Mother (介護日記)
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2003年06月22日(日) 泣けた・・・

今日は、近所のAさんがお線香を上げに来てくださった。

Aさんはいくつだろうか?
3人目のお子さんが大学生とはとても思えないほど、若くてキレイでオシャレな方である。


「お母さん亡くなったこと、知らなくって。
 お隣のSさんと立ち話ししていて、初めて聞いて・・・」


私は、Aさんのご主人(50歳)が亡くなった時にお宅に伺ったことがある。
そのことがあったので、今回遅くなったことをとても気になさっていた。


「主人が亡くなってからは、
 新聞(の死亡広告)は、気にして目を通していたつもりなんだけど・・・」


やはり新聞広告に載せなかったことがいけなかったのだ。
土日であったとは言え、告別式、もしくは会葬御礼だけでも載せるべきだった・・・
葬儀屋さんは何故かその点で消極的であったが、それはなぜか。
たまたまその時に限って死亡広告が多過ぎだったためか。



実はAさんがいらっしゃった時、私も絹江もパジャマ姿であった。
買い物に出掛ける予定がありながらも、グズグズと布団の中にいた。
私は仏前の布団をあわててたたみ、とりあえず絹江の部屋に片付けた。

そして窓を開けて部屋の空気を入れ替えてAさんをお通ししてから、
急いで顔を洗い歯を磨いたのだった(^_^;)



Aさんとは、これまで道で行き会った時にたまに話す程度であったのに、
今日は母のアルバムを見ていただきながら、
ご主人との闘病生活を含め、実にたくさんの話をした。



「母は突然だったので、何もしてあげることもなく亡くなってしまった。
 主人は入院もしたけれど、私たちの手を煩わせずに逝ってしまった。

 だからと言って、今、市内で1人暮らしをしている父のことを想ってみても
 一緒に住むのは簡単なことではないし、毎日は通えない。

 そして自分が父親に対して思うことがあるように、
 将来3人の子供たちが自分を疎ましく思う時が来るのではないかと思うと不安になる・・・


 お悔やみに来てくださった人のちょっとした言葉に傷ついたり、
 “どうして私だけが不幸なのか”と思ったりもしたけれど・・・」 



人間は誰も、自分に経験のないことはわからないのだから、
自分のことをわかってくれない、と責めても仕方ない。
 
自分がしてきたことは家族が一番良くわかってくれているのだから、
他人がどう言おうと関係ない。
 
それよりも自分自身が経験のないことにおいて、
これまでに気付かぬうちに誰かを傷つけて来たかも知れないと振り返ることが大事。


そう。
人に完全を求めてはいけない。人の不完全さを責めてはいけない。
なぜなら自分も不完全だから。
不完全な自分を許して欲しい。だから人の不完全も認めなくてはいけない。



身内の死の経験から、人は何を学ぶのだろうか?
仏教的な思想や道徳的な思考を持つものなのだろうか?



ネットで見つけた言葉に『幸せは自分の心が決める』とあった。
幸せと不幸は同じものであり、見ても美しいと思うか否か、美味しいと思うか否か・・・
経験を糧にして、プラスに転じることができる人はどんな時にも幸せを感じることができる、と。


Aさんは、
ダンプの運転手だったご主人を想って、関連した仕事に就いているのだと言う。
そして経済的には決して豊かではない中で、
3人目のお嬢さんも希望通りに大学へ進ませてあげたらしい。




母が亡くなってからの日数もあるのだろうけど、今日は泣けた。 自然に涙がこぼれた。


2003年06月16日(月) 7×7

四十九日の法要は梅雨入り前に済ませたが、
カレンダー上はまだだったので、今まで大きなカゴ入りのお供物が飾ってあった。

先週で7週目が終わったので、お供物の缶詰を取り出し、
その入れ物と借りていた仏具(三具足)を返却するために葬儀屋さんに来てもらった。

この後、白木の位牌から黒檀の本位牌への入魂の儀式をお寺でしてもらえば、
一段落となるのだろう。



このところの私は、お友達と遊び歩いてばかりで、
仏様にキチンとお勤めしていたかと聞かれると反省せざるを得ないが、
母の死をキッカケに、
それまではただ位牌を置いていただけの父に対しても気付くことができた。



