おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
手間をかけた、自然であるもの、という共通点があるかもしれない。
どちらか一方が抜けても違うことになりそうだ。 手間をかけても不自然では良いものはできない。農薬を毎日何時間もかけて噴霧して出来た作物が、すばらしいだろうか。 自然であっても手間をかけなくては良いものはできない。自然が良いとして、植えたなりで何もしなかったら――自然に任せておいたら最高のものが出来るかというとそうでもない。 なかには、人間が手をかけるのが難しい、特殊な環境で育つものもあるから、すべてにおいて当てはまるわけではないが、一般的な作物においてはそういうことになるだろう。 手間と自然。 たとえば、昆虫なども、原始の自然よりも人里に多くいる。人が手をかけたところにやってくるのだ。しかし、やりすぎてコンクリートジャングルになると――まったくいなくはならないが、少なくなる。ゴキブリやらイエグモやらは増えるかもしれない。 なにもしないのではなにも起きず、発展も見込めないが、やりすぎては離れてしまう。 中心。 手間にせよ自然にせよ、ギターの弦の張り具合のように、ちょうどいい中心というものがある。懸命なのは良いが、中心がずれていたら意味がない。日光に当てるのは良いかもしれないが、作物によっては限度というものがある。まったく当てなかったら、育たない。 以上のことから、素材をいかすミソは、「人間が中心のある手間と自然を行うこと」だと分かる。 まあ、だいたいこんなことばかり考えています。(^^;
床屋で、何気なく肩をぐるぐる回したら、おばさんに「なーにー、肩こるのー?」と言われたので、そうなんですよーと、これも何気なく答えた。床屋のおばさんが私の肩に触ると「あら、ほんとガチガチじゃん!」というのです。
え、と思いましたね。 自分が肩がこっているなんて、考えたこともありませんでした。で、念入りに肩を揉んだり叩いたりしてもらって寝そうになってしまったのだけれども(笑)、自分の肩がこっていることも気が付かなかったことにショックを受けました。そんなにも自分のことが分かっていなかったのかという……。 この日記でも他人のことをさんざん馬鹿だアホだ言ってますが(^^;、もうそういうことはやめよう、と決めたところでした。それで気が付いたのですが、いちいち他人の言動やすることを、それはおかしいんじゃないか、馬鹿なんじゃないか、と想念を出していると、驚くくらいに自分のことがおざなりになるのです。 自分を大事にするとか、自分を中心に物事を考えるとか、そうしたくてそれでいいとして、そうしてい(るつもり)でも、なんとなく不自然さというか、無理がある。頭の中で、あーだこーだと批判が渦巻いていて、そちらにエネルギーを奪われ、自分の扱いが、どうでもいいものになってしまう――自分のためのエネルギー(時間含)が失われてしまう。 これはね、ホント文句が多い人は気が付いた方がいいですよ。自分のことがおざなりになっている。だから「そうなった」のだから、それまでと同じやり方をしない。高いレベルでやっていく。ただ自分自身(が自然に感じる快適さ)と一致してしく。 批判することで、自分で自分をおとしめてしまっている。メンタリティの上下というのはある。いくらレベルが低くても、その人は今はそういうレベルなんだから仕方がない。自分もそういうレベルを経て、いまの自分になったのだ。 批判した方が不自由になるということもありますね。たとえば、その批判が当人の耳に入って、訴えてやる! なんてこともありえます。批判したら、気分が晴れるわけでもなく――むしろくさくさするだけで、(誰に頼まれたわけでもなく、自分で勝手に批判することで)他人のことでエネルギーをとられるなんて、うれしくありません。 つい、批判したくなることもありますが、すぐに切り替えて、ただ自分と一致していきたい、と思いました。
←自分で踏んでしもうた……。
いままでそんなに気にしていなかったのだけれども、中には変な人もいるようで、なんだか恐いですね。
落札後1日も経っていないのに、連絡が遅いといって評価を「非常に悪い」にしている人もいたりして。出品者が、いくらなんでもそれは常識がないのでは、規約は読みましたか? というと、常識なんて誰が決めたんだ、規約なんて知らない、といいだす。 困った人ですね。(^^; わたしが出品者なら、常識がないとか何とかいわず、相手に対してはあくまで誠実に対応する。別に相手がどうのこうのではなく――と、相手は関係ないと言い出した時点で既に相手を気にしてしまっているのだが(笑)、相手の背後のものに敬意を払いつつ、誠実に、自分がどうか、という視点で行う。 話しを戻してヤフオク。 出品するとき、入札するときなど、気を付けたいことをまとめてみる。
あと、慣れてきたときに慎重さや丁寧さを忘れないということ、荒らし目的でやっている人もいるので気を付けること。 まったく知らない人と金銭をやりとりするのだから、これくらいはしたい。
