誰かのコト 私のコト
全部 ☆ 前↓ ☆ 先↑
題名に、「日記と言うよりメモ」の言葉が含まれた場合は、
母の様子や入院等についての内容が書かれています。
ここに、ガンのコトが少し書いてあります。
毎週週末に親元に帰っている。 母の荷物の整理のため。 帰りたくない。 足取りも気持ちも重い。
まだ四十九日も済んでないのに 母の匂いのするものを処分する。
物にだけ思い出が残るわけじゃない でも、捨てることを躊躇する自分もいる
時々、小さな子供のような理由で悲しくなる どうしてお母さんは私達をおいていってしまったの? もう私達のことは良いって思ったの?
答えてくれる人はいないのに。
月日が経つのを早いと感じるようになったら 大人の証拠なんだろうな。 学生の時は、1つの学期が長かった。 1年たっても月日の経過があったコトだけに 頭がいって、何をしたかなんて 思い返すコトは、なかった気がする。 テストも学園祭も体育祭も 毎年同じ時期に同じことがあって 結果はどれも似たようなものだったから?
学生じゃなくなってから しばらく経って1年が経つと なんとなく降り返る。 あの時は笑ったな。 あの時は驚いたな。 あの時は怒ったな。 あの時は泣いたな。
思い出せたはずの出来事も 1年、 また1年経つと 思い出せなくなっていくんだろうな。 だから月日が重ねられるのかもしれない。
何時の間にかここで日記を書き出して 1年続いたのね。今気がついたっす。 先のことは、判らないけど まだしばらく書いていくと思う。 よろひくね。
昨日の じめじめしとしとがすっかり晴れ 良い天気
心なしか空気も乾燥している気がする。
空を見上げたら青かった。 並木の緑もあおかった。 雲は見えなかった。
木陰で信号待ち
風が影をゆらしてた。
少し遠くの友達の夏を思う 楽しい夏になるといいなぁ。
貴方の夏も良い夏になるといいね。
母が簡易保険に入っていた。 死亡時の受取人を父から私達に変更していた。 その話は数年前に出ていて、父にも母から説明済みだった。 本当に変更したのはいつだったか覚えていない。
1つはA子に引き継ぐように言っていた。 もうひとつは解約するように。
お盆休みを利用して、役所に書類を取りに行った。 印鑑証明・戸籍謄本・住民票・確認書(死亡)等を取りに行った。 1〜3ヶ月しか有効ではないケースが多いので、 書類を取りに行ったら一気に手続きに行くコトが良いかもしれません。
郵便局へ行った。 窓口で保険証書と各書類を渡す。 署名捺印するようにと書類を渡される。 何がなんだかわからないまま、現金を渡された。 保険が解約できたのか・名義を書きかえられたのか・ 母の郵便貯金の口座が解約できたのか 何も判らないままに。
何度も聞いて少し理解できた。 亡くなった方の前(全?)戸籍を用意する。 これは生まれてから亡くなるまで全てのものだ。 よく判らないが、生存していた証明になるらしい。 例えば、千葉で生まれ(戸籍をつくり) 北海道に戸籍を移した後、婚姻などで、東京に移り住んだ(戸籍も)場合 千葉・北海道・東京と3箇所分が必要になる。 無論取り寄せになる場合もある。
各役所は慣れたもんで、小為替と返送切手を用意して多めに送ってくれば 多い分は返すと言う感じだった。 電話でのやり取りで、役所の中で関東は感じが悪かった。 でも九州はどこの人も感じがすっごく良かった。 「母を亡くした子」と話していることを 一瞬も忘れないような応対だった。 事務的であっても、声のトーンとか語尾って 相手に与える印象は大きいのね。
郵便局の解約手続きは簡単じゃなくて 外気の暑さと、普段聞かない言葉を沢山聞いて 頭の中も気持ちも、全部だるくなった。
それでもできるだけと、母の銀行口座の解約に足を伸ばした。 銀行ではもっと判らなくなった。 印鑑証明とその印鑑を必要とすると言われた。 持ってない人は取れってコトですか? 笑顔のない窓口嬢が そうなりますねぇ。 ちょっと残念そうに言う。 判りました。 この口座は凍結いたしましたのでご了承下さい。 ハイ。
数日後、この銀行の通帳で記帳しようとしたが 利用できませんと出た。 郵便貯金の通帳も同様だった。 凍結されると記帳もできなくなるのかもしれない。 残高をハッキリさせる為に、まず記帳してから 窓口へ行く方が良いかもしれない。
遺言書だの法定相続人だの 何がなんだかやっぱり判らない。
まだ数行残ってるけど、もう気力がない。 いちいち母が死んだので口座を解約したいと説明するのが もうイヤだ。
