Mother (介護日記)
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2003年04月30日(水) 笑えない

今日はなぜか笑えない。



ケアマネから電話があってお昼前にやって来た。
私は会いたくなかったが、
母はケアマネを「器量良し」だと言って気に入っていたから断らなかった。

「苦しそうでしたものね・・・」 その言葉を聞いて初めて、
昨日までの弔問客の中には1人もそんなことを言う人がいなかったことに気付く。
この人に経過を話すのは非常に空しかった。
本当は、通夜や本葬のように堂々としていたかったのだが・・・

彼女が持って来たのは菊と紫の切り花だった。
花瓶がないし私は菊が好きではないので、つい放置してしまったら夜には枯れ始めた。
バケツの水に入れたが、もう、元には戻らないみたいだ。


所用で外に出た。

近所の定食屋の経営者夫人にあった。
会釈だけで通り過ぎようか、話しをした方がいいだろうかと迷っていたら
あちらから声を掛けられた。

「お宅のおばあちゃん、亡くなったんですってね」

母は、以前、この定食屋の隣のアパートに住んでいた。
絹江がお泊りをした時は、たまに夕飯をここに食べに来ていたと聞いていた。

まだ涙が出ないのだと言うと、
自分なりにやることはやった、と満足している人は涙が出ないものだと、
自身の経験を交えて言った。



銀行に着いたところで振込先のメモを忘れて来たことに気付いた。
もう戻っている時間はない。 諦めて明日にしよう。



郵便局に行って、母の通帳を記帳した。
窓口で死亡の旨報告をしたが、年金や恩給などの手続きが終わってからで良いと言われた。



市役所の出張所に行って保険証などを返却したら、弔意金と葬儀費用の一部金がもらえた。
年金関係は、電話で書類を取り寄せるか、
直接それぞれの省庁に出向いての手続きだと資料をもらって帰って来た。



夕飯の材料を買うため、スーパーに寄った。
知っている人には会わなかった。
会って話しを聞いて欲しいような、会わないでおきたいような、複雑な心境であった。



日記を読み返したら、
医師からの余命宣告のわずか翌日に意識が薄れて来て、あわてて退院させたことを知った。

余命宣告の翌日の金曜日、年配の看護婦とすれ違った時、
「だいぶ、弱ったわね・・・」 と言われたので、
「1週間ぐらいのうちに退院することに決めました」 と答えたが、
「1週間なんて持ちそうにないから、早い方がいい」 と助言を受けた。
「それなら、明日、主人が休みで部屋を片付ける予定になっているので、
 ベッドが間に合わなくてもいいから、片付き次第、迎えに来ます」 と決め、
看護婦はすぐに“明日退院”の手続きを始めた。

ところが、夕飯の後(ほとんど食べないが)、あたりをしきりにキョロキョロとし始め、
そのワリにこちらの話し掛けに対する反応が鈍くなったため、
私は不安になって看護婦を呼んだ。

血圧は異常なし、酸素は93%で心配するほどではなかったが、
『ここで今夜置いて帰ったら明日がないかも知れない』 と思い、
連れて帰ることを即断した。

既に7時近くで、看護婦は夜勤の数人しかいなくなったところ。
各病室を回り、検温や血圧測定やおむつ替えなどをしなくてはならない多忙な時間だ。
非常に迷惑だとは思いながらも、しかし、ここは遠慮している場合ではなかった。

「退院許可が明日付けになっていますので、
 今日は“試験外泊” という名目にしておきましょう」 と言って、
嫌な顔ひとつせず、手続きをしてくれた。

レフティーは仕事を終えていつものように私を迎えに来た。
そこで連れて帰ることを告げて、荷物の一部をまとめて先に車に運んだ。

母にガウンを着せ、靴下と靴を穿かせた。
レフティーが抱いて車椅子に乗せたが、それも一瞬迷うような体力のなさだった。



今は、母といつどのような会話をしていたかを読み返して確認するのが怖い。

私が後悔するとすれば、
意識が半分薄らいでからの退院であったこと。

あと1日早ければ・・・
3回目のパルスをしなければ・・・


『連れ帰ったら1週間』 という日記を読んでいて気付いたのは、
1週間、と言うのは、私の言葉であって、
医師は「まぁ、そのくらい」 と曖昧に答えている。
続けて
「退院までにもう一度パルスをやれば、2,3日は持ちます」 とも言っている。

最初から、誰も1週間持つなんて言っていなかったし。
私が勝手に1週間だって思っていただけだったし。

医師は「急速に」 「急激に」 としか、言っていない。

極め付けの「2,3日は持ちます」

連れて帰れば即日だったんだね・・・

だったら、もっと早く、意識のしっかりしているうちに帰りたかった。

「帰りたい」 と言うときに、なぜ「じゃぁ、今、帰ろう」 って言えなかったのか・・・

亡くなる1週間前に撮ったビデオ、今はまだ見ることができない。


2003年04月29日(火) 昔の写真

母の昔の写真をUPしてみました。 こちら

◎ 二十歳の写真を見ると、母は日本的な美人だったんだなと思います。

◎ 新婚当時の写真を見てレフティーが『ハリウッドスターみたいだな』と言ったのですが、
  そう言われてみれば、どことなくオードリーヘップバーンに似ているような気もします。


そうそう。
新婚当時の祖父は
「息子がフランス人形みたいな嫁さんをもらった」 と周りに自慢していたのだそうです(^_-)-☆


2003年04月28日(月) 告別式

お天気に恵まれて、とてもさわやかな旅立ちの日となりました。

頼りない喪主でしたが、
友人・近隣・斎場のスタッフ・住職・親戚、そしてレフティーと絹江のバックアップにより、
本日、無事に葬儀を終えることができました。

ネットの皆様にも温かいお心遣いをいただき、心より感謝申し上げます。


2003年04月27日(日) 通夜

自宅には3時までいる予定。

通夜  27日6時半から。
告別式 28日11時から。

ホームセンターの隣の斎場にて。


泣く暇も無く・・・  


さだまさし 「防人の詩」 著作権問題があるからここには書けないけど。


2003年04月26日(土) 退院強行。

今、4月25日です。

夕食の後、いつもと違ってかなり衰弱していたので、
意識がなくなる前にと、突然でしたが連れて帰って来ました。

今夜は、絹江の部屋でダブルのお布団で一緒に寝ます。


・・・26日・・・


母は眠りが浅く、ほとんど眠っていない。

緑茶とアミノサプリを、スプーンで一滴づつ口に流してあげた。
レフティーお勧めのアミノサプリは、母も「おいしい」 と言った。
口を開いて息をしているため、喉の渇きには特に注意を払い、こまめに水分を補給した。

簡単にできる抹茶葛湯と、レフティーが作ってくれたハウスのイチゴゼリーを少し食べた。

おむつを5回ほど交換した。



昨夜連れ帰ってくる時は、
母と何度も行ったスパの駐車場にも入って、ぐるりと一回りしたが、
夜だということもあって、わかっていない様子だった。

目がうつろで、病院からわずか15分程度の家まで果たして持つのだろうかとさえ心配だった。
絹江に会えないで逝ってしまうのではないだろうかと思った。

しかしなんとか落ち着いたのでホッとした。

絹江の部屋に通したことで、
自宅に帰ってきたのだという状況がまだはっきりとわかっていないのだろう、
母はキョロキョロと何度も部屋を見回していた。

自宅に帰り、おむつを替え、水分を補給し、同じ布団で添い寝をし、
『あぁ良かった』と満足した私は涙を忘れ、心から笑うことができた。

できることなら、
早く夜が明けて、周りの景色を眺め、自宅に戻ったことを改めて認識して欲しいと願い、
夜中のうちに厚手のカーテンを開け放しておいた。

願いは叶って、朝を迎えることができた。

雨模様ではあるが、窓を開けて外の景色を見せてあげた。




今朝9時前から電話がなった。

ケアマネから介護ベッドの搬入についての連絡で『4月30日』に決まったとのことだった。
私も、昨夜のうちに退院したことを一応報告した。

昨日、あんなに数名の看護婦から説明を受けたはずなのに、
この人はまだ私の気持ちを理解をしてくれていない。

「ダメだ(死ぬ)ってわかっていて連れて帰ってきたんですよね?
 ご家族はそれでいいんですか? 」 

医者は、病院にいても1ヶ月持たないって。
現場の看護婦は1週間も持ちそうにないって言っているじゃないか。

もうダメ(これ以上、治療の方法がない)だからこそ、連れて帰ってきたんじゃないか。

いい加減、うるさい。
この無神経さを、どこかに訴え出たいくらいだ。
もう会いたくない。 



病院には電話をして、無事に朝を迎えられたことを報告し、
今日、改めて退院手続きにうかがうことを約束した。



レフティーと絹江が、病院の支払いと荷物の引き上げと買い物に出掛けたので、
私は母と二人きりである。

母の口が受け入れ態勢になっている時だけ、水分を流し込む。

小さなスプーンでは何回運んでも、わずかな量にしかなっていないのだろう。

補聴器をつけ、母の好きな懐メロ「古賀メロディー」を流し、私が知っている歌は歌ってあげた。

母はもうすでに意識が朦朧としており、
私の話し掛けが聞こえているのかどうかもわからない。

熱が8度3分出ているので、今、額に冷たいタオルを乗せたところだ。




 * * * * *


追記 :

この後の15:30、母は眠るように息を引き取りました。

詳細は、5月3日、4日の日記に書いてあります。


2003年04月25日(金) 入院33日目 ( 殺人か尊厳死か )

今朝9時に義姉から電話が入ったので、昨日送ったメールに付け加えて説明をした。

やはり、義姉は心配を隠せない様子だった。
あまりに負担が大き過ぎる、と。



ケアマネに電話をした。
入院したために回収された介護ベッドを、もう一度手配してもらうためだ。

ケアマネは、
「訪問看護等の受け入れ態勢も整っていないのにあまりに無謀」 だと言った。

「物も食べられないと言うのに、点滴も辞めてどうするんですか?
 人間には最低限の水分が必要でしょう?」

まるで人殺し扱いだった。

先生は退院することについて、
『訪問看護の医師の手配ができないなら認められない』 などと一言も言わなかったが。
それが『殺人行為』にあたると言われていたら、私もまた考え直したのだが。

ネットで調べた時、
臨死患者にとっては食物も水も、患者の快適さを保つためには必要ではないと。
渇きを潤すために、氷のかけらを口に含ませてあげれば良いのだ、と書いてあった。

食べたいというのなら、何でも用意しよう。
しかし、本人が要らない、食べたくないと言うのに、
こちらの不安解消と自己満足のために無理に与えるというのはどうか?

熱がある時や、二日酔いの朝など食欲がない時に、
“食べなきゃダメよ” と無理強いしているのと似ていないだろうか?
次元が違うと言われてしまえばそれまでだが・・・


母は、これまで内科的に大きな病気などしたことがなかったので、『かかりつけ』などない。
2年前、最初に入院したのは近所の個人病院だったが、そこは悪名高く、
こんな時にわざわざ信用できない医者にかかることもなかろう。



「それで“自宅に戻ったら1週間くらい”って言うわけですよね?
 それだけのためにベッドを入れるんですか?
 もし、1週間後に退院するつもりでその前にベッドを準備して、
 それまでにもし病状が悪化して、当日退院できなかったとしたら、
 介護保険は使えませんので自費になりますけど、いいんですか?」

いいんだよ、払うよ、それぐらいのお金。
面倒ならいいよ、ベッドなんかなくたって。

ケアマネは何のためにいるのか?
私は腹立たしくなるだけで、
精神的な支えどころか逆に不安を煽っているだけじゃないか。

“そのような場合には自費になりますが、
 そのところご承知置きいただけますか?” って、どうして言えないかな?




救急車と言うのは“亡くなった人は運ばない”ものだというのが一般的な認識である。

では、母が自宅で亡くなった場合にどうなるか?

