彼女が出来る話を二本、掲載開始しました。 どちらも一人称。 彼女の名前はありません。 この二本の小説には「僕」しか出てきません。
これって、やっぱり私小説だと思うんだけどなぁ。 自分の事しか書いてないもん。 それだけじゃ、私小説って呼ばないのかな?
2003年01月23日(木) |
非常にまいずい状態にあるのかもしれない。 |
ここのところずっと感じていた寂しさがついに日常になった。最近、悲しくない。夜、ベッドの中で一人涙することもない。正常と異常の境界線上に位置すると自負するボクが、ついに異常の側へ行けなくなるかもしれない。
ボクにはリスカは出来ない。一度死に損なったボクは、二度と自分から死を選ぶことは出来ない。そんな勇気は持ち合わせていない。つまり、ボクは死ぬことすら出来ない臆病者ということになるのだ。
死とは自分を破壊することだ。ボクには自分を壊すだけの勇気もない。おそらく、初めからそんな気はなかったのだ。その気があったなら確実に死んでいた。もう、二度と自分の殻を破壊することは出来ない。
飛び立つこともなく死ぬこともなく、ただ呆然と何も出来ない自分を見つめているだけしか出来ない。消費で心を紛らわせ、どうにか一般社会に紛れ込んで生きていくしかない。
ボクの逃げ道は消費しかない。けれど、ボクが鎧として身に着けたはずの学問によって消費はコミュニケーションの幻想でしかないことを看破してしまった。恋愛もセックスも怖くて逃げ出したボクは、こんどはどこへ逃げ込めばいい?
表層的だと確信したメールでの付き合いに逃げ込むのか。いや、逃げ道はある。日々の生活は充実している。ボクは大学生としての生活を謳歌している。恋人はいなくても友達はいる。彼氏彼女の関係では出来ないような話も出来る。
だけど、ボクは自身何も出来ない。その意識が頭を離れない。
よく思い出すと、ボクは幼い時から枠からはみ出さずに生きてきた人間だった。人生を変えたと思ってきた出来事も、よく考えたらただ一日の家出だった。それからずっと、ボクは何もしてこなかった。考えるだけ考えて、実際に行動してこなかった。本当にやりたいことを何一つしてこなかった。怖くて出来なかった。
怖い。失敗することが。失敗して人から拒絶されることが。他人が怖い。他人と深く触れ合うことが怖い。いまさらだけど、ボクはそれを知ってしまった。
他人と触れ合っていないと寂しくてたまらなくなる。けれど、他人と深く触れ合うのは怖い。安易な触れ合いしか出来ない。傷つくかもしれないような深い触れ合いは、ボクの本能が全力で回避する。したくても出来ない。
触れ合いたくても、無意識が恐怖に支配されている。それは意識の力も及ばないほど根が深い。ボクの根底を成している。それに気づいたから、どうしようもないことに気づいたから、ボクは途方もなく寂しい。
どうがんばってもボクは他人と触れ合うことは出来ない。この日記でさえ、ボクは「ボク」を装っている。大事なことを話そうとすると語り口調になる。大事なことはその口調に隠れて、語る自分を見せる事に精一杯で、本当に大事なことは常に隠される。
自分をさらけだそうと始めたこの日記もボクを守るカモフラージュ、鎧となった。どうしてこれほどさらけ出すことが難しいのか。簡単だ。ボクはさらけ出す事を生まれてから一度もしたことがないからだ。経験していないのだ。さらけ出す事を。
大事なところ、最後の最後でボクは常に隠してきた。何もしないで回避してきた。だからボクは回避か逃げ出すか何もしないか。他の選択肢を選びたくても、ボクは持っていないのだ。
ボクはボクを優しく抱いてくれる人が欲しくて欲しくて、傷つくのが怖くて逃げ続けて。それを全部、自覚して逃げ続けて。どうしようもなくて閉塞して。開放のときを待っている。
今日、何を思ったのか恋愛小説などを書き始めました。
まぁ、恋愛小説の皮を被った私小説とでも言いましょうか。ボクが書くのだから普通の恋愛小説ではない。とりあえず、目指すは普通の人間関係を普通に描く、ってところです。
なので、別に悲劇の主人公とか悲劇ヒロインとか運命の二人とかは出てきません。ぜんぜん深い人間関係なんてないです。濃いキャラはあり得るけど、濃い展開はありません。
普通に出会って普通にわかれて終わりです。 そんな感じの恋愛小説を書いてみようと思います。