銀行・郵便局・役所に一言 何も話したくない遺族に、手続きの為の説明されても ちっとも頭に入らない。 後で見返して判るように、書き方・必要な物の一覧を 「判りやすい言葉」の置き換えたものを用意して下さい。 年配の方には絶対無理。
死亡保険の受取しかできなかった。 印鑑登録をする・法定相続人(家族皆)の印鑑証明が必要 誰を代表相続人にするのか決める 母の除籍戸籍を取る これらをある一定に処理しなければならない。 その後、本人や受け取った人の確定申告等も残っている。
本当に遺族は泣いていられないんだね。
2002年08月18日(日) |
日記と言うより記録(7/31−4) |
正月に父が会社の人をウチに呼び、新年会みたいなものをしていた。 毎年恒例だった。 私達は正直苦痛だった。そのことを言ったのだ。 酔っ払いばっかりになって、やれ氷がないと言われ、 コンビニに走り、料理がなくなったと言われ食材を求め、かけ回る。 お開きになったらなったで、食い散らかしや大量のグラスと食器の 片付け。 22時頃にお開きになっても、イヤイヤやってるのもあって 片づけが終わると25時を回っていた。 高いびきで眠る酔っ払いの父を起こすのも大嫌いだった。 それが毎年の1月3日の過ごし方だった。私はお正月が嫌いだ。
変わったご婦人は、お正月にウチへお邪魔してると奥さんが言ったのを聞いて 母が「イヤだと言っていた」と言ったらしい。 普通来ていたって言う人を前にして言うのかそんなこと? 私は言わないし言えないねぇ。
車内で奥さんからこんな話も聞いた。 自称親友の話を信じ込んだ奥様が、お骨を拾う時、 旦那さんに 下請けだからやっぱりやめようよ。 良いんだ。 だってお友達が断られてるのに・・・。 俺達はここに呼ばれてきているんだから、拾わなきゃだめだ。 旦那がそう言うから拾ったんだけどね。 ううん、拾ってもらって良かったって本当に思ってるよ、ありがとうね。
変わったご婦人の発言で危うくガン患者のご夫婦と 仲たがい(?)してしまう所でした。
この変わり者のご夫人は、一見普通に見え 受け答えがまともっぽいから恐いね。
葬儀場に戻り父に耳打ちした。 どーすんの?あの人。帰ってもらうの? 食事の人数は、入ってないからなぁ。 判った、帰ってもらうよ? そうしてくれ。 うん。
ハッキリした口調で、変わったご婦人に言った。
今回はありがとうございました。 本日これからは親族だけになりますので、これでお引き取りください。 そうですか・・・。 (不満そうだなぁ構うもんか) じゃ、今日は本当にありがとうございました。 深深と頭を下げて追い返す。 入り口を後にした変わったご婦人。 叔母が私に駆け寄ってきた。 Zちゃん、これ持たせなさい。 え? おり詰めを持たされた。 『ちっ』心の中で舌打ちした。 ご婦人を追いかけ、 こちらお持ち下さい。 まぁすみません。ありがとうございます、 Zちゃんから頂いたって、家で先生を偲びながら頂きますね。 はい、ありがとうございました。 また頭を下げる。
ため息をつきながら入り口を見ると、叔母が立っていた。 会食に参加できない親戚がいたから、おり詰めを持たせようとしたけど それが間に合わなかったので、今回追い返すことで恨まれたりしたら あなた達が心配だったから、持たせたのよ。 そっかー助かったぁ、ありがとうね。
今日は最後の最後まで 変わったご婦人に引っ掻き回された感じがする。
後で妹と話して同じ結論に達した。 彼女はきっと誰か母を知ってる人に出会ったときに 「私は先生のお骨を拾った」と言いふらす。 そして「私は親友だ」と。 それが私達の耳に入ったらきっちり事実を言う。 火葬場に来て欲しいと、遺族の誰一人お願いしていない。 母が彼女を親友と言ったのを、私達は聞いたコトがない。
後日、叔母から聞いたが、私が火葬場でお引取りを願った後 叔母に彼女はこう言ったそうだ。 A子ちゃんに意地悪を言われた。下請けがここに来てるのに 親友の私に帰れと意地悪を言われた。
オイオイA子じゃないよ、私だよと言ってやりたい気持ちもあるが 関わりたくないし彼女に常識を教えてやる必要も、私には一切ない。
告別式は終わった。 お骨を抱いて車に乗り込んだ妹は お母さんが熱いと言っていた。
2002年08月16日(金) |
日記と言うより記録(7/31−3) |
その変わったご婦人は、火葬場から一向に立ち去る様子がなかった。 やがてアナウンスが入った。
母の元にゆっくり皆が移動する。 父に耳打する。 さっきさ、叔母ちゃんに聞いたけど、下請けが来てて私は親友なのに 行けないなんておかしいって言ってたってよ?
