現代物理学における観察者と同じ立場にいるのだ。それがギャルゲーのプレイヤーに課せられた宿命なのかもしれぬ。
それは決して自らが創り上げた世界ではない。そして、プレイとは用意された選択肢の中から選択するだけの行為である。(限定された選択肢。選択の前提がすでに決定されている。)つまり、プレイヤーがどのような方法でプレイしようとも、どのような箇所で萌えようとも、それは一つのパッケージされたゲームでしかないのだ。
では、なぜ私達は既に用意されている、結末の分かりきったゲームに熱中するのか?たとえマルチエンディングであっても、そのゲームをプレイすれば誰でも同じマルチなエンディングを見ることになるだけなのに。選択肢の選択に一喜一憂するのか?選択が狙った方向へ行かないことに激怒するのか?お決まりのエロシーンに異常興奮するのか?
それは観察する事が事象を変化させるからである。例えば新幹線の速度を計測する。新幹線は通常の鉄道と比較して速い事が分かる。新幹線は高速鉄道という事になる。あるいは客室内の騒音を測定する。振動を測定する。乗客の心拍や疲労の訴えなどを測定する。車両の耐用年数や製造コスト。専用線路周辺住宅での騒音測定。新幹線という一つの事象でもあらゆる面から測定が可能であり、あらゆる評価の仕方が可能である。
そして、これが最も大事な事なのだが、その事象の評価のされかたは観察者によって選ばれた測定方法に拠っている。観察者がどのような視点を選ぶかによって、観察対象は如何様にも可能性を見せる。
それをゲームのプレイヤーは知っている。そして、ゲームというシステムが既にプレイヤーの参与の仕方によって如何様にも変化する可能性を内包している。ゲームはプレイしなければプレイできない。つまり、プレイすること自体がゲームの世界に対して自ら働きかける事である。
問題はゲーム中でプレイヤーに与えられる自由度の高さではない。ゲームというシステムがプレイヤーに対して能動的な参与を強制するシステムである事が問題なのだ。能動的な参与は視点の置き方によって対象の見える姿を大きく変える。だから、高度なゲーマーは一つのゲームをいつまでもやり込む事に喜びを見出すのだ。
これらの点から、単に小説をゲーム化しただけの産物に思われるマルチエンディング、ビジュアルノベル形式のゲームは小説を越えているのかも知れない。これらの形式のゲームでは、シナリオがすでに多様な「読み」の可能性を前提にして描かれているのだから。
というのが、今の僕が示すことの出来る可能な範囲での「エロ」に対するアンチテーゼなのです。今の僕ではこれ以上、全てが「エロ」に収束していくことに抗いきれない。
2003年07月19日(土) |
ゲームの中で問う事。 |
製作予定のゲーム中にての問いとして、二つばかり立ててみようと思う。
一つは自己他者問題。人は他者と理解し合えるのか? いまさらながら、この問題を問うてみようと思う。
もう一つは「意味」とは何か? 世界の根本的無意味さを主張するメインヒロイン。 彼女を基点に意味とは何かについて問うてみたい。
学際用に同人ゲームを製作する企画を提案した。
これは一石四鳥くらいの企画なのだ。 とりあえずゲームを作れる。 オープニングとかのムービーも作れる。 お話しを書ける。 哲学の勉強も出来る。 背景用に写真加工とかの技術も勉強できる。
ストーリーの分岐によっては難解な哲学的議論を展開する予定なのだ。なので、個人的な勉強をゲーム製作にからめていけるしぃ、みたいな?他人を巻き込んだ企画なら、話も最後まで書き上げる必要も出てくるし、書かなければならない状態に追い込めば、「小説一本、最後まで書き上げたことが全く無い」僕も、少なくとも一本は書き上げられるはず。
ということで、この四年間の集大成に、あるいはこのゲームはなるかもしれない。
創る事とする事は別だ。 創作と言うのは産み出す行為であって、あえて換言するなら「生産」と言える。生産し蓄積し、積み上げていく行為。それを創作という。
何かをする、と言うのは「消費」である。創作によって産み出されたものを使って、何か行為を行う事、それは消費である。つまり、創作物を使用して何か行為を行うだけの行為。その後に何も新たなものを残さない行為。それがここで言う「する」という事だ。
世の中には産み出す人間と使う人間がいる。根っからの消費者には産み出す事は不可能である。ただ使い尽くし、その後には創造は無く破壊と消滅が待っているだけだ。ただ、難しいことはわからないが、今の資本主義は消費という行為に対して価値を与えることで、消費の対象となる商品に価値を与えているらしい。なので、消費されるものが価値のあるものであり、必然的に消費対象を決める消費者の立場が優位となる。
だが、消費は生産ではない。ものは使ったらなくなるのだ。
それはさておき、僕はつくづく自分が「する」側の人間なのだなぁと思う。僕は何かを創造する能力がかなり欠けていると思うのだ。バイクで言うと、乗るか整備するか、の違いである。整備はバイクの製造、維持であり、乗ると言うのはそれを使用する行為であるから、生産と消費の関係にあるだろう。僕は完全に乗る側の人間だ。自分で整備するのは金が無いからであり、あるいは整備に楽しみを見出したとしても、それは二次的なものであり、「乗る」に繋がらない整備には関心があまりない。
なので、資金的に余裕があるならドレスアップも楽しみたいが、まずは乗って楽しいことから手を加えていく。
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