おおみち礼治のてくてく日記
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2005年01月11日(火) ■津波

 死者15万人。
 これで終わりではないでしょうね。津波は海の中の泥も一緒に陸地に持ってきました。泥の中には未知のウイルスが含まれている可能性は高い。気温30度を超える中で、遺体が回収されていない地区もある。濁ったたまり水をペットボトルに入れて持っていく子供が映し出されていました。
 これで感染症が起きないわけがない。WHOは、これまでの死者と同じ数の被災者が死に直面するおそれがあるといっていた。
 これで終わりじゃない。
 別に私は悲観主義者ではないけどね。単なる事実として。

 かわいそう、なんて言ってしまうこと自体、他人事にしている証拠。
 もし、自分がその場にいたらどうしたのか、どうすればよかったのか。その場でなくても、もし、自分の住んでいる場所で、そのようなことが起きたときに自分はどうするのがベストなのか、考えましたか?
 哀しいというのは、涙が止めどなくあふれ出て胸は苦しく、食事ものどを通らない――そういう状態のことだ。そうなりましたか? そうでないのに、かわいそうとか、かなしいとか、何を言っているんだ、ということになる。偽善なのだ。偽物なのである。
 今はその偽善が当たり前のようにまかり通っているから、自分が偽善的な態度をとっていることにすら気が付かない人もいる。

 自分の小遣いの中からちょっとだけ寄付してみました、なんてのは偽善の最たるものだ。なぜ、ちょっとだけなのだ? ちょっとだけなどといわず、全財産をなげうった上で、ボランティアに出かければよいではないか。
 そんなものは、結局、何かいいことしました、少しでも役に立てました、という自己満足である。自己満足でも、そのお金が少しでも役に立つならいいという人もいるだろうけれども、私は結果よりも根っこの方、本当の動機というものの方が大事だと思うから感心しない。

 復興を祈る、なんて簡単にいうが、何に祈るのだ? 本当にそこに真剣な気持ちがこもったものがあるのだろうか? 実際に手を合わせて祈ったのか? 祈ったとしたら、何回? 一回だけ?
 これもまた口先だけの悪癖だ。そのことにエネルギーを出す気も、本当の気持ちもないのに、格好つけないほうがよろしい。

 義援金。日本は、そんなに出している余裕がどこにあるのだろう? とみんな思ったんじゃないかと思うんだけども。下手に金持ちだと思われない方がいいですね。本当は火の車だというのに、お金を出さなかったら国際社会から非難されかねないんだから。それに、純粋に支援のためというわけではなく、裏の意図、思惑というものは常にあるわけで、日本が率先して金を出し、人も出すのは、国際社会への影響力を保つための、特に中国との覇権争いだという話もあるからねぇ。
 国レベルだけでなく、映画スターやらスポーツ選手やら大統領やら――アメリカの場合、税金対策で出しているだけじゃないのか、と思える人もいますが、それはともかく、個人レベルでも、おまえ金もってるんなら困っている人に寄付したらどうだ、と直接言われなくても、そういうプレッシャーを受けることはあるんじゃないかと思う。よかった、貧乏人で。
 寄付した人を、えらいねー、なんて言っている人もいるけど、ほんっと他人事なんですね。誰が何をしたか、ではなく、自分はどうなんでしょうか。誰も自分に目が向いていないように感じられます。

 自分にできるのは、わずかな義援金を出すことでもボランティアに行くことでもなく――それができる人はすればいいんだけれども――この現象を理解することだ。理解することで、自分の番がきたときに、同じ悲劇を繰り返さずにすむのである。
 たとえば、なんでもいいんだけども、一回目の津波の後、野次馬が集まってきて、二度目の津波で流されてしまったとか、バイクタクシーの運転手が、津波がくるのが分かってもバイクを手放すことができずに右往左往していたら流されてしまった、なんてニュースがあった。
 しょーがねーなーと思うだけなのか、では、自分はどうなのかと真剣にシミュレーションするのとではまったく違う。
 自分の命がいちばん大切であることを、きちんと理解しているのかどうか。目の前にあるパソコンはもとより、さまざまな自分の物と思っている物たちや、場合によっては家ですら、いざというときにスッパリ諦めて捨てて逃げることができるかどうか、自然をなめていやしないかどうか。ちゃんと考えましたか?

 頭で考えた、善というものに振り回され、自分の「本当」を見失っている。善悪正邪に関係なく、本当のことだけをすべきである。そして、本当ならば、悪や邪に傾くことはない。人間には良心というものがあるからだ。
 わざわざ海外に人を救いに行くことはない。何度も言うが、それができる人はすればいい。確かにそれは善いことなのだろうからね。だが、日本にだって困っている人はたくさんいるのだ。手をさしのべるならそちらが先であろう。それをしないで、外に行ってしまう人というのは、結局、注目され、相手にしてほしいがための方便でやっているだけだから、その思いがかなわないと、突然、これまでと正反対のことをしたりする。
 あまり、そういうものを相手にしない方がいいですね。


2005年01月10日(月) ■せんそー

 ああいう、N議員のような元気な人が戦争を起こすんだろうなぁ、ということはよく思う。戦争をすれば、「それ」だけではない、両国国民すべてを巻き込んだ悲劇が起こる。そこまでしなくてはならない理由はなんだ? 実際、対岸の火事ではなく、自分のこととして火の粉が降りかかってくるのは時間の問題だろう。

 私の息子娘がキケンなところに連れ去られてしまったから、代わりに、ぜんぜん関係のない別の親御さんの息子をつかまえて、そのキケンなところに行って、命懸けで私の息子を連れ戻してきてくれ、といわれたら困るよなぁ。
 特殊部隊を作って行かせるというなら、それを口にする本人が、特攻隊長にでもなって最初に行くべきである。それができないで、他人の子どもに行って来い、というのはおかしい。自分が行けないのなら、自分の息子を先頭に立たせればよろしい。口先を動かすだけで、何もせず、他人に命を懸けろというのだろうか? 自分にできないことを他人にやらせてはいけない。

 戦争は起きる。自然災害も加わって、世界中が大混乱し、どの政府も地域も現在の体制を維持できなくなる。それこそ、それどころではなくなる。そうなったとき、なったらなったで諦めて、みんなと死ねばいいと思うのか、それとも生き残る努力をいまからしていくのかでは当然、結果は違うことになる。

 って、相変わらず、わけのわからんことをいってますな。<わし


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