夜、星明かりと街の明かりが風に揺られてちらちらと見え隠れするなか、遠くの丘の上のスタジアムで、宇多田ヒカルがコンサートを開いている。
そういう風景を眺めていると、ヒッキーが、すぐ近くに訪れるという情報が流れる。と、コンサート会場から人があふれ出てこちらに向かってくるのが見える。 ファンの中から4名、選ばれて、宇多田ヒカルと直接会えることになり、その中のひとりに選ばれる。お城のような、山の上に建っている豪勢な部屋で歓談し、たまたま持っていたデジカメで、ひとりづつヒッキーとツーショットを撮る。 宇多田ヒカルが部屋を後にし、ふたりが、興奮した様子でやはり部屋を後にする。「そういえば、せっかく撮った写真の送り先が分からないな」というと、残っていたもうひとりが、「ちょっとあっただけのヤツに住所なんて教えてもしょうがない」という。 お城から出るには、滑り台のようになった出口から出るしかないのだが、その先には強いモンスターが待ち受けており、キルアは、一緒に行かなくても理由を付けてここに残った方が安全かも、と一瞬思う。が、すぐに否定し、ゴンと出よう、と決める。 という夢を見た。(笑) 突然、ハンターハンターのキャラが出現するのだが、夢なので見ているときには不思議に思わないのが不思議だ。 別に宇多田ヒカルのファンでもないんだけどね。珍しく印象に残ったので書き留めてみました。
壊れない。
変化するだけである。温暖化のことを、地球が危ないとか、壊れるという言い方をするけれども……地球にとって温暖化がどうだというのだろう? 極端な話し、地球環境の変化で人類が滅びたとして、それが地球にとって何なのだろう? 困るのは地球そのものではなく人間である。もっというと、いちばん困るのは貧困層だ。二酸化炭素を多く排出している豊かな国の豊かな人間に、温暖化防止のために、ちょっとした――しかし面倒な、もしかすると今現在の快適性を損ないかねない「節約」をしましょうと呼びかけたところで、いったい何人が実行するだろう。 もちろん、できることはしていけばいいのだが、それは「自分のため(自分が快適であるため)」の地球環境を保全する、のはずだ。地球のためとか何とか、聞こえはいいが中心のずれたことをいって何もしないのでは意味はない。ただ、自分のため、と理解すればいいのだ。 明日から気温が摂氏45度になりますというわけではないのだから、人間はそれなりに対応していくはずだ。が、未来の地球環境より目の前の経済の方が大事、という政府もあるようで……あいかわらず、しょうがねえなぁ、と思うけど。
ナショナルの猫居場所探し器「どこニャン」なるものをヤフオクで落札。
猫の首輪に5百円玉大の発信器を付けて、手元に受信機を持つ。3メートルから5メートル以内に猫がいると受信機がピーッ!と鳴るのだ。 とーころがあなた、場所にも寄るのだろうけれども、3メートルどころか2メートルくらいまで近づかないと鳴らないのである。猫が脱走したときに探せたらと思ったのだが、ダメかなぁ。外ならもっと長い距離で鳴るかもしれない。 しかし、ついている絵が「これって……犬?」と言いたくなるようなものなのだ。猫なら耳は立っているだろう。(笑)
台風一過で、秋らしくなりました。夜はもう、かなり涼しいので上着を出して着ています。で、家の裏で鳴いている虫の声(WMA/768KB)を録ってみました。
文句が多いね、この日記は。(笑)
もっと余裕を持って書けるといいなぁ。 24時間テレビ。100キロマラソン。 知美ちゃんは頑張った! すごい! 感動した! ……と無邪気に言えるのが微笑ましくていいのかもしれませんが。(^^; 24時間テレビはまったく見なかったのだが、マラソンに密着した番組を見た。番組的には、あんな風にボロボロになって、それでも必死に頑張って走り続ける姿を見せるのが主旨というか、目的だろうと思う。 でも、なーんか、わたし的には違うんじゃないかというか……それが愛が地球を救うなのか? という不自然さを感じる。そんなに無理しないで、もっと自分を大事にしろよ、なんて思ってしまう。 もし、100キロを余裕で走り抜け、番組の最後どころか中盤で到着してしまい、「まーだまだ行けるよぉ!」などと、元気に声を張り上げ、その場で走る格好をしていたら、ちょっとやだけど。(爆) 少し話しが違うけれども――頑張っている姿、苦労している姿は感動的だが、わたしはどちらもしたくない。やるなら、もっとも楽にやりたい。出来るわけがないと簡単に諦めるのではなく、頑張りに頑張ってやることで手に入れることができる……というメッセージは分かるけれども、理にかなった方法があるなら、そうすればいい。
まったくさぁ。(笑)
アメリカみたく、くだらないことにまで逐一法律がしゃしゃり出てきて裁きまくるような社会にしたいのか、と思う。 それで本当に納得するのか、ということもある。 同じ問題に対して弁護士でも裁判官でも人によって判断が違ってくる程度のあいまいなものに頼るべきではなかろう。 どうしてそのような現象に自分が出会ったのか、その必然を自分の中に求め、理解する。そうすれば納得もいくものだし、いちいち他人と争わなくてすむ。
