日々是迷々之記
目次


2001年10月31日(水) イマドキにびっくり

朝目覚めると、やる気満々だった。HPの更新、ではなくリビングの模様替えである。昨晩、テレビに積もったホコリを払いながら、これじゃアカンよな…、と感じ、てきとーにしまわれたビデオテープ、期限切れの通販カタログなどを横目で眺めていたのだ。これでは、いけない。ホコリでくしゃみがでるし。

さっそくいるモノといらないモノを分ける。体積の半分はゴミだった。クーポンになったダイレクトメール、数年前に病院でもらったドロドロの塗り薬、でるわでるわ。スーパーの袋に突っ込んで、明日のゴミ出しを待つ。

次にホコリをはらう。そして、小さなキャビネット(クルマつき)を移動。掃除機をかける。さぁ、次はテレビだ。これが重い。死ぬかと思った。背中に汗が流れるのを感じながらテレビをテーブルに移動させた。驚いたことにテレビ台にはヒビが入っている。ダンナさんが独身時代にゴミ捨て場からぱくってきたものだからこんなもんかもしれないが。ホコリをはらい、ちょっとずらしてテレビを戻す。このあたりでやる気を失ってきた。

傍らに、テレビの後ろから発掘してきた雑誌がある。うわ〜ネタが古いなぁと思いつつぱらぱらやっていると、知らないうちに寝ていた。寒くて目が覚めると、夕焼け空だった。トホホホホホ〜な気分で本類を片づけ、あとは掃除機をかけるだけ!というところまで辿り着いた。雑巾掛けはまた明日だ。

買い物にでかけることにした。のんびりと徒歩で。生牡蠣、厚揚げ、ビールを購入し、マンションへ戻ってきた。すると、奥様方がたむろっている。

「あんなぁ、学校のリサイクル運動あるやんか。」
「あんたんとこの学年も?」
「そやねん。あれなぁ、うち夜なってから子供が『空き缶くれ〜』いうから、自動販売機にジュース買いにやらしてなぁ、みんなで一本づつ飲んでんよ。それで洗って持って行かすねん。うちビール飲まへんから、そんなまいどまいど持って行くほど出ぇへんわ。」

というような会話をしていた。最近の学校はすごい。リサイクルにノルマを科してどーするんだ!そのうち、「新聞一ヶ月分、発泡トレー10枚、使用済みテレカ10枚、牛乳パック10枚。月曜日までに用意せな知らんで。おう、牛乳パックはきれいに洗ってもらわな困るでしかし。」などと、子供を脅して空き瓶やら銅線を拾わせるオッサンのようになるのではないか?(今はそんなオッサンいないと思うけど。)

大人がそういうことをやるのは勝手だけど、子供らに「リサイクルってそういうもんなんや。」って思わせてしまったら罪は重いのではないか。缶が無ければ、先生にそう言うか、子供と一緒に公園にでも拾いに行けばいいのに。

でも、そういう大人がくずかごから空き缶を引っぱり出して洗ったりできないんだろうなぁ。「手が汚れるから触っちゃだめ!」とか言って。

こういうふうに、ノルマ達成、帳尻合わせればOKみたいな考えを植え付けていくんだなって納得してしまった出来事だった。絶対学校でグラフ作って、表彰したりしてるんだろうな〜。


2001年10月30日(火) HP更新のドレイ

青空に導かれるようにして、自転車で外出する。隣町の大きな図書館へ行った。そこにはたくさんのカヌー本があったのでふむふむと読む。気が付くと5時を回ったところなので、残りは貸し出ししてもらい、家で読むことにした。

途中、小さな商店街を覗く。あることは知っていたが、バイクでは立ち寄りにくい位置にあるため利用したことはなかった。閉店前の魚屋兼食料品屋でオデンだねを二品購入。賞味期限が明日だから半額でいいよとのこと。むふふ、うれしいではないか。今日食べる分には一緒だし。

次にスーパーに寄った。そこでエリンギを購入。今日はエリンギのあぶり焼きと、山芋短冊、そしてオデンに熱燗。自転車で走るとどうしても暖かいものが欲しくなる。

家に着くと、食事の用意をしオデンをぬくめつつ、エリンギをあぶり、熱燗をちょびちょび飲む。むふふ、極楽と思いつつ、やるべきことが頭をよぎる。HPの更新だ。

何日も前から宣言しているが、いっこうに進んでいない。文章を書いたり、写真をいじったりするのは楽しいのだが、構成をやり直したり、スクリプトをひたすら書いたりするのはあんまり面白くないのだ。しかも、パソコンの前は誘惑が多い。メールニュースを読んだり、栗ゴハンの作り方を調べたり、傍らの雑誌を読んだり、遅々としてすすまない。脱線の連続だ。

そして昨日の深夜、重大なことに気が付いたのだ。画像ファイルに適当な名前を付けていたら、どれが何だかわからないのである。なので、どのファイルをどこに置いたらいいのやら…。という大マヌケな状況に陥ってしまったのだ。トホホ〜、ということで昨日は寝てしまった。

そして今日。逃げていては進まないのでひとつひとつ開いて名前を付け直し、こつこつ作業を進めた。そして、一念発起、ファイル構成の変更もすることにした。要はページごとに画像をまとめて管理するだけなのだが、フォルダを作らず、全てを同じ階層にぶちまけるのを常としていたわたしには面倒な作業だ。でも、今やらないと、後で泣きを見る。(実際かなり雑然としている)

パソコンのデスクトップにぶちまけられたファイルは、まるで仕事部屋の床の上の雑誌や書類のようだ。

更新が終わったら部屋を掃除しないと…。いやはや。


2001年10月29日(月) ヨロコビの自転車

目が覚めると外は快晴。HPの更新作業で頭の芯が疲れていてぼやんとしているが、気持ちがよい。何か浮き立つような気分だ。よし、今日は自転車に乗ってみよう。

そう思い立つと、たまったお茶碗を洗い、フトンを片づけ、身支度を整える。モンベルのTシャツ、フリースジャケット、Gパン、そして指切り革手袋。久しぶりに革手袋をはめると、よっしゃこぐぞ!という気持ちになるから不思議だ。自転車をチェックする。微妙に空気が減っていたので入れた。

かついでマンションの玄関に降ろす。さすがに自転車をかついで、普通通り階段を下りるのはちょっとこわい。慎重に一段一段降りる。そして、こぎだした。3週間ぶりだ。

やはり膝が痛む。ぐりぐりを摘出した部分の皮がひきつる。外から見た感じでは、おへそみたいにきゅっとしまっているのでしょうがないかと思う。プラス、膝裏の外側の筋が痛む。きっと今までほとんど使っていなかったからびっくりしているのだろう。一歩一歩、確かめるように、慎重に、はやる気持ちを抑えながら、ペダルを回す。クルマとすれ違うためにほんの少し停車し、こぎ出すときにいつものような調子でこぎだしたら激痛が走った。

膝の屈曲が十分でないので、無意識にカカトでこいでいたのに、ふとした拍子にいつものように母指球で踏み込んでいたようだ。ガマガエルのおたけびのような声がでてしまった。ううう、痛い。調子に乗らずに、慎重にやっていかなければならないようだ。

そこからは順調にかつ、慎重にこぐことができた。痛みが教訓として残っているようだ。途中、オモロイ看板を見つけたので、すかさずフリースのポケットからデジカメを取り出して撮影。日差しが強いので液晶画面が見にくかったが、このフットワークの軽さが気に入っている。一眼レフでこういう写真はちょっと撮りにくい。

渡船で隣の区へ渡り、海沿いの道を軽快に飛ばす。クルマがいないのを見計らって、体重移動でバンクさせて右折。こんな感覚は久しぶりだった。こんな体でも、ちゃんと乗り方を覚えていたことにちょっと感動する。夢中で走り、3時間後、スーパーで買い物をして、帰路についた。

半袖Tシャツとフリースという軽装で出たのに、帰るとしっかり汗ばんでいた。大げさかもしれないが、この汗は自転車でしかかくことの出来ない汗だと思う。冬が来る前にこの汗をかくことができたのが嬉しい。

