Mother (介護日記)
Index|Yesterday|Tomorrow
母が亡くなってから既に何度か市役所に行っている。
そこでいつも迷いながらも、結局は通過して帰って来てしまっていたのだが、 先日、思い切って寄って来た。
『高齢者福祉課』
どうしても言っておきたい不満がある。
いや、市役所に対する不満ではない。 介護保険について現場の声を聞いて欲しかった。
私の母に対する終末介護について批判的な発言をしたケアマネ・・・
この人の発言については、何度も嫌な思いをしたことがある。
「今、会って来ましたけれど、とても1週間やそこらで退院できるレベルじゃありませんよ」
「ダメだってわかっていて連れて来るんですよね?」
「連れて来たらホンの数日だってわかっていて、それだけのためにベッドを入れるんですか?」
「1週間後の退院予定ということでベッドを手配しておいて、 もしその間に何かあった場合には介護保険の適用外ですので、 自費になっちゃいますけどいいんですか?」
「何も食べられない人を、うちに連れてきてどうするんですか? 何も食べさせないつもりですか?」
亡くなった後は、
「早かったですね」
「随分、苦しそうでしたものね」
「ではこれで介護保険はすべて終了ということで」
ケアマネと言うのは、介護家族の要望に沿ったサービスを提案する人ではなかったか?
このケアマネは、どこの家でもこんな無神経なことを言って回っているのか?
よその家でも我慢していることがあるのではないか?
これは、本人に言っても改善されるとは思えない。
こういった現状を知っておいてくれさえすればいい。
もっと言えば、私の話を聞いてくれさえすればいいのだ。
私が言葉に敏感なだけなのかどうかわからないが、 ケアマネの言葉が私の癒えない傷になっていることだけは確かだ。
市の職員は、「上司に伝えておきます」 とだけ静かに言った。
5月9日の日記に、アメジストの指輪について書いたが、母にはもうひとつの指輪があった。
それは、なんと悪徳商法で買わされた指輪だった。(^_^;)
母がまだ元気に1人暮らしをしている頃のこと。 「私、ダイヤの指輪を買ったんだけどね・・・」 と言うのでビックリした。
「行けばタダで物をくれるから、一緒に行こう♪」 とお友達に誘われて、 行ってみれば最後に出てきたものは “ダイヤの指輪”。 「どなたか欲しい方はいらっしゃいませんか?」 との声に、一緒に行った友達が、 「はい、この人が買うそうです!」 と大きな声で言ったのだそうだ。
会場は拍手喝采。
「娘に叱られるから・・・」 などと言っても聞き入れてもらえず、 結局は押し切られてしまったのだ、と言うことだった。
「それ、いつの話?」 と聞いてみたが、もう随分前の話で、 それまでに何度も悪徳商法に引っかかっていた母は、 私に言えばまた叱られると思って今まで黙っていたのだ、と言った(-_-;)
「いったい、いくらで買ったの?」
「13万円」 “ダイヤの指輪”にしてはまだマシな方か・・・ この手の物を配る悪徳商法とか訪問販売だと、羽毛布団一式で平気で40万とか言う。
母は元々、アクセサリーなどにさほどの興味はなく、 年寄りがダイヤなんぞはめて出かける所もなし、 ましてや普段にはめていたら、どう冷やかされるかわかったものではない。
それに、あちらの言う“ダイヤの指輪”であって、ダイヤとは限らない。 所詮はガラス玉、運が良ければジルコニア程度の代物。
「私は使わないから、おまえにやるよ」 そう言って私がもらって来た。
『厄年』 と言う言葉があるが、 私にも “何をやっても上手く行かない” 数年があった。 この指輪をもらったのが、この頃だった。
私も最初は、貧乏人がダイヤの指輪を普段していることが照れくさかったが、 厄年には光るものを身に着けていると、 “良くないことを跳ね返す” という意味で良いのだと聞いて、しばらくはお守り代わりにしていた。
少し前、金属アレルギーでかゆいものができてしまったために、 結婚指輪と共にはずしてしまい、その存在をすっかり忘れていたのだった。
金属アレルギーも治ったので結婚指輪を探していたら、 一緒にしまってあったこのダイヤの指輪が出てきたので、今また左手の薬指にはめている。
かのアメジストは、石が大きいので日常はめているには邪魔になるが、 幸い、このダイヤは突起がないので気にならない。
写真をUPしたので、良かったら見てください。
「ありゅちゃん、これ、美味しい♪」 と言う声で振り向くと、 母がうれしそうに笑って何かを食べていた。
その母の姿が幻影だとわかっているらしくて、夢の中の私は大泣きをしていた。
あぁ、母はそんな人だったよ・・・ 何でも美味しいって言って喜んで食べていたものだよ・・・
2003年05月26日(月) |
仏壇代わりのコーナー |
金色の文字で両親の法名が書き込まれた黒檀位牌が完成した。
仏壇代わりのコーナーを作るためにこれまでに買ったものは、 正方形のこげ茶の木製花台2枚 黄色のエスニック柄のテーブルランナー 2枚用のフォトスタンド 試験管風一輪挿し ハスの花びらを模したキャンドルスタンド 香炉代わりの深緑色のミニミニ急須 金色の粒々、洗える香炉灰 茶香炉
洗える香炉灰というのは硅砂(けいさ)という成分でできていて、見た目は金色の細かい粒々。 これを灰の代わりにして線香を立てて使う。
線香は、硅砂の部分まで来ると芯を残して火が消えるようになっている。 落ちた灰がある程度溜まったら、 それ専用に準備した目の細かいザルや茶漉しなどに入れて水道で洗う。 灰は流れ、線香の燃えカスが浮いてくるのでそれを捨て、 新聞紙に広げるなど充分に乾かしてから再び香炉に戻す。
一般的に香炉と言うとフタがなく、 窓を開けておいて強い風でも吹いたら灰があたりに飛んでしまいそうで心配だ。 そこで、香炉の代わりになるフタ付きの物を探していたのだが、 なかなか思うような物が見つからず、置物として一目惚れしたミニミニ急須で代用することにした。
いろいろご意見もおありでしょうが・・・(^_^;)