セックスを分離する社会へのアンチテーゼとして存在する小説であろうと思います。 そのあたりの思索はまたいつか。
2003年01月19日(日) |
これからの社会では。 |
これからの社会、個々人に要求されてくるのは哲学だと思う。
哲学なき科学は人間から「人間とはどうあるべきか?」という問いを剥奪した。人は何者かであろうと思考する。人はその思考の方向へと吸い寄せられてゆく。ならば、何者であるかも思考しなければどうなるだろうか。その答えも既に現代社会に出現している。
昨日、家庭教師先の子に話をした。何も考えていない人は意外に多い、と。T中さんともそんな話をした。多くの人が考えるという行為を忘れて久しいのだ。何も考えず、ただ楽しいことを"したい"だけ。それは思考ではなく欲望。欲望に頭脳が揺り動かされているに過ぎない。
人間行動学科の先生は言う。現代のテクノロジーが目指してきたもの、それはオートメーションだと。工場は徹底して単純労働への分業と機械化を目指し、作業はマニュアル化され自動化された。たとえば人は何も"考えなくても"歩くことが出来る。それは「歩く」という行為がその人の中で自動化されているからだ。これを応用して職場のオートメーション化は勧められてきた。単純で自動化された作業を人はミスしない。作業効率は上がり、製品のコストは下がる。そして、人は仕事の場面でさえ考えることを剥奪されてゆく。
おそらく、このまま行けば社会は二度と変容しなくなる。どこまで広がり続け、どこまでも均質化してゆく。哲学のない社会では壁はない。あらゆる事象に区別を付けるのは人の思考である。人がAとBは違うと"考える"からAとBは違うのだ。何も考えなければAとBの区別は生まれない。こうして世界は均質化してゆく。囲いを与えられなくなった事象たちが、なんの規制もなく広がり続ける世界に向けて拡散してゆくだけの世界。誰も考えない=制御しない世界。
人々が目指したオートメーションはついに本当にオートンメーションとなる。究極の自動装置=自然となる。そして、それは人の手を離れる。だが、何も考えない人々はそれにさえ気づかない。まさに全てのプロセスが自動化されている。
ボクはそれでは面白くない。だから考える。進行する自動化に抗い、世界を少しでも望む方向に変えるために。
携帯電話の技術は、既に顧客の満足を満たしている。家庭教師先の子とを話をしていて、形態はとりあえずカメラがあってメールが出来てダウンロードとか出来たらどこのメーカーでもいい。後は考慮するのは使い勝手くらいだという。つまり、技術は飽和した。
車でも同じだ。RGOの大田は言った。何だって出来る世の中になった。技術的にはマーチにGT-Rのエンジンを載せる事だって出来る。その中で自分は何をするか、ってことが大切だと。
技術は発展した。何でも出来る。ならば、その世界でお前は何をするのだ?その問いかけに答えられなければ、待っているのは世界への拡散。だから哲学が必要なのだ。ただ拡散してゆくだけでは何も生まれない。世界は広がった。その無秩序な広がりの中に新たな秩序を構築することによって始めて、新しい何かが生まれてくるのだ。
だからもし、新しい何かをその手にしたいのなら、哲学を持って世界と戦わなければならない。
別に欲望に身を任せてもかまわない。ボクがそれを選ばなかっただけの話で終わるのだから。現代は欲望に身を任せ、欲望を消費し続けても生きてゆける世界になっているから、それも選択肢の一つだろう。ボクもそれをあえて選択している時もある。
だが、それだけで終わるのが嫌だからボクは考える。ここで勘違いしてはならないのは、哲学と信念は全く対極に位置しているという事だ。哲学は思考であり、思惟を含むにしても論理と社会からの影響を抜きには成立しない。一方、信念はただ嗜好のみで成立する。それは欲望と同義になる危険を含んでいる。
これから社会で必要となるのは「何を作るか?」ではなく、それを「どう使うか」=それを使って「何をするか?」である。そこで必要になるのが計算ではなく考える作業である。ただひたすら「楽しいこと」をする=「消費」するのではなく、「生産」=「考える」事が必要なのだ。
ま、いち大学生が日記で書けるのはこんな程度のレベルでしょう。どうっすか?たまにはまぢめな事も書いてみますよ?