さぁ、明日はどこへ行こう。晴れるといいなぁ。


2001年10月28日(日) 静かな日常

昨晩はなかなか眠りにつくことができず、目が覚めたら11時を回っていた。外は曇り空。天気予報はよく当たるもんだと感心する。

寝ぼけた頭でコーヒーを入れ、パソコンの電源を入れる。新聞を取っていないので、これが唯一の情報源だ。テレビは本当に見たいものしか見ない。音がうるさいからだ。ADSLを導入するかどうか思案する。今のフレッツISDNより安くなりそうなのだ。しかし、WinとMacで同時に接続、しかもセキュリティを考慮して…と考えると課題は山積みだ。ケーブルを導入するのも可能だが、質問に対する返答があまりにも無知だったので、不安を覚え止めしにした。NTTの116の案内もそうだけど、CS(Customer Satisfaction・顧客の満足)を考えたことがあるんだろうか?いつか淘汰されるべし。

昨日の残りゴハンでおじやを作り、テレビの電源を入れる。今、鮒子が好きだ。やらせも演出もそれなりにあるけど、見ていて楽しい。この番組に出てくる人たちは、男性より、女性の方がはじけてると思うのは私だけだろうか?男性は苦悩の色が濃く、女性はしんどいけどやるで〜というタイプが多い、ような気がする。

食事が終わったので散歩に出ることにした。雨が降りそうなので遠出はしない。昨日の今日なので、日が沈むまでに家に戻ろうと思う。長袖シャツの上にベストを羽織る。右のポケットには財布。左のポケットには布の買い物袋。手ぶらで歩くのが好きだ。今日は市場が休みなので、スーパーに向かう。

スーパーではパン屋さんで「異星人ガキとその親」に遭遇した。細かい描写はしないが、手づかみでパンをつかむのはどうかと思う。親、怒っていいんでないの?それとものびのび育てているつもりなのか?つかんだパンを全部買ってやるより、つかまないようにしつけるのが本人のためだと思うが。でも言わない。シカトこかれたら為すすべがないからだ。

キムチと味噌と砂肝を購入。親子連れの雑踏を避けるため、反対方向を進む。貨物の線路沿いの道を選んだ。人通りがないので、バイク以外では通ったことがないが、まだ日没には時間がある。でも、自転車の近寄る音に気をくばりつつ進む。

大きな夕焼けと、犬を散歩させるおじいさん、鳥の群が模様を描きながら空を舞っている。今日初めてほっとする。静かな癒しに少し気持ちが楽になる。

家に戻ると、何気なく自転車にまたがってみた。おそるおそる、手術した右足をペダルに乗せ、ペダルを一番高い位置まであげてみる。大丈夫、痛くない。何だか嬉しくなってしまった。今で術後3週間ほど。自転車復活の日は近い。冬が来る前にこぎ出せそうだ。

明日、雨が降っていなかったら、自転車に乗ってみよう。ガキンチョも変態オヤジもいないところで、私はワハハと笑いたい。


2001年10月27日(土) 亀ガキとその親、そしてクソジジイ

電車の中で私は座席に座っていた。K都駅に着くとどさどさっと人が降り、入れ替わるように人が乗ってきた。私の隣も空席になり、入れ替わるように幼稚園前くらいの男児が座った。彼の目の前には母親とおぼしき女性。私よりすこし若いくらいか。

座るいなや、その子は手に持った大きく膨らんだコンビニ袋から亀を取り出した。亀、である。甲羅の径は5センチX3センチといった感じか。ミドリガメのようだ。子供は甲羅をつかみ、「ひゅ〜、バイ〜ン!」などと、空を切るガメラのようにして遊んでいる。

私は顔文字のヒヤアセ君のような気持ちになり、ささっとMDプレイヤーのイヤホンを耳に突っ込み、音楽に耳を傾けた。目を閉じていたらうたた寝しており、ふくらはぎのひんやり感で目が覚めた。

よく見ると、びっしょりではないが、ふくらはぎからつま先にかけて、ジーンズとブーツが濡れている。隣の子供の亀が入っていたコンビニ袋からこぼれているのは明らかだった。電車の床はびっしょりで、向かいに立っていた女性のブーツはスエードだったのでいかにも濡れてますといった感じだ。

「あの、こっちまで水が来て濡れてるんですけど。」私が母親と、子供に向かってそう言った。すると、驚いたことに、母親はくるりときびすを返し、座席にお尻を向けるではないか。「シートまでびしょぬれなんですけど。」私が言葉を続けても、母親は背を向けたままだ。子供は助けを求めるように母親の方を見ている。

これはどうしょもないと思い、とりあえずティッシュペーパーを出して、私のジーパン、ブーツ、そしてシート、手の届く範囲の床を拭いた。こけたらアホみたいだからだ。わたしは子供に向かって「お前も拭かんかい!」という視線を送り、無言でティッシュペーパーを差し出す仕草をした。でも、子供は分からず、きょとんとしている。

拭きとったティッシュの山を集め、その子供に捨てさせようと渡そうとしたとき、電車はK津駅に着いた。すると、母親は脱兎のごとく出口へ向かい、開いたドアから駆けだした。子供はきょとんとしつつ無言でそれを追いかける。

残されたティッシュの山を前に、私はボーゼンとしてしまった。シカトこいて、子供まで置いて逃げようとするなんて、荒技ではないか。これでも母親顔して世間を渡って行っているんだから世の中はすごい。そもそも、電車で帰るのに、亀を買い与えるべきではない。しかもコンビニ袋に水を入れてって、どういうもんなんだろうか。結局終点で私は降り、ゴミ箱にティッシュの山を捨てた。

そして、その日は人身事故があり、終電車で家に帰ることになった。JRの最寄りの駅から徒歩で25分。今の足なら30分くらいか。てくてくと家路を急ぐ。その時背後から自転車のチェーンの音が聞こえる。私はとっさに車道側から遠のいた。鞄をひったくろうとして、こかされたらシャレにならないからだ。

しかし、それはひったくりではなく、私を通り過ぎた。考えすぎかと思い、歩き続ける。すると、その自転車はUターンをして戻ってくる。酔っぱらいかと思い、距離を開け歩き続ける。するとすれ違いざまに「オ○コ。ブツブツ…」と分かるようにつぶやき、わがの右手で股間をまさぐっているではないか。「どっしぇ〜!!」と私は思い、ペンティアム4並の処理速度で考えをまとめた。「勝負して勝てそうか?自転車に蹴りを入れてこかして、眉間にワークブーツのカカトを押し込めれば勝てそうだ。でも、何もされていない以上、過剰防衛になるだろう。これは防御に回るべきだ。」

そう判断し、私はジャケットのポケットに手を入れ、リダイヤルを押し、ダンナさんに電話をかけた。「モヒモヒ〜」明らかに寝ていたようだ。私はわざと大きな声で、「不審な男がママチャリで付けてくるから、家に着くまでしゃべっていて欲しい。」と伝え、とにかくしゃべり続けた。ダンナさんはタクシーを拾って帰りなさいと、言った。しかし、そこは住宅街の真ん中でタクシーが来る通りまでは100メートルはあるだろう。わたしはこの100メートルを永遠のように感じながらも大通りへ進んだ。

わたしが携帯電話でしゃべっているのを見て、股間まさぐりオヤジは舌打ちをして去ってゆき、もう、戻ってくることはなかった。そして大通りに出るとすぐにタクシーが来て、わたしは家に帰り着いた。

一体今日は何だったのだろう?ガキンチョの亀攻撃に、無関心世間知らず母、そして股間まさぐりオヤジの接近。世間は私の予想を超えた人格を生み出し、それを許容している。

それでも生きて行くには、国外脱出か、世捨て人になって山ごもりしかないのだろうか?いやはや。どうしたもんか。疲れたのでさっさとフトンにもぐりこんでしまおう。


2001年10月26日(金) 子供とオカン

週に一度の通院の後、スーパーや本屋さん、クリーニング屋さんをまわって、両手に荷物をぶらさげふらふらとマンションに辿り着いたのは4時をまわったころだった。

郵便受けから取り出した手紙に目をやりつつ、ロビーに向かうとキックボードに乗った幼稚園児が何やらおたけびをあげながらやってきた。後ろからその子のお母さんらしき人ともっと小さい子供がやってきた。

「××ちゃん、上押して。」お母さんが言った。「え〜、イヤ〜。」子供が言う。「押しなさいって!」「うぇぇ〜、どうしようかなァ〜」押すふりをして手を出したり引っ込めたりしている。「早く押しや!おねえちゃんが怒るで!」おねえちゃんとは私のことかい。決まり悪そうにその子がボタンを押した。何だか嫌な予感がする。

エレベーターが到着し、我先にとキックボードの少年が乗り込む。そして、弟らしき子供、そしてお母さん。最後に私が乗り込んだ。私が4階を押し、そのお母さんが13階を押した。ぐぃーんと音を立ててエレベーターが動き出す。