下請けと言ったのはガン患者のご夫婦のことで、確かに父の会社の 仕事も受けているが下請けではない。ガンにかかっている奥さんが 自分のコトを卑下してそう言っただけで、下請けではないコトと 母と同じ病気にかかっているコトは周知の事実だ。
下請けだけど親類だから、今回は親類だけとなっていますって お前が言って来い。 えぇーまた嫌われちゃうじゃん。 俺が言ったら決定になるだろう。そうはいかんだろう。 まぁそーだけど。判った。じゃ言ってくる。
変わったご婦人の前に立ち 今回こちらは親戚だけでお願いしていますので。 え、でも。 私は遮って話を続けた。あちらの下請けとおっしゃった方は、 遠縁にあたりますので私共でお願いしましたので。 ・・・。判りました。 すみません。
変わったご婦人の前から離れた。
母と対面した時、本当にこれが母か?と思った。 面影がないのは当然だけど。 父方の親戚、母方の親戚、ガン患者のご夫婦、若干の父の会社の方。 そして私達だったはずなのに。 彼女がいる。変わったご婦人。
言ったのに。 どうする? もうどうにもできない。
最後にお骨を拾う番になったが、相手がいないため一人だった。
彼女は待合室で叔母と話していた。
母の前で彼女は叔母にこう言ったそうだ。
お姉さん、私は先生の親友なんです。下請けが骨を拾って 親友の私が拾えないなんておかしいじゃないですか。 お姉さん一緒にお願いします。
叔母がこっちを見てものすごく困った顔をした。 私はそれを見ていた。 何もできなかった。 叔母の判断に任せようと思った。母のお姉さんだから、私より きっと母に近い考えを持っているだろう、そう思った。 断れないな。そう思ってみていた。 叔母がその変わったご婦人とお骨を拾った。 叔母は私達に背を向けたまま、握っていたハンカチを後ろ手に パッパッと振った。 断れなかったの、仕方ないよね。そう聞こえた気がした。
後で、叔母が私のそばに来て謝ってきた。 ごめんね、あんなことあんなトコで言うんだもん。断れなかったの、 助けてってZちゃんを見たけど来れなかったよね。 うん、いいよあれで。断れないよ、そんなコト言われたら。 後でY子(母)の悪口とか言いふらされてもイヤだったから。 うん、判ってるよ。ごめんねイヤな役やらせて。 ううん。ごめんね。
火葬場から戻って来る時、行きと同様ガン患者の奥さんと同車だった。 行きよりひどく落ち込んでいた。
どうかしたの? あの親友の方から聞いたんだけど、お母さんお正月の訪問を嫌がってたの? ・・・。ううん、お客さんが来てくれるのは好きだし、にぎやかなのが好きなの知ってるでしょ? ・・・。 でもホラお父さんがあーだから、人数も時間もちゃんと教えてくれなくてね。 ・・・。 お母さんはちゃんと人数分用意したいって思ってるし、お料理冷めない様にとか あるでしょ?だからそれに対しては文句言ってたよ。 そうなのかしらねぇ・・・。 そうよ、だって判るでしょ?お父さんがお酒飲んだとき・・・。 そうね、あれはね・・・。 だから気にしないで?ね? でも親友にイヤだイヤだ言うくらいだから・・・。 あのね?お母さんの性格判るよね?分け隔てないでしょ。あの人が親友だったら皆親友よ。私達だってあの人が親友なんて今日知ったもん。 そうなの? そうよ。 でもお正月のコトは負担ったんだね。 そりゃゼロじゃなかったと思うよ。10人分以上の食事やお酒の仕度するんだもん。でも嫌いじゃなかったよ、後片付け以外はね?(笑) でも「言ってました言ってました。先生、お正月のお客さんが来るのがイヤだイヤだって言ってました」って言われたから。 ううん気にしないで、ちょっとあの人変わってる人なのよ、ホントに。 そっかぁ・・・。
車内の話はそれだけじゃなかった。
2002年08月15日(木) |
日記と言うより記録(7/31−2) |
お葬式は母が望んだように、大好きな赤いバラを沢山用意してもらった。 菊を少なくしてもらったが、それでも飾り付けが菊のほうが 上手く行くらしく、それなりに菊が入った。 あ〜辛気臭い(笑) 母ならそう言いそうだな。
告別式だった。 昨日は来なかった、ちょっと変わったご婦人が来た。 なんどかお見舞いに来てくれたご婦人だ。 何度も「変わったご婦人」と書いてるので記憶にある方も多いだろう。 A子の天敵かもしれない。 この方で、また一悶着あった。 この話しは順を追って書くことにする。