茶香炉も一目惚れだった。
香炉の中には火をつけたキャンドルを置く。 この香炉では、お茶だけでなく、今後はアロマオイルも楽しみたいと考えているので、 陶器に香りが移ってしまうと困るので、上部の皿にはアルミカップを敷いてから 家にある緑茶をティースプーンに1杯程度を載せた。
小さな炎でお皿がゆっくり温められ、 やがて緑茶のなんとも言えない清々しい香りが部屋全体を包んだ。
はぁ〜 手軽に楽しめるアロマテラピーだな・・・ 緑茶ならお客様をお迎えする時にも香りの好き嫌いの問題は全くない。 トースターや魚焼き網の臭いが気になったら、 アルミ箔を敷いて緑茶を燻すと良いと聞いたことがあったが、まさにそれと同じ。 香炉のない方は、是非、トースターでお試しあれ。
2003年05月24日(土) |
納骨と四十九日の法要 |
行って来ます。
* * * * * *
ここ数日の天気予報では、今日の降水確率は20〜30%。 法要を墓前で行うことや脚の悪い高齢の叔母のことを考えると、お天気が心配だったが、 雨も降らず気温も比較的暖かだったので良かった。
義姉と何度か話をしていて、車で行くとは言え、母のお骨は抱いているものだと知った。 それなりに重さがあるが、なぁに、運転手のレフティー以外の3人で交代すれば。
え?3人・・・って。 私と絹江とば〜ちゃんと? ば〜ちゃんのお骨じゃん・・・(^_^;)
母が乗っていない車は、やっぱり何かが足りない。 段差の激しいワゴン車への乗り降りには補助が必要だった。
母が亡くなった後、いつだったか家族で買い物に出かけた時、 私は自分が降りてから無意識に後ろのドアを開けて踏み台を用意し、 絹江の脇の下を肩で抱いて降ろそうとしていた。 「ママ、私は大丈夫(^_^;)」と言われて気付き、自分でビックリしたのだった。
義兄夫婦と叔母と10時に霊園で合流。
義兄たちは少し早めに着いて、義姉のお父さんの墓所のお参りをし、 また、うちの墓所の花立が壊れているのを思い出して、新しいものを買っておいてくれた。
私たちはそろって霊園事務所に向かった。
その際、お骨を車に置いて行くのは母がひとりになってかわいそうだからと義姉が言い、 絹江が持って行くことにした。 お骨になってしまった母は、だけどまだ、物ではないのだと教わった瞬間だった。 なんのかんの言っても、結局言われなくちゃわからない。 私の気持ちなんてこの程度なのか、と落ち込んだ。
納骨の手続きは簡単に終了。
墓所の権利譲渡は、書類不備でできなかった。 必要書類は電話で確認したのだが、 墓所の相続人が義理の息子であることまでは言わなかったので、 二人のつながりを示すものが足りないとのことだった。 さらには法定相続人である私の、承諾書と戸籍抄本と印鑑証明と実印が必要とのこと。
それならば “一旦、実の娘である私が相続してから、改めて義兄に名義変更をしてはどうか”と考えて 聞いてみたところ、死亡というやむを得ない事情ではないため、 提出書類もまた別であり、手数料が4万円もかかるのだと言う。 死亡による相続では8千円なので、やはり、一度で済ませたほうが良さそうだ。 相続は思った以上に面倒くさい(-_-;)
墓石彫刻の申し込み手続きは終了。 俗名と歿年月日と満年齢で19文字。それに墓石運搬料で35000円なり。 先日の電話では、墓石運搬料なんて聞いてなかったけど。
墓石の損傷がひどいので、この際、新しい石にしてはどうかと勧められたが、 それだってアナタ、20万円だの30万円だの・・・(-_-;)
墓石の傷みは、 酒飲みだった父が生前に『オレが死んだら墓に酒をかけてくれ』 と言っていたので 半年に一度の墓参の度に一升瓶だのワンカップだのを持参して、たんまりかけてあげて、 そんなことをもう30年もやってきたのだから、それが原因だと充分に承知している。
霊園のおたよりには、 いつからか『お酒をかけるのは墓石が傷むので辞めてください』 と注意書きが入るようになったが、 こればかりは遺言なのだから、傷もうがどうしようが私たちは構わない、と。
今回は、私はすっかり母のことに気を取られていて、父のことを忘れていたが、 そこはしっかり者のお嫁さん、義姉がワンカップを用意してくれてあって、 それを義兄が、墓石をわずかにはずして、そのまわりの土にかけて来た。
お昼は、予約してあった貸切の6畳の和室で会席弁当を食べた。 お刺身や煮物などが重箱に丁寧に詰めてあって、美味しかった。
今日の昼食風景の写真を追加しました。
帰りには叔母を家まで送ってから、ドラッグストアに寄ったのだけど、 店に一歩入ったところで絹江が、 「私、ファイブミニのゼリーを飲んでみたい♪」 と言ったので、 「いいよ〜買えば」 と言いながら、私も自分用にアセロラゼリーを手に取り、 続いて棚に目をやり、無意識のうちに“ば〜ちゃんには・・・” と選んでいた。 ハッとして、絹江と目を合わせて苦笑いをした。
帰宅後、めずらしく早い時間にお風呂に入っていたら、その間に、 ゆきっちからお花のアレジメントが届いた。ヾ(≧∇≦)ノ~~ 白とピンクのカーネーションとオフホワイトのトルコ桔梗にブルーが加わって、 私の好きな清楚な感じのバスケットだった。 さっそく仏前に飾った。ありがとう、ゆきっち。
父の位牌は金色の屋根と扉の付いた“繰り出し位牌”と呼ばれる、 複数の法名を書いた位牌(板)が入れられるものだった。
一番手前には、黒塗りの板に『○○家先祖代々』と書かれている。
父が亡くなったのは私が小学校4年生の時だったし、 仏壇の中にあったものだったので中を開けたことはなかったのだが、 この繰り出し位牌に、父以外にもう1枚の位牌が入っていた。 法名の他に『死産児』の文字がある。
その筆跡は父の法名と同一のものであるので、 この繰り出し位牌を購入した時に一緒に書いてもらったものだと思われるが、 亡くなったとされる日付が一部加筆されているので余計に混乱した。
『昭和25年』というのは“両親が結婚するより10年も前”という計算になる。
この子は誰の子なのだろうか?