「もぉあんた、エレベーターの中では(キックボードから)降りなさいいうていつも言うてるやろ。」「えぇぇ〜」「ブシュ〜」弟をこづいている。「やめてぇやぁ。」まるで自分の家状態だ。私はひそひそと(することないんだけど、なんとなく)ドアの前に移動した。

その時だった。膝の裏にがくんという衝撃を感じてよろけてしまった。一瞬何が起こったか分からなかったが、振り向くとキックボードごと子供がひっくり返っていた。13階に着いたと勘違いして勢い良くキックボードを蹴り出したが、そこに私がいたという訳だ。

「うぅ。」軽くうめいた。いわゆる膝カックン状態だ。「もう!アンタ乗ったらアカン言うてる先からホンマに。あらもう済みませんね。××君!アカンよ、こけたら痛いやろ?」まるで上沼恵美子状態でまくし立てる。しかも声がデカイ。私は何も言う気が無くなって、そのままエレベーターを降りた。

膝もびっくりしてるし、あのガキもバカだし、でも何よりもあのオカンがむかついてどないもこないも、あ〜イライラ!してしまった。大体、私だったから良かったけど、杖のお年寄りとか、義足の人とかだったら、しゃれにならないと思ってしまう。

こういうのを見ると、将来は絶対親になんかなりたくないと思ってしまう。面倒見るのは自分自身でたくさんだ。よしんば親になるとしても、ああいった半径50センチくらいしか視野のない無神経な妖怪のような一家を作ることだけは避けたい。しかも、あのお母さんは多分私と一緒くらいの年だと思う。よくもあそこまでオバサン怪獣化できるなぁと感心してしまった。

足が治ったら、エレベーターを使うのはやめようと堅く誓ってしまうような出来事だった。


2001年10月25日(木) 押し入れ魔窟探索記

ふと部屋を見るとフトンがころがっていた。しかも二組。ひとつは私のフトンでもう一つは新品のフトンだ。ダンナさんのフトンが10年モノでへたりきっているので勇気を出して購入したものだ。

恥ずかしながら告白すると、私は結婚してこの家に越してきてからフトンを押し入れに入れたことがなかった。タンスがないのでとりあえずプラスチックの三段引き出しを購入し、それをタンス代わりに押し入れに突っ込んでいたのでフトンの入る隙間がないのだ。まぁ、毎日畳むようにはしていたけれど…。

冷静になって押入の中の洋服を見てみると、とても着られないようなモノが満載だった。体操服、へたれきったTシャツ、一番体重が重かったときに購入したスーツなどは直視できないほどにでかい。よし、整理しようとたちあがった。洋服類を整理すれば、二組のフトンを仲良くニコニコと積み上げるスペースくらいはあるはずなのだ。

まず、仕分け。一応ブランドモノは段ボールにたたんで入れる。オークションに出品するのだ。穴のあいた靴下、へろへろのTシャツなんかは、大きなポリ袋に入れて雑巾代わりに使うためにためておく。自転車の整備、換気扇の掃除なんかのときに役に立つのだ。ここで頭を抱えてしまった。オークションにも出せない、雑巾にするのもなんだかな〜というモノが多いのだ。深くは語らないが思い出のシャツとか、以前勤めていた会社の制服など。制服なんかは違う意味でオークション向きかもしれないが、そういうことをするのもナンなのでとりあえずクリーニング屋さんに持っていくことにした。

さて、これで四分の三は片づいた。後は、モノ達である。これがまた洋服以上に取捨選択が難しい。おおかたはカナダ時代にかき集めた書類で、航空券の半券、マクドのオマケのホッケーカード、写真、などなど。全部見ていたら日が暮れるので、適当なコンテナボックスに押し込んで「思い出箱」と名付けた。

最後にほんとにどないしょうというモノが出てきてしまった。何と、1999年のバレンタインデーのお返し、なのだ。もちろんダンナさんからである。そのパッケージを見た瞬間、その頃の記憶が蘇る。わたしは非常に嬉しくて、ビニール袋にしまい、それをなおかつ、しまい込んでいたのだ。何か特別な時に食べようと思って。そして忘却の彼方に追いやってしまい、2年の歳月を経て、今蘇ったのだ。すまない気持ちとこわい気持ちで、開けるかどうか迷ったが、やはり中を見ないというのも申し訳ないので開けてみた。中身はラベルによるとマシュマロとホワイトチョコレートのようだった。

勇気を出して、包み紙を破った。中にはビニールの巾着袋に入ったマシュマロと、チョコレートが鎮座していた。一目でそれと分かったのでそれほど恐ろしい形状にはなっていなかった。しかし、じーっと見ると身の毛がよだってしまった。マシュマロは表面が数の子のように無数のつぶつぶで覆われている。色こそ白いが、表面がベルベットのようにフサフサしている。チョコレートはホワイトチョコレートのくせに、きなこのような色で、表面は乾期の砂漠のようにひび割れている。

「ああ、済まないねぇ…。」とつぶやき、元あった袋に静かにしまった。遠い所で働いているダンナさんに懺悔をしつつ。

何年かに一回しか大きな掃除をしないからこんなことになるのは間違いないのだが、次の掃除は早くても年末だなぁと反省の足りない私は思ってしまった。

今日の教訓:食べ物は覚えているうちに食え。


2001年10月24日(水) パソコンを捨て町へ出よう

先週から格闘しているJavaScriptだが、にっちもさっちもどーにもならなくなってきた。ちっとも思い通りに動作してくれないので「がぁ〜!!」と叫んでどこかへ行ってしまいたい気分だ。傍らにある「Danny Goodman の JavaScript ハンドブック」全550ページ、4800円也の重たさが身にしみる。今日は朝イチのメールチェックだけして、外に出ることにした。

銀行の通帳セット、クリーニングに出すジャケット、デジカメを買い物袋に入れていざ出陣。平日の住宅街の昼下がりは平和そのものだ。犬もあくびをしていた。この町に暮らして3年。まだ通ったことのない道を歩く。思わぬ所に九官鳥が飼われていたり、大昔の黄ばんだアイドルのポスターが貼ってあったりしてなごむ。

クリーニング屋に立ち寄った。初めて利用する店なのだが、昔ながらのカーボンで複写する小さなオビのような受け取り票で、なんだか懐かしかった。そうだ、昔はバーコードなんかなかったんやからと、思いを巡らせ市場へ向かう。夕方のセールでおばちゃんたちは活気づいていた。大根50円。みかん1盛200円。実質一人暮らしなので買わずにおいた。鯛のあら、にんにくなどを勝って家路を急ぐ。長袖のタートルネックのシャツ一枚にGパンだと少し肌寒いのだ。

公園では子供たちが野球し、おじいさんたちが将棋をさし、ひもを外された犬たちがじゃれ合っている。向かいの駄菓子屋兼ゲーム屋では、子供たちがわーわーやっている。21世紀になってもこういう光景が残っていて、それに気づかなかった自分は何だかもったいないことをしていたような気がする。

ブロードバンドだの、JavaScriptだの、生死に関わらないことでうにゃうにゃと悩むくらいなら、たまにはパソコンを休ませて町に出ようと思った。歩いて行ける範囲にまだまだ気づいてないこと、見えていないことがたくさんある。


2001年10月23日(火) 小さな強い意志

目が覚めると、昨日とは大違いの青空が広がっていた。早速洗濯機を回し、掃除をする。喉のつまりが続くので今日は内科に行くことにした。いつも行くM病院だ。

胸に聴診器を当ててみるとさほど音はしないので、気管支炎というほどでもなく、風邪という診断だった。もらった薬は痰を出やすくする薬で非常に良く効いている。診察が300円、薬が600円、ならとても安い。

気分が良くなってきたのでちょっとお買い物に行く。お気に入りのショップで洋服を物色。たまたまちょうどいいサイズのものが安くなっていたので買う。手触りがいいから気に入ってしまった。

明るいうちにバスに乗り家に帰った。しかし、ココロ晴ればれでいることができたのはここまでだった。実家の母親が私と連絡を取りたがっているとの旨が妹から知らされた。私はいろいろあって、去年の春頃から関係を絶っている。妹もそのいきさつを知ってか、知らずか、「どうしよう?」と尋ねてくれている。適当にあしらってもらって、電話番号やメールアドレスは伝えないでおいてもらった。