今日、T中さんとボックスで数時間ほど話し込んだ。 二人きりでバイク談義に花を咲かせました。
で、思ったのは誰とでもいいので会話をするというのはいいということです。一度に長くの会話。 先日も学科の女の子の実験に付き合ったついでに色々と会話をしたのですが、そうすると相手の事や考え方に触れる機会になるのですね。すごく陳腐な言い方をするけれども、やっぱり多様な価値観に触れるのはいいことだと思えるし、ボクはそれをいいことだと思えるようになりました。少しは大人になれたのかな?
で、会話のよい点はもう一つあって、相手と語らうことで、自分を語ることが出来るという点があるのです。 自分を語り、相手に開放する。これはある種、快感を伴います。気持ちいいことなんですね。
まぁ、そんなこんなでT中さんを以前より少し身近に感じるようになりました。
どう?すごく日記らしい日記になったでしょう?
2003年01月16日(木) |
もちるに見る破滅願望 |
今日、何気に「本気のしるし」by星里もちるを読んでみた。
で、結論から言うとボクは破滅したいのだ。 ビックリするくらい徹底的に。 もう、まっとうな社会人としては生活できないくらいに。
破滅とはすなわち解体。 凡庸な一般に埋もれてしまうような自分の解体。 波風の立たない平凡な日々の解体。
そして、解体を経験したの後に訪れるのは再生の喜び。 新たに生まれいずる喜び。 誕生の歓喜。 それは至上の快感。
もちるの魅力は、それを一般に理解できる範囲内で行っている点である。 つまり、彼のマンガの中で主人公は、社会的な生活を送りながらも解体と再生を行っているのである。 社会の外へ向かうことなく解体と再生を行う。 社会の中に納まりつつ、その中で「波風たてずに暮らしている自分」という枠のみを解体し、そこから恋に動じたり揉め事に足を踏み込んでしまうような新たな自分を再生する。 だから、共感を得るのだ。 それは現実性の高い解体と再生である。 実際にありそうな、誰にでも出来そうな、それが彼の魅力なのだろう。
そこで、ボクは自分の生活を振り返ってみる。 ボクはおそらく、破滅と凡庸の境界を漂っているのではないだろうか。 生活の全てが普通の生活なわけではない。 けれど、決して決定的に破綻した生活をしているわけでもない。 ボクは必ず、生活が破綻しないように保険をかけている。 ボクはこの保険をしくじった事がないように思う。 時に破綻しつつも、必ず正常に戻れる範囲での破綻でしかない。
ボクはもっと決定的に破綻したいのか、あるいはこの境界線上の浮遊を楽しんでいるのだろうか、自分では判断がつかない。
2003年01月14日(火) |
携帯電話とはなんだ!? |
現代の若者にとって携帯電話とは何なのだろうか?
考察1 新たなコミュニケーションチャンネルとしての携帯。 つまり、新しいもを若者が流行らせた、という可能性。
考察2 コミュニケーションの緩衝材としての携帯。 機械を挟む事でコミュニケーションで直面する他者の脅威を緩和する作用を担う存在としての携帯。という可能性。 実際、ボクはこの使い方を多用している。 ボクは告白の時でさえも携帯を使うような男だ。
考察3 神器としての携帯 宗教を成立させる上で必要な信者による実践において使用される道具、神器としての携帯と言う可能性。 「いまやTVこそが宗教なのだ」とカウボーイビバップで言っていた。ならば、携帯によって交わされるコミュニケーション、それは宗教活動と考えることは出来ないだろうか。
宗教とは、そこかしこに不確実性が存在する現実世界において絶対の安定を与えることで、不確実性に起因する不安から人々を救ってきた。と言えるだろう。
その絶対性は信者の信仰によって支えられる性質のものである。つまり、信者がみな同じ宗教を信じ、その教えを実践することで信者は互いに教えが正しいことを確認しあい、より不安から遠のく。そして、彼らは救われる。
ならば、携帯で交友関係が広がると信じている人がいるとすれば、それはある種の宗教の信者ではないのか。これ以降の考察はさらに複雑で長くなるため詳しくは省略するが、彼らは現代社会における本質的なコミュニケーションの不可能性という不安から逃れたい。そこで、みんなと繋がっていると言う幻想を信じるために携帯電話という神器を手にする。