通常は、医師の目前ではないため「変死扱い」 となり、警察・検察が入り、
死因の特定のために解剖されるらしい。

解剖・・・

昨日、看護婦が、
「これまで2年間の経過を診ているので、退院時に先生にその旨お願いしておけば、
 呼吸が止まってからでも救急車でここまで連れて来て、
 先生に確認をしてもらって、死亡診断書を書いてもらうことができる」 と言っていた。

しかし、義姉やケアマネが心配しているので、消防署に電話して確認を取った。

「こちらは、要請があればそのようにできます。
 家族の目の前で息を引き取ったなら特別問題はありません。

 ただ、本来の病気とは別の、
 例えば、家族の留守中とか1人暮らしの方が風呂場で亡くなっていたなどと言う場合には、
 死因の特定ができない(溺死なのかどうか)ので、警察が入ることもあります。

 また、家族が思い余って・・・というケースもたまにありますので、一概には言えませんが、
 その時の状況をお話ししていただければ結構です。」

最悪、解剖されようとも、
母にとっては自宅に帰る望みが叶えば、それも許してもらえると思う。

私は、私が良かれと思う介護をして来たし、これからの数日についても、私が決める。
その責任は私が取るのだし。

自分がやったことの後悔は仕方ないが、
人に言われてやらなかった後悔は、その人を恨んでも恨みきれないだろう。

最期にどんなシーンが待っているのかは、予想できない。
ケアマネが言うように、そのギャップに苦しむこともあるかも知れない。
義姉が言うのをはばかるほどの悲惨な状況が訪れるかも知れない。

でも、乗り越えて行くしかない。


2003年04月24日(木) 入院32日目 ( 余命宣告 )

最近の私は病院で泣いてばかりだ。

母の前で泣けないので、院内をウロウロしていることが多い。

それにしても、いつも死と向き合っているはずの病院で、
なぜ私だけが泣いているのだ?
階段の踊り場で、玄関ロビーで、病棟の廊下で・・・
なぜ私のように泣いている人がひとりもいないのだ?
なぜ私だけがこんなに悲しいのだ?

車椅子の人、腕に包帯を巻いた人、マスクをした人・・・
それぞれの患者さんには、それぞれ背負っているものがあるはずだが、
みんなはそれほどに肝が据わっているのか? 

大泣きをしたら目元が腫れて病室に戻れなくなるので、
いつも声を殺して息を止めて・・・



最上階にはタバコを吸いたい患者さんが集まっているが、屋上はいつも貸切である。

ここはかなりの広さがあって300度近い景観が楽しめる。
しかも、山の中腹にあり、街や海を見下ろせるとても良い場所だ。
ここを見つけた私は、非常に得をした気分で満足している。

かつて何度か、車椅子に乗せた母を連れ出してここへ来た。
そしてその様子をビデオや写真に撮っていた。

今は1人でここへ来て、やり場のない悲しみに大声で叫びたくなるのを必死に抑えている。


それにしても、この景色。
母にももう一度見せてあげたいが。

桜はいつの間にか散って緑の葉となり、
もうどこに桜の木があるのかは、他に紛れてわからなくなってしまった。

私は季節感もなくいつも同じニットを着ていて、
やけに暑いな、と思うと季節が動いている。 カレンダーが替わっている。



 * * * * *



看護婦に呼ばれて談話室に行くと、担当医がレントゲンの画像を1枚持って立っていた。

ステロイドパルス療法が終わったところで、今後を考えるということになっていたが、
もうすでに木曜日じゃないか・・・
私にとっては病院にいる間の1日1日がとても長いのだ。
毎日、母の“帰りたい”を無視して、後ろ髪引かれる思いで置いて帰って来るのだ。

「これは昨日のレントゲンですが、もうずいぶん肺が縮小していますので、
 以前のように歩けるようになるというのは無理でしょう。
 ・・・どうしますか?」

「このまま入院していたら、どのような治療をするのですか?」 と聞いたはずだったが、

「もう、1ヶ月持たんでしょう」 とはっきりとした余命宣告がされた。

これまでは、入院を続けた場合と自宅に帰った場合の余命について私は、

『6ヶ月が3ヶ月になるのでしょうか? 
 3ヶ月が1ヶ月になるのでしょうか?
 それとも1ヶ月が1週間になるのでしょうか?』 と質問してきた。

家に連れて帰ることで、どれだけ母の寿命を縮めることになるのか、
その割合が知りたかったのだ。

しかしそれについてこれまでは、
『自宅に連れて帰ったら1週間』 という答えしかもらっていなかった・・・と思う。

それが今日、『病院にいても1ヶ月持たないだろう』 との診断がされたのである。
このままでも、たったの1ヶ月・・・

「一時外泊とか、外出ということもできますが・・・
 これからは、どんどん悪くなるばかりなので、
 もし自宅に連れて帰ると言うのであれば、この1週間です。

 連れて帰れば急速に悪化しますから・・・
 退院の前にもう一度パルスをすることもできます。
 そうすれば、2,3日は持ちますが・・・」

『持ちます』 って、 『延長できます』 ってことだよね?


「1度返却してしまった介護ベッドの準備などがありますので、
 1週間以内に日を決めてご連絡いたします」


ここで担当医のケータイが鳴ったために、会話は中断。
代わりに看護婦が続けた。

「お母さんが家に帰ることを望んでいるなら、
 それを叶えてあげるのも親孝行なんじゃないですか?
 帰りたいって言っていたのに、してあげられなかったって後悔すると思うし」


昨日、母を2年間診てきた主治医とも話したことも合わせて、
私たちにとってこれからの1週間はとても重要な意味を持つことになる。




母のかすれた声が言った。

「そんなに悲しい顔をしないで・・・」

もう、母の前で涙を隠すこともできない。


2003年04月23日(水) 入院31日目 ( 迷い )

今日はTちゃんが来てくれた。

Tちゃんには、3月27日の面会の時にお花のバスケットをいただいて感激したが、
今回は自分自身でアレンジして持って来てくれた。
カーネーションにバラにかすみ草・・・ 私の好きな花ばかり♪
お花ができるって女性らしくっていいなぁ。
無機質な病室がこんなに華やかになって、見るものの心を和ませてくれる。

Tちゃんには、お決まりのツーショットをお願いした。
Tちゃんには、こうやって何度撮らせてもらったことだろう。
友達の、病気のお母さんとの写真なんて、頼む私も失礼なんだけど、
いつも応えてくれるTちゃんには本当に感謝します。

そのTちゃんは3月末、無事にヘルパー2級を取得した。
さっそくそれを活かして病院の看護助士の募集に応募したんだとか・・・
誠に志の高い人である。
ロビーアシスタントとして隣店の顔だった美しい人なので、
仕事ならどこでも選びたい放題だと思うのだが・・・

私はTちゃんに頼んで取り寄せてもらったヘルパー2級のテキストを、
実はまだ半分しか読んでいない。
特に「理論」 は難しい。 すぐに眠くなる。
かろうじて実習だけは図解入りで文字も少ないので、目を通してみたが・・・

私は実親の介護をしているワケだが、
ヘルパーと言うのは他人を看ることであり、私にはできそうにない。
敢えてその道に進もうとしているTちゃんには拍手、そして感謝。

母を放置してTちゃんと上の階でお茶をしていたら、いつのまにか6時になっていた。
食事の時間が始まっている! 
あわてて階段を降りていったら、
看護婦が私が来ていることを知っていたので、準備だけして待っていてくれた。

そこでTちゃんとはサヨナラして、食事の介助。

最近の母は、薬(錠剤)が飲めない。
昨日の夜は、私が離れた隙に看護婦が飲ませていて、思いっきりむせていた。
ベッドの上げ方が中途半端だったので、母の体勢が座位になっていなかったし、
ただでさえ飲み込みにくい大き目の錠剤を、2つもいっぺんに口に入れたのだから、
あれは絶対に看護婦の責任だ。
かわいそうに、母はその後30分もむせて苦しむことになってしまった。

そこで今日からは薬を粉状にしてくれるということになっていたはずなのだが、
連絡が徹底しておらず、今日も錠剤のまま渡された。
持って来た看護婦に言うと、
薬の種類によっては、薬効が微妙に変化してしまうものもあるのだと言う。
そこで、どうしても辞めるわけにはいかないプレドニン(=ステロイド)だけを飲ませることにして
粉にして持って来てくれた。

粉になったからと言っても母が水と粉を飲めるわけではなく、
夕飯の葛湯仕上げのお吸い物に混ぜて口に入れることにした。
しかし・・・
プレドニンは元々非常に苦いらしい。
それを粉にしたので余計に苦くなり、母は口に入れたまま飲み込むことをせず、
結局ダラダラと出してしまった。
ダメか、やっぱり・・・


次第に私は鬱になって来る。

治療になっていないじゃないか・・・
嫌がっているじゃないか・・・
食事は食べられない、薬は飲めない。
腕は漏れた血液で既に真っ黒。
点滴の針が刺さったまま。
寂しがってるじゃないか。
もうこんなこと辞めにしようよ・・・


私はこれまでに何度、看護婦に「連れて帰りたい」 と訴えただろうか。


今夜は、明日の外来担当のためにこれから主治医のK先生が来ると言うので、
面会時間が終わってからも、先生の到着を待っていた。

先生の病院到着とほぼ同時に急患が運ばれてきたとかで、
先生に会えたのは8時半を過ぎていた。

ウトウトし始めていた母に聴診器を当てると、うっすら目を開いた。
それがK先生だと認識すると、かすれた声を絞り出して
「センセー♪ 好きよ〜」 と言って細くなった腕を伸ばした。

K先生はその手を握り、「元気ですか?」 と聞いたが、補聴器もはずしているし、
今の母はもう、人の話を聞こうとする気持ちがないので、表情で会話をしているようなものだ。

私は先生とナースステーションに移動した。

先生はパソコンを操作して、入院以来の母の血液検査の結果を比較してから言った。

「先週ステロイドパルスをやって今は終わったばかりでしょう?
 大量の薬を急激に減らしたために、その反動で弱ったように見えるけど、
 体が慣れてくれば大丈夫ですよ。
 ○○さんの場合には、これまでにもそういうことが何度かありましたよね?
 なぁに、まだそんなに深刻になることじゃありませんよ。

 胸椎圧迫骨折の時と同じです(別の医師の言葉に私が悲観的となって即座に退職したこと)
 もう少し冷静になって。

 CRPの値が高いのが少し気になりますけどね。
 ステロイドを大量に使うと、どうしても感染症に弱くなりますからね。
 あの舌の白いのもそうですけど、今、ファンキゾンでうがいをしてますよね。
 今、食欲がないのは口の中や喉が荒れて痛いからなので、
 うがいによってその荒れが治ってくれば食べられるようになってくると思います。
 あれは飲んでもいいんです。 飲めば喉の奥の方のカビも取れますから。

 白血球の数も多少、増えているけれど、やっぱCRPがね、5.8あるから・・・

 今、ほとんど食べられない状態なので、このまま点滴だけでは急速に弱ります。
 自宅に連れて帰れば点滴もできないので、それこそ急速に衰弱するでしょう。

 少しでも、元気で長生きして欲しいのでしょう?