母は、私を産む前に一度男の子を流産をしたと言っていたが、 この位牌についてはまったく聞いたことがなかった。
日付が正しいと仮定すると、父の先妻の子だろうか? 義兄に聞いてみたが、その件については全くわからなかった。
結局、母が保管していた状況から判断して、これは母の子なのだろうと推測された。 そして父が亡くなった時に繰り出し位牌を買って、ここにひとつにまとめたのだと思われる。
葬儀屋さんの話しでは、 故人の持ち物の中からそういった古い位牌が見つかった場合には、 故人の棺に入れて一緒に火葬をするか、もしくは納骨の時に一緒に納めるのだと言う。
そこで先日、戒名をいただきにお寺に行った際、ご住職にうかがってみたところ、 誰の子供であっても母に縁のある人に代わりは代わりないのだから、 やはり納骨の時に一緒に納めるのが良いとのことだったので、そうすることにした。
そしてこの繰り出し位牌にはもう入る予定の人がいないので、 この機会に新しく位牌を購入し、1枚に両親の法名を連ねてもらうことにした。 繰り出し位牌の中から2枚の位牌だけを取り出して持ち帰り、 繰り出し位牌本体はお寺でお焚きあげをしていただくことになった。
その帰り、レフティーと一旦別れて私はひとりで仏具店に位牌を見に行った。
勧められるままに黒い塗りの位牌を選んだのだが、 私はどうもその金の縁取りが気に掛かっていた。 もっとシンプルでいいのにと思って店内を回っていたところ、 漆を塗っていない派手な装飾もないこげ茶色のものを見つけた。
「それは黒檀ですから。 重みもまったく違います」 と言われて、 これは私にはとても手が出ないような高価なものなのだろうと勝手に思い込み、 価格の確認をせずに、先ほどの黒塗りの位牌に決めてしまった。
ところがどうしても黒檀の位牌を諦め切れず、 レフティーと合流した後、価格を聞くだけ聞いてみることにしたら、 先ほどの黒塗りに少し足した程度だったので、即座に変更をしてもらった。
そうして両親の法名を書いてもらう黒檀の位牌が、 四十九日法要に合わせて今日までに仕上がる予定だったのだが間に合わなかったので、 明日は白木の位牌を持参することになった。
四十九日を以って白木の位牌から塗りの位牌に替えるものらしいのだけど、 実際には母が亡くなってからまだ4週であるから、まぁいいとしよう。
新しい位牌が出来上がったら、それをお寺に持参して、 “入魂”のためのお経をあげていただくことになる。 それは特別急ぐ必要もなく、新盆ぐらいまでにすれば良いとご住職はおっしゃっていた。
2003年05月18日(日) |
法名 (戒名) の授受 |
一般的には 「戒名」 と呼ばれるが、宗派によっては 「法名」 とも呼ばれる。 このたびのご住職が「法名」 とおっしゃっているので、 ここでは 「法名」 と書くことにする。
人が亡くなるとお寺さんに法名をつけていただく慣わしであるが、 かと言って、必ずつけなくてはいけないというものでもなく、 ましてやそれが数十万円ともなれば、躊躇してしまうのは仕方がない。
葬儀は俗名で済ませたが、 父に法名が付いていることもあり、母にもつけてあげたいとは思っていた。
これまでの収支を計算して、どうにか資金が捻出できそうなので、 葬儀屋さんを通してお寺さんに連絡し、戒名を付けていただくことになった。
法名をつけるにあたり、先日、ご住職と母の人柄について電話で話しをしてあった。
そして今日、レフティーの休みを利用して、それをいただきに行って来た。
ホールでの葬儀であったため、お世話になったご住職のお寺に赴いたのは初めてだった。
ご住職の奥様は、私たちを迎えるため、既に玄関で待っていらっしゃった様子だった。 案内されて、本堂の脇の和室でご住職を待っていると、お茶がすぐに運ばれて来た。 床の間の置物や窓越しの庭を眺めながら“おもてなし”というものを感じた気がした。
やがてご住職がお見えになった。
いただいた法名をひと目見て驚いた。 「院」の文字が入っていたからだ。 「院」は、生前に社会で相応の貢献をした人がいただけるものであり、 そういう場合のお布施は、これまた桁外れであると聞いていたので焦った。 しかし、お布施については事前にお伺いした通りのままで良いとのこと。
「聲」と言う文字も使われた。 聲・・・声に殳(るまた)、その下に耳。 これは、母が歌が大好きであったことから、音楽を意味するこの文字を入れてくださったのだ。
ご住職は、法名の一文字一文字について、その意味と解説を便箋に書いてくださった。 絹江が生まれる前に、私が辞書を片手に一生懸命名前を考えていたが、 住職のお気持ちもきっとそれに似ているのだろう。
お経をあげていただくために本堂に移動した。
金色の装飾が豪華だった。 おごそかな気持ちになった。 焼香をした。 数珠を持って来るべきだった・・・
その後、回転黒板を使って仏教や宗派について教わった。 「13宗56派(増えているらしいが)があるとのことだった。 夫婦や親子で宗派が違っていても、元々はひとつの仏教なのである」 と。