そこで行われるコミュニケーションが本質的でないことに自覚的であるか無自覚であるかに関わらず、不安を感じているに違いない。その不安から逃れるため、彼らは携帯と言う神器を通じてみんなと繋がっていると言う教義を信仰しているのだ。
現在、携帯電話の所有率は非常に高く、圧倒的な数の信者を獲得したこの宗教は、大衆に新たな幻想と安心を与えるのかもしれない。他人と繋がっていられるなんて幻想でしかないのに。
ボクの書く日記は詩的な文章になってることがあるように思う。 自分では哲学的な文章のつもりだけど、自分の中だけで昇華されてて自己満足に浸ってるだけの文章だと思うから、やっぱり詩的なのだろうと思う。
おそらくボクは純粋に哲学的な思考は出来ないのではないだろうか。ボクは屈折している。
ボクは主人公に憧れている。昔も、今も。 物語の登場人物が持っているような特権を、ボクは一つも持っていなくて、だから憧れる。 その特権というのは容姿であったり頭脳であったり境遇であったり、そういう凡人から一歩抜きん出る才能なり環境。 それがボクには何一つ、人並み以上には与えられなかった。なぜそんなコンプレックスを持つようになったのかは今はわからない。でも、ボクはあらゆるものに嫉妬する。ボクは世界に嫉妬する。だから、欲しがるのだ。凡人には持てないような本物を。
ボクは背が低い。身体能力は平均以下。 容姿は取り立ててブサイクではないが、決してカッコよくはない。 あんまり愛想もよい方ではない。 頭も東大に入れるほどよくない。 金もない。 社会的にあると有利とされる要素をボクは尽く平均以下しか持っていない。
ないものねだりをする者は、純粋ではいられない。 純粋なまま欲しいものが手に入るのは一部の選ばれた人間だけだ。 ボクは蚊帳の外だ。では、残された道は一つしかない。 屈折するだけだ。
オシャレをしても流行には乗らない。 ちょっと自信過剰ヤローが着るようなブランドに手を出す。 背が低いのを利用して女物のジャケットとか着たりして、身体が細いのだと暗に示してみたりする。 俺はちょっと違うぜ、と普通なら無難に収めようとするところを「わざと」逸脱してみせる。 意図的な逸脱。 屈折した一般からの差異化。
パンピーには入ってこれないようなディープ世界まで入り込むのも同じ理屈だ。 オタクと呼ばれる社会的に認められないような人種になる。 ファッションでバイクに乗る人間を否定する。 俺は違うのだと主張する。
それは、自分が本当は他と違わないからだ。普通に簡単に負けて飲み込まれてしまう自分を知っているからだ。だから逸脱しようとするのだ。
殻を破らねば雛鳥は生まれずに死んでしまう。
だからボクは大型のバイクに乗りたがる。 この小さい身体で大型を転がしてみせる。 だから、600では足りないのだ。 このボクの小ささに全くつりあわない大きさ、パワー、存在感を持ったバイクを転がしたい。
ボクはもっと、もっと純粋に屈折したい。 ただひたすらに屈折したい。
いつものことだが、ボクの生活はアニメ三昧だ。 昨日、ビデオ屋に返却に行ったついでに借りてきた。 アルジェントソーマに彼氏彼女の事情。 カレカノがあまりにも面白かったので、けっきょく午前二時を過ぎつつも全て鑑賞。
で、今日。 国分のツタヤでアルジェントソーマ、ラーゼフォン、カレカノの続きを借りてきました。 あと残ってるはアルジェントソーマが二巻。
結局、二日で七本見ました。風邪引いてたんだけど…。
あけましておめでとうございます。 今年もなにとぞ、よろしくお願いします。…みたいな? ってな感じで今年もこのどーでもいい日記は続くのです。
新年の私はと言うと、実家で大人しくしてます。 金がないのですよ。 年末に三台目の後方排気を買ってしまったので金がないのですよ。 なので、実家へも高速バス(片道2000円)で大人しく帰りました。 なので、クリスマス暴走も初日の出暴走も出来ず仕舞いです。
という事で、今年は何も無駄な事が出来ない年始を過ごしています。 だからとーぜんネタはない。 いや、ひとつあった。今年は一人しか「あけおめ」メールを送ってこなかった。 それも送ってきたのはメル友。 他のやつはどーした!? どーせ暇なんだろ? いや、こっちから送ればいいんだけど、なんか寂しさをアピールしてるみたいでいやじゃん?
そんなこんなで魔法使い…、じゃなくて、暇な年末年始を過ごしたといいたかっただけです。はい。
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