みかんのつぶつぶ DiaryINDEX|past|will
ほらね、二月は逃げるようにいってしまうんだわ。
ますぐなるもの地面に生え、 するどき青きもの地面に生え、 凍れる冬をつらぬきて、 そのみどり葉光る朝の空路に、 なみだたれ、 なみだをたれ、 いまはや懺悔をはれる肩の上より、 けぶれる竹の根はひろごり、 するどき青きもの地面に生え。 <萩原朔太郎「月に吠える」抄> 幼い頃から竹林が好きだった。 竹のスーッとしたその立ち姿に憧れた。 竹の葉が風に揺れる音に恐怖を感じながらも、 その擦れる音に共感した。 ざわざわざわざわ しなやかに揺れるその姿には美しさと厳しさがあって、 自分もこういう姿に映る人間になりたいと憧れる。 息子にレタックスが届く。 静かに合格。 入学案内が後日届くが手続きはしなくていい、と云う息子。 竹の葉擦れる音がした。
買い物へ出た道々、 頭の後ろから遠くへひっぱられるような そんな感覚に何度も陥った。 何がそうさせるのかというと やっぱり梅の香り、そして大地の匂い。 道瑞にしゃがんで雑草をながめていた幼い頃の私。 卒業式も間近な小学校の校庭を横切る私。 もう春なんだなぁと重いカバンを持って空を見上げた中学生の私。 そろそろコートはいらないな、とぼんやり電車に揺られる高校生の私。 子ども達を自転車に乗せて多摩川の土手を走る私。 二月だというのにいつも汗ばむくらいに早足で病院へ向かう私。 ベンチで私を待っていた彼の姿。 そんな季節なんだなってね、道々思い出して。 息子の受験も今日で終わり。 部屋中に積まれている参考書とノート。 努力はしたのさ、それでいいんだよ。 ゆっくりおやすみ。
なにごともなく、なにごともなく。
金曜日の受験はパスをした息子。
久しぶりに、何を観るという目的もなく映画館へ行った。小雨降る本牧、WEEPING IN THE RAIN。 この廃墟に絶望する以上にもっと大きな現実に囚われていること、それはダビデの星という記号をつけた主人公が身を潜めなければならないという現実。 かつて私が病院から帰る道で抱いた心のなかの廃墟。日々広がる眼前の現実に、悲嘆していられない私の立場。そんなことと重ねて眺めた場面。 信号機の色を見て動いたり止まったりということが自然な行動になるように、人はそれぞれが誰かに記号をつけているのかも知れない。そしてその記号だけに反応をするのだ。記号だけで判別選別をしているこの世の中に流されることが「賢い」といわれる生きかただという。個性のない時代。みんな同じ顔に見える。 スクリーンセイバーをかけた表情や心と付き合うのは苦手だ。
読売新聞に掲載されていた編集手帳を読んで、本当にその通りだと朝から心が広くなった気分。梅は、学習の道筋を示しもしているという。九州旅行のお土産だといただいたキーホルダーの菅原道真さんは梅の花のなかにいたことを思い出した。あれは18のときだったか・・・とか(汗) 学歴はないよりもあったほうがいいと思うし、学歴が大事だとは言わないが、あった方が生きていくうえで何かと便利でしょうねって感じかな。その大学を目指して勉強するのは本人が努力をする、ということなのだから。努力は認める、けれどそれを人間のランクに当てはめる体制が嫌いなだけ。 今週は試験日が2回。早慶、どちらにしてもここで妥協してもいいんだよ? ハードルを高くして燃え尽きて真っ白くなりたいんだろうねえ・・・ とか、なぜか試験日を前日にして漫画を読んでいる息子に安堵する変な母親。 その編集手帳にはこう締めくくってあった。 ◆受験勉強ではあっても、学んだことは無駄にはならない。学んだ知識を自分なりに、さらに発展させていくことが大切だ。日本人が梅を取り込み、独特の美を見いだしていったように。そんなことを彼らに語りかけたいと、ふと考えた。◆ 自分のペースを保って受験勉強をこなしている息子を見ていると、どうしておまえはそんなに偉い子に育ったのか?と不思議でならない。だれが育てたのか?子どもは自分で育つんだな。親はただ土壌を作ってやるだけ。 私の好きなお絵描き、最近は模写に精を出している。それは自分のなかにイメージを取りこみ続けたら、私の個性を見出すことができるのではないかと期待しつつ。なかなか思うようにはいかないけれど、コツコツと作業を続けてみたら、気がついたら春になってたなんてことにならないかなとか(汗) ・・・