しかし、数時間後、友人から同じような内容のメールをもらった。母親は、私の友人をひとりひとりあたっているらしい。理由は「夢で出てきて、心配だから。」私はその言葉を聞いて、本当にそう思っているとは素直に思えなかった。それほどに私の心の中の溝は深い。

その友人にも、妹と同じように告げた。電話番号やメールアドレスはくれぐれも伝えないようにと書き添えて。

私には母親の行動が読めない。今までも分からなかったし、これから先も分かることはないだろう。一年前には恐怖を感じ、第三者の相談機関に相談をしに行ったこともある。行動の差し止めなどは可能だが、民事の判決なので強制力はないとのこと。その時の失意は記憶に新しい。親子ならどれだけ傷つけてもいいのだ。

それから私は夜が怖くなってしまった。夜中に電話が鳴り、繰り言を言う。そして、出来もしない虚言を繰り返す。同意しない私を変わってしまったとなじる。そして誹謗中傷のメール攻撃。ダンナさんのアドレスにまで送りつける始末だった。結局私は家の電話番号を変え、携帯電話を解約し、プロバイダーを変えた。6ヶ月後の胃カメラ検診では丁度治癒したばかりの潰瘍が4つ見つかった。はっきりと原因が分かってはいないが。

そして、一年半経って、今また同じことが起きるのかもしれない。まだわからないけれど。しかし、ひとつ言えるのは、あのころより私は意志の力が強くなった。押しつけることで人を変えることは出来ないと悟っている。うわべの言葉で人の心を動かすことも出来ない。もう、涙を流すことはないだろう。

これから何か起こったら、この日記に綴っていこうと思う。今まで私を支えてくれた人たちが引いてしまうのではないかという危惧感はあるが、綴ることが私自身の癒しであることを分かってもらえれば嬉しいです。

#もしこの件がカタついたら、告白の手記でも書こうかなぁと思ったりもする。「プラトニック・○ックス」みたいに。誰か出版して下さい。(爆)


2001年10月22日(月) それでも生きて行く私

常々疑問に思っていたことを友人(だと思っている)に尋ねてみた。この世にインターネットというものが現れて、メールのやりとりがコミュニケーションに加わってから、「私」というものが違った印象を残しつつ一人歩きし始めたように感じていたのだ。

「なんかメールと印象が違う。」と言われてしまう。要は、メールだと理路整然として理論だっているが、実際は何を言ってるかわかんないに近いタイプのようだ。そのせいか、ダンナさんはメールで議論というか、怒りあい(変な言い方だが)することを嫌がっている。「つけいる隙のない文章。」だからだそうだ。

その人の答えは「ギャップがあるとは思いませんが、日記やメールだと実際のつきあいの中では見えない自分の世界の中で生きているように感じて、遠いような、でもすこし羨ましい感じがします。」とのことだった。

う〜ん、これはどういうことなんだろう?なにがしかの差というものがあるようだ。実生活の中の自分と、ネットの中での自分。どうして差が生まれ、どちらが本当の姿なんだろうか。まぁ、何もかも含めてそれが私というものだとは思うのだけれど。

不規則な生活と、喉のげほげほ感で頭がうまく回らない。寝ても醒めても降っている雨にもすこしうんざりしつつあり、何だかうまく考えがまとまらない。

明日はこんなことに思いを巡らせる気も起きないくらい運動しようと思う。その方が気持ちがいいから。


2001年10月21日(日) 悲しみのボイスチャット

先日とある雑誌でボイスチャットというものが紹介されていた。ヘッドセットをパソコンにつないで、ネットに接続している者同士、電話みたいに会話ができるというものだ。ソフトウェアはマイクロソフトのMSNメッセンジャー、無料だ。

早速詳細を調べてみると、マックでは文字のチャットは出来るが、ボイスチャットには対応していないとのこと。むむむ、この辺が少数派のかなしみなのだ。しかし、涙をのんでウィンドウズ機、通称アスロンちゃんを起こす。一番ハイスペックなマシンにも関わらず、一番使用していない宝の持ち腐れマシンなのだ。本当に久しぶりに起動したが、にこにこと元気に起動してくれた。

ダンナさんは長年使用しているノートパソコン、通称メビちゃんで早速ボイスチャットを試してみた。同じ家の中なので、直接声が聞こえるとちょっとイヤなので、端どおしに別れて接続。ちゃんと会話できる。大昔のインターネット電話とは大違いだ。これは使えそうなので、二人で手を取り合ってヨロコビを分かち合った。なぜなら月間一万円オーバーの長距離電話代を節約することができるからだ。

そして、ダンナさんが滋賀に帰ってから再度ボイスチャットをやった。しかししかし、今度は繋がらないのだ。メールの取得などは普通に出来るので、メッセンジャーのサーバーが混み合っているに違いない。時刻は夜中の11時台。む、むなしい。意味ないじゃんと、電話でボヤキあう。結局長距離電話の嵐は止めることができない。

どうしたもんか?時間によってはつながるんだろうか?明日は早朝に試してみることにした。

新しいことを始めるのは、本当にやってみないとどうなるかわからないなぁと痛感してしまった。とほほっ。


2001年10月20日(土) ひさしぶりの飲酒

朝起きると外は晴れわたっており絶好の外出びよりだった。ダンナさんと連れもってバスで街へ出る。

まずパソコンショップでリサーチだ。iMac用のメモリの値段が安くなっていることにびっくり。128MBのSODIMMが1600円ほどだった。筐体を開けるのがかなりめんどくさいので、ハードディスクを大容量のものと交換するときに一緒にやることをココロに決める。ついでにOSも8.5と9.2とX(テン)のトリプルブートにするつもりだ。

次にブロードバンドルーターを物色。これもかなり安いのでびっくり。ISDNを導入したときに5万円ほどでルーターを購入したのが嘘のようだ。うむむ。ダンナさんはバックアップ用に9.4GのDVD-RAMを購入。3500円ほど。この中にわたしのiMacが2台入ってしまうかと思うと複雑だ。うむむ。またうなってしまった。

それから洋服を買いに行った。去年は入院していたおかげで一枚も服を買わずに過ごした。そして今、着る物がないのだ。体型が変わってしまって、おととしの服はまるでパジャマ状態。しょうがないので今日のいでたちはTシャツにGパン、マウンテンパーカーを羽織っている。合理的といえば合理的だが、かなり異質な格好であるように思った。コーデュロイのシャツと、もこもこしたフリースのジャケットを購入。

店を出たところでダンナさんが言った。「なんかうまいもんを食べよう。」むむむ、ということはあの店しかない。よくいく北海道料理の店があるのだ。運良く待たずに座れた。さっそく生中を頼む。付き出しは岩海苔とくらげのあえものだ。うまい。早速造り、たらの干物、唐揚げ、山芋の網焼きなどを注文する。うう、酒がすすむ味だ。早速とうきび焼酎のボトルを入れた。雑穀系の割に軽くて抜けが良い。どんどん飲む。16日間の禁酒のあとにしてはするする入る。

その後、ジンギスカン小鍋、チーズのシーザーサラダなどを頼み、気が付くとボトルは空になっていた。3時間後のことだった。ぼちぼち帰路につく。

まだバスがあったのでバスに乗り、コンビニの前で下車。おやつを買って帰る。今日はキャラメルマキアートとチーズケーキ。ダイエットはお休みなのだ。

しかし、家に帰ると精根尽き果て眠ってしまった。気が付くと、丑三つ時、ちゃぶ台のまわりに敗残兵が2体横たわっていた。前も見たような風景だが。

ということで、日記は一日遅れになってしまった。いやはや。


2001年10月19日(金) 復活の兆し

退院後、2回目の通院で病院へ行った。金曜日ということでよく混んでおり、かなりの待ち時間。通院を初めて半年経つので私はなれているが、他の人はいらいらするようでいちいちあと何人?て感じで聞きに行っている。

診察の結果、順調なので次の通院は来週の金曜日でいいとのこと。うむむ、自分で外出するようにしないと、なかなか外に出なくなってしまいそうだ。現時点での自分で曲げられる膝の角度は110度強。先生によると階段の上り下りは可能とのこと。結局痛みと、勇気を出して体重を乗せて歩くようにする事が必要のようだ。

帰りは沢山寄り道をした。今日は地下鉄の一日フリーパスが600円の日なので満喫できたと思う。まず、なじみのバイク屋さんへご挨拶。それからまわりのお寺さんをうろうろ散策し、デパートで買い物。たくさん歩いて足が痛くなってしまった。しかし、痛くなったのは膝ではなく足の裏。正常な痛み?なのでほっとした。

