おおみち礼治のてくてく日記
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2015年06月30日(火) 戦争立法

一国で戦争はできないから、「何かあったら手を貸してくれよな、俺たちも協力するから」ということじゃないのかな。明らかに戦争準備だ。
「友人やそのまた友人が、戦地で傷つくことに私は耐えられません」って、それはそうなんだけど、じゃあ他国が攻め込んできたときどうするんだろう。「どうぞ殺してください」というのだろうか。戦わざるを得ないのではないか。

むろん、戦争などしたいわけがない。だが、最終的な解決方法として戦争という手段しか見いだせていないのが人間だ。他に方法があるなら示してくれ。誰だって殺しあいなどしたくない。話し合いなどウンザリするほどして、どうしようもなくて戦争に発展するのだ。どうか、殺さなくてもいい最終的な解決方法があるなら示してくれ。

個人レベルでは、毎日、あの野郎この野郎と人を指さし文句を言い、死ねとか殺すぞとか、平気で想っておきながら――常にそうやって、心の中で戦争をしている人類に戦争をなくせるわけがない。

もし、すべての人の中にそのような想いが全くなければ、戦争など起こりようがない。日本一国でどうにかできる問題ではないし、政府がどうのこうのでもない。問題はひとりひとりの心の中に存在している。それはおいといてというわけにはいかない。個人個人が変わらなければ、当然、全体としても変わらない。

反対と声を上げるのはいかにも正しく見えるが、戦争反対と言って戦っているのは誰なのか。自分の中に争う気持ちがあるから、そういうことをする。自分だけは汚れていないかのような言い方をするものではない。外ではなく内である。

自然はバランスをとる。日本全国戦争立法反対と言っているかのような勢いだが、それだけ反対意見があると言うことは、逆に戦争をできるようにしないとまずいと考えている勢力も同じだけあるということだ。

じゃあ、どうすればいいのかって?
なるようにしかなりませんわな。


2015年06月23日(火) なぜかまわりは左派ばかりなり

 何に反対か、ではなく、どうしたいかだ。
 反対するのが目的では不毛だ。

 左派の中には、ヒトラー風のコラージュをプラカードにしてデモをする人たちがいる。右派の中には、岡田氏の顔をフランケンシュタインのようにコラージュしてネガティブキャンペーンをしたりする人がいる。
 それでどうしたいのか知らないけれども、左右に関係なく不快である。不快な事をする人たちには近づきたくない。そのようなことをすればするほど――仲間内で盛り上がるだけで、仲間でない人には疑念を抱かれるだけだ。

 ある左派の人が、政権支持者の気持ちを変えるには、どうすればいいのかマーケティングを行うべきで、不快なデモを繰り返しても、政権支持者の気持ちは変わらないと主張していた。それはそうだが、たとえ、そのマーケティングがうまくいって、たくさんの人が右から左に鞍替えしたら、左が増えて右が少なくなるのかというと、そうはならない。

 一時的にバランスが左に傾くことはあるかも知れないが、そうなると右はそれに負けまいと力をつけようとする。その動きは何年もかかってのことだから見えにくいが、左に傾きすぎれば次は右に傾くことになる。その繰り返し。

 左右ではなく、なんにでも、ここしかないというドンピシャな一点、中心というものがある。思想、考え方として(だけではないが)住むならそこだ。では、左右はいらないのかというとそうではなく、左右がなければ中心は見えてこないのだから必要だ。
 だが、左右に真理はないと気付けば、それは見るだけにして中心に住もうとする。それがいちばん楽というか、自然だからだ。

 ○○党、あるいはその支持者と言った途端、立場でモノを言うようになる。ニュートラルに、こだわりなく、左右とも理解して、ここという一点をすっと行えないようではダメだと思うんだ。


おおみち礼治 |MAIL

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