おおみち礼治のてくてく日記
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2012年08月30日(木) 領土問題

 竹島の領土問題、国際司法裁判所に提訴、韓国は応じず。
 ってそれはそうだよね。だって韓国が実効支配しているのだから、万が一、裁判で負けたら韓国は困るもの。尖閣は逆で、もし、中国が国際司法裁判所に共同で提訴しましょうといってきた場合、日本は恐らく「領土問題は存在しない」と突っぱねるはず。

 だからといって、尖閣に「ここは日本の領土です」なんてわざわざ石碑かなにかを立てる必要はない。立てた時点で、領土問題があることを認めることになる。普通の――その他の「領土問題が存在しない」島と同様、不法上陸された場合は、日本の法律に照らし合わせて、強制送還なり裁判にかけるなりすればいい。
 ただ、逮捕して起訴、収監すべきという意見もわかるけれども、さらなる日中関係の悪化を招くのは明らか。万が一、武力紛争になったら困る。いや、白黒はっきりつけたらいいのだという人はイコール、(極論だけど)殺し合いを肯定しているのである。責任を取る立場にないから好き勝手いえるのであって、気持ちは分かるが、無責任なことを言うものではない。

 日本にとっては竹島、尖閣ともに日本の領土なのであり、歴史的資料などを見ても間違いのないことである。韓国にとっては、竹島(独島)は韓国の領土なのであり、歴史的資料などを見ても間違いのないことである。中国にとっては……やめておこう。
 歴史的資料、あるいは事実などというものは、それぞれ自国に都合のいいものを参照(ときに捏造)しているに過ぎず、都合の悪いものはいとも簡単に(お互いに)スルーし、議論がかみ合うことはない。ここで言いたいのは、皆が納得する正義などないということだ。価値観が異なるのだから、相手国がいかにひどいか並べたてても仕方がない。こちらからみてひどいと思うということは、あちら(こちらとは異なる価値観)からみてこちらはひどいのである。自国にとっては自国が正しい。それはどこの国でもそうだ。

 最終的な決着方法は人類史上ひとつしかない。
 戦争である。
 しかし、一般的な感覚として、戦争をしたいとは思わない。いろいろな情報を真に受けて、相手国への憎しみを募らせてしまうと、やってしまえと思うのかもしれない。繰り返すが、普通の感覚として、殺し合いをしたいとは思わない。それを当然のように思うということは、自分はちょっとオカシイのではないかと立ち止まって考えたほうがいいと思う。

 平和になりますように、という思いと、あんなやつ殺してしまえ、という思いでは後者の方がはるかに強い。思いは現象化する。自分が蒔いた種は自分で刈り取らなくてはならない。どのような形であれ責任は取らされるということだ。
 自らが発するその思いや言葉は、自らの姿を現している。「ごーきぶり!」などと人を罵る者は、己が「ごきぶり」なのである。そのようなことを口にする自分とはいかなるものなのか。また、相手が気になって仕方がないのは、自分が同レベルだからである。それが真実であって、それ以上でも以下でもない。

 良いか悪いか、好きか嫌いか、より分け表明したところで何の意味もない。
 大事なのは、そうしていたらどうなるのか知ることだ。
 戦争は起きる。
 両国民、あれだけの思いを発していれば当然だ。ここにいたって穏健派もなお存在するが、避けられないと思う。

 自分は日本人だが、いまのうちに日本(政府)と自分とを切り離しておいた方がいいような気がする。どこかの国籍をとるとかなんとかということではなく、日本とかいうものがどこかのなんとかというものと喧嘩をするかもしれないが、私はしていないと意識の中で切り分けるのだ。
 そうでないと巻き込まれてしまう。巻き込まれて、日本の都合のいいように洗脳され、人生誤りかねない。国を守るために生まれてきたわけではない。って、非国民ですかね? 日本人として書いているわけではありませんからね。むろん、韓国でも中国でもどこの国でもない。あえていうなら地球人としてだ。右にも左にも真実はない。私の人生は私のものであり、私が選んで私が遂行している。他人が私の人生に影響を及ぼすことは一切ない。あると思う人はある。自分次第だということだ。

 いろいろあるが、それはそれとして横目に見て巻き込まれず、淡々と自分の人生を為していきたい。


2012年08月22日(水) 恨みについて

 誰かを恨んでいるとすれば、それは自分の中に他人を存在させてしまっているからだ。簡単に言うなら、他人のせいにしているからだ。恨みという感情をどう扱うか、ということだが、その感情そのものを相手にしている以上どうしようもない。せいぜい、軽く出来る程度で完全に消し去ることは永遠に出来ない。

 恨みの反対――恩義に切り替えることは難しいだろうし、相手に恨まれているものを解消しようとするのも難しい。謝ったら自分が悪いと認めるようなものだし、そうなったら相手はますます謝罪を要求するだろう。それで納得してくれるなら謝ればいいのだが、そうではない相手もいる。取り返しのつかない場合は特にそうだ。
 恨みを恩義に切り替えられたとしても(理解なしには無理。思い込むことは出来るかもしれないが)、相手がそれに応えなかった場合、簡単により深い恨みに転化する。

 では、どうすればいいのかということだが、「すべては自分である」という理解することだ。自分が悪いのではない。自分が原因であると真に理解するだけでよい。それが人間には難しいんだけどね。しかし、そうしなければ恨み、恨まれる関係はずっと続く。理解できれば、そういうことかと腑に落ちて感情は消え去る。
 恨まれている場合だが、相手は関係ない。なんとか相手に自分を恨むことをやめて欲しいと思うのは、すでに自分の中に相手を住まわせている。自分が理解さえすれば、相手もなんだか知らないけれどもうどうでもいいや、と思うようになるものである。
 また、常に都合の悪いことを他人のせいにしている人は、こちらが理解することによって、自分ではない誰かに恨みの対象が変わっていく。「自分である」と理解しない限り、そうやって次から次へと恨む対象を変えて一生過ごしていくのである。

 他人ではない。
 もし、他人だとしたら、いちいち出会う人出会う人に対処しなくてはならないが、自分であるなら自分を相手にするだけでいい。
 他人や感情そのものを相手にしても泥沼にはまるだけなので、なぜそうなったのか自分の原因に正面から向き合うことだ。冷静に、素直に、事実と向き合えば自分が見えてくる。


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