 お父さんはいつ亡くなられたんでしたっけ?
 30年前? それじゃ、まだ小学生の頃ですね。 記憶にあまりないでしょう?
 その時はまだ、親の死と言うものを理解できなかったでしょうね。
 それでは今回が大人になって初めて迎える、
 “たったひとりの親”の死と同じと言うことになりますね 」
 
・・・私の考え過ぎなのか・・・
私は急いで母を殺そうとしていただけだったのか・・・ 
 


2003年04月22日(火) 入院30日目 ( 質問事項 )

今日はメロンを忘れずに持って行った。
どうかな、と思ったけど、小さくしてあげたらそのまま食べることができた。

夕食は、魚のステーキコーンソース=黄色、ほうれん草の炒め物=緑、ゆかり和え=無色透明。
ペーストじゃ、メニューを見なければ何を食べてるのかわからない。
フルーツ=透明な薄い緑色のゼリーだったがメロンだろうか? なぜか毎回この色。
3分の1程度、食べただろうか。



母が喜ぶことは何だろうと考えた結果、
古いアルバムの中から父とのツーショットを見つけた。
二人だけで映っている写真はもしかしてこれ1枚かも知れない。
結婚式も挙げなかったし、記念写真もない。

アルバムは四隅を三角のシールで固定してあるだけなので、
既にかなりの枚数が紛失してしまっている。
これを持ち出すのは良くないと思って、写真をデジカメで撮り直してプリントしてみた。
かなりいい感じに仕上がった。
ツーショットの他、母の二十歳頃の写真と、母が毛糸で編んで作ったお人形も追加した。


母はもう声も出ない状態なのである。
必要があって無理に話す時でも、かすれて途切れ途切れになる。

それでもこの写真を指さしては微笑み、頬を指しては自分だと示し、
親指と人差し指で丸を作って“キレイでしょ?”と言わんばかり・・・
そして空間に指で う・れ・し・い と書いて微笑むのだった。
「もう食べられない」 「おむつを交換して」 などを含めて、
自己流の手話で示すようになった。



今日は母を退院させることについて、担当医に聞きたいことを整理して書き出してみた。


◎ 終末期に向かってどのような症状がでると予想されるか?
     疼痛・誤嚥・不眠・褥瘡・意識混濁・便秘・悪心・嘔吐・幻覚・吐血 など

◎ 自宅ですべきことは何か? またそれに伴い専門的な知識や技術が必要かどうか。
     痰の吸引・摘便 など

◎ 死の直前まで意識はあるか?

◎ 今後の治療について
     静注輸液・経管栄養 など 

◎ 使用する薬とその目的について
    ・肉体的 ・・・ 鎮痛剤・水分補給・栄養補給
    ・精神的  

◎ 総合的に判断して自宅介護は可能か?


このメモを看護婦に預けて、
担当医に会えないならコメントを書いてもらえるようにと頼んで来た。

看護婦は、
本人が希望しているなら家に帰った方が後悔しなくて良いだろう、と言う。
ただ、「それを家族が受け入れられるかなのよね」 と付け加えた。

どれだけの期間になるのか、どういうことが起こりえるのかは、
おそらく担当医でも予測しきれないだろうから、
どんなことがあっても、私や家族がそれを乗り越える覚悟がないといけない。
私はネットで臨死患者について調べたが、
それでも何事も書いてある通りには行かないものだ。



昼間、義姉から電話があった時にも相談してみたが、
ガンだった父親を自宅で看取った義姉は、その負担の大きさを知っているので、
心配をしてくれているが・・・


2003年04月21日(月) 入院29日目 ( お花の宅配 )

母が食事以外は寝たきりになってからは、視野が非常に限られて来た。

以前にも書いた通り、母の病室はナースステーションの隣にあって、
内側のドアでも行き来できるようになっており、
本来6人部屋のところ2ベッド分を潰して、ちょうど母の足元の方が機材置き場になっている。

そのため廊下側の母にとっては「この部屋は物置」なのである。
寝たまま見えるのは、白い天井とその機材と廊下を通り過ぎる一瞬の人影ぐらいだ。

そこで今日は花屋に電話をして、お花のバスケットを持って来てもらうことにした。
バスケットの良いところは、
オアシスを使うためベッドのテーブルに置いても水をこぼす心配がないということ。
そのことはTちゃんにバスケットをもらって気付いた。
ボリュームもあるし、エアコンの病室でもなんとか2週間ぐらいは楽しめる。

少し前から、病院の前にお花屋さんに寄って行こうとは思いながらも、
バスケットを作ってもらうには予約が必要だし、
タクシーを途中下車することが億劫でのびのびになっていた。

「ピンクを基調に、お任せで」 と言ったら、
かなり大人っぽい落ち着いた色合いのバスケットが届いた。
知っているのはバラとカーネーションだけで、あとは名前も知らぬ花だった。
別に悪くはないのだけど、
Tちゃんにもらったカーネーション主体のバスケットがとってもかわいかったから、
そのギャップが・・・ 今度からはカーネーションをたくさん、ってオーダーしよう。



日記と言うのはその日に書かないとダメだね、忘れちゃう。
母の様子がどうだったか、食事をどれだけ食べたのか、2日経った今はもう思い出せない。

ただ今日も言われた。
「おうちに帰りたい」 と。

担当医と話しをしたかったのだけど、結局今日も会えなかった。



そうそう、今日はメロンを持って行くのを忘れた。
先日の教訓を活かして、今回は冷蔵庫からちゃんと出して玄関に置いてあったのに。
疲れてるのか、私・・・

スーパーに立ち寄ると、母の好きな黒飴・すあま・タイ焼きなどを見つけるのだが、
すでに流動食となった母には食べられそうにない。

いちごもメロンもダメだ・・・と思ったが、
その場ですり潰してジュースだけでもいいやとメロンを買って来たのに。

母の向かいの病室に入院している方の奥さん(60代)と最近話すようになり、
ベビーフードも流動食の代わりになるのだと知った。 へぇ、確かに。
絹江の時にはベビーフードは使わなかったなぁ。
母乳の後、すぐに普通食だったような・・・(爆)


2003年04月20日(日) 入院28日目 ( ビデオ撮影 )

母は私を見つけるなり、声を絞り出して言った。


「は・・・は・・・は・・・は・い・や・で・か・え・ろ」

 ハイヤー(タクシー)で帰ろう、か。

「うん、それじゃ、先生に聞いてみるからね。
 黙って帰るわけにはいかないからね。 今日は先生がいないから、明日聞いてみるね」


とても無理だとは知りながらも、こうして毎日懇願されると、家に連れて帰ることを考える。
たとえ、その影響で数日の命になったとしても、
母にとっては、『うちに帰る』 ことが今の一番の希望なのだから。
万が一、移動の負担によって途中で急変したとしても、
『帰る』 が実行された満足感は得られることだろう。
私の心の準備ができないので待ってくれ、と言うのではやはり申し訳ないような気がする。




今日は昨日よりは起きている時間も長かったし、音や気配に対する反応も良かった。


今日はビデオカメラを持ち込んだ。
3脚を忘れてしまったが、
ベッドテーブルの高さを調節してその上に置くとちょうど母の顔が映った。

母にはビデオとカメラの区別がつかないので、
ビデオに向かってにこやかに静止していることがある。

私は自己満足だと思いながらも、
昨日作って冷蔵庫に保管してあった抹茶の葛餅をビデオを回しながら食べさせた。

「私は幸せ。 死ぬまで幸せ。 ありゅちゃんがいるから幸せ。 最高。」

「早くおうちに帰りたい。
 もう78(正確には79歳)まで生きたんだから、いつ死んだっていいんだぁ・・・」

母のいくつかの言葉に涙があふれたが、
私は母の死角にいたので母には見えないだろうと思っていた。

ところが、「ありゅちゃん、涙なんか、ダメよ」 と言われてビックリした。

「え? 涙? 出てる? あらホント」 などととぼけてみても、
母にはおそらく聞こえていないだろう。
花粉症のせいにして鼻をかんでみたりして、私なりにごまかしていたが、
母は何を思っただろう?



入院以来ずっとお風呂に入れない母は、
最近汗ばむ日もあったりして髪の毛がにおい出したが仕方がない。
毎日、梳かしてあげるたびにかなり抜けるのが気になる。


母は自分が動けなくなったことで、
やっとトイレを『寝たままで良い』 ということを理解するようになってきた。
今日は2回おむつを取り替えた。
母は「お世話を掛けて悪いね。 ごめんね」 と言った。

使えなくなったポータブルトイレは、私にとって非常に邪魔な存在なので、
看護婦に言って下げてもらうことにした。

パジャマを着替えた。
昨日は調子が悪かったので、ズボンしか取り替えることができなかったのだ。
ジャストサイズのパジャマはピンク地の小花柄で明るくかわいいのだが、
今の母には着替えが困難だ。
病院の中は暑いくらいなので、
今日はランニングのシャツは着ないで、パジャマ一枚にすることにした。
パイル地のマジックテープで、Lサイズだから身幅が広く楽に着ることができた。


ビデオを回しながらの夕飯。

運ばれてきたのは、重湯のほかに白と黒と、薄茶色に一部黄色のソース?のペースト。
今日は隣のお嫁さんが来なかったので、食事の介助を母と交互にした。
ご飯を置いて行くだけでベッドも上げてくれないのでは、痴呆患者は食事できない。

母は結局、二口づつしか食べられなかった。

食後に薬を飲ませようとしたが、
二つ目でむせてしまい、大きな錠剤がどうしても喉を通らない。
その旨、看護婦に報告して飲ませるのを諦めた。

昨日K先生が処方してくれた口内の荒れ止めの薬は『うがい薬』であったので、
誤って飲み込んでしまったら困るな、と思い、落ち着いてから看護婦にお願いすることにした。


2003年04月19日(土) 入院27日目 ( K先生の処方箋 )

今日は、ハウスのプリンと抹茶の葛餅と買った茶碗蒸しを持って行った。

母はベッドで眠っていた。


廊下で会った看護婦が振り返って話し掛けた。
私の方も、看護婦に母の様子を聞きたいと思っていたが、
「見ての通り」なのだから仕方ないかな、とも思って躊躇っていたところだった。

「今日はね、お母さん、かなり疲れているみたいで、朝からほとんど眠ってる。
 食事もほとんど摂れないし」


目を覚ました母に、一旦は補聴器をつけたものの、
眠るなら返って邪魔になるので、はずしてしまった。
最近は話すのも大変なので、特に話し掛けたりせずに、ただ手をつないでいる。


持って行ったプリンを「美味しい」 と言って半分強食べた。

食事は今日から流動食。
流動食になると何を食べているのかがわからないので、毎回メニューが渡される。
重湯は二口ぐらい。
白と緑と茶色のペースト状のおかずは、それぞれ半分づつ。
唯一形のあるゼリーだけは全部食べた。



帰り際、ナースステーションの入り口で看護婦と話しをしている主治医のK先生を見つけた。
今日は木曜ではないが、白衣を着ているところをみると宿直なのか?

この先生の顔を見るとホッとする。

「あ〜先生、こんばんは。
 この間の木曜日には、母のベッドまで来ていただいたそうで、本当にありがとうございます」

「本人はそれを覚えていた? 
 なんだかグッタリして反応が悪かったみたいだけど・・・僕だってわかったのかなぁ?」

「私は看護婦さんから先生が来てくれたと聞いたんですけど」

「今日はどうですか?」

そうだ、K先生の場合、こちらが話しやすいように質問をしてくれるんだ。

「なんだかまたここ数日で弱ってしまったみたいで・・・」

「舌はどうですか?」

「真っ白です」

「あぁ、そりゃカビだ。 ステロイドをたくさん使っているからね」

そう言い終わらないうちに、K先生は母の病室に向かって歩き出していた。

まだ目を開いていた母はすぐに先生を見つけ、右手を振って笑顔を見せた。

その手を先生はいつも握ってくれる。

母は声がすぐには出なかったが、その顔と手で一生懸命喜びを表現している。

「あ〜、今日は僕だってちゃんとわかるみたいですね(笑)」

そして口の中を確認した。

「それじゃ抗生剤を出しましょう。 看護婦さん、アレを・・・
 そんなに悲観的になることはありませんよ。
 木曜日に比べて今日はとっても元気そうじゃないですか。
 大丈夫、これなら治りますよ」

「ホント、先生に手を握ってもらうだけで母は幸せ、天国なんです。」

「いやぁ・・・そう言って死んでいった人が何人もいますけどね(^_^;)」

一瞬、え?と思ったが、謙遜なのだろう。


勤務が終わりショッキングピンクのTシャツ姿に着替えた看護婦と話した。

「私のおじいちゃんも入院していた時に、K先生に看てもらっていたんですけど、
 わかりやすく説明をしてくれるし、毎日病棟に来て話し掛けてくれるし、
 患者だけじゃなくって家族へのフォローもちゃんとしてくれて・・・

 私はこういう仕事をしているのに、
 実際に身内が入院してもずっと付いていてあげられないし、 
 ずっと看ているのもまた辛くって。
 それに辛い顔を見せるわけにもいかないし。
 そんな時でも、K先生にはいろいろ励ましてもらいました。 