お通夜より人数は減ったがやっぱり参列客は集まった。 何があったかあまり覚えていない。思い出せない。
ただ、母の周りにお花を入れるとき バラが好きだから顔の周りにバラを入れたら、顔色が悪く見えたので ピンクの花に代えていったのを覚えてる。
菊はあまり好きじゃないから足元にお願いしますね? なんて笑顔で言ったような気がする。
昨日預かった、共同制作の本・お気に入りの楓の写真・ 楓の首輪・私達にお弁当を入れてくれた袋。 還暦のお祝いに叔母からの赤いTシャツ・別の叔母が編んでくれた 薄紫のポロシャツ・私達からのお腹が大きくても着られるようにと マタニティっぽいジャンパースカート。 どれも袖を通すことがなかったので、持たせた。
7/29取りに戻った眼鏡も持たせようとしたら、 お骨になってからと断られた。
随分華やかになった母は 少しだけ照れくさそうに笑った顔に見えた。
遺影をA子に持たせるコトにした。 彼女が母の看病のため会社を3ヶ月休んで尽くしたのだから 最後まで彼女に面倒をみさせてあげたい。 そんな気持ちからだった。
私とA子と一緒の車に、ガンにかかってる父の取引先の 奥さんが乗っていた。 この奥さんもガンだが、旦那さんもガンで声を失った。 リハビリを行い簡単な会話なら交わせるようになっている。 ただ、悲しいことに息子さんを既にガンで亡くしている。 ご夫婦は随分お元気になっていらっしゃって 母のお見舞いにんも何度も来ていただいた。 同じガン患者の辛さや苦しみを笑い飛ばしてくれた。
それだけに、がっくりされている様子だった。 それなのに私達を力づけるように、声をかけてくれた。
マイクロバスと乗用車で火葬場へ。 変わったご婦人がいる。 え?親戚とかだけじゃないの? A子と耳打ちする。父にも確認する。 呼んでないぞ。 え・・・。 ガンの奥さんや叔母達と話しをする声が お手洗いに立った私に聞こえる。 すっくと立ちあがり、私をチラッと横目で見たような気がした。 私は先生の26年来の親友で○○と申します。 26年来?・・・、計算合わないぞ。 知らん振りをして、離れた。 戻った時にまた立ちあがり、誰かに挨拶している。 私は先生の28年来の親友で○○と申します。 オイオイ、増えてるじゃん。 知らん振りして席に戻る。
お父さん、あの人(変わったご婦人)どうするの? 小声で話してると、変わったご婦人が、這いつくばったまま にじり寄ってきた。 妹と私は、思わず身を引いた。
旦那さん、先生が亡くなったからってコレっきりのお付き合い ってことがない様にと主人も申しておりました。これからも、 末永くお付き合いをお願い致します。
あぁそうですか、こちらこそ。
赤い目をした、変わったご婦人が席に戻った。
ちょっと!何言ってんのよ 仕方ないだろう、あの挨拶はまともだろ?失礼なことを言えばビシッと 俺も言うがアレには問題がないじゃないか。 そーだけど。 A子が口をはさんだ。 どーすんの?今後ともっていったじゃん。付きまとわれんじゃない? ・・・。 ・・・。 三人に不安がよぎった。 不安は的中した。
変わったご婦人の話でA子が何度も話すことがある。 10年以上前、朝の5時に電話が鳴った。 A子が取ると、そのご婦人から母にだった。 何度かそんあことがあったためA子が こんな朝から非常識じゃないですか?と 文句を言ったらしい。 確かに家の電話に、朝の5時は私の常識からも外れてる。 普通のサラリーマン家庭では、あまり一般的ではないと思う。 あと朝の7〜9時前後。これも朝の慌しい時間で、 緊急以外は避けて欲しい時間だと思う。 で、 A子が文句を言ったので、A子=イヤなヤツ(文句を言う)という 構図ができあがったようだ。 そんなことがあった後、何年かしたあとで、母から変わったご婦人に 連絡をして欲しいとA子が頼まれ、夜の9時に電話をしたらしい。 そしたらそのご婦人、 こんな時間に非常識じゃないですか? と言ってのけたらしい。 夜11時にかけたらそうかもしれないけど、 寝るのも遅い話は聞いてるし問題ないと思うのだけど やったらやり返すのかな。 家庭の事情は色々あると思うけど、変わったご婦人のエピソードは 色々ありすぎて、その内書くかもしれない。
2002年08月13日(火) |
日記と言うより記録(7/30−3) |
お通夜がすみ、灯りの番を叔母たちがしてくれるから休みなさいと 言ってくれた。 母のお姉さん達だ。 ソファーで仮眠してる妹の横で ぼぉーっとしてると、小姑が部屋に入っていくのが見えた。 叔母達と父と小姑が揃った。