すべてのものが縁で結ばれているのだ、と。 この座卓も、切り出した人がいて、運ぶ人がいて、加工する人がいて、売る人がいて、 それを買う人がいて、そこに集まる人がいて、お茶を運ぶ人がいて・・・
ご住職との出会いについても、 葬儀屋さんとのつながり(紹介)があってのことで、しかしそれ以前に母がいてこそのもので・・・
ご住職から 「お母さんはとても幸せな方だったのでしょう。 生きている時にお母さんにお会いしたかったものです」 と言ってもらえてうれしかった。
母も生前にたびたび「縁」と言う言葉を口にしていた。
四十九日を以って霊から仏になる。 (そのため一般的には香典は「御霊前」と「御仏前」を使い分けるわけだが) 俗に言う“成仏”であるが、 こうしてこちらの世界に未練を残すことなくあの世へと旅立つことができるように母を導き、 母はもう別世界の人になったのだと、こちらも気持ちに整理をつけるという意味があるようだ。
気持ちの整理、か・・・
まだ病院に行けば母がいるような気がする。 昨日、絹江のガングリオンで病院に行った時は手荷物が少ないことに違和感があったし、 受付を終えたところでつい振り返って母の姿を探したり、 車椅子を押さずに歩いていると、何か忘れ物をしたような気がしてしまう。
美容室に行こうと思えば、 ついカレンダーを見てレフティーの休みや絹江のいる土日を考えていて、 “そうか・・・もう、いつどこに出掛けても良いんだ”と気付く。
母が亡くなってから、いつだったかレフティーが、 「落ち着いたら旅行にでも行こう」 と言ってくれたのだが、 それは、この2年間に家族の行動にいくつもの制限があったことの再確認となって、 家族に申し訳ないやら、その制限の中で努力してきたことへの感謝やら、 これからはもう何も気にしなくて良いのに、それがまた母がいないことの寂しさでもあって、 二人がどこへ行こうかと楽しそうに話しているのを見て、私は非常に複雑な心境だった。
母が亡くなって私たちには「限定解除」が与えられた。
レフティーや絹江にバトンタッチすることなく、 私はもう、いつでもどこにでも出かけられるのだ。 酸素ボンベはいらない。 おむつもいらない。 着替えもいらない。 持ち物が少なくて身軽になった。 車椅子もいらない。 スロープもいらない。 当然、段差も階段も怖くない。 専用トイレを探して走りまわる必要もないのだ・・・
2003年05月17日(土) |
電話、電話、電話・・・ |
午前中は、絹江のガングリオンを抜きに病院に行った。
外に出たついでに、ランチ。
そして、併設の雑貨店を2箇所回って、 仏壇に代わる母のコーナー?を作るための小道具をチェック。
でも、買うまでには至らず、 もう一箇所のアジア雑貨のお店を見てから決めることにした。 そこはタクシーで行くにはちょっと遠過ぎるので、レフティーのいる時でないと行けそうにない。
* * * * *
納骨と四十九日の法要に行く人数の確認をして、会席(昼食)の予約をしなくてはならない。 それで、あっちに電話、こっちに電話。
新宿に行った時に伊勢丹で買った香典返しの品が、先方に到着し始めたので、 あっちから電話、こっちから電話。
* * * * *
レフティーがボウリングのリーグ(2・4土曜日)を増やしたので文句を言ったら、 「今後は何があっても1・3土曜日は絶対に家族との外食の日にする」 と誓った。 今日はその記念すべき1回目の夜となった。
バリ風レストランを選んだ。 ここならアジア雑貨もたくさん置いているので、一石二鳥。
キャンドルスタンドやお香立て、 エスニックな布や食器・一輪挿し・写真立てなどを探した。
コーンタイプのラベンダーのお香とお香立て、テーブルに掛ける予定の横長の布地、 それから、バリコーヒーとドリアンチップスを購入。 その他の雑貨は、もう少し検討。
レフティーの休みが決まったので、 納骨と四十九日の法要を24日土曜日とし、霊園に予約を入れた。
近くに住む近親者のみ、7名の予定である。
当日のお天気が気に掛かるが、こればかりは仕方がない。
レフティーが休みだったので、転籍届けを出すことにした。
先日、新宿区役所でもらって来た謄本を持って、地元の市役所へ。 こちらで新しい戸籍ができるまでには2週間程度かかり、 その間は各証明書の発行ができないとのことだった。 とりあえずは、新宿区役所発行の抄本で済みそうだ。
今日は、新たに母の「住民票の除票」 をとった。
* * * * *
お花のアレジメントが枯れ始めたので、新しい物を注文した。 自分で注文したのはこれで3回目、 それぞれ違うお花屋さんなのだが、どうも私の趣味に合わないものが来る。 3000円だから無理なのだろうと思って、今回は奮発して5000円にした。
『ピンク系でカーネーションやバラを中心にして、青や紫系は避けて』 とオーダーしたが、 カーネーションやバラは少なく、 ホタルブクロに似た、その辺に生えていそうなものが入っていて、ガッカリした。 こうなったら、次回から注文する時には、 『カーネーションとかすみ草だけで!』 と言うしかないだろうな。