歩くことは疲れるけれど、歩くことすら出来なかったことを思い出すと苦にはならない。明日も歩こうと思う。

いい天気だったらいいなぁ。


2001年10月18日(木) 頭サビサビ

ただいまHPを更新する準備をしている。今回の入院にまつわる画像を集め、修正し、サムネイル画像を作る。そして今回はサムネイルをクリックして、開いた本写真の載った別ウィンドウを、閉じるボタンを付けることにした。

確かこれはJavaScriptだったなぁ、と思いつつ、本を開く。ややや。折り目がしっかりと付いているではないか。うむむ。そういえば前も似たようなことを考えてザセツしたんだっけ。どうしたもんやら。

そのさせたい動作のスクリプトはその本に確かに載っているのだが、ちょっとアレンジしたいのだ。でも、そのアレンジをどこに加えたらいいのか分からないところが悲しい。大体文法も何も知らずにそこだけやろうとするからそういうことになるような気がする。例えば、初めてのパソコンでワークステーションを買っちゃうみたいなものかもしれない。(そんな奴いないと思うけど。)

もしかして市販のHP作成ソフトを使えば、それがJavaScriptであることを意識もせずにそんなことが出来るのかもしれないが、HP作成ソフトを一通り使って辛酸をなめた経験のあるわたしは、今時フルに手書きで作っている。道楽なので生産性や、効率とは一番遠いところにあるのが「わくわく入院らんど」なのである。

あ、それと以前指摘頂いたこまごました点も直さないと…。

錆びた頭の錆び取りをしつつ、「わくわく…」を育てて行こうと思う。


2001年10月17日(水) 芋とわたし

目覚めると私の頭の雲は薄曇り程度まで回復していた。よっこらせと立ち上がり朝食兼昼食を取る。ベーグルをぬくめ、コーヒーを入れ、芋をふかした。

先日購入した芋はでかく、四分の一を芋だんごにし、今日は同じ量をふかし芋にする。ふかし芋なんて、静香ちゃんみたいだなぁと思ってしまった。
しかし、芋はでかく三分の一ほど食べたところでうーんとうなってしまった。

そうだ、「芋きんつば」を作ってみよう、と思い立った。早速作業にとりかかる。残ったふかし芋から皮をとりのぞき、砂糖を適宜入れ、つぶす。そしてラップに包み、6センチ角程度の直方体に成形、冷蔵庫でなじませる。「ピーコのファッションチェック」を見てしょーもないつっこみを入れながらおやつの時間を迎えた。

小さなボールに小麦粉と水を入れ溶く。ちょっと水っぽいかなという程度にする。そこで成形した芋を取り出し、2センチほどの厚さに切る。フライパン小をぬくめ油を敷き、一面ずつ小麦粉をといたものを付け焼いてゆく。あっけなくそれっぽくできあがった。

ニコニコとちゃぶ台に運び、お茶を入れた。テレビは毎日放送だ。いただきまーすとつぶやき、芋きんつばを口に運んでかぷりと食べる。むむ、うまい!けど、味は芋そのまんまだった。ケホケホッ。のどに詰まってお茶を飲む。しかし、おいしいことには変わりないので、ふかし芋テイストの芋きんつばを食べた。やはり、レシピを調べた方がよかったか…。などと思いながら。

晩に電話でダンナさんに顛末を話した。すると「水飴を入れるねんで。」とのこと。ふむふむ。でもなんでそんなことを知っているのかは謎である。甘くててろんとしたものということで蜂蜜はどうかと尋ねてみた。うちには水飴なんてなく、蜂蜜ならあるしと思ったからだ。すると、「めっちゃ蜂蜜が勝つと思うで。」とのこと。う〜ん、代替えはムリのようだ。

芋はあと半分残っている。さて、何を作ろうか。やはりイージーに、芋のてんぷら、大学芋あたりか。芋ようかん、スイートポテトあたりもチャレンジしてみたいのだが。

明日、晴れていたら買い物に行こう。


2001年10月16日(火) 空がまた暗くなる

退院後、初の通院のため病院へ向かう。タクシーで行こうかなと思ったけど、運動の意味もあるので地下鉄で行くことにした。ゆっくりペースで歩き出す。階段は一段づつ足を揃えて上り下りする。いつもの1.5倍の時間をかけて病院にたどり着くとなんだかグッタリしていた。しかも混んでいる。

待合室の長椅子に腰掛け、ぼんやりする。気がつくと眠っていて一時間ほど経っていた。ついでにもう一眠り。私の名前が呼ばれたのはそれから小一時間後のことだった。

T先生に抜糸をしてもらう。明後日からお風呂につかってもいいですよ。とのこと。それまではってことで包帯とネットで保護している。引きつらないだけ歩きやすくはなったが、包帯があるとズボンと干渉してやっぱり歩きづらい。リハビリはいつ再開するかって聞いてみたら、まぁ、様子を見ましょうってことだった。私にとってリハビリに通うのは日々の中の唯一のルーティンでしんどいけれど行くのが楽しみになりつつあった。実質一人暮らしなので誰かとしゃべるのが楽しいのだ。

じゃまかな?と思いつつリハビリ室を覗きにゆく。きっとわたしのように意味なく現れる人間もいるのだろう。めっちゃ普通に会話できて、なんだかほっとした。いつものようにあたりさわりのない会話、パソコンとかクルマなんかの話が主だ。「いいっすよ。6速ミッションは〜。」と言われてわくわくしてしまう。今度購入予定のクルマが6速ミッションである。しかし私は何故かオートマ限定免許というものなので限定解除をしないといけないのだが。

バイバイを言って、病院の出口に向かうとM先生と会った。「何で退院しちゃうの?さびしいからおって欲しいのに。」とすれ違いざまに言われる。なんとなくへらへらと笑って、会釈をした。

スーパーによって家路につく。しかし、荷物を持つとしんどさ倍増。地下鉄を降りて歩き出すとあまりにもしんどくて道ばたで休憩する。縁石に腰掛け、犬の目の高さになった。うう、疲れた。

しかし、へたりこんでも何にも進まないので重い腰を上げた。てくてくてくてく。こんな楽しくないてくてくモードは久しぶりだ。泣きが入りそうになったとき、私より先に泣き出したのは空のほうだった。

ぽつぽつぽつ。水滴が肌に触れる。あとマンションまで100メートル。で、エントランスから建物まで50メートルくらいか。傘がないが、走ることはできない。濡れるほどではないけれど、雨粒を浴びながら、ペースを変えず、たんたんと歩き続ける。

これを、「走れないから濡れてしまう。この足が憎い。」と思うのか、「入院していたら雨を感じることもできない。去年は実質上秋と冬はなかったし。」と思うのかと考えたとき、私は後者であった。バイクに乗っていたせいか、雨は避けられないのでいつの間にか受け入れるようになった。雨のにおいに鼻をひんやりさせながらマンションに着いた。

しかし、そこでマンションの管理をしているおばちゃんに話しかけられた。足、前より痛そうだねぇ。とのこと。もう一度、手術をしたのですよ、と答えると、痛いことばっかりで可哀想ねぇとのこと。そうか、わたしは可哀想なのか…。他の人から見たらそうなのかもしれないなぁと思いつつ、何か釈然としない。それ以上返す言葉がなく会釈して家に入る。

さっさと着替えて食事をする。「可哀想…。」久しぶりに投げかけられた言葉だ。少しの間、マックちゃんと遊んでフトンに入る。あっという間に晩になり、ダンナさんからの電話で目が覚めた。今日の報告と言う感じで話すと、足もシンドイし、精神的にも来てるんでもうちょっと入院してきたらと言われた。そうかもしれない。

今日、帰り際にM先生が言った言葉を思い出す。病院は暖かい世界だ。私のことを分かっている人たちがいて、押しつけたりせず、でも導き、安寧に向かわせてくれる。「体の悪い人」みたいな扱いはしない。病院に戻ろうかなと一瞬思う。

でも、「豚の安心を買うより、狼の不安を背負う」ことを選んだのでやはり家でやっていくことにした。私にできることはまだあるはずだ。全部やってもムリならそのとき病院に入院しようと思う。それからでも遅くないはずだ。