匿名で勝手放題いって喜んでいるヤツって馬鹿だと思うんだよね。
他人に向かって発せられたもの――ここでは悪意――は、必ず自分に返ってくるのだから、気を付けたい。人を呪わば穴二つってホントだからね。分からないのならやってみたらいいけど。 不愉快なことが起きて、それが(かつて自分が発した悪意が)返ってきたのだと理解できなければ、さらに他人を罵り嘲笑うことで気持ちを発散させようとするかもしれない。それが繰り返されたら、どういうことになるか……。 さ、だからもう馬鹿とか何とか書くのはやめた。 ただ、理解していくのみ。
HP作成がぽしゃった話し。まあ、いくつか理解できたこと――自分の仕事の進め方、今後について、気持ちと理解のあり方など――があったし、言いたいだけは言ってきたので、もういいやっと思えるようになった。
ホントにまあ、みんながみんなちんたらしているのでそれでいいと思ってしまうけれども、そんな中で、ええっと驚いてしまうくらいに厳しく生きている人もいて、刺激になる。 世の中、ひとりひとりが、ちんたら丼に入っている米粒みたいな状態(笑)で、自分がオカシイと分からなくなっているような気がする。しばらく、いつもと違う――たとえば、武道とか伝統芸能とか、真剣な世界に身をおくと、いかに普段の自分が、どーでもいいか、何事をもどうでもいいとしてちんたらしているか、もしくは、傍若無人に振る舞っているのか、が分かる。 骨の髄までちんたら度(?)が染みついてしまった人には、真剣な場に出会うこともないだろうけど……真剣じゃないから悪いのかということではなくて、そのように生きていたらどうなるのか分かったら、それはまずいと思うんじゃないかと。 たとえば、59円ハンバーガーとかさぁ。テレビでオヤジたちが、「いやあ、助かりますよぉ。もぐもぐ。美味しいですよねぇ。はぐはぐ。ぶははははっ!」とか笑ってたけど……本当にいいのか? 59円で牛の肉が食えるわけがない。何の肉か知らないが、それに化学調味料たっぷりのソースをかけて喜んで食べている。なんでもいいから、腹がいっぱいになればいい、食事の後片づけもいらず、食器は使い捨てで安くて便利――いっけんそれの何がいけないのか、と思うかもしれないが、そのようなものに囲まれていると、仕事も遊びも、また人間関係すら簡単(薄っぺらく)て、後々面倒のないような、使い捨て出来る程度のものしか築けなくなってくる。普段からそういうこと(簡単便利な…)しかしていないのだから、それ以外のことを出来るはずも、成せるはずもないのだ。 こじつけだろうか? しかし、小さいうちから、お金さえ出せば安くて簡単便利に食い物が出てきて、食器など使い捨てが当たり前としてきた子どもと、親と一緒に時間をかけて食事を作り、後かたづけをし、高級な割れものの食器を扱って育ってきた子どもと、どちらが人を大切に扱えるようになると思うか? 少し想像力があれば分かるはずだ。 食事など腹がいっぱいになりさえすればなんでもいい、どーでもいい、という「ちんたらさ」が与える、人への影響とは大きいのだ。そんなことを言い出したら、生活できなくなる……というくらいに日本人は「やばく」なっている。 簡単で、便利で、安ければいいというものではない。これは食に関することだが、他のことでも、既成概念――大仰かもしれないが、こうあるもの、これがいいもの、という世の中の洗脳によって一番大事なものを見逃している気がしてならない。
うん、それでいいのさ。
某サイトをリニューアルしたい。数年前まで、おれは創作が好きなのだと思っていたが、そうでもないと気が付いたのは昨年。編集だろう、と思ったけどそうでもないね。(笑) 構成を含めたデザインと管理。その下に編集。 頭で物事を考えず、ただやりたいこととなると、そういうことになるようだ。 で、リニューアルデザインを考えているのだけれども、この段階がいちばんつらい。デザインの本を見たり、他のサイトを参考にしてみたり、全然関係ない物を眺めたり。傍目にはなにもしていないように映るだろうねぇ。 それをして――別に収入があるわけでも何でもないから、無意味なことなのかもしれない。そうやって中途半端に蠢いているのがおれだ。 まあ、しかし……。
お昼に、カレー屋さんに行きました。
で、注文するときのこと……。 「えーと、ポークカレーの200グラムを」 「はい、ポークカレーのゆで卵ですね」 「……に、200グラムで」 「200グラムですね。以上でよろしいでしょうか?」 「はい」 「注文はいりましたー。ポークカレーの200グラム、ゆでたまご!」 「……」 どーして、「にひゃくぐらむ」が「ゆでたまご」になるのだ!? まあ、最近、夏ばてで食欲がなかったから、神様が「まあ、ゆで卵でも食べて精を出せ」(?)と言っているのだ、と思ってそのまま注文したけどね。(爆) 後で考えて、ひとりで笑ってました。
おれはダメだダメだと思っていたら、そりゃあダメだろう。ずっとそうやって生きてきて、ダメじゃないことが一度でもあったんだろうか?