* * * * *
夕方、友達が3人、お焼香に来てくれることになっていた。
元々みんな近所に住んでいて、それぞれの子供が絹江の一学年下だったので、 幼稚園ぐらいまでは親子共々毎日のように良く遊んだ仲間である。
しかし、それぞれが勤めに出始めてすれ違うことが多くなり、 やがて家を建てて引っ越して行った。 家が建たないのはうちだけだ(-_-;)
母が亡くなったのが土日だったので、新聞広告にも載せられなかったため、 “知らなかった” とのことだった。
私が一番辛い時期、彼女達に話を聞いてもらった。 暗い話を毎日聞かされた方はたまらなかっただろうが、今、改めて感謝したい。
母のアルバムを見ながらいろいろ話した。
月日が経ち彼女達にも次第に親の問題が迫って来ており、 当時とは違って、関心を持ったようだった。
私は母とは孫ほど歳が離れているから、 当時20代で老人問題を友人に語っても理解されないのは仕方がなかった。 でも今は40代を迎えて家族環境も変わり、 介護保険制度のおかげで老人問題がオープンになり、気軽に話せるようになって良かった。
* * * * *
葬儀でお世話になったお寺さんに、戒名を付けていただくことにした。
ご住職は、 “仕事を辞めてからの1年は母と一緒に遊んだので楽しかった”と言う私の告別式での挨拶に 関心を持たれたとのことだった。
喪主の挨拶の時には、すでに住職はいらっしゃらなかったと思ったが、 マイクの声は全館に届くようで、ご住職は別室で袈裟を着替えながら聞いていたらしい。
うちは檀家でもなく、その場限りでのお願いであるが、 このたびは快くお引き受けいただいて、心から感謝している。
先週から体調が悪いのだけど、 セキが出てタンが絡んで胸が痛むと悪い病気なんじゃないかと思って、 とてつもなく不安になってしまう。
今日のお昼は、ラーメン屋さんの出前(^_^;)
その後、絹江にエステティシャンになってもらって、 きういからいただいたアロマジェルで背中と顔をマッサージしてもらった。
そして2時間ほど寝ただろうか。
夕方、レフティーから仕事が終わったとの電話が来て、 『今夜は外食にしよう。 母の日だから』 と決まった。
母の日。 すっかり忘れていた。
今日は、私の体調を考慮して、母にはお線香をあげていなかった。 買い物にも行っていないので、カーネーションもない。 絹江の話では、こういう場合は“白いカーネーション”にするらしいが・・・
『母』を置いて自分だけが母として外に食事に行くのはどうかとも思ったが、 生きてる自分も大切にしなくては、と開き直った。
私はとても外に出られるような状態ではなかったので、あわてて身なりを整えた。
自宅では料理もせずロクに食べていないのだが、外に出るとそれなりに食べることができる。
今日は初めて入った地元の海鮮料理の店で、 貝づくし(あわび・さざえ・ほたて)のお寿司とお刺身を食べ、 その後レストランに移動してデザートを食べた。
アロマジェルのおかげか、外食による気分転換が良かったのか、 体調の悪さもずいぶん軽減された。
すでに雨が降り出している。 明日も雨らしい。 どうせ洗濯ができないのだから、戸籍の移動の手続きをしに東京に行こうと思う。
できれば梅雨が始まる前の今月中に、四十九日の法要と納骨をする予定である。
今日は、叔母と義兄夫婦が来てくれて、いろいろと相談をした。
父の墓は御殿場の冨士霊園にある。
墓所を買ったのが母なので現在の所有者は母になっているが、 このたびのことで名義変更が必要になった。
父の実子である兄が姓を継いでいるので、 嫁いで苗字が変わってしまった私が引き継ぐよりも、 今後は義兄にお願いするのが妥当であろうということになった。
今回の葬儀と親戚の宿泊代、 今後の戒名・納骨と四十九日・墓石彫刻代・香典返し、 さらには、母方の親兄弟のお墓の永代供養までを概算したところ、 母の預貯金と生命保険で何とか間に合いそうだ(^_^;)
母が左の薬指にしていた金銀の2つの指輪について、私はなかなか諦めることができずにいた。
カマボコ型のプレーンな指輪は、邪魔にならないので、 いつも肌身離さず付けていられるものであったから、形見としては最適だっただろう。
病院で着替えさせる前に、私はなぜ気付かなかったのか? 病院側も“金属”なのだから、気付いてくれたら良かったのに・・・ 火葬の前に、担当者に言っておけば見つかったかも知れない・・・ でも、義母は『ダイヤでもなければ溶けてしまって残らない』と言っていたし・・・ まさか、生きているうちに「それを私に頂戴」とも言えるはずもなかったし・・・
葬儀の後、あれこれ考えて、何日も悔やまれた。
『そうだ、アメジストがある!』
一昨年の秋に母のアパートを引き払った時、ほとんどのものを処分し、 持って来たのはわずかな衣類と雑貨だけだった。
その母の荷物の中からいくつかのアクセサリーが出て来た。
お友達から戴いたり、旅行先で買ったりの気軽なイミテーションばかり。
その中に紫の大きめの石のついた指輪があった。
父が買ってくれたものだったのだろうか?
