世の中の人間の大半は自己中心的だ。と思い始めた。
世界に対する態度が自己中心的なのだ。つまり、世界が自分と同じだと考えている。他人が自分と同じ考えを持っていると考える。自分が本当に正しいと思った事は、絶対に正しいのだと信じ込んでいる。
例えば、赤信号なら歩行者は横断してこないと思っていないか?赤信号で横断してくる奴が悪い。そう思ってはいないか?
僕はそれを自己中心的な考え方だと、ここでは指摘している。つまり、自分が従っている「常識」を逸脱した行為をするものが「悪い」のであって、自分は「正しい」行為を行っているのだから免責されるべきだ、と考えている人間がいる。
世界は自分と同じではない。あらゆる可能性は起こるのだ。その時に何か事故やトラブルが起こったとしても、それは対処すべき事柄であって、自分が悪いか悪くないかは二の次の問題だ。 対処しなければならない。自分と世界との差異に遭遇しても、何とか対処するしかないのだ。
不測の事態に弱い人がいる。それはつまり、世界と自分との差異を認めていない事に端を発するのではないだろうか。世界が自分を裏切らないと信じているからではないだろうか。
世界と自分は違う。 だから、世界は不意に自分を裏切る。 でも、それは世界が悪いわけでも自分がわるいわけでもない。 ただ、世界と自分は違うだけなのだ。 それを認めない人間を僕は自己中心的と呼ぼう。
「自殺サークル」なるビデオを見た。 どうせ、ちょっとした流行もののサブカルを気取ったくだらない映画だろうと思っていたのだが。
果たして、映像の作りは普通の邦画だったと思う。 若手の監督が作った邦画。
構成もクライマックスでストーリーを投げ出す、エヴァ的なやり口。 まぁ、無難に面白くて他人にも薦められる出来だった。
が、僕にとってはたいへん示唆的だった。 「あなたはあなたの関係者ですか?」 「あなたとあなたの恋人は関われる。」 「あなたとあなたの両親は関われる。」 「あなたとあなたの他人は関われる。」 「それでは、あなたはあなたの関係者ですか?」
「自分」とは何なのだろうか? 我思う。故に我あり。 我はどのようにあるのか?
自分は自分と関係を持つことが出来るのか? あるいは、それは分裂病者には可能かもしれない。 ならば、正常な自己を保っている人間にはどうなのか?
「自分」という主体の内部で完結する行為は、単なる行為でしかない。 つまり、もしも「関係」をある主体から別の主体への働きかけであるとするなら、自分という自己は自分と言う自己と関わることは出来ない。 自分と自分は同じ主体であるからだ。 「自分」という同一性を欠いたとき、自分は自分の関係者と成りえる。
「自殺サークル」では、自分は自分と関係ない。 だから、自分が死んでも関係ない。と言った。 あなたが死んでも恋人の中のあなたは死なない。 あなたが死んでも両親の中のあなたは死なない。 あなたが死んでも他人の中のあなたは死なない。 あなたはあなたに関係がない。 それなら、死んでも同じ事。
自分は生きていても死んでも同じ。 もし、「自分」の形が他人との関係で形作られているとしたら。 「死」とは変化の停止でしかない。 「自分」という身体を伴った存在は消滅し、他人と関係を持つ可能性は消える。しかし、他人の中には関係を持つ可能性が消えうせた「他人の中の自分」が残る。 つまり、本当の死とはこの世に存在する誰の中からも「他人の中の自分」が消え去ったときに訪れるのではないだろうか。
これについては浦沢直樹の「モンスター」が示唆的であると思う。
自己と世界との関わりの極限に位置するからこそ、考える価値のある現象「死」。
2003年09月16日(火) |
不浄なる者よ、去れ! |
真理に対し不遜なる者は真理には辿り着けぬ。 恣意的な貴様の操作など、何も解決せぬ。 忍耐と反省をもって立ち向かう者のみが、それに到達する事が出来る。
ろくに考えない。 適当にごまかす。 それが正しいのか間違っているのかすら考えない。 自分の都合のいいようにしてしまい、それにすら気付こうとしない。 そこまで不遜な者に方程式など解けるものか!
と、中学生に方程式の文章題を教えていて思った。 こいつらは数学に対して不遜なのだ。 適当に扱っているのだ。 だから、考えれば誰でも辿り着く答えにすら辿り着けない。 真剣にならず、いったい何を成せるというのだ!?
おそらく、彼は出世しない。 勉強だけではない。 何をやっても出世などできまい。 彼の人生態度が数学の問題を解く時点で滲み出ている。 その人生態度を改めない限り、何も変わりはしない。 そして、そのような人間はこの世界に掃いて捨てるほどいる。 世の混沌に飲み込まれるがいい。 そして、せいぜい流行でも追いかけているがいい。 この世界に真摯に立ち向かわない者よ。 この世界は貴様ではない。
2003年09月15日(月) |
ゲームにおける他者。 |
自己の地平の外部。 自己とは別の主体。他己。 自分ではない誰か。 それが他者だとする。
ならば、究極的に自己によって他者は決められない。 自分の中にある言葉で他者は決定できない。 他者とは、自分が持っている宇宙、自分を構成する全ての外部にあるのだから。
ならば、ゲームの世界に他者はいない。 全てはプレイヤーの操作に委ねられているからだ。 ゲームにおける人物は全て、プレイヤーと言う自己の操作に委ねられている。 自己によって決定可能な他人。 それは原理的に自己と同一であるはずだ。
だから、僕はゲームに確立を持ち込む。 どこまでいっても究極的には決定できない他者。 傾向性のみが見出される世界。
このゲームの世界は決定不可能になるはずだ。 今の僕の力ではストーリーを破壊するのが精一杯だった。 しかし、確実にストーリーは決定不可能になった。 プレイヤーはもちろん、作り手の側にも。 このゲームは他者なのだ。 従来のゲームとは根本的に異なる他者なのだ。
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