 N先生(母の今の担当医)も、毎日病棟に来てくれるんですが、
 K先生とはまったくタイプが違いますからね・・・」

医者の腕についてはわからないが、言葉やスキンシップで救われる患者も多いはずだ。


『もうダメだ』 とわかってはいる。
だけど、それでも自信たっぷりに「大丈夫。 治りますよ」 と言ってもらえるとうれしい。
それが患者と家族にとっての一番の薬。 さすが、K先生の処方箋。

嘘だとわかっているけどアナタにならだまされてもいいと思う・・・なんてね、恋愛みたいだな。


2003年04月18日(金) 入院26日目 ( 添い寝 )

今日のように初夏を思わせる気持ちの良い昼間に読むと、
この日記はまるで他人事のようで、私は小説を読んでいるような気持ちになる。

毎晩の付き添いで現実を突きつけられても、
一晩寝てしまうとのどかな時間の経過の中でケロッと忘れてしまうのだ。



 * * * * *



今日はプリンを作った・・・とは言ってもハウスのプリンだけど。

前に幼馴染のSちゃんが持って来てくれたかぼちゃのプリンを食べながら、
「おまえも作ってみ〜」 と言っていたのを思い出したから。
こんな時ぐらい、最初から全部自分で作ればいいのにね。

一緒に、抹茶の葛餅も作って(これも簡単にできる)冷蔵庫で冷やしておいた。
それなのに、出かける時に持って行くのを忘れてしまった。

タクシーで少し行ったところで気が付いたが、
「いいや、また明日で」 と取りに戻るのを辞めたのだが、
『もし今夜急変して食べさせることができなかったらどうしよう』 と不安にもなった。

大丈夫、きっと明日でも。



今日は病院の売店で「黒ゴマプリン」 を買った。
そこで担当医に会ったので、
「今日はどんな様子ですか?」 と聞いてみたのだが、
「あんまり変わりはない」 としか言わなかった。 ┐(  ̄〜 ̄)┌



今日も母は寝ていた。
補聴器をしていないので、周りの音に邪魔されずに眠れるのだろう。

ベッドの場所は変わっていなかった。

しばらくして目を開いた。
「ありゅちゃんがいると、安心する。 いつもありがとうね」 と言って笑った。



尿カテーテルははずされていた。
やっぱり母には無理なのか?
大きなおむつと尿取りパッドの併用をしていた。
母が立てなくなったので、これまでのパンツタイプのおむつでは、
看護婦も交換が大変なのだろう。
見ると“おむつ代、200円をお願いします” と言う貼り紙があった。
明日、そのタイプを買って来なくては・・・



「起こして。 横になっていると、すぐに寝ちゃうから。」 との希望でベッドを起こしたが、
吸い飲みのお茶を飲ませたところ、むせて噴出してしまった。

パジャマの襟の部分が濡れてしまったので、着替えさせようと思ったのだが、
むせたことですでに疲れてしまい、
そばにいた看護婦も 「もう少し落ち着いてからの方がいいかもね」 と言ったので
やむなく、濡れた部分が肌に当たらないようにタオルを差し込んでおいた。

今はもう、座っていることも辛そうなので、ベッドを倒した。


少し落ち着いたのを見計らって、先ほど買った黒ゴマプリンを取り出した。

どうかなと思ったが一口差し出すと「美味しい」 と言って、半分ぐらいまで食べた。
「美味しい」 かぁ・・・ 久し振りに聞いたかも。


夕飯では・・・

入れ歯がやけに大きく感じるというのか、口に入れるのも大変な様子。
痩せたので歯肉も落ちてしまったらしく、すぐに外れてしまうらしい。

煮物のニンジンを口に入れてあげたが一向に噛めない。
仕方がないので入れ歯ははずしてしまった。

結局、おかゆを二口と、グレープフルーツだけしか食べられなかった。

看護婦に、「どのくらい食べられましたか?」 と聞かれたが、そんなわけなので、
明日から流動食にしてもらうことになった。

「トイレはどうですか?」 と聞かれた。
点滴を辞めてからお小水の量が非常に少ないのが気になっていた。

「最近は飲む量も減って来ているので、
 先生も『これ以上減ったら点滴』 とも考えているようなんですけども、
 点滴をあまり増やすのも体に負担がかかるので・・・

 ステロイドパルス療法は今日が2日目なんですが、
 点滴をしている時は落ち着いていていいんですけど、
 ちょっと動くとすぐに苦しくなってしまって・・・パルスの効果があまり・・・」

もう、手の施しようがないというわけで。

点滴か注射なのか、母の手の甲には青アザができている。
パジャマの袖をめくると腕にもあった。
もう痛い思いはしなくていいんだけど・・・



パジャマを着替えさせようとしたのだが、これもまた大変だった。

ほとんどお人形状態なのである。
ベッドを立てただけで息切れが始まる。

私はベッドの上に乗りあがって奮闘していたが、パジャマの袖が通せなくて困った。
するとカーテンの向こうでお隣のお嫁さんが様子を察知して手伝いに来てくれた。
私は座った状態の母を支えているだけで汗をかいていた。

これからは今まで通り、Lサイズのパジャマの方が良いだろう。
身頃が広いので、袖が通しやすいと思う。

お隣さんは、「浴衣の方がいいですよ」 と言っていたが看護婦は、
「浴衣で前がはだけるとカテーテルを入れた時などには目に付くので
 はずしてしまいやすいからパジャマで良い」 と言った。
確かに、浴衣を着ている人は皆、前がはだけて胸も丸見え状態だ(^_^;)



母はすぐにウトウトと眠り始める。
私はアザになった青く細い手を握っていた。

私にできることが、とても限られて来た。
いつもの温泉も、どこかの街も、たくさんのアルバムも、美味しい食べ物も、
もう今の母のチカラにはなれない。

それなら、せめてスキンシップを。

幼少のうちに母親を亡くした母は、きっと甘えられる胸が欲しかったに違いない。
今は私が母親となってベッドに添い寝をし、髪をなで、頬にキスをしてあげるのだ。

私は母のベッドにもぐりこみ、添い寝をしていた。
検温に来た看護婦も、それをとがめることはなかった。


2003年04月17日(木) 入院25日目 ( 薬も飲めない )

今日はアイスクリームとゼリー系のデザートを買って行った。



病棟に上がる前に、内科に寄った。

既に外来は診療を終えてガランとしており、薬屋の営業マンが数人座っているだけだった。
処置室で婦長と看護婦が話しをしていたので話し掛けた。

「K先生(主治医) はいらっしゃいますか?」

「あぁ、もう帰っちゃった・・・3時でね。
 さっきもK先生に会いたいって人が来たんだけど、3時半にはもういなかった」

「そうですか・・・今日は木曜だから、お会いできるかな?って。
 母が、あの通りK先生の熱烈なファンなものですから・・・」

まったく勝手なお願いである。 会えなくても仕方ない。
今は担当外の患者に『病棟まで会いに来てくれ』 と言う方が無理な話だ。



昨日、危篤状態になった男性は今日も機材に囲まれていたが、
家族らしき人が誰も来ていないことが気になった。



母は、左目が充血していた。
いや、あれは充血を通り越して、血があふれかけているのだ。
鏡を見ていない母は、自分の目がそのようになっていることに気付いていない。
訴えないところをみると視界に影響はなく、痛みもないらしい。
看護婦に聞いたが、原因はわからないようだった。


また、今日は尿道カテーテルをつけていた。
とうとう動けなくなったのか・・・

「本人は理解していますか?
 前みたいにはずしてしまうことはないでしょうか?」 と聞くと、

「ううん、もうそこまでの元気はないみたい・・・
 それに今日、朝のお薬も飲めなかったし。 
 朝は夕方よりも数が多いのよ。
 それで先生に言って最低限の数だけにしてもらったんだけどね」

薬も飲めないって・・・

ステロイドパルス療法は始まったらしいが、そちらは点滴か・・・


せっかくの良いお天気なので、車椅子で屋上に連れて行きたかったが無理そうだ。

母は廊下側のベッドで、
この病室に無造作に置かれたいくつかの機材と、廊下を通る人だけしか見ることができない。
動けないのであれば、せめて外の景色を見ることができれば・・・

幸い、今日は窓側のベッドが空いていたので、看護婦に聞いてみた。

「ベッドを窓側に変えて欲しいのですが。
 できれば、補聴器を左に付けているので、私が母の左側に座りたいのですが」

無理なら無理でもいい。
希望を言ってみて、かなうならラッキーだ。

「明日でもいい?」

「別に急ぎません」



「そうそう、今日はK先生が来てくれたのよ、ねぇ、○○さん」

え? 来てくれたんだ、うれしい♪ さすがはK先生。 感謝、感謝。
そういう心遣いがうれしいんだよ〜 
母の喜んだ顔が見たかったなぁ。
今日はどんなリアクションをしたのだろう?
いつもの愛の告白、したのかな?

それに比べて担当医のN先生は・・・ 毎日様子を見てくれているのだろうか?
スキンシップを大切にする母の手を握って励ましの言葉を掛けてくれているのだろうか?



お隣の患者さんには申し訳ないと思いながらも、
私は買って来たアイスクリームとデザートを出した。

母はもう、どんな食べ物に対しても興味を持たないようだった。

「あまり食べられない・・・」 と言ったが、スプーンで口元まで運んだ。

今日はとても気温が上がって、病室は西日が入って暑かった。
母は額にじんわりと汗をかいているぐらいだったので、
アイスクリームを食べるには最適な日だった。

ゼリーと交互に、二口、三口を食べた。



学校帰りの絹江が、お友達のMちゃんと一緒にやって来た。
長い坂道を上ってきたため、暑い、暑いと言って、上着を脱ぎ捨てて大騒ぎをしている。
そこで、Mちゃんを含めて3人での写真をパチリ。
電車の時間の都合で、わずか7,8分で帰って行った。



汗ばんだパジャマを脱がせて蒸しタオルで拭き、
乾いたタオルでぬぐってから、新しいパジャマに着替えさせた。

少し前、シャンプーをしても良いかと看護婦に打診したが、
それも、答えをもらう前に無理な状況になって来た。
ドライシャンプーと言う手もあるが、今の母には何をしても負担になりそうだ。



夕飯は杏仁豆腐、ジャガイモと人参の煮物、おかゆを少しづつ食べただけ。

食後の薬について看護婦から
「飲めなかったら飲まなくてもいいそうです、朝だけで」 と言われたが、
朝の薬も減らしていると聞いていたので気になり、何とか飲ませた。



母はまだ尿カテーテルに慣れず、理解できず、
「ありゅちゃん、トイレ」 と、私に介助を頼んできたが、
「これがあるから大丈夫だよ」 とその度に説明した。



ベッドの隅には杖が置いてあったが、リハビリに使うつもりだったのだろうか?