母が自分で買ったとも思えないが、父がプレゼントをするような人だったとも思えない(^_^;)
このカットは、どう見ても高価な品物とは思えないが、 昔、この指輪をつけていた母の記憶が私には財産なのだ。 立て爪なのでいつもはめていると言うわけにはいかないのが残念だが・・・
台座の裏側を古歯ブラシで磨くと、紫色が明るく透き通った。
* * * * *
アメジストについて調べてみた。
別名、アメシスト・紫水晶。
2月の誕生石だが、母は1月なのでそう言う選択ではなかったようだ。
『誠実と平和を象徴する石』 など諸説あるのだが 『酒に酔わないお守り』 とは・・・(^_^;)
レフティーの日記を参照すると、彼の視点からみた葬儀がわかります・・・
母の年金や生命保険の受取や、墓地相続の手続きのためには、 いろいろな公的書類をそろえなくてはならない。
そこで今日は市役所に出掛けた。
◎ 「身体障害者手帳」 の返却。
◎ 「老人医療の限度額適用・標準負担額減額認定証」 の返却
◎ 「除籍謄本」 請求
◎ 「戸籍附表」 請求
◎ 私の家族全員の「住民票」 請求
◎ 私の「印鑑登録証」 新規登録発行
◎ 私の「印鑑登録証明書」 請求
◎ 厚生年金の「未支給分請求」 手続き
ここで本来は、私の戸籍謄本・抄本が必要になってくるのだが、 何と私の本籍は、結婚した時にレフティーの単純な希望で レフティーの両親が住んでいた東京都新宿区で登録してあるため、 こちらではもらうことができないのだった。
しかも、今、その新宿には両親も住んでいない。(-_-;)
郵送もできるが、日数がかかるらしい。 それなら、気晴らしにショッピングしながら行って来るか・・・
今日、除籍謄本を見て、父方の祖父母の名前を知った。 また、父の誕生日も知った。
それにしても、書類だけで¥8000近く支払った。(-_-;) 現金、多めに持っていて良かった・・・
今日は久し振りに香水(オードトワレ)をつけた。 とは言っても『ALLURE』に非ず、『No.19』。 ちょっと気分を高めようと思って、 空中に散布したミストの一部を右腕で軽く拾っただけなのに・・・ 花粉症の最悪の症状が始まってしまった(T_T)
おかげで市役所で手続きの間ずっと、鼻をかむ羽目になってしまった。
“せっかく外出したのだからウインドゥショッピングでも” などと考えていたのに、 頭痛まで始まってしまい、あまりのひどさにそのままタクシーで帰宅した。
今さっき、軽く食べてセレスタミンを飲み、フルナーゼを点鼻。 少し寝ることにする。
先週の土曜日のこと・・・
救急処置室に運び込まれた母は、内科の顔見知りの看護婦に迎えられた。
「しげちゃん、良かったね〜 おうちに帰れたんだって? あんなに帰りたがっていたんだもんね〜 大丈夫、今日は私がいるからね〜 」
私は事前に作成してあったファイルを救急隊に渡して、必要な情報を拾ってもらった。
院長がやって来たので、私は「お願いします」 と言った。
院長は救急隊に状況の確認をした。
「到着時、すでに呼吸停止でした。 心電図の反応もありませんでした。 通報時間は・・・」 と言いかけると、
別の隊員が調べてきて、「3時31分です」 と答えた。
院長は腕時計を見た。
「3時・・・さんじゅう・・・」 と言いかけて今度は壁の掛け時計を見た。
そしてまた腕時計を見た。 どうも院長の腕時計は遅れているらしかった。
それを察した救急隊員と看護婦が、「3時57分です」 と口をそろえた。
「3時57分、ご臨終です」 と私に頭を下げた。
本当に、そう言うんだ・・・ドラマみたいだと思った。
私は「ありがとうございます」 と言ってしまったが、本来はそこで合掌をするらしい。
院長は速やかに退室して、救急隊もストレッチャーを片付けて出て行った。
看護婦が 「それじゃ、キレイにするので、ちょっと待っていてね。 お迎えの(葬儀社の車を決めて)連絡をして来てもらってね。・・・大丈夫?」 と言った。
「(私は母の)自慢の娘ですから」 と言ってロビーに出た。
私は、母の左腕に、昨夜絹江がはめたばかりの安物の2本のブレスレットに気付いたが、 服を着替えさせる時に看護婦が気付くだろうと思ってそのことには触れずにおいた。
土曜日の午後で、既に診療は終わっており、ロビーの照明は消されて薄暗かった。 これが平日の診療時間中の混雑している中だったらどうだったろう・・・
レフティーと絹江はまだ来ないのか・・・ 心細かった。 だけど、1人だから泣けなかった。
私は「ええと・・・ええと・・・ええと・・・」 を繰り返して、 ファイルをめくりながらどこに連絡をすればいいのかと考えていた。 何件かの友達にメールを送信したと思う。
葬儀屋さんはすでに選んでおいた。 そのホールには、2度ほど通夜で出掛けたことがあり、 病院からも駅からも近く比較的便が良いところにある。
実はつい先日、パンフレットをもらって来たばかりだった。 退院させる準備と平行に、葬儀社との具体的なことも、 ある程度知っておかなくてはならなかったからだ。
葬儀屋さんに電話をかけた。 私はずっとホールでの葬儀を考えていたが、 ホンの数日前、のらさんの勧めもあって自宅でやろうと考えが変わっていた。
自宅に電話をすると、まだレフティーと絹江がいたので、 そのまま家で母を迎える準備をしてもらうことにした。 葬儀屋さんは、家具の移動まではしないらしいのだ。
救急の患者が新たに運ばれて来たため、 母は内科の処置室に移動し、そこで着替えをしているらしかった。
葬儀屋さんの到着が早かったので、しばらく待っていただくことになった。
私は看護婦に「お化粧、一緒にやる?」 と呼ばれて処置室の中に入った。