叔母が後で話してくれたが お母さんがいる所で、お酒飲んでたでしょ?あの時 お母さんが噛み付いた話しをしてきて、どう思いますか? って言うのよ。返答に困ってたら、おばさんが 「まぁーどうしてそんなことするんでしょう?私には判りません」って 言うのよ?私、すごく悔しくてね。わざわざお母さんがいる所で そんなこと言わなくて良いじゃない? 涙を流す叔母。
確かに何年か前、母が父に噛みついたことがあった。 鼻だか頬だかだ。跡がついて、噛みついたくせに 病院に行けと母が言ったそうだ。
ここだけ聞くと強暴な女だが、そんな行動には何らか理由があったはずだ。 人は何の理由もなく行動は起こさないだろう。 少なくとも私の知ってる母は、別の怒りを父にぶつけるコトは 決してなかった。 母に噛まれるだけのコトをしたのは、絶対に父だと私は思っている。 もうそれだけでいい。
結局叔母達に言いたいコトだけを言って父は 灯り番もせず高いびきだった。
歳だし、前日の睡眠不足もあって仕方がない。
ふと思い出した。 祖母が亡くなった時、 お通夜前日に、小姑が母と私達にこう言った。 私達は前日寝てないから、灯り番をお願いね。 祖母が亡くなったと連絡を受け、寝ずに仕度をし仕事に行き 飛行機に乗って駆けつけたのに。 愕然としたけど、看病で疲れてるんだろうなって思った。 小姑達は起きてこなかったが、叔父は何度も何度も起きて 灯り番をしていた私達を見ていたのは、知っている。 灯り番をしながら、お婆ちゃんに話しかけたのを思い出した。
小姑と母を二人っきりにしたくなくて叔母達が結局 ずーっと母のそばについていてくれた。 3時頃から私も妹も一緒にいた。
2002年08月11日(日) |
日記と言うより記録(7/30−2) |
お通夜があった。
会社の人が来てくれた。母も知ってる皆だ。 母の病気のコトを知っていたのは1人。 7/26に見舞いに来てくれた人。 1人は見舞いに来たいと言ってくれてたけど、断った。 母よりかなり年配の方で、心配をかけたくなかったから言えなかった。
他の人は知らなかった。 お母さんがガンにかかっているのを聞いて、やっぱり言えなかった。
皆目が真っ赤だったよ、お母さん見てた? 早い時間から来てくれて1番にお焼香をしてくれたよ。
Nさんは悲しみと驚きで私達を見た。 私は「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。 Nさんのお父さんは学生時代ガンで亡くしているそうだ。 それを聞いて言えなかった。
横に座っている妹は「憔悴しきった」という様子だった。
母の友人も大勢来てくれた。 私達が連絡したのは、二人だったのに。 随分前に仲が良くて、少しずつ疎遠になっていた人も 目を真っ赤にしていた。この人は私も面識がある。 パッチワークで小物入れを作ってくれたりした。 母が病気になった時、この人に連絡するか母に聞いたことがあった。 どーする? 連絡しないで(笑) なんで? だって息子が結婚してお祝いしたらさ?私ばっかり 貰ってばっかりだから、お嬢さんが結婚しなくて、 妊娠しただけでもいいから教えてねお祝いするからって言うのよ? あははは。やりそうだねぇー でしょ? うん だから大変だと思うからしなくて良いよ。 そっか、もっちょっと良くなったら連絡しようね? うん、そうして(笑)
その人が、私を見るなり泣き出した。 知らなかったから、ごめんね。 ごめんね、心配かけるから言わないでねって言われてたの。 うん、うん。 二人で泣きながら謝るだけだった。
1度だけ見かけたコトのある人がそばに来た。 先生から預かって来ました。 そう言って手芸の本を差し出した。 あ、共同出版した本ですね。 これを中に入れていただけますか? えぇ結構ですけど、よろしいですか? 是非お願いします。 母は手芸関連の講師の資格を持ち、カルチャースクールで講師をしていた。 その生徒さんや、仲間達がたくさん来てくれたのだった。 本も、その手芸をやっていた結晶ね。
父の会社関連の方も大勢見え、少し小さめの会場が人であふれかえっていた。 お母さんにぎやかなのが好きだったからきっと喜んでるだろうな、 なんて思った自分が少し悲しかった。 生きてるうちにもっと喜ばせてあげるコト いっぱいいっぱいあったはずなのに、私は何を惜しんだのだろう?