頭痛を抑えると言う意味でも、もらった痛み止めを飲んで眠ることにしよう。明日は私の空も晴れますように。


2001年10月15日(月) ひさしぶりのてくてくモード

入院中の習慣で8時前に目が覚める。時間があるのでナベでゴハンを炊き、朝食を取る。ささっと片づけをしてもまだ10時前だ。よし、外へ出よう。

タイトなGパンは膝の動きの妨げになるので却下。ぶかぶか目のズボンで行こう。ゴミの日なのでゴミをまとめて出発。まずはゴミを捨てて銀行へ。

いつもなら5分のところを10分かけてゆっくり行く。何かしなければならないことがあるわけでなく、自分のペースでやればいい。昨日の晩、ちくちく傷む膝を抱えて辿り着いた結論だ。

今度は別の銀行へ。途中で街角の犬をデジカメで撮影。みんなけだるそうだ。銀行からは市場へ。でっかいサツマイモが100円だったので即買う。なんだか1キロくらいありそうで、絵本の「おおきなおおきなおいも」というストーリーを思い出してしまった。その他、ネギ、卵、ごまなどを購入。

今度は郵便局へ。普段あんまり来ない郵便局なのでうろおぼえだがたどり着いた。途中で怪しげなメニューが張り紙してあったので、すかさず撮影。「さんまうどん、さんまそば、さんま丼 680円」うむむ。にしんそばみたいなものなんだろうか?でも、長いからどんぶりからはみ出してたらオモロイよなぁ、などとどうでもイイことを考えつつ家路に着く。

家に帰って時計を見るとなんともう2時。4時間弱うろついたようだ。でも、膝の痛みは昨日よりましなので嬉しかった。

昨日よりもちょっとだけ歩けるようになってうれしいなぁ。


2001年10月14日(日) 退院

秋晴れの中、予定通り退院となった。朝の点滴を済ませたら、M先生がやってきて、消毒とガーゼ交換をしてくれ、お話をした。「がんばって痩せましたね。」とお褒めの言葉を頂いたのがうれしい。でも、もうちょっとだからがんばりましょう、と言われたのが意味深だった。がんばるのは痩せるほうか、純粋に治療をってことなのか…。

家に電話するが出ない。昨日沖縄居酒屋で飲み会があったので飲みつぶれているに違いない。タクシーを呼んで家に帰ることにした。

家に帰ると案の上、畳に枕を置きそこでパンツいっちょで転がっていた。むむむ!と思ったが、体が冷え切っていたので、毛布などをかぶせて放置する。その間に溜まった日記をアップした。

しかし、前も書いたが「パームバイザーデラックス」は本当に使えるいいやつだと思う。10日間、毎日1時間ほど使って、電池はまだまだ残っている。マルチメディアとは縁遠いが私の使い方にはツボにはまっていると感じた。

ひととおりアップしたころ、のそのそと起きてきたので、コーヒーを入れてパンを食べた。今度買う車について討論をする。まったく好みが違うのでかなり侃々諤々状態だが、一応決定した。後は、安くなる時期を見極めるのみだ。

折り畳みカヌーを2つ、キャンプ道具、キャリアを付けて自転車2台、そしてきびきび走れて、即金で買える。そんな条件を満たすクルマはほとんどなかった。(というか、決断した車種でもかなりムリめ)それでも、カブを積む、中で横になれる、の2つの希望を却下してでの決断なのだ。

夕方、ダンナさんは滋賀に帰り、私は近所のスーパーに買い物へ行った。そのスーパーは元気なころならのんびり歩いて15分なのに、片道30分もかかってしまった。しかも途中で休憩までして。到着したらしんどくて泣きが入ってしまったのが情けない。ついでに膝もぴりぴりする。マイタケ、ニンニク、ちりめんじゃこなどを購入して家路につく。帰りも途中で休憩した。

たった10日間の入院で思った以上に衰えていて愕然としてしまった。もちろん自転車に乗る気にもなれない。まぁ、抜糸していないので引きつって痛いというのもあるが。

正直言うとかなり不安だ。でも、最初の入院からリハビリで復活したことを考えると、大丈夫だと信じたい。

この不安が杞憂であったと笑えますように…。


2001年10月13日(土) 抜糸かも

私が知るかぎりこの病院の整形外科には3人の先生がいる。

M先生は副院長でもあるけれど毎日「どうですか?」と顔を見に来てくれる。T先生は私の主治医で診察のときはこのT先生が診てくれている。K先生はあまり診てもらったことはない。

昨日はK先生が回診で「土曜日抜糸して日曜日退院できますよ。」と言っていた。しかし今日回診に来たT先生は「できればもうちょっと糸を置いておきたいなぁ。」と言っていた。私は糸を取らないと入浴ができないので早く取って欲しかったが、T先生に同意することにした。1年以上も診てくれているので、その先生の判断は信じられると思ったからだ。

今までこつこつと治してきたのにここで万一傷口が開いたりしたらかなしい。退院することには問題なしとのことだったので、予定どおり明日退院する。抜糸はその2日後の火曜日の予定。もどかしいけれどここまできたらじっくりやるしかない。

もうちょっとなんだから。


2001年10月12日(金) 退院決定

朝の回診のとき「ぼちぼち抜糸ですかねー」とK先生に訊いてみた。すると明日で1週間だから明日抜きましょうとのこと。ヤッタ!ということは、ぼちぼち退院もということで訊いて見たら日曜日にどうぞということになった。うれしー!

早速通販のはがきを書く。欲しい秋物があったのだが入院中に届くとまずいのでずっと待っていたのだ。

はがきをポストに投函しがてら外出する。秋晴れのにこにこ空の下、すぐ近所の家電量販店へ。しかしお目当てのマック関連書籍はお寒い限りでちょっとがっかり。結局ファミマでお茶を購入して部屋に戻った。

また昨日のようにのんきぶた睡眠をとってしまったが、明後日退院なのでまあヨシとしよう。はーだらだら。


2001年10月11日(木) のんきぶたへの道

「のんきぶた」とは小学校2年生のときの担任である中山先生の言葉だ。朝の会か何かで寝坊して遅刻した子(私だったかも)に先生は言った。

「人間は10時間以上寝ると、ぶたになります。のんきぶたです。」

わたしはうなってしまった。ご飯を食べて横になると牛になってしまい、夜に口笛を吹くとどっかにさらわれて、寝過ぎてしまうとぶたになってしまう。人間として生きていくのは大変そうだなぁと思ったのだ。これは何も本気で牛になったりぶたになったりすると信じていた訳でなくて、真面目にしなさいという教えが何だかめんどくさそうに思ったからだ。

その予感は的中し、子供らしさ、女の子らしさ、後には、女性らしさなどの「らしさ」という亡霊に惑わされてきた。そういったことが幻想にすぎないと気づくのに10年、そして解脱に10年。ま、 5年くらいで取り戻したるから覚えとけやワレと、押しつけてくれたジョーシキある人々には言いたい。

この場合、中山先生が好かん!と言うわけではないことを書いておきたい。彼女はマンガ好きでよく私とマンガの貸し借りをしていた。私が、ドラえもんやサイボーグ009、先生がダメオヤジを貸してくれた。ついでにバイク乗りで、事故ったときフトモモの肉がはがれて、こけてくるくる回るホィールのスポークに垂れ下がっていたことなど、とても印象深い話をしてくれた、いい先生だ。今、どうしておられるかはわからないが…。

話はそれたが10年を経て今、牛ぶたの道をまっしぐらである。点滴中にうとうと、食後にぐーぐー、なのに24時ごろになると上下のまぶたさんがそそそと寄り添いはじめ、8時前に枕元に朝食が置かれる音で目が覚める。

寝る子は育つ!というが、子どもじゃないしな、もう。


2001年10月10日(水) 安宿に沈没気分

午前中は雨模様だったので、なんとなくぼんやりと窓の外を眺めながらベッドにころがっていた。点滴は早朝の採血のついでに済ませたのでひたすらのんびりする。

10時ごろT先生がやって来て、患部に貼ってあるスポンジをはがして消毒をしてくれた。はじめて傷口を見たが小さくてびっくりだった。4cmほどの傷が3箇所。ここからあのものごっついネジが出てきたなんて。T先生によるとこれらの傷のうち縦に並んだ2つは中でつながっているそうだ。開いたついでに癒着をはがしたとのこと。これでリハビリ再開後もっと曲がりそうでうれしい。ありがとう、T先生。