それにしても『自宅に連れて帰りたい』 とは言ったものの、
こんな状態の母を、果たして私が看れるのだろうか、と心配になって来た。

私は、母を連れて帰ったら、車椅子で外に連れ出して散歩させようと考えていたが、
今日の様子を見たら、とてもそんなことはできそうにない。
もうこれからは寝たきりになるだろう。

いや、それでも、家族と一緒にいられるだけで安心するだろうな。



昨日も今日もネットを回っていて終末医療について考えていた。
栄養剤の打ち切りは尊厳死なのか? それとも殺人行為なのか?
どこからが延命治療なのか、定義がはっきりしない。
安楽死や尊厳死と認められるには、4つの基準を満たす必要がある。 しかし。

『耐え難い肉体的苦痛』 とは、どの程度を言うのか。
『死期が迫っている』 とは、余命どのくらいをさすのか。
『ほかに苦痛の除去や緩和の方法がない』 とは、どこまでやれば良いのか。
そして 『患者の意思表示』。

『尊厳死協会』 なる団体があるが、なぜにそんなに会費がかかるのか?
年会費、夫婦で4千円。 終身会員の登録には夫婦で15万円だとか。
要は、本人の意志を書面に残しておけば良い訳で。



母はベッドに横たわっているだけで息切れをしていて、その苦しさと不安に、
「もう死んでもいいよね?」 と聞いてきた。

泣くわけにもいかない。

「絹江がおうちで待ってるからね。 ご飯をしっかり食べて、早く治そう」

そう言うのが精一杯だった。



今日はいつものパイプ椅子には座らずにベッドの淵に腰掛けて、
すっかり痩せて細くなった母の脚をさすっていた。


2003年04月16日(水) 入院24日目 ( 連れ帰れば余命1週間 )

レフティーに大型スーパーに連れて行ってもらった。

長袖の肌着シャツって、婦人物は襟元が開き過ぎていて肩が落ちてしまう。
暖かくなってきたことだし、ランニング型にすることにした。
母はレースがついたものを喜ぶので、アレコレと探して選んだ。

食欲のない母に好きな物を食べさせたいと思いながらもグズグズしていたが、
じぐ母さんの“食べられるうちに” と言う言葉にハッとして、あわてて実行に移すことにした。

看護婦には以前に「おはぎやゼリー飲料を持って来ていいですか?」 と聞いたら、
「先生に聞いてみるね」 と言ったが、おそらくは忘れられているのだろう。
まぁいい。 母には特に食事制限がないので、食べさえすればいいのだ。

握り寿司とプリンを買った。 



母はベッドで寝ていた。
パジャマが着替えてあるので、今日もリハビリに行ったのだろう。

起こさぬように、静かにパイプ椅子を出して座っていると、やがて目を開けて、
「あら、いつの間に来ていたの? 起こせばいいのに。
 良く来てくれたわね、ありがとう。 
 ここまで来るのに大変だったでしょ? 感謝します」 と言った。



そのうちに廊下があわただしくなった。

複数の看護婦が、隣の部屋と斜め向かいの部屋を機材やワゴンを運びながら行き来している。

ベッドごと、患者が移動したようだ。

母の病室にある機材も持ち出して行った。

どうやら男性患者が危篤状態らしい。

エレベータで大きな機材も運び込まれた。

母の病室から見た斜め向かいの病室とは、つまりはナースステーションの向かいである。
危篤状態になると、患者はこの部屋に移されて特別な処置がされるらしい。

そんな様子を目の当たりに見たのは、母のこれまでの入院生活で初めてかも知れない。

私はすっかりビビッてしまった。



母は、私が買って来たお寿司でさえ、最初から「あまり食べられない」 と言った。

私がご飯をはずして、ネタだけを口に運んであげるが、
歯肉が腫れて入れ歯も合わなくなっているため、うまく噛めない。
結局、寿司はバラバラに解体しなくてはならなかった。

母の舌は荒れていて、白く斑になっている。
この状態では、味覚も変わって来るのだろうか?

ネギトロやイクラ、エビに赤身などをホンの一欠づつ食べた。
プリンも二口だけ。



「早くおうちに帰りたい。 こんなところにいつまでもいたら余計病気になっちゃう」

その一言が、私を一層敏感にさせた。

まもなくして夕飯が運ばれてきたが、
母は今、寿司をつまんだばかりなのでとても食べれる状況ではない。

とりあえず保温のフタだけはずして、そのまま私は病室を出てしまった。



涙が出そうなので病室にはいられなくて私はあちこちを放浪した。

配膳室では食事係と話した。
やはり、お昼もバナナを一口食べただけだったと言う。
リハビリに連れて行くのも、かわいそうだった、と。

玄関ロビーでは4階の婦長に会い、
「自分で考え込まないで、先生を捉まえてドンドン聞かなきゃダメよ」 と言われた。

そして6階の廊下で会った看護婦とも話した。
「家に連れて帰ってもいいんじゃない? 外泊ってことで。 家にも酸素あるんでしょ?
 何かあったらすぐに連れて来るのが条件で。」

そしてちょうど担当医がいたので、いろいろ質問をしてみた。

「母が寂しがって“家に帰りたい”と言っているのですが、どうでしょうか?」

「家に帰ると点滴ができない」

「点滴をしなかった場合は、どうなりますか?」

「そうなると栄養が取り込めないので急激に悪くなります。
 環境が変わって、食べてくれるようになればいいですが」

「急激に、と言うのは具体的にどのくらいの期間ですか? 
 と言っても、一概には言えないとは思いますが・・・1週間とか10日とか?」

「まぁ、そんな感じで」

え? 1週間? 私は自分で言っておいてビックリしてしまった。

「1週間ですか? ・・・ それはちょっと・・・」 

「また考えておいてください」



それから私は屋上に行って、かなり暗くなって来た街を見下ろした。

私が決めるのか・・・ 母の命の打ち切りを。

今までにも
『苦しい思いはできるだけさせないで楽しく過ごせれば、
 多少残りが短くなっても・・・』 と考えてはいたが、
こんなに責任が重大であるとは思わなかったし、
ましてや、おぼろげなイメージでしかなかった母の最期について、
突然に『残り1週間』 と言われても・・・

1週間で何ができよう?
海を見せて、お友達に合わせて、美味しいものを食べさせて・・・



再び、ナースステーションにいる担当医を見つけて話し掛けた。

「もしこのまま入院しているとしたら、今後はどのような治療がありますか?」

「肺の繊維化がかなり進んでいますので、
 このまま治療を続けても以前のようには回復できないと思う。
 食べられなくなっても、胃に穴を開けてチューブを通して、
 そうやって何ヶ月も生き伸びている人もいますが。」

「そういうのは、ちょっと・・・
 どこからが延命治療になるのでしょうか?
 家に連れて帰ることを私が決めてもいいのですか?」

「ご本人の意思表示があれば・・・」

「母は延命はしないで欲しいと以前から言っています」
 
「もう一度ステロイドパルスをやってみますか? 先週もやったのだけど。
 最初は良かったんだけどね。 だんだん薬が効かなくなって来ている」

「いつから始めるのですか?」

「では、明日から」

「それはどのくらいの期間ですか?」

「3〜4日」

「その効果はいつわかりますか?」

「すぐに」

「・・・それでは、その結果をみてまた考えることにします」



さて。

母にとっての幸せとは何か。

私のそばにいること。

そして嫌いな注射はしたくない。



苦しくても、生きていれば

明日は何を話そう?

明日はどんな写真を撮ろう?

明日は何を食べさせよう?

明日は誰に会おう?

明日は何を見よう?

明日はどこに行こう?




ネットにきよしさんという方がいて、ガンのお母さんを自宅で看ていらっしゃった。

やはり最期は自宅で、と危険を覚悟で退院を決めたが、
担架ごと運べる車の手配に時間がかかり、
退院予定のその日の明け方に病院で亡くなってしまった・・・



私はどうする?


2003年04月15日(火) 入院23日目 ( 抗がん剤停止 )

(親戚の面会)

今日はベッドに果物の箱と柏餅があった。

誰かが見舞ってくれたらしい。

「これ、誰にもらったの?」

「さぁ、誰だったかな?」

おそらく、市内の親戚のTさんだろう。

電話をして確認をした。

「私が行ったら、
『誰だっけっか?』 なんて言うもんだから、
『あらあら、自分のところに来てくれた人がわからないんじゃ困るわね』 って、
 看護婦さんに笑われてたよ(笑) やっと誰だかわかったと思ったら、
『○○(出身地)から来てくれたの? 遠いところから良く来てくれたね』 って。
 もう何十年も前から市内に住んでるよ、って言ったんだけどね。
『良くここがわかったね〜』 ってさ。
 娘に聞いたからわかるんだよ、って言ったのさ。
『娘に会ったのかね?』 って言うから、
 会わなくたって電話で聞いたからわかるよ、ってね・・・
 アンタもいろいろ大変だけど、頑張って看てやってね」




(嫁と姑)

隣のベッドの患者さん(70代?)は、寝たきりで点滴状態。
ここ数日、やっと食事ができるようになったが1人では大変なので、
家族(50代の夫婦)が補助に来るようになった。

当然のことながら食事の介助は嫁の役割、その間、息子は談話室でテレビを見て待っている。

それにしても・・・それぞれの家族にはぞれぞれのドラマがある。

まぁ、嫁姑と言うのは、これまでにいろいろとあったのだろうけど・・・

「今までしっかりしていた人なのに、まさかボケるなんて思ってもみなかった。」

「おばあさん、お昼は何を食べた? え? 思い出せない?」

『私はすっかりバカになっちまったねぇ』

「別にバカになったワケじゃない。 忘れただけ」

「おばあさん、どれを食べる? これ? こっち?
 やっぱ、肉にばっかり目が行っちまうかね?
 
 まだ食べる? もういらない? 食べるなら食べるって言ってよ、わからないから。

 ゆっくり食べな、別に急がなくてもいいから。 これも美味しそうじゃん。

 いい味だね、味がしっかりしているから、美味しいじゃん。

 これは? 食べる? いらない? あぁ、そう? おしまい? それじゃ片付けるね」


なんだか、聞いているだけでも切なくなってくる。
お姑さんは、半分ボケていて、言葉も思うように出てこないみたいだ。
そんなにまくし立てられたら、食べられないって・・・

いや、私も同じようなことを母に言ってるのだけどね。
人のこととして聞いているとね。
あぁ、でも私は姑には、ああ言う言い方はできないだろうな。
親にだから言えるのであって。

これまでにいろいろ蓄積したものが、
この時とばかりに噴出してると言うのか、仕返しっぽいような・・・

“あぁあぁ、あんなに威張ってた人が今はこんなになっちゃって、情けない” とでも言いた気で
“早く食事を終わらせて早く帰りたい” と言う気持ちがアリアリで。
もちろん、これはあくまでも他人である私の勝手な解釈なのであって、
当事者にしたら迷惑な話しなのだが・・・

他人に食べさせてもらうって言うのは辛いな、とつくづく思った。

で、今日はそのお嫁さんが来なかったので、母の合間にその姑さんのことも看てあげた。
やはり、平たい皿に盛られたお惣菜を、
片手しか使えない人にスプーンで食べろと言うのは無理がある。

姑さんは、なぜか私のことを「キョウコちゃん」 と呼んでいたが、
私は敢えて訂正もせず話しを合わせていた。




(抗がん剤の停止)

今日の夕飯は4割程度。

食後の薬に、あの臭いサンドミュンがなかった。

抗がん剤は月初から投与されて来た。
(そう言えばエンドキサンはいつの間にかなくなっていた)

医師からの説明がないので状況から勝手に推測するしかないのだが・・・
ステロイドパルス療法もやった、抗がん剤も使ってみた。
でも“期待した効果が得られなかった” と言うことになるのだろう。

つまりは、最初に言われた『効かなければ他にやりようがない』状況ということで。

食欲も体力も落ちているし、
私の姿を見つけた時のリアクションや声の大きさからみても、元気がないし・・・

もう家には戻って来れないのだろうか。


2003年04月14日(月) 入院22日目 ( 病人食 )

母はベッドの上で横になっていたが、掛け布団が乱れていて呼吸も乱れていた。

「今ね、トイレが終わったところなの」

トイレに行くにも命賭け・・・それでも頑張っているらしい。




母は、おかゆ(なぜか)以外は普通食である。

昨日、「歯肉が腫れていて入れ歯が合わないので噛みにくい」と言ったので、

そのことを看護婦に話したら、

「そうなると 『刻み』 になるので、
 食品の形もわからないので食事がつまらなくなってしまいます」 とその時は否定的だった。

確かに、そうだろうな。
タダでさえ食欲がないのだから、形や彩りも大切かも知れない。

しかし今日、同じ看護婦から 「『一口大』 にしてみました」 と報告があった。
『一口大』 = 『刻み』 なのか? それとも 『刻み』 の一歩手前になるのか?



