2003年08月25日(月) |
バイク乗りという責任。 |
単車乗りを気取る以上、責任がある。
バイクに詳しくなくてはならない。 普通より上手く、速く乗れなければならない。 素人を助けなければならない。
バイクで困っている人がいて、それを助けるのは親切ではなくて義務なのだ。 当然のことなのだ。 だから、無責任な事は出来ない。 手を付けたら、途中で放り出してはならない。
とになく、人よりバイクに詳しいと自負するなら責任がある。 それを完遂できなければ、自負するに値しないと思わなければ。 それはまだ修行が足りない証拠だ。
指が上手く動かないのだが、それでもどうにか記しておく。
本日、水月にて発狂しそうになった。 ゲームはこれまでにないカタルシスを与えてくれる。 これ以上の快感はない。 超えている。
肉体への直接的な刺激など必要ない。 射精よりも花梨が放尿した瞬間の方がよほどキテる。 意識が飛んでしまいそうだ。 肉体など関係ない。 自己という存在がこの世界を離脱してしまいそうで危険を感じる。 声を出して、自らを引き止めなければならない。
現実とか虚構とかそういう問題でないのはわかっていた。 だが、これはもっと超越した存在なのだ。 現実も虚構も精神も肉体も問題ではない。 何かを内包した存在が存在している。 それが私を脅かす。侵食する。昇天させる。
僕は、本当に「萌える」ということを、初めて体験したのかもしれない。
ここのところずっと抱えてきた悩みの一つ。 僕は何も産み出すことは出来ない。 というテーゼを、他者の力を借りて打ち破る事が出来るかもしれない。
ゲームを作るという企画は、すでに僕一人のものではなくなった。 システムを作ってくれる人がいて、シナリオを書いてくれる人がいて、絵をかいてくれる人がいて…。
他者の力を借りて初めて、僕は何かを生み出そうとしている。 やはり、僕一人の力では創造は不可能なのか? あるいは、このゲーム製作も所詮は同人活動なのか?
それはともかく、他者の力を借りるなら、せっかくなので「他者性」に期待してみようと思う。 自分の世界にはないものを導入して欲しい。 だから、同人であってはならないと欲するのだ。 重なる部分を持ち合う同人活動ではなく、他者の他者たるゆえんである絶対的な差異としての「他者性」を発揮しあうことが出来れば。 それは創造といえるんじゃないかと思う。
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