2002年08月10日(土) |
日記と言うより記憶(7/29−4) |
記憶があやふやになってきた。 急ごう。
確か7/29の夕方前後に小姑達がきたんだと思う。 お通夜、告別式の打合せが終わった後だったと思う。 叔母は小姑と顔を合わす前に帰っていった。
父が母の最期に間に合わなかったのは 父が病院から連絡を受け、 小姑に連絡をしたからじゃないかと思う。 今病院から連絡があって、病院へ向かうから。 朝そう電話をもらって1番早い便で来たと小姑から聞いた。 父がただ母の元へかけつける事だけを考えて来たら・・・ 例えパジャマのままでも。 必ず間にあったんだと今でも思う。 それを考えると、父はウチの家長ではなく いつでも父家の長男なんだなぁと思う。
小姑がやってきて、私と妹はその小姑応対に慌しく動いた。 お茶を用意し、小姑の指示を仰ぐ。 お母さんのお備えを買ってきなさい。 お菓子とか果物とかね。
買いに走った私が家に戻った時見たものは カレンダーだけになった台所の壁だった。
小姑達のすることを抗議するコトもできず ただ見ていたA子。 私が帰ったときに、壁を指差しただけだった。
母の通っていた病院の診察券、楓の鈴、楓の診察券 母の何か判らないメモ、先月までのカレンダー。 何か頂いた時のリボン。 今月のカレンダー以外、何もかもなくなっていた。 まさか・・・
ゴミ箱を見る。
あった。
悲しくなる気持ちがあふれ ゴミ箱から先月までのカレンダーを拾う。 退院の日がハートマークで記されている。 死んじゃうってこういうことなのかなぁ?
前に通っていた病院の診察券も拾った。 悔しさがこみ上げる。 もっとちゃんと診察されていたらわかったはずなのに。 このことは専門家に話をしたが、母が元気な間は 見送ることになっていた。 この話はまた別の機会に触れることになると思う。
夜、母のそばで父と私達は交代で灯りの番をした。 ものすごい睡魔がやってきては消えていく。
翌朝早くに小姑達が、玄関を掃除していた。
母の靴がまとめられていた。 今日は仏様が通るから、玄関はきれいにしないといけないからね。 あーた達、どれがお母さんの好きな靴か私達には判らないから 選んでちょうだい。
ゴミ袋にまとめられた母の靴。
悲しみは通り越すと、もうどうでもよくなるのかもしれない。 母が同窓会にはいていった靴だけを選んで、ゴミ袋から出した。 よく履いていた靴、お気に入りの靴、入退院で履いていた靴も 選びたかったけど、もうどうでもよくなった。
でも 母がまだ家にいるのに、母のものをどんどん片付けられるのは どうしても悔しかった。 悔しい?悲しかった、辛かった。母がいたコトさえ消し去るようで。 それをするのが、母と距離の近い人ならまだ印象も違うだろう。 でも小姑だったのが反発心を招いたのかもしれない。
小姑に抗議するコトはできず、父に抗議した。 お母さんがまだ家にいるのに、なんでお母さんのものを 片付けたり捨てたりするの?許せない。 怒りを露にした。 父は黙っていた。
数時間後、父は 伯母ちゃん達には言っといた。あんまり勢い良く片付けるな、 あいつらに恨まれるぞ、と言っといたから。 そう私に言った。
言い方があるだろう?と思ったけど私も黙っていた。 言っても無駄だし。 こうやって、人は諦めていくのかな。
母を乗せる車が来た。 近所の人(おばちゃん)達も手を合わせ母を見送ってくれた。
小姑達がしてくれたことは、母が嫌いでやったんじゃないことは 当時も今もそれは理解している。 家族(主に父)が遺品を見るのが辛かろうと親切心で してくれたんだと思う。 でも、遺族が亡くなった人を偲びながら遺品の整理をすることは 色んな気持ちや想い出を整理することと同じだと思う。 だから、想い出が少ない人には、1番に整理をして欲しくない。
2002年08月09日(金) |
日記と言うより記録(7/29−3) |
看護婦さんが病室を訪れた。 お世話になった看護婦さん。 ちょっといい?お別れ言いに来たの、 よく頑張ったよねぇY子さん・・・。
じっと見ていた。 私達は泣いていたと思う。看護婦さんは泣かない。