もし、これも食べられなくなれば 『流動食』 となるだろう。
色で楽しむ他はない。

同じ病室のNさんはこれまで 『塩分制限』 の食事だったが、
最近 『流動食』 に変わってしまった。

緑のスープに白い飲み物が2種・・・といった具合である。
液体ばかり3種も出されたって、飲めないような気がするが・・・

そして、それでも摂れない場合には、チューブ食か・・・

以前の入院の時に、同じ病室のおばあちゃん、
寝たきりで食事が来ても起きなくて、看護婦も家族も困っていた。
点滴もしていたけど、数日後にいなくなってた・・・

病院では、新しい患者が入るたびに病室の移動があるのだが、
具合の悪そうだった人はどうなったのだろうか、と気にかかる。



せっかくの 『一口大』 であったが、
母にはシチュー?に入っていた鶏肉がやはり食べられなかった。

結局、今日も1割程度。 おかゆも温野菜もシチューも、みんな一口、二口。
ゼリーは食べやすいし、喉越しが良いためか積極的に完食したが・・・


2003年04月13日(日) 入院21日目 ( トイレとおむつ )

今日で丸3週間。


病室にいた看護婦が私の顔を見るなり言った。

「お母さん、だいぶ弱っているようで、
 トイレ(ポータブル)に立つのもすごく苦しそうで見ているのも辛いので
 おむつに出してもらってもいいし、管を入れてもいいと思ったんですけど・・・」

しかし・・・
例え息苦しくても、母自身が“トイレに行く”と言うのであれば、それを見守っていて欲しい。

今までおむつをしていて “漏らした” ことはあっても “出した” ことはない。
ウンチについては未だかつて漏らした経験さえも、ないのだ。
『これからは、おむつをしたまま出してもいいから』 と言われても、
ベッドに寝たままでおむつになんて、できそうにはない。


自分のこととして考えてみても、
トイレまで行けるのに、寝たままおむつに出せと言われてもできるものではない。

ヘルパー2級の講習の中には、実習として “紙おむつ体験” が入っているらしい。
以前、私の友達のTちゃんから、
この体験については、翌日にレポートを提出するのだと聞いた。
介護する側が、いかにおむつが不快な物かを知り、
『むやみにおむつを使わないように』 するためらしい。

私は、絹江が赤ちゃんの時に紙おむつ体験をしてみたことがあるが、
普通の感覚の人が “おむつに出せ” と言われても、かなり無理があるし、
それは非常に不快なことだ。

看護婦や医師にも、是非、おむつ体験をしていただきたい。
同室の患者を見ていると、
ナースコールをしてから、おむつ交換に来てくれるまでが遅過ぎるし、
事前に便器を差し込んでくれるのを見たことがない。
「おむつにしちゃっていいですから」 ってねぇ、アナタ・・・

管を入れた場合には、それこそ寝たきりとなり、一層筋力も弱り、
車椅子での院内散歩に出るのも大変になるだろう。

看護婦には、母のことを心配していただいてのことでありがたいと思うけど、
やはりここは、『母自身の気持ちに任せていただきたい』 とお願いをした。



またリハビリについても同じ看護婦から、
「あの状態を見れば、車椅子に移るのでさえ息を切らして大変なのだから、
 とても歩けるような状況ではないし、歩く練習などしている場合ではない」 と。



「明日、何時頃にいらっしゃいますか?」 と聞かれた。

『リハビリなんかできるような状況ではないですよ』 と、
看護婦から担当医に話してくれるよう口振りでだったが、
もしかして私から言えということか?
毎日長い時間看ている現場の声の方が、説得力あるだろうに。
しかも、毎日違う看護婦が、みな同じような感想を持つのであって。


それにしても、聞きたいことを整理しておかなくては・・・
またあのN先生の前に進むと固まってしまいそうだ(^_^;)


2003年04月12日(土) 入院20日目 ( 酸素と点滴 )

病室では、やはり酸素を吸っていた。

今日は酸素ボンベを持参した。 院内のお散歩の時に使うつもりで。

しかし、カニューラを持って行くのを忘れたので、
絹江が車椅子で散歩に連れ出す時には、病院のカニューラを抜いて使った。

体調不良で微熱気味の私は、その間、母のベッドに横になっていた(^^ゞ

担当医と話す時間を持つことができたが、いざとなると、何を聞いていいやら・・・


少し動いただけでも、かなり息苦しいみたいで・・・

「はい」

ご飯が少ししか食べられないようなのですが・・・

「今日は栄養剤を点滴します」

あの・・・どうなんでしょうか?

「今日の点滴をしてみないと」

他に何かありますか?

「いや別に」

┐(  ̄〜 ̄)┌

これまでの主治医は、こちらが聞かなくても説明してくれたのだが、
このN先生は、こちらが聞かなくては答えないし、
聞いたところで答えになっていないというか・・・ 良くわからない。


◎ 入院時に言っていた『3〜4日のステロイドパルス療法』は成功したのか?
  
◎ ステロイドパルスが効かなければ他にやりようがない、と言ったが、今はどの段階なのか?

◎ 1〜2週間の入院予定が延びたのはなぜか?

◎ この先の見通しは? 退院できるのか? この先、どのくらい生きられそうか?


リハビリを取り入れていることを考えれば、退院に向けての準備なのかも知れない。

しかし、点滴を辞めて抗がん剤を使用しているのは、
ステロイドが効かないので他の薬で様子を見ているということか。

なんだかわからない・・・ どう聞けばいいのかもわからない。




今日の夕飯は4割程度。

食後に栄養剤「アミノフリード500ml」を点滴。


2003年04月11日(金) 入院19日目 ( 見かねて )

リハビリのI先生がやって来た。

今日は機能訓練室でリハビリをしたそうだ。

その時に、やはり息切れがひどかったので、
I先生から担当医に “動作時に酸素が足りないようです” と言ってくれたらしい。
すると担当医は “足りないようだったら、吸ってもいい” と答えたそうだが・・・

そもそも、担当医は、母の動作時の苦しんでいる様子を見たことがあるのか?

吸えって言ったって、それじゃ、何リットル吸えばいいんだ?

起き上がる時、ポータブルトイレに立つ時などで息切れがしたら、
すぐに看護婦がやって来て対応してくれるのか? そうは思えないが。

車椅子で散歩する時は、どうすればいいんだ?
ボンベ付きの車椅子を貸してくれるのか? 常に用意しておいてくれるのか?

あてにならん。 
使いたい時に病院用を借りれないのは不便だし、
とりあえず明日はうちから酸素ボンベを持って行くか。



 * * * * *



先日のこと。

アルバムを見ていた母が、
「あ、これがレフティーさんのお父さんとお母さんだってぇ。 おまえ、知ってる?」

知らないワケがないだろう・・・(-_-;)



 * * * * *



今日の夕食は2割。

運ばれた瞬間から 「私はこんなに食べられない」 と言うのは辞めてくれ。
夕食に付き合うのが鬱になって来た。

今日も昼を食べていないらしい。

無理に食べさせようとすると 「吐き気がする」 と言う。

これで栄養は足りているのか? 点滴で補うとか。 このままでは不安だ。

「母の好きな物、例えば、おはぎとかを持って来てもいいですか?」

「そうだね〜持って来てみる? 他にも飲む物とかあるからね。 先生にも言ってみるね」


2003年04月10日(木) 入院18日目 ( 自分の時間 )

今日は絹江とレフティーを送り出した後、洗い物も洗濯もせずにネットをしていたら眠くなった。

で、せっかくのお天気なのに、体が欲している通りに寝ることにした。

電話で起きたのが12時半。

家事が気になるけどやりたくないので、お得意の逃避。

つまりは温泉。

クシャクシャの髪ととりあえず洗った顔でタクシーに乗り込む。

春休みも終わったし、平日の昼間だし、スパは空いていた。

で、まったり。

ついでにリフレクソロジー20分。

あぁ、極楽。

で、ペットボトルのお茶を飲みながら、ケータイでタクシー呼んで。

病院到着4時30分。

のんたのお姑さんに会ったので、立ち話を約10分。 途中、担当医が通過。

今日はみんなのカーテンが開いていたので、廊下側の母のベッドも明るさを確保できていた。

今日は、先生の都合でリハビリはお休みだったらしい。

で、車椅子に乗せて連れまわす。

今日はカメラ持参。

処方箋FAX担当のお姉さんとツーショット。

ロビーでテレビを見ている担当医を発見。

「お散歩に来ました〜」 と声を掛けると、
母が首にかけたカメラを手に「先生の写真、撮る?」 と私に聞いた。

私からはとても言えないな、と思っていたので“これはチャンス” と思いきや、
「私は写真は結構・・・」 と 逃げて行ってしまった。 残念。

次に、昨日の内科の看護婦を見つけたのでツーショット。

その後、病室に戻る。

すぐに夕食。

今日は2割程度しか食べられない。

9コの薬を飲むためには、コップ一杯分の水も飲まねばならない。

体重計を借りて来て計ってみると、38kgを切っていた。

看護婦が、他の患者のおむつ交換をするために開けた窓からの風が冷たい。

今日はレフティーの仕事が遅くなるので、お迎えはなし。

病院玄関前のタクシーに乗り込む。

途中、タクシーを待たせて、近所のスーパーで買い物。

絹江が買って来たプリン大福?を食べる。

朝から放置していた食器などを洗う。

夕飯を作る。

しいたけ・たけのこ・人参・こんにゃくの炒め煮と生野菜サラダと牛肉。

今日のツーショットをさっそくプリント。

今日は自分を大事にしたし、ご飯も作った(当たり前だが我が家は違う)。

あぁ、満足。

あとは、サッとお風呂に入って早寝するだけ。


2003年04月09日(水) 入院17日目 ( 散歩 )

私が病室に着くと同時に、リハビリのI先生がやって来た。

母はやはり起き上がるだけで息が苦しい・胸が切ないと言って、
ベッドにもたれかかり横になろうとしてしまう。

靴を履かせたら、
「もう帰っても(退院しても)いいって?」 と聞いてきた(-_-;)

廊下に広げた車椅子までの3mを、先生と私に手を引かれてヨタヨタと歩いた。
母はそれだけで、フルマラソンを走りぬいた選手のように息も絶え絶えとしていた。

I先生が、持って来たパルスオキシメータで計ってみると、
酸素濃度は78%、5分ぐらいでなんとか85%まで上がった。

I先生の話では、
看護婦から『リハビリはここ(病棟)でやって欲しい』と言われたので、
機能訓練室には行っていないらしい。

「(このような状況にあって)
 N先生が酸素吸入を辞めたという意図がわからない」と言っていた。


昨日、レフティーともその話しをした。

治るものなら多少無理をしても構わないが、
治らないとわかっているのなら、できるだけ苦痛のないようにしてあげたい。

楽になるなら酸素を吸入すれば良いし、
酸素を吸っていれば、今まで通りに車椅子でお散歩ができるかも知れない。
寂しいなら自宅に戻れば良いし、
食欲がないなら、食べたいものをあげれば良い、と素人は思う。



リハビリの後 「うんちが出る」 と言うので、
立ち上げるついでに車椅子に乗せてトイレまで連れて行った。
ポータブルよりウォシュレット。

そして、そのままゼイゼイしている母を連れ回した。
娘だからできることだろうな(^_^;)



公衆電話に、すぐ近所のご主人Sさん(60代)がいた。

「私は昨日、低血糖のため救急車で運ばれてきたんです」

「それでは、おうちに奥さんがお1人では大変ですね」

私はSさんが引っ越してきて以来、
大声で奥さんを怒鳴っているのをたびたび聞いていたので、
長いこと“怖いご主人”だと思っていたが、
以前、奥さんが痴呆だと言う話しを聞いて謎が解けた。
“あぁそうか、うちも傍から見たら、あんな感じに見えるんだ”と思った。

「うちも家内があんなですからね・・・でも家内がいたから助かったんです」

夫婦愛の再確認ができたことだろう。

「お母さん、ずいぶん痩せましたね。どうしたんですか?」

「うちは肺炎なんですけどね」 と話し始めた。

「それは、どうすれば治るんですか?」

「いえ、もう治らないんです・・・」

そうだ、治らないんだ・・・
今の治療も、病気の進行を少しだけ遅らせることができる“かも知れない”
というようなものである。



Sさんと別れてエレベータに乗り、
5時を過ぎて誰もいなくなった外来を宛てもなく散歩。

処方箋のFAXを送る係りのお姉さんと少し話した。
FAXの隣には身障者用の広いトイレがあり、
私たち親子は、ここの担当の女性3人とは話す機会が多い。

窓から外の景色を見ていたら、車椅子の患者を整形に移動中の看護婦に
「あら、入院していたの?」 と声を掛けてもらった。
日本的な涼しげな目をしたおとなしそうな看護婦で、
積極的な話し掛けをするようなタイプには見えなかったので、うれしかった。