既に母は新しい浴衣を着ており、両手は胸の上で組んでヒモで固定されていた。
“あ・・・指輪が・・・ブレスレットが・・・” もう無理なような気がして言い出せなかった。
病院の“専用の”化粧品がポーチに入っていたが、 失礼ながら、ファンデーションのスポンジの汚さに、とてもそれを使う気になれず、 私が持っていた乳液状の日焼け止め兼用下地を指で薄く延ばしてあげた。
口紅も、母も私もとても使わないような、際どいオレンジ系であったため、 こちらも私のピンク系をさしてあげたが、母の唇はあまりに薄かった。
仕度が整い、葬儀屋さんのストレッチャーに移され、 オシャレなレースのカバーのついた枕を使い、 サテン生地の薄い綿入りのお布団を掛けてもらって、 病院の裏口から看護婦2名に丁重に見送られて、自宅に戻って来た。
救急車の要請をしてから自宅に戻ってくるまで、わずか2時間だった。 不思議な感じがした。
霊柩車も、今は外見は大型のワゴン車であって、それと気付かない人も多いだろうと思った。
運転手である葬儀屋さんに、指輪とブレスレットについて聞いてみた。 ブレスレットは別に良かったが、指輪は欲しかった。 しかし既に合掌しており、母の関節も太く、今から抜くのは無理だと言うことだった。 母の物なのであるから、母が持って行くのはそれで良いと思った。
家ではレフティーと絹江が家具を移動し、母を安置するスペースを作っていた。
今日、買って来たばかりのピンクのカーペットを敷き、 昨日、私と一緒に寝たダブルの敷き布団に、今日は母が1人で横たわった。
その後、あわただしく葬儀の準備が始まった。
絹江は、母の顔にハンカチを掛けるのはかわいそうだとか、 ドライアイスが冷たくて重いからかわいそうだと言って、その度に泣いていたが、 私には絹江を慰める余裕がなかった。 次々に決めなくてはいけないことがあって追いまくられていたし、 電話を掛けたり、かかって来たりで、絹江の肩を抱こうものなら、 そのまま一緒に泣き崩れてどうしようもなくなるだろうと思ったからだ。
これは、葬儀が終わるまでずっと続いた。 ボロボロと涙を流し、時には声を上げて泣く絹江を、 私はできるだけ見ないようにしていたし、抱きしめてあげなかった・・・
その後遺症なのか、その後も私は泣けなくなってしまった。
自宅での葬儀のつもりであったが、 借家の場合は大家さんが良い顔をしないらしいとの話しがあった。 実際、すぐに駆けつけた大家さんの顔色を伺ってみたが、やはり同様であった。 そこで、公民館での葬儀を考えたが、 今度は町内会長らの判断で “葬儀は前例がないから” との理由で断られた。
結局、ホールを借りての葬儀に決まった。
2003年05月03日(土) |
4/26 最期の30分 |
先週の土曜日・・・
母を連れて帰ってきたと言うのに、レフティーは呑気なものでお昼まで寝ていた。 異動の準備で、精神的にも肉体的にも疲れているのだから仕方がないが。
ケアマネからの電話で母のベッドが30日に入ることになったので、 それまでにカーペットを敷いておかなくてはならない。 そこで、レフティーと絹江は2時を過ぎた頃、買い物に出掛けた。
今思えば、この時はまだホンの数時間のうちに亡くなるとは考えていなかった。 だから二人を買い物に行かせたのだと思う。
それでも二人がいない間に母に万一のことがあったら、 当然のことながら私はすぐに救急車で病院に運ぶことを申し合わせてあった。 そして二人が出かける前、しっかり母に挨拶をしておくようにと呼び止めた。
その後、母の熱を計ったところ、38.3度あって額に濡れたタオルを載せた。 冷凍室にアイスノンを入れて冷やし始めた。
2度目に計った時には、38.7度まで上がっていた。
右の肺は、まるでイビキをかいているかのような音を立てて動いていた。
心臓は、間違いではないかと何度も測りなおしたが、5秒間に15回打っていた。 10秒で30回、60秒では180回という計算であった。
この状況で救急車を呼ぶべきか、と考えた。 しかし、私はすべてを背負って母を自宅に連れ帰って来たのではないか。 今更、解熱剤でも使おうと言うのか・・・
母は、それでも苦しそうではなくて、ただ少し早い呼吸を繰り返していた。
私は母に頬擦りをして、耳元で「ありがとう」と言った。
その後、のんたから電話があって、のらさんと一緒に母のお見舞いに来ることになった。
危篤状態に近い母を見るのは辛いのではないかと私は心配したが、 二人とも父親を亡くしており、一人っ子なのであって、 いずれの日にかこのような場面を迎えるのだという覚悟もあったようだった。
母は、目を開いたりウトウトしたりの状態であったが、 持って来てくれたお花を見せると、わずかに微笑んだ。
「何かあったら、すぐに電話してね」 とのらさんが言ってくれて、 二人は30分ほどで帰って行った。
直後にレフティーから電話があった。
「今、近所のスーパーにいるけど、おまえ、何か欲しいものある?」
「別にない。 今、のらさんとのんたがお見舞いに来てくれて帰ったところ」
「あぁそう。 ば〜さんは?」
「死にそうだけど」
「それじゃ、もうすぐ帰るから」
その後、私は市内に住む親戚に電話をかけようとして居間の受話器を取ったが、 ハッとして子機に持ち替え、母の枕元に移動した。
いくら耳が聞こえないとは言え、 本人の目の前で危篤の電話をすると言うことに多少の躊躇いはあった。
しかし・・・
親戚との電話が終わり、子機を置いて母に目をやると、母は動いていなかった。
え? たった今まで、ホンの数秒前まで、 電話をしながら真横で息をしている母を見ていたのに。 最期の瞬間は手を握ったままで・・・などと言う考えは甘かった。
