Mother (介護日記)
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2003年12月17日(水) 父の命日

今日は父の31年目の命日。

ピンクのカーネーションとカスミソウを挿し、
父の好きだった日本酒と梅酒と、母の好きな串ダンゴを仏前に供えた。
そして先ほど、レフティーにイチゴを買って来てもらうように頼んだ。



  *  *  *  *  *


エピソード



今日は銀行に会長が来たのだけれど、去年会長が来た日のことも覚えている。

私は(おそらくは検診の後)車椅子の母を連れて銀行に寄った。
母に黒のダウンコートを着せていたのだから、おそらくは同じような季節。

帰りのタクシーが来るまでロビーで待たせてもらいながら、
(本来は窓口のパートで)当日ロビーアシスタントをしていたSさんと初めて話した。

タクシーに乗り込む時、
車椅子をたたんだり母の介助をしたりで私が歩道に投げ出したカバンやコートを
Sさんがロビーから出て来て拾い上げてくれるなどして手伝ってくれた。

そこへちょうど会長が通りかかったので、一般の顧客なら知らないはずの会長に、
Sさんの行為に対して「いつもお世話になってます」と声を掛けてしまったのだが、
母が大きな声で「ありがとう!」と御礼を言ったことから
「●●支店のロビーアシスタントの対応は大変すばらしい」と褒めてくれたのだそうだ。

会長は、もちろんその客が元行員で、
つい半年前まで隣の支店にパートに来ていたヤツとは知っているはずもなく。

ヤラセのような偶然なのだけど。

そして今年は、あの時の車椅子の客がこうしてロビーで会長をお出迎えしているなんて知る由もなく。

それを思い出して、おかしいやら悲しいやら・・・朝からウルウルしてしまった。


2003年12月07日(日) 今もリアルに

3月と4月の日記を読み返してみた。

その記憶が今もこんなにリアルによみがえってくる。
まるでビデオを見ているように鮮明に再現される。

我ながらよくあれだけ詳細な日記を書いたものだ。



私には涙をこらえる癖がついてしまい、泣くことができない。
カレーを作りながら玉ねぎが目にしみても、それを堪えようとしている自分が哀れ。


2003年12月05日(金) 喪中

今年初めて喪中はがきを書いた。
30年前の父の時のことは覚えていない。



去年は、突然の退職で迷惑や心配を掛けたお詫び的な意味もあって、
元の支店のみんなに年賀状を出したけれど、
喪中となると『親しい人』に限定されるようなので、誰に出せば良いのか随分と迷った。

元の支店を退職してから1年8ヶ月が経ち、異動も著しく、
今回の私の職場復帰は別の支店であることからお付き合いも薄くなり、
枚数はかなり減らした。

喪中はがきについてネットでは『職場の人には出さない』と書いてあるものもあったので、
それほどこだわらなくても良いのかも知れないが・・・

お付き合いを始めたばかりの人に、
最初に出すのが『喪中はがき』というのも気が引ける。

結局、友人を中心に120枚ほど投函した。




私が出した喪中はがきを受け取って初めて母の死を知った人が、電話をくれた。

遠く離れたところに住む高校の同級生の“うたこちゃん”からの着信記録が残っていた。
しかし夕方からはどこの家庭でも多忙になるため、話すとつい長くなる私はかけ直していない。

“おねえちゃん”というニックネームの中学時代の同級生とは、
お互いに実母の喪中とあって慰め合った。

一緒にフォークバンドを組んでいた高校の同級生の“カテュー”は、
数年前、私が彼のお母さんの葬儀に参列したことを気に掛けて線香代を送ってくれた。

私が現役時代に一緒に仕事をした“頑固なお父さん”は、ご丁寧にお悔やみ状をくださった。

町内だけどなかなか会えない元近所のお友達の“ともちゃん”からはメールが来た。
去年、ともちゃんの新築のおうちにお邪魔したのはまだ母がいる3月だった。



私は、これまで喪中はがきと言うものは「もらったら年賀状を出さない」程度にしか考えていなかった。
本来はこうして連絡するものだったのかと、この歳になってわかった。

これまでいただいたものが、祖父母の喪中が多かったからかも知れない。
私には『祖父母の死』に対して共感できる体験というものがなかったのだ。

歳を経て親を失う年齢となり、
母の死を経験してやっと、その気持ちがわかるようになった。
しかし、兄弟や配偶者や子供を亡くした友人の気持ちは計り知れない。


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