その後雑誌を読んだりしてうだうだしていると、お昼ご飯が運ばれてきた。今日のメニューはハヤシライス。これは要注意メニューなのだ。以前、お肉だと思って塊を口に入れたらルーの塊でボヘーとなった苦い記憶が蘇る。慎重にかきまわすと大丈夫なようだ。安心してはむはむと食べる。満腹になって食後のコーヒーを飲んでいるとにわかに外が晴れてきた。

そうだ、洗濯をしようと思いたった。病院の3件隣にコインランドリーがあるのだ。大きな洗濯機だからパジャマからGパンまでいっぱい洗った。30分で洗濯終了、乾燥は20分。Gパンは縮むと嫌なので部屋のカーテンレールに細引きでつるして自然乾燥を待つ。

こうして洗濯物の下がった窓辺を眺めていると持ち物の所帯くささもあいまって、海外のユースホステルで沈没していたことを思い出す。モントリオール、ケベックシティのような都会はどうも居場所がなく、街に出るのも億劫で部屋の窓から行き交う人々や鳩を眺めたり、ぼんやりと過ごした記憶がある。

考えてみると、私の入院生活は安宿に沈没しているようなものだ。好きなように寝て起きて、ベッドの上で食事をし、同室の人達とあたりさわりのない会話をし、気が向いたらサンダルをつっかけて飲物や雑誌を買いに行く。ひとつ何かをすれば「仕事をした。」気分になってしまうところは特に。(今日の場合は洗濯。)
One day, one thing. の精神だ。

そう考えると入院生活もお気楽に思えてくる。さぁ明日は何の仕事をしよう。おやすみでもいいか。


2001年10月09日(火) 読書のタノシミ

朝起きると快晴だったので昼から外出してみることにした。木曜日以来だから5日ぶりだ。

しかしふと膝の包帯を見ると、10円玉くらいの大きさにシミができていた。血液の透明部分のような感じだ。「むむむ!」と思い点滴をしに来た看護婦さんにつたえた。するとテクテクとM先生がやってきた。包帯を外し、中を一瞥すると「大丈夫、大丈夫。」とのこと。それよりも傍らに置いてあった本で盛り上がってしまった。

その本は「耕うん機 オンザロード」耕うん機で日本を旅している旅行記だ。M先生は書評か何かでこの本を知ったが、書店で見つけることができなかったという。「どこで買いましたか?」と訊かれたので家の近所のバイク好きなおじさんのやっている書店だと伝えると、「ちいさなお店でこういう単行本を置いてるなんてええお店やなぁ。」と言っていた。

M先生は副院長なのに必ず毎日回診に来ているのでとても休みが少ない筈なのに、本をよく読むみたいだ。

わたしは本を読む大人が好きだ。本を読むのはあんがい面倒だ。何を選ぶかも迷ってしまうし、テレビのように目さえ開けていれば内容が分かるわけでもなく、買った本はじわじわと部屋を侵食してくる。それでもあえて読む。読んだからといって賢くなる訳ではないのに。(わたしがいい例である。)

お手軽に楽しめることが世の中でいっぱい溢れている中で、文字を目で追うという楽しみは地味だけど、いつの時代も変わらないそして終わりのない行為だ。っとくどくど書いたがオモロイから読むだけやと思う。しかも自分一人でどこででもできる。そこには「友達とつながってなきゃ不安」みたいな感情は一切ない。潔くて好きだ。

それから外出してファミマで雑誌を買った。パソコン系のディープな本なのだが、表紙が週刊大衆かポストのようで気恥ずかしい。「萌え萌え〜」とか書いてあるし。でも、面白いので買うのだ。学生時代「近代麻雀ゴールド」「ガロ」「宝島」を電車の中で読むのがちょっと恥ずかしかったことを思い出す。

明日はビーパルの発売日だ。こうして毎日雑誌を購入すると帰るときに泣きをみるのはわたしなんだけど、やめられない。


2001年10月08日(月) ちょっとづつ人間らしく

今朝は看護婦さんに起こされた。何でも今日の日勤は人手が足りないので、点滴を前倒しして夜勤の看護婦さんがするという。時計を見るとまだ8時。いつもより1時間半も早い。

しょうがないのでトイレだけ行ってやってもらうことにした。寝転がって朝食のパンを横目に見ながら腕を出す。「ブチ。あれ。おかしいな。」左腕には刺せないので今度は右にやってみるという。「アレレ。」結局腕にはできず関節のところにやられてしまった。ここにされると安静にしてないと漏れてしまうので、トイレにも行けないし、パンも食べられないし、本も読めない。

トホホな気分で横たわり、陽水のベストアルバムに聴き入る。1本目の点滴が終ってもなかなか2本目に差し換えに来なかったりして、結局終ったら11時になっていた。

バクハツしそうなボーコーをすっきりさせてくると、同室のNさんがぼやいている。「こんな時間やったらパン食べられへんやないの。」同感である。あと30分で お昼が運ばれて来てしまうので、お茶でもすることにした。晩ご飯が4時なので19時間ぶりのご飯はおいしかった。

食べ終ってほけーっとしていると、M先生がやって来た。今日はドレンの瓶を外す日なのだ。作業をしながら看護婦さんが私の枕元の写真を見て言った。「あれ、ダンナさんですか。いい男ですねぇ。」真偽の程は定かでないが、素直にうれしかったのでヘラヘラとしているとM先生が「よう照れもせんと飾っとけるなぁ。」と言った。先生はぼちぼち老眼らしいので、世代の差かな?と思う。

こうしてドレンは外れて、パジャマのズボンがはけるようになってうれしい。今までは 短パンと称してGAPのトランクスで行動していたのだ。もちろん下には従来のパンツをはいていたのでわたし的には問題ないのだったが、前あきの部分は糸でかがって来たほうがよかった気がする。

とにかくヒモがとれて人間に戻った気分だ。外を見上げると青空に白い雲。デジカメで撮影した。入院していても駆け回っていても基本的に変わらない姿の空。やっぱりちょっとかっこいいと思う。

退院したらがんがん走るぞ〜!(自転車で)


2001年10月07日(日) あくびだらけの一日

7時 50分にバシッと目が覚め、コッペパンとバナナの朝食をとる。

音楽を聴きながらうとうとしていたら、朝の点滴タイムだ。2本の点滴をやる間も音楽を聴いていると、あくびがぼわわんと出てくる。気がつくと点滴はとっくに終っていた。

抜いてもらって一息つくと、お昼ご飯が運ばれてきた。チキンの照焼とおひたし、ごはんとおみそしるだ。何もしてなくてもきっちりお腹が減るのはフシギフシギ。

食後はあまりにも頭がカユイので洗髪を決行した。傷口から繋がる血を受け止めるビンを入れたポシェット風かばん(ドレン)を首から下げ、コンビニ袋にシャンプーを入れ右手に持ち、肩にタオルをかけ、松葉杖で湯沸室へ。抜糸をしていないのでシャワーはできないのだ。湯沸器ででも洗髪は気持ちいい。

ベッドで髪の毛を拭いていたら隣のベッドのOさん69歳が話し掛けて来られた。「お向かいさんが退院しはってほっとしましたわ。」今朝退院したNさん推定25歳のことを言っておられるのだ。「あのこは私のいびきがうるさい言うてみたり、、」要はウマがあわなかったということのようだ。大部屋ではこういうことがよくある。あの人の見舞客がうるさい、夜中に車いすで移動するのはやめてくれ、等など。みんな自由じゃないから苛立っているのだ。

大人だろ、っておもうけれど、私も同じように苛立ち人にあたったことがあるのでよく分かるのも事実だ。経験から言うと、本人に言わずに看護婦さんにぼやくといいようだ。慣れたもので、「最近ようイビキかいてるけど、しんどいんかぁ。」って感じで相手に伝えてくれる。それで必ずしも改善されるわけではないけれど、伝わればそこから先は相手の人間性の問題だと思う。

こんな感じでねぼけた1日は過ぎてゆき、「世界遺産」のカナディアンロッキーを見てから休んだ。むむ、今日もなんだか日記っぽいぞ。


2001年10月06日(土) 一般病棟へ

7時に電気がつき、食事が運ばれて来た。コッペパンとゆで卵にリンゴジュース。

そっと手術したほうの足を触ってみると感覚があった。やっと麻酔がきれたようだ。私は能天気な割に病的なまでにビビりなので、このまま半身マヒになったらどーしようなどと考えていたのだ。