やがて数名看護婦さんがやってきた。 身体をきれいにしますね。 お風呂には入れてあげられませんか? ごめんね、そう言う施設はないの。 そうですか・・・。『汗かいていたのに』 着替えは何かありますか? え?着替えですか? えぇ浴衣とかパジャマとかお洋服とか。 『全然思いつかなかった』ありません。 そっかぁ、じゃあ病院のでも良いですか? お願いします。 では、管とか抜くのでお部屋から出ていて頂けませんか? あ、判りました。 3人で部屋を出る。
この時、父は既に病室から立ち去っていた。 葬儀などの打合せに向かっていたと思う。
何も変わっていない見慣れた風景なのに どこにいるのか判らない気持ちになる。
あぁ連絡しなくちゃいけないね。 そうだね。 伯母ちゃん、悪いけど叔父さん達にお願いします。 私とA子で母の友人に連絡をする。 あ、携帯病室だ。
妹が病室の看護婦さんに声をかけ、携帯を取りに入る。 母の携帯の登録されている友人に、妹と手分けをして電話した。
Y子ノ娘ノZデス。母ハ7時34分ニ息ヲヒキトリマシタ。 この間あった時は元気だったのに・・・。 スミマセン、アノ翌日アタリから急ニ悪クナッテ。後ハ転ガルヨウニ 悪クナッテイッチャッテ。 嗚咽だけが耳に聞こえてくる。 判ッタワ、力ヲ落トサナイデネ。何カアッタラナンデモ言ッテネ。 ○サンニ、ゴ連絡シテイタダケマスカ? 判リマシタ。 アリガトウゴザイマス。
何件に電話したか覚えていない。 でも3件、連絡しなかった。 仲たがいした人・お見舞いにも来てくれた少し変わったご婦人 あと、泣き虫君に。 泣き虫君に連絡することは、ずっと妹と悩んでいた。
やがて看護婦さんが、お化粧どうしましょうか?と 聞いてきた。 『自信がない・・・』お願いできませんか? 母の化粧道具を渡す。
どうぞ。 病室に招き入れられた。 どこも変わっていない部屋なはずなのに、何かが違う。 まだ暖かい母を3人でさわる。
でも時は私達を追いたてる。 泣きながらでも進めと言うようだ。
部屋の明け渡しのための、片付け 母と家に帰るための準備がある。
父が戻ってきたと思う。母を連れて帰る手はずが整った。
ほとんど捨てた。入院の為に揃えたものはほぼ捨てた。 何も持って帰りたくなかった。 母の入院の為に揃えたものを、別の用途に私は使いたくなかった。 母の湯呑み・洋服・手紙・お見舞い等は持ち帰ることにした。
父と母が一緒に家に帰るので 私達3人は一足先に荷物を持ち家に向かう。 叔母が気にしていた。 部屋の中を片付けないといけないね、あちらさん(父方)が お見えになるんでしょ? うん。 人の出入りが激しくなるから片付けようね。 うん。 叔母はいわゆる、火事場泥棒の被害に子供の時あっていて それがものすごく気になっているようだった。
ものすごいスピードで部屋の中が片付く。 取りあえずテーブルの上は何もない状態になり 畳の上にも何もない状態になってくのに 時間はそうかからなかった。
車の音がする。 お母さんだ。 家を飛び出す3人。 ありえないのに、ひょっとしたら・・・と本気で思った私がいた。
母が家に帰ってきた。 母を寝かす布団と肌掛けを用意してくれと言われ慌てる。
母の身体にはドライアイスが乗せられていた。 手はしっかり胸の上で組まされほどけないように レースのリボンで結ばれていた。
葬儀の日程を決める。 明後日なら大きい葬儀場が用意できます。 そう言われたが、一日でも早く母を自由にしたいと思った。 明日できる所を父に押しきった。 今の葬儀は洋風なものもあって、赤いバラもアリだと聞いたので 父に母が私の葬儀のことで要求してきたのを伝える。 菊は嫌い、バラにして。できたら大好きな真っ赤なバラね。 葬儀屋さんも洋風の感じでいきましょうと言ってくれた。
様々なコトを短時間で決める。 全体の予算 時間は何時からか 仕出しは何にするか 香典返しは何にするか 数量はいくつか 何がなんだか判らなくなりそうだった。 泣いている時間はないと聞いていたが 確かにそうだった。 葬儀の打合せに私も参加したが その時、私は泣いていなかった。