 * * * * *



今日は、近所に住んでる元同僚とランチをした。

以前信用金庫に勤めていた人で、うちの銀行の窓口のパートに来ていた。

同じ職場になるまで、こんな近所に住んでいるとは知らなかった。

おっとりした女性的な魅力があるのに、気取らずにサバサバしている人。

先日、久し振りに会いたくなってメールを送った。

「また仕事に復帰することになった」と。

「お母さんは(ひとりで)大丈夫なんですか?」

実は、母が亡くなったことを知らせていなかった。

母をひとりで置いて外出することはできなかったと知っているのだから、
不思議に思うのは仕方がない。

GWの初日だったのであまり広く知らせなかったのだ、と言い訳?をした。

結局、母の仏前に頂き物をすることとなってしまった・・・


2003年06月09日(月) 老人会では

銀行の研修(とは言っても面接だけでついでに遊んで来たのだが)に行って来た帰り、
近所に住む老人会のお友達Yさんに会った。

「その節はありがとうございました」 とお礼を言い、
「先月末に納骨と四十九日を済ませました」 と報告をした。


Yさんの話では、母の後、老人会の別の方が亡くなったらしいのだが、
その方の場合は、実の娘が親を汚がってロクに看てもらえなかったのだそうだ。

「・・・そんなこともあるんだからね、
 お宅のお母さんは幸せだったね、って、みんなで話していたのよ。
 陽気な人でね。 みんなを楽しませてくれたのよ。 歌が好きでね。
 ホントにいい人だったわ。
 さみしくなっちゃったね、って、みんなが言ってるのよ」



ここの家に最初に引っ越してきた時、さっそく老人会へのお誘いがあったが、
母は「老人会なんて、とんでもない。私はまだそんな年寄りじゃない」と断っていたのだが、
何度かのお誘いがあって数年後にやっと入会した。

いやいや入ったはずだったが、母はすぐに一躍アイドルとなったようだった。

母の年齢が、老人会全体に比べて若かったこと。
その上、母自身が年齢のワリに若く見えたこと。
そして色白でそれなりの美しさ(謎)と、陽気な性格だったことがウケたようであった。

老人会の仲間の前で、母がどんな様子であったかは想像するしかないが、母は
「カラオケをやるって言ってもね、みんな遠慮しちゃって歌う人がいないのよ。
 で、私が“唐人お吉”を歌うとね、みんなが『上手だから、もう一曲歌え』って言うのよ」
と、得意気に話していたものだ。



ゲートボールは、『下手だと怒られるらしいから嫌だ』 と言っていたが、
これもまた、暑い日も寒い日も週に3回の練習を楽しみにするようになり、
休憩時間にみんなで食べるお菓子を買って持って行った。
しかし、お菓子はお互いに持ち寄るので余ると言うので、
私が「冷たいおしぼりにしてはどうか」とアドバイスすると、
次からは濡らしたおしぼりを人数分、
冷蔵庫や冷凍庫で冷やしてクーラーバッグで担いで持って行った。
『練習の合間に顔を拭くと冷たくて気持ちが良い』 と
みんなにとても喜ばれたのだと、母もうれしそうだった。



老人会では、踊りも習っていた。
年に一度、発表会があって、みんなで着物を揃え、練習に励んでいた。
特に発表会が近づくと、母のアパートに友達が集まって自主的に練習を繰り返していた。



私は子育てと仕事に夢中で、
母が仕事を辞めてから病気をするまでの間、母の相手をあまりしていなかったので、
たまに“もっと一緒に過ごせば良かった” と思うこともあるのだが、
こうして話を聞いてみると、
母には母のお友達ができて、そこには私とはできない会話があって、
カラオケやゲートボールや踊りや旅行を充分に楽しんでいたのだ。

最後の1年だけは、私とベッタリ過ごしたくてあのような経過になったのだろうか。

それまでの人生の、満たされなかった部分を取り返すかのように、
母の晩年は満ち足りていたと思う。


2003年06月08日(日) 仕事復帰

普通の日記には書いたが、来月から仕事に復帰することになった。

以前勤めていた銀行の別の支店で欠員が出ると言うので、
ちょうど良いタイミングでそこに入ることができた。

月末に支店長や役席と面接して、
明日11時から研修に行くことになった。

いつまでもダラダラとしていても仕方ない。

別の支店ということで、人間関係も客層も新しくなるわけで、
それが今はまだ心地よい緊張感になっている。


2003年06月02日(月) 雑貨の写真

仏壇代わりのスペースに用意した雑貨の写真をUPしました。
興味のある方はどうぞ。

小物一点づつ、7枚あります。

キャンドルスタンド・茶香炉・香炉・一輪挿し・食器(仏飯器・茶湯器)

それらすべてを並べたコーナーとしての写真はありません。
位牌や両親の写真が加わったものは、公開するにはリアル過ぎるようで・・・(^_^;)


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