おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
政治家の低レベルさには目を覆わんばかりだ。
だが、それは、彼らを選んだ国民がそういうレベルだということを現しているだけだ。それより、そういうものを見てバカだなんだと、とやかく言っている自分ってどうなのよというところに目を向けたい。そういう(低レベルな)ものに関わろうとする人はなおさらだ。 低い方ばかり見ていると、自分まで低くなってしまう。 関わるなら、高い方がいい。
たまに顔を見る程度の人が、「よければケータイの番号を教えてくれませんか」という。別に断る理由もなかったので、何気なく教えたのだが失敗した。用もないのにやたらとCメールを送ってくる。しかも、自分のことばかり。たとえば「登山で滝に落ちたときは、もがかずにじっとしていれば浮かんでくるものです」とか。
はあ!?(爆) 意味不明です。気のある女性なら、そうですかそうですか、と返事をしたくなるかもしれないのだが、おっさんですぜ。毎日、メールしてくるのだけど、一度も返事をしていない。というか、返事のしようがない。普通、まったく返信がなければ、迷惑に思っているかもとか、想像力を働かせてしなくなると思うのだが、いやはや、たくましい。 今日など、朝の5時にメールが届き、寝ているところを起こされて、いったいこんな時間になんだと思って見たら「パソコンのメールアドレスです」と書いてあった。聞いてないっつーの。さすがにここまでくると、ざけんなと思う。 あんたのことなんざ、まったくなんの興味もない。よっぽど寂しいのか、常識外れなことも認識できない馬鹿なのか、それともホ○なのか知らないが、いるんですねえ、こういう人。 ただ、オレにも隙があった。常に自分を中心とした原因はあるものだ。普段も、その人は聞かれてもいない自分のことをペラペラと話してくる。そのとき、明確に拒否すればよかった。それを、適当に「へー」などと興味ありそうに(ないんだけど)返事をしてやったのがいけなかった。今度、話しかけてきたら「どうでもいいです」と言ってやろう。
10年したら30万人が自ら命を絶ったことになるわけで、ひとつの都市が丸ごとなくなってしまう。たしかに社会は悪いが、その同じ悪い社会の中で寿命をまっとうする人と、自殺する人がいるのだから、どちらにもそうなった必然的な理由があったことになる。必然に善いも悪いもありませんよ。
なんとなく感じられるのは、社会や家族などから言下に求められ、自分でもそうでなくてはならぬと思い込んでいる「○○であれ」という要求に応えられない「ダメな自分」が問題なのではなく、そうでなくてはならないという「思い込み・固定概念」が問題だということだ。 思い込みにどっぷり浸かっているため、どう思い込んでいるのかすら気が付かず、その思い込みがどんなに自分を身動きできなくし、息(生き)苦しくしているのかもわからず、もがき続ける。 だから、その思い込み、固定概念をはずすことこそ急務であって、思い込みを実現しようなどと頑張ってはいけない。それはさんざんやってきたはずだ。 以前、偶然、聞いていたなにかのラジオ番組で、「あなたにとって大事なものはなんですか?」という質問に、リスナーたちから、家族、恋人、夢、礼儀といったものから、車、ケータイ、お金まで、さまざまな回答があった。 私が即座に思ったのは「命」だった。聞いていたかぎりでは誰もいわなかったのが不思議だ。私は病気してますからね。長く生きられないのは分かっているから、ときどき、今日も生きていたかと自然に手が合わさることがあります。普通の人は、あるのが当たり前すぎて思い浮かばないんでしょうかね、命。 わしなんか、なんもできませんぜ、旦那。 こうでなくてはならないことなどない。だからといって、投げやりにどうでもいいというのではなく、思い込みをうち捨てた上で、真に己が快適であるかどうかが大事だ。それにはやりたい放題ではダメで、自分をコントロールする必要がある。 というわけで、ええやん、そんなもの(固定概念)。 生きているんやから。
地方の習慣、生活様式。
それに慣れ親しんでいるなら、続ければいいのだけれど、別に命をかけて守るような、こだわるような、そんな重大なものでもない。変わってゆくものだ。 文化が大事、という刷り込みをはずして、快適にしていればいいだけのこと。
利権、利害関係のある人たちの間で行われている損得勘定であって、国民という言葉が出るのは、選挙絡みだけ。
自分のことは自分で。 助けを求めてはいけないわけじゃない。助けを求めるのも自分。誰かが助けてくれるのを待っているのとは違う。アドバイスをもらったら、あとはやるだけ。やるのは自分。
知らないうちに、知り合いたちの肩書きは社長さんばかりに(^^;。
彼らは、言葉は悪いんだけど、それこそ夜討ち朝駆けで、プライベートの旅行の時までPCを持ち歩いて仕事をし、次々と新しい仕事を開拓して結果を出しています。みんなすごいなあ、と思うのだけれど、仕事とは何かと考えると、オレ的にはそうじゃないなあとも思う。 肉体を生かし、道を歩んでいくためのいわば方便そのものを極めても――それはそれで面白いだろうけれど、そんなことをしている暇はないな。自分とは生き方が違う。 自分は自分の出来る範囲のことをすればいいし、また知っていればいい。以前は、エキスパートでなくてはダメだと思い込んでいたけれど、そんなの疲れるだけだ。極めたところで、あの世に持って行けるわけでもない。 ちょっと違う話しだけど、いわゆる成功者の書いた「こうすれば成功する」的な本や発言を真に受けて頑張ったら、その成功者と同じになれるかというと無理がある。人の特性は多種多様で、たまたま参考にした成功者と自分の特性が一致していればまだしも、そうでないことの方がはるかに多いからだ。 誰かの真似をしても続きません。実際、参考にもなりません。その人とは体力も知力も精神力も、器も違えば環境も背景もぜんぜん違うんだから。 これだ、なんて力むわけではないのだけれど、こういうのがいいんですう、という自分なりのやり方、生き方を見つけるまではもがくしかない。それは、自分を知り、受け入れるということでもある。だから誰かのやり方、生き方、価値観を仰ぎ見、追従しようとするのではなく、自分を知ることをいのいちばんにしなくてはならない。 こうでなくてはならないと思うのは洗脳だ。思い込みを捨て、素のまま快適ににいきたい。ま、それが難しいんですけどねえ。
おおみち礼治
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