「私は○○という持病を持っています。」と言った場合、聞き手は「ああ、この人は○○で闘病しているんだな。」と理解する事ができます。私の場合は○○の中に「重症筋無力症」という病気の名前が入ります。持病とは、辞書によると「全治しにくくて、常に、またしばしば、なやみ苦しむ病気」であり、まさしく私の場合にもぴったりと当てはまります。そこで、この一つの枠組みの中から一歩踏み越えてみて、「じゃあ、自分にとって○○という病気は一体どのような存在なんだろう…」と考えてみると、「厄介だ」とか「しがらみだ」とか色々な具体的な言葉が浮かび上がってくると思います。私はそれをすべて抽象して、「私にとって重症筋無力症という病気は『個性』である」というモットーのような考え方を持っています。
個性とは、他の人とは違う、その個人にしかない性格や性質の事であり、すべての個々人が必ず有しているものです。自分にしか分からない個性もあれば、他人の方が気付きやすい個性もあります。そして、個性とは、必ずしもプラスの要素を持っているものだけとは限りません。例えば、積極的という言葉に対して、その反意語である消極的という言葉は、マイナスのイメージにとらわれがちですが、その人の個性となれば、例え消極的な性格であっても、それが短所となる事はあっても、個性という点に関しては、決して劣っているとは言えないはずです。だから、個性の中にはマイナスの要素を持っているものも含まれて然りなのです。そもそも、個性を優劣の基準から語る事自体があり得ない事だとは思いますが…。
このような個性という価値観のもとで、私は、私という個人に属する「重症筋無力症」という病気も、私の個性の一つなのだと考えています。つまり、それぞれの病気によって諸症状が様々であるように、また同じ病気でも個々人によって症状の現われ方が異なっているように、病気も個性と同じような価値を有しているのではないかと思うのです。ここで一つだけ断っておくと、病気であるという事が欠点であり、弱点であるという考え方が存在するという事実を強調しているのではないという事です。そのような考え方があるために、私は自分の病気を一つの個性なんだと割り切っているわけではないのです。自分の病気を一つの個性だと考える事によって、自分の病気に対する価値を認め、誇りを持って病気である自分とより親密に上手に付き合っていく事ができるようにと、このような考え方を抱くようになったのです。
私はこれまで、自分の病気に対して劣等感を感じる部分もありながら生活してきました。心のどこかで、病気とは私に付随する何か余分で邪魔なものだというマイナスのイメージを持っていたのです。しかし、この病気を宣告されてから3年が過ぎ、ようやく自分の病気を自分自身の一部分であると認識する事ができるようになってきました。今なら自信を持って、病気である自分を大切にし、共に仲良く生活していけると思います。
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