♡好きなもの♡ |
2006年09月18日(月) |
最近、自分の好きなものが よく解らなくなってきているよ。
単に、好きなものを「好き」って、 思えなくなっちゃっただけかな??
好きな食べ物や好きな音楽などのように 身近で日常的なものに関する好みなら、 よく食べる食べ物や、よく聴く音楽が 自分の好みなんだろうなぁって判るよね。
でも、最近、気が付いた事は、 「芸能人の中で、誰が好き?」 「どんな人が好みのタイプ?」と聞かれた時に、 う〜ん…って、解らずに悩んでしまうのだ。。
もともと、私はミーハーな子でもないし、 芸能人は芸能界という特別な世界の人間って 割り切っている現実主義でもあるからかな… どことなく、遠い眼差しで見ている感じ。。 こんな事を言ったら冷めている人間みたいだね。。
実際に自分と関わりのある人たちに関しては、 好き嫌いなど、どういう感情を抱いているのか、 敏感なくらいにハッキリ感じられるんだけどね。
どちらかと言うと「好き」というより、 最初は「尊敬」の目で見ているかな… この人の、こういう考え方や生き様に 共感するとか惹かれるとか憧れるとか。
でも、容姿や性格などは好みそのものだよね。 直感で好きか嫌いか感じ取れちゃうのかな?! 「可愛い」「素敵」「格好いい」などは感じても、 それが「好き」に繋がるかどうかは解らない。 興味や関心の対象にはなるかもしれないけど…
何にしても、自分の好みが解らないというのは、 とっても困り者だよね。その原因は、やっぱり 自分の事を理解できていないからなんだろうな…
自分の気持ちと向き合えていないから 自分の気持ちに素直になる事もできない。 それどころか、自分自身の事でさえも、 好きかどうか解らないのかもしれないね。
私の場合、断言できる事は、 大好きな人が好きなものは、無条件で 「好き」だと思うようになれるという事。 大好きな人に影響されやすいというか、 同じ好みを共有したいと思っちゃうから。
好きな人と一緒に居て好みを尋ねられたら、 「きみの好きなものが好き。」と答えそう…
透明でユラユラしている私の事だから、 当然とも言うべき事なのかもしれないね。 ただ単に流されやすいという事ではなく、 そうやって大好きな人の色に染まる事で 自分の居場所として落ち着いていたい。
でも、ときどき、変な矛盾が生じてしまうよ…
「好き」と「大事に思う」事とは別物だって。
大好きな人が好きなものが好き。 でも、 大好きな人が好きで大事にしているものを 同じように好きになって大事に思ってあげられない。 そんな自分に気づく時があるの。
もちろん、好みや価値観は人それぞれだから、 相手が好きなものすべてを好きになったり 大事にする事ができるはずなんてないよね。
中には、ちゃんと大事にできるものもあるけど。
それなのに、どうして??
受け入れようと頑張ってみても、 どうしても無理なものがあるの。
必死で大事に思おうとしても、 心が傷んで葛藤してしまうの。
心の中では理解しているつもりなのに…
あまりにも、その人の事が好きすぎて…
どんなに大好きで惹かれ合っていても、 お互いの、大切なものを解り合えない。
ほんのわずかでも、 そんな哀しい事実がある事を認めたくないよ。 そんな自分が信じられなくて絶望してしまう。
すごく苦しいよ…
|
♡狭い心♡ |
2006年09月01日(金) |
「今日はハイテンションだよ♪♪」 とってもルンルンで大はしゃぎをする お友達を、いつも密かに羨んでいるよ。
きっと、そういう人たちは、 「しあわせ」なんて特別な事ではなく、 その自覚もなく当たり前のように 人生の日々を楽しめているんだろうなぁ…
私の中からは、もう失われてしまったよ。
私は、病気になってから、不幸のどん底で 手の届かない遠方にある幸せという光を ただただ虚しく眺めて思い焦がれているだけ。
最近では、敢えて「しあわせ」から 自分を遠ざけようとしちゃうみたい。 私のココロを脅かす事のないように…
「私は、あなたとは異なる種類の人間だから、 同じ視線で私を見ないで欲しい。つまり、それは 私を見下して憐れんでいるという事になるから。」
例え一瞬でも「しあわせ」だと感じられても、 私にとっては、所詮、儚い幻想にすぎなくて、 すぐに単なる偽装だと判明して落胆するだけ。
私にとって、しあわせは絶望をもたらすもの。
嫉妬だとか羨望だとか、とても惨めで醜くて 身を切り裂くほど辛い事だと解っているのに。 僻んでいても本当のしあわせは手に出来ない。
ただ、私は不幸な人間であるという固着観念が 自分の心を支配するようになってしまってから、 しあわせに対する受容体が撲滅されたみたい。 自分の中で偏った抑圧力が発達してしまったの。
そして、しあわせの意味が解らなくなった。
それ以来、自分からしあわせになろうとするほど、 それは私にとって羽目を外した行為である事になり、 いつも最終的に自分の身に降り懸ってくるものは 自己嫌悪による不幸そのものの他の何物でもない。
私は、しあわせの似合わない人間なんだ。
不幸か幸福かだなんて、自分の捉え方にすぎないけれど、 あまりにも自分の中に不幸が根強く潜在するようになったため しあわせという意義が排他的に浮き出てしまったんだね。
きっと… 自分が位置する幸福度のレベルが低下して ものすごく敏感に感じるようになったんだ。 マイナスの方向にね。
ほんの些細な出来事でもしあわせに感じる。 それだけならまだ十分救い様があるものの、 私の場合は、捻くれて歪んでしまったから、 その真意は、もっと深刻なものとして現われた。
もう、どんな事に対しても、容易に楽には 「しあわせ」だと感じられなくなってしまった。
もしも、今、本当にしあわせな出来事に出くわしても、 心から「しあわせ」だと思えるかどうか自信がないよ… それが本当に「しあわせ」なのかという価値判断が狂って、 しあわせに対して喜んだり笑ったりできないかもしれない。
そして、他人の幸福からも目を逸らしてしまい、 真っ直ぐに受け入れられなくなってしまった。 結局、自らしあわせから逃げてしまっているの。
人並みに生きられなくなっただけでなく、 自分の人生が生きているだけ無駄で 無価値で不幸に思えて仕方がないよ…
とても狭い心になってしまった事が哀しいよ…
自分の事が大嫌いになっていく事が哀しいよ…
「私らしく居られること」 それが、わたしのしあわせなんだって、 ちゃんと解っているのに…
|
|