おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
だからさ、いじめはなくならない。取り組むべきところはそこではない。
学校は、いじめをしてはならぬと抑え込むのが、もっとも簡単だが、それしかできないのがいまの教育の姿なんだろう。 いじめはある。 その後のフォローというか、ケアというか、対応がキモなのであって、禁止すればいいというものではない。それは教える側の責任回避、あるいは無能の露呈にすぎぬ。知識を頭に詰め込ませるだけで――そんなもん学校なんぞに行かなくても、どこででもできる――人としてどう生きていったらいいのか誰も教えられない。現代教育の成れの果て。 何かあれば当事者は保身に走り、周りは批判するばかりで、誰も見本(お手本)を見せられない。自分は見本でありうるか、という話しです。 どうすべきだったのか――それはむろん、それぞれの生徒に、自分のしていること、されていることの意味を理解さすために、その現象と正面から向き合わせることだと思うのだけど、それができる(わかっている)教師、というより大人がいないのではどうしようもない。 生きにくい世の中じゃが、それでもここにそのように生まれてきた以上、それで生きていかなくてはならぬ。それを回避しようというのではなく、また、してしまうものをしなければいいというものでもない。 そのことから何を理解するかだ。本質的なところがわかれば、いつまでも同じことを繰り返したりはしない。
そりゃあ、どこの国にも変わった人はいるけれど、国境は決定的な価値観の相違だと思うんだよね。つまり、国境の向こうは、こちらの常識が通用しない。
あいつらオカシイと思うということは、あいつらからこちらを見たとき、同じくオカシイと思われているわけだ。どちらが正しいのかの判定は、その人の価値観や属性による。もし、正否を多数決で決めるとしたら、中国が正しいということになる(かもしれない)。絶対、というものがあるなら別だが、それぞれ自分が気に入った価値観や様式でもって生活しているのだから、互いに、それはオカシイなどとコーフンして口角泡を飛ばしたって意味はない。突然、他人が家に上がりこんで、それはオカシイからああしろこうしろいったら怒るだろう。そんなことはしないほうがいい。 一度芽生えた相手に対する悪感情は、なにかあるたびに増大する。「あいつらオカシイ」と嘲笑、嫌悪するようになり、しまいには殺し合いになる。あまり関係のない国(人)どうしなら、興味もないのでそこまでならないでしょうけど。否定するにせよ肯定するにせよ、その根底には必ず感情が潜んでおり、事実もまた感情の上に積み上げられる。 大事なのは命か価値観か? 価値観の違う、自分の常識が通用しない相手など死んでしまえばいいと思うのか? 降りかかってきた火の粉は払わなくてはならないが、自ら火の粉を飛ばすことはない。人間であるところは共通している。そこですり合わせをすればいいんで、違いをとらえて力んでも誰も幸せにはならない。というか、自分が不愉快なだけだ。そんなの馬鹿げている。 違いを受け入れ――などと建前を言っても仕方がない。違うものは違う。異様に感じるものを止めることは出来ない。どんなに言ったところで、実力行使したところで、自分とは違う何者かが変わったり、反省したり、認めたりすることはないのだから、それはそれとして横目に見つつ、自らが納得することをしてさえいればいいんじゃないの、と思うんだけど。
おおみち礼治
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