次に内科の看護婦を見かけたので 「こんにちは〜 ただ今お散歩中〜」 と言うと、

「調子はどう? ・・・あら? 酸素は?」 と、やはり疑問のようであった。

「でも頑張ってるわね〜 外来に来てもいつも笑ってるでしょう?
 自宅で看るのは毎日大変だと思うのに、全然そんな感じがしなくて。
 普通、みんな途中で投げ出して施設に入れちゃうのに・・・」

「うち、お金がないんです(^^ゞ 母を施設に入れたら私たちはテント生活ですよ(笑)」

「うん、確かにそれもあるけど・・・ あなたも無理しないで」

「私でなきゃダメなことだけ私がやって、あとはテキトーに家族に回してますので(^^ゞ」

「ずっと付いてるの?」

「夕方の2,3時間だけです」

「でもどう? 少しは眠れるようになった?」

「はい、おかげさまで寝ています」

この看護婦さんと、こんなに話したのは初めてだった。
診察時の様子や「セキがうるさくて眠れない」発言を覚えていてくれたなんて。

普段の外来での看護婦はみんな多忙だし、どの人も事務的に見える。
ただ医師の指示に従って、医療用具を運んだり注射をしたりするだけだと思っていた。
医師と患者のやり取りなど、関心を持って聞いているなんて思っていなかった。

そんなワケで、今日はちょっとうれしかった。

K先生に毎回愛を告白する患者と歳の離れた娘。
まぁそれだけで私たちは強烈な印象なのかも知れないが・・・(^_^;)



 * * * * *



今日も夕飯がちっとも進まない。
丼に入ったおかゆを見るだけで 「こんなに食べられない」 と言う。

今夜は、なすのあんかけとゆでキャベツ、焼いたサバのおろし添えと缶詰の白桃。

サバが出たのはこれが2回目。 たまにアレルギーが出ると書いたんだけどな(-_-;)

母は、キョロキョロとおかずを見回すばかり。
もう仕方なく、強制的に私が口に運んで、やっと8割だった。
回って来た看護婦の話しでは、お昼も食べなかったらしい。


2003年04月08日(火) 入院16日目 ( 2週間延長 )

今日はレントゲンとリハビリがあったらしいが、やはり移動するだけで息苦しいらしい。

夕方、病室にもリハビリのI先生が来て、廊下で歩く練習をしたけれど、
ほんの3メートルぐらいがやっとだった。



今日は義兄からメールが来て、
昼間、近所に仕事に来たついでに病院に寄ってくれたらしい。
義兄は、ライフスコープも酸素も点滴もはずれていたのを見て
「元気そうだった」とのことだったが、実はそうでもない・・・



担当医に会いたいと看護婦に申し出たら、すぐに病室まで来てくれた。
へぇ、言えば来てくれるものなのか・・・つまり言わなければ、来ない、と。
まぁ、忙しいのはわかるけど、入院以来、話しを聞いていなかった。
(先日会ったのは、主治医)

「今は、強い薬を使っていますので、血液検査などを定期的にやって、
 副作用に注意しながら治療しています。
 ステロイドは、現在15mgですが、今後減らして行く予定です。
 酸素は、状態が良ければこのまま、自宅に戻っても使わなくて良いと思います。」

「入院の予定は、あとどのくらいでしょうか? ・・・経過にもよると思いますが」

「あと2週間ぐらいは」



しかし・・・このN医師の今回の“酸素をはずす”ことについては、
看護婦たちも疑問に思っているようなのである。

普通にベッドに寝ている分には落ち着いているので何の問題もないが、
移動の際、ちょっと立った程度でもすぐに息が切れて、
動脈血酸素濃度が90%を切ってしまうので、車椅子にはやはりボンベを積んで行くらしい。

毎日のリハビリも、とても“歩く練習”までには至らず、
行ってすぐに戻ってくるだけなので、付き添いの必要はない、と。

「それでも先生がリハビリを組んでいるのは、
“自宅に戻った時にトイレぐらいは行けるように”ということで、
 とても普通に外を歩けるようになると言うわけには行きません。もう、ホント、ね・・・」 
顔の表情からは察するに、その先に言わんとするのは、
『あの状態で生きていられる方が不思議』



私はそんな母を連れ出して、外来を散歩しながら整形にたどりつき、
最後の患者さんが終わったところだったので、顔出しをしてみたが、
ここでもやはり 「酸素をはずして大丈夫なの?」 と疑問視していた。
また、その場で入院患者情報を検索して、母の使用中の薬などをチェックし、
エンドキサンとサンドミュンは主に抗がん剤として使われるものだと教えてもらった。
抗がん剤は、がん以外の治療にも使われているらしい。

「強い薬を使ってるね〜 しかし、効くのかねぇ・・・」 (-_-;)



明日は朝5時に血液検査があるらしい。
母が心配性なのを知っているなら 『予告』 はしなくてもいいのに・・・
以前に「予告」をしたら、夜間の寝つきが悪かったらしいのだ。




「おまえたち、この間はどこに泊まったの?」 と聞いてきた。(-_-;)

「おうちにいるよ。
 絹江も学校があるんだし、泊りに行ってる場合じゃないよ。」 と笑ったが、
やはり、1人引き離されていることが不安で仕方ないらしい・・・

「おまえたちが私を置いてどこかへ逃げちゃったと思ったけど、嘘? 夢だったのかしら・・・」




市内に住んでいる親戚に、入院していることを連絡した。
既に半月が経過しているのを知って 「すぐに言ってくれればいいのに」 と
近いうちに面会に来てくれるとのことだった。



帰宅して熱を計ってみたら、37.2度だった。ヽ( ′ー`)ノ
今日は早く寝ることにしよう、っと。


2003年04月07日(月) 入院15日目 ( 入学式 )

今日からは、機能訓練室でリハビリをすることになっていたが、
私は絹江の入学式が午後からのため、3時に間に合わないかも知れないので、
昨日のうちに洋服と靴を紙袋に準備して、その場にいた看護婦にお願いをして、
さらにベッドテーブルにメモを残してきた。


案の定、入学式の後のPTAの集まりや玄関前での記念撮影などで長引き、
その上、帰りに呑気にお茶をしていたため、病院に着いたのは6時近くになってしまった。

病室にいた看護婦の話しでは、
リハビリには行ったものの、やはり息切れがして早々と戻って来たとのことだった。
そして今日も、ママが来るのが遅いと寂しがっていたらしかった。
もう少し早く行ってあげなくてはね・・・
私も、この時とばかりに毎日お友達と遊んでいるからなぁ。(^^ゞ


母は最近「早くおうちに帰りたい。 ママと一緒に帰りたい」 と言うようになった。
セキが出て苦しい時以外は本人に病気の自覚がないので、寂しい気持ちもわかる・・・


今日の夕飯はそれでもなんとか8割程度食べることができた。
入院以来計っていないが、体重が気になる。



 * * * * *


看護婦への差し入れは「一切お断り」とナースステーションの入り口には貼り紙があるけど、
いろいろ聞くと、みんなこっそりとやっているらしい。

うちはこれまで2年間で6回の入院で一度も差し入れをしたことはなかったが、
やはり痴呆も含め、手数がかかるようになったこともあり、
先日、義姉にも言われたので私も考えるようになった。

義姉が面会に来てくれた日に、いただいたカステラを初めて差し入れた。
そして今日は「内祝い」との名目で和菓子をレフティーに買って来てもらって渡した。

義姉のお父さんが入院していた病院では、患者から差し入れがあると、
それをもらった看護婦が他の患者にも聞こえるように大きな声で、
「○○さんからメロンをいただきました〜」と、
メロンをかざして廊下を練り歩いていたのだそうだ。┐(  ̄〜 ̄)┌
あからさまにそんなことをされるのでは、差し入れをせよと言わんばかりではないか・・・


2003年04月06日(日) 入院14日目 ( 院内一周 )

今朝は、レフティーのケータイの目覚まし(タイガーマスク)が鳴った後、
また別のベルが鳴り出した。

いつまで鳴らしてんだ? 早く止めろよ〜

「誰? この目覚まし掛けた人?(-_-;) 」 と、不機嫌な私が言うとレフティーも絹江も揃って
「目覚ましじゃないよ、電話」だと言った。

電話? なら出ろよ。 早朝? 何時だ? 病院から? ドキドキドキドキ・・・

ピアノの上に置いた子機を取ると、ネームディスプレイには番号だけだった。
病院なら番号登録してあるから、他からのようだが・・・

「もしもし? ○さんのお宅ですか?」

「はい?」

「私、Fと言いますけど、お母さんの友達の」

「あぁ、はい」

「もう1人のお友達のTさんとも話してたんですけど、お母さんはお元気ですか?」

「あぁ、入院しています。 あまり良くないんですけど」

「どこの病院ですか?」

「○×病院です」

「何階ですか?」

「×階ですが」

「あぁ、そうですか。 私、行けないかも知れませんが、よろしくおっしゃってください」


はぁ? 

そんなことで、こんな時間から電話掛けて来るな、つーの!
ビックリするだろうが!
そりゃ、入院していることなど知らないから仕方ないけど。
とは言っても7時なんですけどね・・・(^^ゞ
でも我が家にとっては、まだ早朝なの!
普通の人は、こんな時間に電話なんか掛けて来ないってば!
小学生の時に“10時前に友達を誘ってはイケマセン”って習ったでしょ?
ったくもう!
こういう時間に掛けるのは、やむを得ずの場合だけ。つまり危篤の知らせだって。
(遠足が中止になったとかの連絡もあるか・・・)

母の心配をしてくれるのは、もちろんありがたいことなのだけど。
このFさんというのは、それほど親しい間柄のわけではなく、
この1年近くは行き来も電話もなかったので・・・


 * * * * *


とうとう入院予定の2週間が過ぎてしまった。
未だに現在の担当医とは会えていない。
あとどのくらい入院するのだろう?



今日は車椅子を持って行ったので、夕食の前に院内を散歩することにした。

ところが、フリースのベストを着せて靴下を穿かせて車椅子に移乗するだけで息切れがして、
同じ病室で他の患者さんを看ていた看護婦も、心配そうにこちらを見ていた。
これじゃなんだか、病人のためではなく、単に私の自己満足にしか見えない。(-_-;)

それでも、気分が変わるかも知れないと強行した。

まずは上の階の食堂へ。
でも、ここからだと、街の桜も車椅子の母には見えにくい。

やはり、屋上へ。
寒いかな? いや、大丈夫そうだ。

「寒〜い」 と母が言ったが、ホンの2,3分だけ、お願い。 満開の桜を見ようよ。

この病院の屋上からは「下界」と呼びたくなるような街が一望できるのだ。
こんな素晴らしい景色は、ここに入院しているものの特権のようなものだ。

遠くには海。
こちらには山。
あちらこちらにモコモコしているピンク色、あれが桜。
ホテルやマンション、庭付きの一戸建て。
線路をなぞる電車も道路の車も、まるでおもちゃのようだ。

5時を過ぎて、街の半分が日陰に入っている。
そのコントラストも絵に描いたようだ。
そこで、下界の写真を撮った。

そして海を背景に母の写真を撮った。
はしゃいでいるのは私ばかりで、母は寒いし息苦しいしで、まったく楽しめていなかったが、
それでもカメラを構えると、反射的にピースサインを出していた。( ̄m ̄)


その後、屋内に入り、今度は外来の方へ行って見ることにした。

今日は日曜日で外来は休診なので照明が消されていた。

身障者用トイレに入ることにした。
入院以来、お風呂に入っていないので、ウォシュレットで洗浄してあげたかった。
外来のトイレは、車椅子のまま入っても充分な広さがあり、病棟よりもキレイなのだ。

その後、整形外科の診察室の方まで散歩したが、ここで母が「トイレに行きたい」 と言い出した。

はぁ? 今、行った時には「出ない」 って言ったじゃん(-_-;)
もしかして、ウォシュレットに刺激されたのかな?(^^ゞ

それにしても、動くたびの息苦しさは以前に増してひどく、
数秒立っているのがしんどい状態なのである・・・
お尻を何度か拭いている間にも
「早く・・・早く。 もう、いい?」 と座りたがる。