「ば〜ちゃん、ば〜ちゃん」 と少しゆすって見たが、動かなかった。 とても安らかな顔だった・・・と言うよりも、 “安らかな顔” とはこういう顔を言うのだろうと思った。
電話の最中に、 それまで早かった呼吸が私たちと同じようなゆっくりしたものに変わったことには気付いていた。 それが、ただ“止まった” だけのことで、母は何も苦しまず、眠るように逝った。
私、ひとりか・・・
目の前に子機があることも忘れて私は居間へ走り、 電話機に貼ったメモを見ながら、救急車を呼んだ。
それから、玄関のドアを開け、お向かいのご主人に窓から話し掛けた。
「母の呼吸が止まったので救急車を呼びます。 ご迷惑をお掛けするかも知れませんがよろしくお願いします。」
昨夜からの状況を、いやこの1ヶ月の流れを全く知らないお向かいさんは、 寝転がってテレビを見ていたところに急にそんなことを言われてキョトンとしていた。
“非常持ち出し”は既に“いつもの荷物”になっていたので準備が楽だった。
続いて、病院の内科病棟に連絡を入れた。
そしてレフティーのケータイにも。 レフティーはその時、スーパーのレジで会計をしていた。
さらに、つい10分前までここにいたのらさんにも。
救急車が来るまで、とても長く感じた。
おかげで救急車が到着するよりも早くレフティーの車が戻って来て、 レフティーと絹江はまだやわらかくて温かい母に触れることができた。
救急車のサイレンが聞こえて来たので、私は玄関を出て合図を送った。
3人の救急隊が部屋に入り、呼吸停止を確認。 まだ温かい母の体に触れて、「通報までに何分ありましたか?」と聞かれて、 「1分です」と答えた。
担架に乗せられストレッチャーに移され、私も一緒に救急車に乗り込んだ。 レフティーには、後から来るようにと言った。
私は私で、非常時だと言うのに「洗濯物を取り込んで」 などと指示を出しており、 レフティーはレフティーで、 洗濯物を取り込んだ後、ご丁寧に絹江と一緒にすべてをたたんだとのことだった。
救急車の中では、酸素マスクがはめられ、 心電図を撮りながら胸を圧迫して人口呼吸が施された。 骨粗鬆症で骨も弱くなっており、肺を押すのはかわいそうだと思って、つい 「もう何もしなくていいんです」 と言ってしまったが、 「最終的な診断は、お医者さんがすることですから」 と諭された。
あの日、既に何件かのサイレンを聴いた後だったからかも知れないが、 自分の乗っている救急車の他にも数台がこの道を走っているかのように、 サイレンがいくつもに聞こえてくるので隊員に聞くと、 「今はこれ1台ですよ。 反響しますからね」 と優しく答えてくれた。
私は親戚などに連絡をしようと思うのだけど、とても口に出して言えそうになく、 友達にメールを送信しようと思えば何度も間違えてしまい、かなりパニクっていたらしい。
家に電話をして、レフティーに親戚への連絡をしてもらうように頼んだ。
私は、なんとか一筆箋にカキコができた。
救急車の中でケータイをいじっていたので、多少、気が逸れたのだが、 さすがに病院に到着した際には、救急車から降りた私はヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
厚生年金と恩給の受給資格喪失の届けをしなくてはならない。
厚生年金は、社会保険事務所に電話をしたところ、 連休明けに近くの市役所で開かれる年金相談会に必要な書類を持って行けば、 そこで手続きができるとのことだった。
恩給は、郵送で書類が送られてくるので記入し、 必要な書類を同封して返信すれば良いとのことだった。
どちらも、母の受け取るべき分がもう少しあるのだそうで、 手続き終了後に私の口座に振り込まれるらしい。
* * * * *
義姉が、納骨について霊園に問い合わせてくれた。
納骨には、埋葬許可証と認印とその費用が1万円。 四十九日法要と納骨の儀に3万円。 墓所の名義変更には、権利証と母の除籍謄本と、継承者の戸籍謄本と印鑑証明と実印で8千円。
レフティーの休暇が決まり次第、 今月の下旬当たりに、近くに住む身内だけで行う予定。
* * * * *
自宅に持って来たお花が枯れ始めたので、下げることにした。
その代わりにバスケットのアレジメントを注文したが、3千円では何だか物足りない。 葬儀屋を介しての注文だったからか色も寂しい。
* * * * *
今日は分厚いカタログが2件も届いた。
葬儀があったと知って送ってきたらしい。 香典返し・・・何にしよう。
一通りめくったら、目が回ってしまった。
昨日忘れた振込先のメモを、今日はしっかり持ったぞと思っていたら、 その他の買い物に必要な分の現金がなかったので、 タクシーで自宅に取りに戻る羽目になってしまった(-_-;)
電車とタクシーで病院まで。
内科外来、整形外来、内科病棟に挨拶した後、母の主治医であったK先生に会って話した。
「先週の水曜の夜に会ったばかりでしたよね。 それで翌日の木曜日に外来が終わってからお母さんに会わずに帰ってしまったので 気になっていたんですが、昨夜、病棟に行ったら亡くなったと聞いたのでビックリしました。 僕の読みが甘かったのかな・・・申し訳ありません」
いや、最期の判断は私がしたのだから。 先生には、この2年間、ずいぶんと精神的に助けてもらったから。 母の相手も充分にしてくれたから。
* * * * *
夜になって、生命保険会社の担当者が書類を持ってやって来た。 受取人の印鑑証明が必要だとかで、私はこれから印鑑登録をしなくてはならない。
その後、友達が焼香に来てくれた。 以前、向かいのアパートに住んでいた彼女は、10月にご主人を亡くしたばかりなので、 こういう席はいろいろと思い出して辛いだろうと思った。
|