第二次選抜試験まであと10日あまり。先日、受験票も無事届き少し息子の表情が和らいだかも?今更ながら受験する学部は何を学ぶところなのかと大学のHPをのぞいてみたり(汗)いやぁ、らしいといえばらしい、おやぁ?とちょっと驚いたといえば驚いたし。無表情の息子からは想像できないけれど、人間の人間たるなんとかを追求研究するということなのか?自分自身を追求したいのか?ジャーナリストにでもなるのか、それとも教師か。まさか心理学?機会をみて本人に聞いてみよう。いや、聞かないかも。 って感じの私を母親に持つとは絶対に想像もつかない息子の後姿をまじまじと見て、クリクリ坊主の頃の愛らしい笑顔を思い出し。二月に入ってから学校は休みに入った。朝8時半過ぎに部屋から出てきて、ひととおり新聞に目を通し終えテレビを見ている姿が、幼い頃の姿と重なった。この時間にはNHKの教育テレビで「おかあさんと一緒」が始まる時間で、テレビに夢中になっている隙に家事をしたものだったなぁとか。あの頃とその頭の形と耳のつき具合はなんら変化はないのに、その中身と背景が月日の流れのなかで大きく変化した。 公園で泥だらけになって遊んでいたあの日々から、 こういう日を過ごすということが決まっていたのだろうか? なんて、ちょっと不思議だなあと空を見上げて。
駅のホームへ立ったとき、とても切なくなるのが癖になった。 がんセンターへ行くには上りホーム。 お墓へ行くには下りホーム。 どちらへ行っても彼が待っていることには変わりないと思い。 私を必要としなければならなかった彼が悲しかった。 他人に世話をかけず後指をさされず過ごしてきた彼が、他人の手を借りなければならないことをどんなにか無念に思い苦しんでいたかを噛み締めながら、電車に揺られ。もう一度、骨壷を抱かせてもらえないだろうかと願った。重みを感じたいという欲求にかられる。私を必要とする彼は、子どもに帰ったような愛らしさを持っていた。病がそうさせていたとはいえ、どんどんと純粋になる彼の姿は、私を落胆させるどころか、守らなければという責任感を強く抱かせた。と同時に、私のなかで後悔という文字が私の動きを鈍く鈍くさせた。 それは、死を迎えるという過程に関わっているということへの現実逃避だった。 寺の門をくぐると、梅の香り。弘法大師の静かな顔。 墓石のまわりには、枯葉が散り落ち。暖かそうに布団に包まれ静かに眠る彼の姿を描いているようだった。息子の受験のことや、娘のバイトのこと、みんな元気でいるから安心するようにと報告をする。煙草に火をつけ、線香と一緒に煙が立ち昇る様子をただただ見つめた。 二年前の今日は、病室にチョコレートを持っていった。前日の13日に再入院をし、少しでも笑顔が見たくて。 「もしかしたら、孫の顔が見られないんじゃないかなあ・・・」 入院する前日に、うつむきながら呟いた姿と声が悲しいよ。 なんであのときに、もっと優しい言葉をかけてあげられなかったのだろうか。 なに馬鹿なこと言ってるの、なんて、月並み過ぎる自分の言葉が心の底に釘を刺す。 いまだから、泣いてもいいんだよね? この世に神さまはいない。 神さまは空の上にいる。
眠れない。部屋が暗いと、眠れない。
無気力月間。こりゃ更年期悪化しているのかも知れません。漢方でもまた飲みはじめましょうかね・・・グスン
毎日がストレス。家の中にいながらストレス。子ども達と関わりあうのさえも苦痛になっている。たった独りで生きていけたらもっと楽なんじゃないだろうかとか思い始めている。心配することも不安になる要素も少ないほうがいい。命がそこにあるから私は怖いんだ。
みかん
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