9時ごろM先生がやってきて、やにわに足をこそばす。私が「ヒヒヒーィ。」と笑い転げると、「もう麻酔がきれたみたいですから、部屋に戻っていいですよ。」とのこと。

10時に看護婦さんに付き添ってもらいつつmy病室の412号室へ。最初は松葉杖で行くつもりだったがICUを出た地点で力尽きてしまい、車いすに乗り換えた。いやはや。

部屋に戻ると点滴がお待ちかねだった。点滴をしつつウトウトしているとお昼ゴハンだ。わいわい親子丼だぁと横目に見つつ点滴が終るのをじっと待つ。血管が細いのでヘタに動くと血まみれになってしまうのだ。気づくと眠ってしまっていて、点滴は終っており、親子丼はサメサメになっていた。トホホと思いつつも、食べると美味しかった。

食後にボーっとしているとダンナ参上。おみやげはモンベルのカタログだ。物欲に身悶えしてしまう。うぐぐ。看護婦さんが午後の点滴を持ってやってきた。30分ほどかかるので、だんなさんは近所のY電器を見に行った。点滴が終るころファミマで購入したオヤツをぶらさげて戻ってきた。そしてそのオヤツたちをならべてデジカメで記念撮影。何とも言いがたい謎の写真が撮れた。モンブランとチョコムースを食べ、しゃべくっているともう晩ご飯が運ばれてきた。げぷっ。

だんなさんは今からSフマップを見にいって、Mぐろ亭で寿司を食べて帰るのだそーな。ええなぁ。じゅるる。

晩は電波少年の特番を見た。鮒子、ナイス。私もフランスで走りたいなぁ。普段は4時とかに寝ているくせに、12時ごろ寝入ってしまった。う〜ん、何か日記っぽい日記を書いてしまった。


2001年10月05日(金) オペの日

手術が13時30分からなので、朝と昼は絶食。

この日記はパームのバイザーで書いているのだが、思った以上に書きやすい。以前使用していたザウルスより楽だ。これが9800円なら即ゲット可だと思う。(もっとも私が買ったときはもっと高かったけど)ボタンひとつでiMacにデータが送れるのがうれしい。

13時ごろ看護婦さんがやってきて、点滴と麻酔のための筋肉注射を肩にする。30分ほどしてお呼びがかかり手術室へ。裸になってストレッチャに乗り運ばれてゆく。

手術室では浜崎あゆみがBGMだ。誰の選曲か考えると顔が笑ってしまう。腰椎麻酔なので腰から下は何も感じないが、上は元気で主治医のM先生としゃべりながらで気が紛れる。執刀はT先生とK先生。

「nao-zoさんのオペは去年のヒット作やなあ。」「よう直ったなあ。ここまで。」とうれしい言葉。1時間ほどで終了。10センチほどのねじを4本抜いて、ピンポン球くらいのぐりぐりを摘出。脂肪のかたまりからなる良性腫瘍だったそうだ。

その後ICUに入る。寝たり起きたりしているうちにダンナさん参上。給食着みたいな滅菌服を着た姿は医療関係者というよりはまぐろの解体ショーのヒトみたいだった。日本一かっぽう着の似合わない男の称号を与えることにした。話しているうちにもうとうとしてしまい、まだ麻酔は効いているようだった。

22時ごろ介助してもらいつつ食事。カレイの煮つけをいただく。9時の消灯だったのですぐ休む。それにしてもICUは寒いなぁ。


2001年10月04日(木) 久しぶりの入院

お昼過ぎにタクシーで病院へ。部屋は412号室。前と同じ。
メンバーも顔見知りの人がいた。U代さんといってこけて膝のお皿を割っちゃったおばちゃんだ。彼女も同じように抜釘目的で入院している。リハビリでも顔を合わせていたのであらこんにちは、って感じで世間話をしているうちにもう晩ゴハンが運ばれてきた。

晩ご飯はがんもと野菜の炊き合わせ、ほうれんそうとあさりのからしあえ、あげさんと里芋のお味噌汁。

食後は「耕うん機オンザロード」を読みながらうとうと。時速5kmの旅に思いを馳せながら、術後は早く復活して、まず自転車で日帰りツーリング、滋賀でカブに乗りちょい走り、あーわくわくするなぁ。

"I wanna go back on the road."


2001年10月03日(水) 風邪に吹かれて

風邪をひいてしまった。昼は暖かくて、夕方急激に冷えるので、それが原因のようだ。今日は朝からだるく、走る気合いはどこへやら。リハビリが終わると、即家に帰った。食事をするとフトンの中へ。

気が付くと9時を回っていた。入院に備えて、冷蔵庫の中身を総ざらえしなくてはならない。今日のメニューは、とんかつ、小松菜のおひたし、焼きナスに、芋の天ぷら。体調が良ければ嬉しいメニューだが、それほどお腹がすいていないので、半分は明朝に置いておくことにした。

また、フトンに入りうとうとする。メールが来ると起きたり、本をめくったりするうちに寝てしまった。入院すればいくらでも眠れるのにと思いつつ、フトンと一体化してゆく。

日記を書いたらまた仮眠しよう。
ウトウト…。


2001年10月02日(火) 走りおさめの気分で

秋晴れの空に導かれるように、自転車でこぎだした。昨晩の夜更かしがたたって、とてもおはようございますとは言えない時間に家を出たが、汗もかかない。もう夏はどこかへいってしまったようだ。

(こんなぎりぎりに来て)「嫌がらせっすか?」などと軽口をたたかれながら、肩に電気を当てつつ談笑する。話のネタは、マックの話、デジカメの話、などなど。

担当のS先生が来て、いつものようにホットパックで膝を暖めてから、私はうつぶせになり、先生が渾身の力を込めて曲げに入る。最近やっとカカトがお尻に触れるくらい曲がるようになってきた。本当ならばこんなには曲がらなかったはずなのだ。嬉しい誤算で痛いけれど、つらくはない。正座も出来るような勢いだ。

先生も喜んでくれているようで、「今やから言えるんですけどね。」って感じで裏話を披露してくれる。「すっごい痛がり」、「めがねがこわれたままの人」などなど、私は入院中、かなり特異なキャラだったようだ。

施術が終わって、自転車で走り出す。こんな日にまっすぐ家に帰るなんてアホやと思い、お気に入りの川沿いの道へ。ビルの谷間に青空。川の水はお世辞にもキレイとは言えないが、空はいつも空。大きく強くて、かっこいい。今日は青い空に白い雲。好きな形の雲が入る位置で自転車を立てかけ、バックパックから「写るんです」を取り出し、パシャリ。まだまだ走ろう。

自転車は都会の遊撃手のように、イチョウ並木と人の群れをすり抜ける。渋滞する車を横目に見て、ぐんぐん進む。おしゃれカフェ地帯に入った頃、お茶を飲もうかと思ったが、まだまだ走りたかったので、走った。自転車のフレームにはボトルが付けてあり、いつでも水が飲める。乾いた空気の中では水がごちそうなのだ。

結局10キロほど遠回りして、うちの街に帰ってきた。ツタヤで井上陽水と、ドラゴンアッシュのアルバムを借りる。スーパーで晩ご飯のお買い物。都会の遊撃手はママチャリに変身。ハンドルにスーパーのビニール袋をかけると走りにくくてしょうがない。結局片手運転で帰ってきた。

マンションの3階まで階段で自転車を持ち上げると背中にうっすらと汗をかいた。しかし、夕方の風はひんやりしていてくしゃみが出た。
でも、明後日入院してしまうと、なんだかんだで3週間くらいは自転車はお休みになってしまうだろう。本当に短い秋だけど、できるだけ満喫しよう。

さて、明日はどこを走ろう。自転車、パンクしないといいなぁ。


2001年10月01日(月) 決定!再入院

再入院が決定した。足に入れている金属のうち、ネジだけを取り除く手術(抜釘・ばってい)をするのだ。入院期間は1週間乃至は10日。以前は9ヶ月も入院していたことを考えると、屁のようなものだと思いつつも半年間の極楽トンボの後なので何となく気が重い。

しかし、どよんとしていても始まらないので、準備をすることにした。私の場合、エンタテイメント系の準備が重要なのだ。古本屋さんで以下の書籍を購入。

「見守ってやって下さい」 内田春菊著
「バイトの達人」 原田宗典選
「ファイト」 武田麻弓著
「ナショナルジオグラフィック」2000年12月号

あと10冊ほど購入したらヒマしないで過ごすことができると思う。

プレステ2を持っていくことも考えたが、テレビがステレオではないので音声の出力がどうなるのかわからないので止めておいた。

さぁ、明日はツタヤでCDを借りて、MDに録音しまくるぞ〜。


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