ダメだと思いこんでいることが問題であって、他にダメである理由はないのだ。出来るヤツというのは、自分は出来ると思いこんでいる。実能力以前に、おれはできると意識できるから勉強したり、何かにチャレンジして結果も出せるのであって、おれはダメだと思っていたらなにもする気にはならないのではないでしょうか。 そこで、ダメとしか思えない自分はダメ、と確認してしまうのか、それとも、いやおれはやれば出来るのだと意識を変えていく努力をしていくのか。 急には変われないから、時間をかけてでも自分を変えていけるといいね、Dさん。 3、4年前だと思うけど、Mさんのところに、コラムだかエッセイを書いたので感想くださいとメールしたYという男がいる。で、Mさんは、素直に感じたところを書いて返信したところ、Yは、キサマなんぞにこの作品の良さが分かるか! という意味のことを言ってきたらしい。Yは感想が欲しかったのではなく、褒めて欲しかったんですね。 で、それと同じことが、さっき(笑)わしとYの間であった。彼はなにも進歩していないのであった……。 まあ、わしもYの扱い方を分かっていなかったところがある。同じことを言うのにも、言い方というものがあるからね。ここでYにレベルを合わせて議論しても疲れるだけなのでしない。イルカに芸を教える調教師のように、いかにうまく思うように動かすか、もしくは害のないように処理するか、ということだね。 ……ひどい?(^^;;
紺色の服を好んで着ることが多かったのだが、気分的に赤くなりたかった。赤いTシャツに膝下で切れている赤いパンツを穿いてみた。 (←)で、こんな感じ。 このかっこうで、いつものように散歩していたら、前から自転車で走ってきたジョシコーセーが目を丸くし、通り過ぎてから、きゃあきゃあ言っていた。 ふんっ、笑いたければ笑うがいい! ふはははははははははははははははははははははははははははは!(やけくそや!) さんざん文句を言っていたら泣けてきた。もちろん、顔には出さないけど。 まだ、完全に納得したわけではない。でも、ここで自分の気持ち――裏切られたとか、自分が思っていたことと違ってしまった場合に、その想いを優先していくのか、それともこの現象から何が理解できるのか分かって進んでいくのとでは道が違ってきてしまう。それくらいのことは分かる。 ただ、もう少し気持ちが落ち着いてこないとダメだ。
←おなかの真ん中あたり、ピンク色になっているのは、手術のため剃ったところです。だいぶ傷口がきれいになりました。 ……毛、生えてくるんでしょうね? 昨日書いた、クライアントの関連会社の人と会えるので……といっても直接は関係ない人なので、その人にとやかくいってもしょうがないし、すでに決定事項だから変えられないんだけど、文句は言わせてもらう。 気持ちがすっきりしない。 これまたなさけなーい話しだけれども、子どもの頃、ひどく怒られたか何かして、自分を出してはいけない、とにかく人に合わせなくてはならない、と刷り込まれたらしい。たとえば、疲れてもそうと言い出せず、自分が黙って我慢していれば迷惑をかけることはないとか、そういうふうに自分を犠牲にしてきてしまった。 今回のことも、いい子(という歳でもないけど)ぶって、ものわかりのいいふりをして、黙ってさえいれば、すんなり物事が運ぶのかもしれない。しかし、いいかげんそのような態度はやめた。今回ばかりは、言いたいだけ言わせてもらう。相手には迷惑だろうけど、そんなことを言っていたら、わしはどうにかなってしまう。
おおみち礼治
|MAIL
|