルトは当然締められない。ぱつんぱつんで靴が可哀想ですらある。

まぁ、ドイツ人の考えた靴だからしゃーねーわなとあきらめつつも、脂汗がさらに倍!といった感じで吹き出してくる。店員さんはクロッグかサンダルなら…とおすすめしてくれるが、意気消沈で試し履きする気力もない。カタログだけもらって帰ってきた。

そんなこんなで日記を書くまでもない、些細な毎日であった。なんかぱーっとしたいものである。


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