気のせいじゃないと思うんだけど 気のせいかもしれないことがあった。 母の携帯電話を探した時 見つからなくて、キーキー私がしていた時 何かが私のお尻にポンとあたった。 ハッ?! 後ろを振り返る。でも何もない。 棚にはお尻は届かないし、何に? え、お母さん? キーキーしなさんな!って叱られた気がした。
一通り打合せが終わり、父が会社に連絡をした。
午後に叔母は帰っていった。
やがて、葬儀などの日程が書かれた用紙が手元に届いた。
妹とも話し合った結果、 それを少し変わったご婦人の旦那さんの職場にFAXすることにした。
気のせいかもしれないことがあった。 母のそばに楓のお骨を置いた。 母の化粧を妹が左側から直し、私は眉毛を右側から手直ししていた。 何かが私の右肘に触れていった。ふわっと柔らかいものだった。 楓だったような気がする。 皆が家に揃ってじゃれ付いてきたような気がした。
お線香をあげたけど、まだ母は暖かい。
夕方前だったと思う。 小姑(父方の叔母達)が来た。
2002年08月06日(火) |
日記と言うより記録(7/29−2) |
朝方何度か看護婦さんが病室にやってきた。 担当じゃない看護婦さんも顔を出してくれた。 担当の看護婦さんが母に話しかけている。 前に仲良かった看護婦さんでやめちゃった人がいたでしょ? ○○さん。あの人からも頑張ってねって言われたわよ。
母の呼吸は依然荒いままだ。
外が明るくなった頃、看護婦さんが 母に取りつけてあった心電図計?を確認にきた。 電波が上手く飛ばないらしく心配だと言っていた。
私達3人は相変わらず母の手足をさすっていた。
6時半過ぎだったと思う。 ごめんなさいね、もうこっちに変えます。 母に取りつけてあった携帯式の心電図計から テレビで見るみたいなコンセント式のものに変えられた。
私の表情も強張ったのが判った。
7時頃、看護婦さんが父に電話をしますと言った。 お願いしますと頼んだ。
7時10分頃、看護婦さんに 半までに病院に着きますか?と聞かれた。 タクシーで来れば間に合いますが、父が何で来るか判りません と答えた。
カンにさわるオトで頭が痛くなる。 ボリュームを下げようと見ると、既に最小。 ごめんね、気になる音よね、 ボリュームは最小になってるから。 看護婦さんが言った。
近隣のコトを気にしていた母のコトを思うと 隣の病室に聞こえるんじゃないかと気になる。
数値がどんどん小さくなっていく。 一呼吸に2から5程度小さくなっていたと思う。 20位1度に落ちた。 3人とも母の顔は見ていなかったと思う。 モニターの表示する緑色の数値と波線を 凝視しながら、手足をさする。 10位、数値が上がった。 そんなことのくり返しをしていた。
徐々に数値が小さくなっていき、2まで下がった。 叔母(母の姉)は手をさするのをやめなかった 数値が少し上がる。叔母が これは、私が手をこうやってるからですか? そうです。 先生を呼んできますね。 看護婦さんが答えた。
3人は泣いた。
7時半頃、先生がやってきた。3人は母のそばを離れた。 モニター、瞳孔、脈等を診て どうしますか、お父さんはご不在ですが。 結構です。お願いします。 と私が答えた。
チラッと時計を見て 7時34分ご臨終です。 そう言い終え 先生が頭を下げ、ドアに身体を向けようとした時 父が病室に入ってきた。
間に合わなかったよ、たった今だったよ。
多分私が父にそう言ったと思う。 先生がもう1度同じことを父に告げた。
そうか・・・。間に合わなかったか。母さん。Y子。
父が母の名前を呼ぶのを聞くのは、ここ数年記憶にない。
母は父に会いたくなかったんじゃないかと思った。 最後の父への反抗だと感じた。 A子は私と違っていた。 母は父が間に合うように、ぎりぎりまで頑張ったんだと思う と言っていた。 最初はそうか?って思ったけど、反抗じゃなかったのかもな と思うコトがあった。
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