これまでは、多少息苦しくても
「お買い物に行くよ? 行かないの?」 と言えば、喜んで 「行くさぁ♪」 と答えていたが、
今日はどうにも 「早くおうちに帰って寝たい」 と言うのだった。

リハビリが必要なのであれば、まずは気持ちから変えていかなければならない。
どのように誘えば、お散歩に行きたくなるか・・・ 
ここはやはり、おやつを買いに行くってことかな?
母はゼリー飲料が好きなので、それを買いに 「売店まで行こう」 とか。

病室に戻ると、看護婦が 「どうだった? 桜は見れた?」 と聞いて来た。
母は、そんな問いかけに返事をする余裕もなくて、サッサとベッドに横になってしまった。

やっと暖かくなって来たというのに、これでは退院してからも外出がかなり難しくなるだろう。
看護婦も 「入院するたびに弱っていますね」 と言った。



最近、私は日記を書くために深夜まで起きているのだが・・・
何故に数時間もかかってしまうのか・・・

明日は、ってか今日は、絹江の入学式である。
午後からで良かった。(^_^;)


2003年04月05日(土) 入院13日目 ( ゆきっちと初めてのツーショット )

今日はゆきっちの車で病院に行った。

病院に着いたのが6時過ぎだったので、すでに夕食が始まっていた。
母は、焼き魚を自分でほぐして、おかゆの中に混ぜ込んで食べていた。

看護婦が、母が私が来るのを待ち遠しくしていた様子を話してくれた。

看護婦には、
「もし私の来るのが遅れて、母が私のことを聞いてきたら
『今日は○時に来るって言っていたよ』など、
 嘘でもいいから具体的に答えておいて欲しい」 と頼んである。

幸い、母は痴呆であり、聞いてもすぐに忘れてしまうのだが、
その場の不安だけはぬぐってあげたいと思う。



いつもは洗濯物が紙袋に入っているのだが、
今日は昨日のパジャマのまま、着替えをしていなかった。

そう言えば、昨日はパジャマのボタンがすべてはずれたままだったが・・・
いつも自分で着替えをしているのだろうか?
看護婦が着替えるようにと言うのだろうか?

花冷えで昨日よりもまた寒い感じがしたので、厚手のパジャマに着替えた。

そのついでにトイレも済ませた。
そう、昨日はポータブルトイレの便座カバーを持って行ったのだが、あれは良かったと思う。
うちではウォシュレットを使っているので、便座に座るたびに冷たいと言っていたから。

それから今日も、ゴミ箱にお湯を汲んで来て足湯をしてあげた。

着替えとトイレと足湯だけで、息が苦しくなり鼻水も出て大変だった。
ところがアルバムを見せたらすぐに止まった。 不思議だ。



そこで、ふと重要なことに気付いた。
毎週のように会っているゆきっちなのに、母とのツーショットが1枚もなかった。
全然気が付かなかった(^_^;) さっそく数枚撮ってみた。

食事の後、入れ歯は看護婦に預かってもらうのだけど(紛失防止)
写真を撮る時には、やっぱりあった方が良いな・・・


2003年04月04日(金) 入院12日目 ( リハビリ )

タクシーの中から通り過ぎる景色に見る満開の桜・・・



今日は絹江も一緒だった。
「あら、絹ちゃんも来てくれたの?(^▽^)v」

絹江は、たった今、取って来たばかりの制服を広げて見せたが、
「何の制服? 会社の制服?」 などと言って、
絹江の進学についてまったく理解していなかった(^_^;)

まぁいい。
母は、こっちの方が喜ぶだろう。
昨日の主治医のK先生とのツーショットをアルバムに追加してあげた。

「あ〜 K先生だぁ。この先生、いい先生だよね♪」



隣の患者さんに、今日もリハビリのI先生(理学療法士?)がやって来た。
20代後半ぐらいか?

「はい、○○さん、今日は少し立つ練習をしてみようかぁ!」と元気良く来るのだけど、
当の○○さんは、「ううん、いい。 今日は疲れたから」 などと断ることが多い。
「え? 疲れたの? 何にもしてないじゃん(^_^;)」
「昨日、お風呂入ったから」
「あぁ、お風呂ね・・・でも、それって昨日じゃん。 今日はまだ何もしてないよ?(-_-;)」
「でもいいの。 ありがとね、また今度」
「え? いいの? ずいぶんアッサリだなぁ(^_^;) そう? やらない? それじゃ、また明日ね」と、
彼もまたアッサリと引き上げていくのだった。


次に振り返って母を見た。

「はい、○さん、今日からリハビリをしますよ〜♪」
「リハビリ?」
「体操の先生だって」
「あぁ、そう」
「じゃぁ、ちょっと起きて、こっちに脚を下ろしてみようか」
「え? 何するの? エホエホ・・・」
「じゃぁ、靴を履いて立ってみようか」 ここで靴下と靴を履かせる。
「少しこのまま座っていられるかな?」
「え? エホエホ・・・ 座って? ここにつかまっていればいいの? エホエホ」
「ううん、つかまらないで、座っていられる?」
「はぁ・・・なんだか・・・せつない・・・息が・・・エホエホ・・・もうダメ・・・」

母はそのままズルズルと、ベッドに斜めに寝転んでしまった。

「はぁ・・・せつなくて・・・とても体操どころじゃ・・・ない・・よぉ」

「桜の花見に行かなくちゃ。 温泉にも行くんでしょう?」 と言ってみたが、

「花見どころじゃないよ、苦しくて・・・」 といつになく乗って来なかった。

ベッドに背もたれがなくては、とても座っていられず、
そんな状況では、到底立って歩くなどできそうにない。

「家の中ではどんなでしたか? ひとりで歩けましたか? 手すりとか? 杖とか?」

うちは狭くて壁には家具があり、手すりを付けられるところがない。
はぁ、しかし、杖と言うのは室内でも使うのか・・・ 考えたことがなかったな。

「先生はなんとおっしゃっていましたか?」

生きているのが不思議なくらいだと(^_^;)

痴呆もあるし、今はできるだけ毎日が楽しく過ごせるように不安なことがないようにケアしている。

「あ、先生、母とのツーショットを撮らせていただいてもいいですか?」

「あ、いいですよ(^_^;) なんか、ここにもK先生の写真が・・・」

息を切らしながらも、しっかりピースサインをしている母を見て先生が笑っていた。
これでまた母のコレクションがひとつ増えた。

「今度は若い先生だからね、かわいいパジャマを着なくっちゃ♪」

「あははぁ♪ よろしくお願いします(^▽^)v この子もよろしくね♪ こっちが娘、こっちが孫」



 * * * * *


余談。

そう言えば、先日も孫に間違えられたなぁ。
隣の○○さんが
「毎日ご苦労様。 いいですね、優しいお孫さんで」 と言ったのを、
「娘です」 と返したら、カーテンの向こうでおむつ交換をしていた看護婦が
「え?! 娘さんだったんですか? ずっとお孫さんだと思ってました!」と飛び出して来た(^_^;)
カルテをちゃんと見てるのかな? 
間違えられるのは毎度のことだけど。

孫ばかりが世話をしているとしたら、余程特殊な家庭じゃないか(笑)
私が高校生の頃は、近所の人に「おばあちゃんとお孫さんが住んでいる」って思われていたが、
思えば、私が歳の離れた母親を『お母さん』と呼ばなかったのもいけなかった。


 * * * * *


絹江は売店で買ったおにぎりを持って、春休みの宿題をやるために食堂に行ってしまった。

母には絵合わせパズルをやらせた。
20ピースはむずかしいので、
何をどこに置くのかを、絵の裏側と台紙に数字を書いてあげたら、さすがにできあがるのが早い。
そのうちに絵を覚えてくれば、数字を見なくてもできるようになるだろう。

パズルの2回目が終わる頃、食事が運ばれて来た。
食べる前から 「もう、おなかがいっぱい。 食べられない」 と言ったのには驚いた。
おかゆもおかずも、器ごと、まだかなり熱かった。
豆腐のハンバーグに金糸卵とゆでキャベツ、大根としいたけとタケノコの煮物。
少しづつ食べたが、やはりすぐに「いらない」と言った。

私の苦手な看護婦が、カーテンの向こうで他の患者さんの世話をしながら、
「ダメですよ、ちゃんと食べないと、お薬が飲めませんからね!」と言ったので、
母は姿の見えない声にビックリしていた。

でも結局、今日は3割程度しか食べられなかった。

動かないので食べられないのだと言う。 確かに。
これからは、夕食前に車椅子での散歩をして様子を見よう。

リハビリのI先生からは、
「ベッドの上でもできるだけ体を起こしているように」
「車椅子で院内を散歩するのも良いと思います」 とのことだったし。

とにかく痩せた。
入院後、体重を計っていないが、太ももも、すねもホントに細くなってしまった。
万年妊娠6ヶ月のような下腹も、今はペッタンコになってしまった。
食べなくては、セキこんだ時の体力消耗に追いつかなくなってしまう。


2003年04月03日(木) 入院11日目 ( 主治医との5分 )

今日はTちゃんがヘルパー講習で使ったのと同じテキスト、
「ホームヘルパー養成研修テキスト2級課程」を持って来てくれることになっていた。

Tちゃんの到着より少し前にたまたま来たのらさんが、
Tちゃんの妹さんと知り合いだったことから3人でにぎやかにランチをした。
『女3人寄ればかしましい』と言うが(古)、なんと3時間、まったり過ごした。



4時、のらさんと別れて私はTちゃんの車で病院へ。

Tちゃんは、今日も母を見舞ってくれた。

先日いただいたバスケットのお花も、病院のエアコンで一部が枯れてしまったが、
カーネーションは丈夫で、ピンクの花びらもキレイな色を保っていた。

母の今日の第一声は 「あらぁ・・・良くここがわかったわねぇ」
これには返事のしようがなかった。

母がなんだかすっきりとした顔をしているな、と思ったら、酸素のカニューラをしていなかった。
カニューラはキチンと片付いていたが、母が勝手にはずしたのかも知れず、
すぐにナースステーションに確認をしに行った。

「今日は酸素をお休みしているんです。
 靴を持って来てください、って言うのは、もう聞きましたか?
 あ、あります? 今後、リハビリをするので。」

酸素なし? リハビリ? 歩かせるの??? 歩けるの???
着替えの時でさえ、ホンの10秒立っているのがやっとなのに?
まぁ、医者がそう言うならリハビリとしてやらなきゃホントに歩けなくなるんだろうけどね。

担当医が代わると考え方も違うのだろうけど、酸素を辞めると言うのにはちょっとビックリした。

ついでに「先生にお会いしたいのですが」と言った。 今日こそは話しを聞きたい。
「担当のN先生は、今日はいらっしゃらないので・・・」
「それでしたら、これまで外来で看ていただいたK先生に・・・」
「では、ちょっと聞いてみますね」

その2,3分後、早くも主治医であるK先生が病室にやって来た。
当然、母は大喜びである。

「ヾ(≧∇≦)ノ 先生〜♪」

「はいはい、こんにちは。 具合はどうですか?」 

ハイテンションの母にはおそらく聞こえていない。

聴診器を当ててくれたが、おそらく心拍が上がっていただろう(^_^;)

「先生〜♪ 好きよ〜♪ 今度一緒に寝よう♪ 今度一緒に住もう♪」 ヾ( ̄。 ̄;)

以前に撮らせていただいたK先生の写真は首下げホルダーに入れてある。
それを手渡してあげると、さっそく首にかけた。

母とのツーショットはまだなかったのでお願いしてみたら、
快くササッと母のベッドの脇にしゃがんでくれた。 さすがだ。
母はその先生の左腕に巻きついて、うれしそうだった。
母の満足そうなツーショットが撮れた。
さっそくプリントして明日、持って行ってあげよう。

「センセー♪ また来て〜♪」

「はいはい、ではまた来週。
 あ、来週はもう退院しているかもね〜 
 もし退院していなかったら、来週またここで会いましょう(笑)」

病室を出て先生と少し話した。

「(幻覚を見たと言うのは)熱があったからでしょうね。
 お母さんの肺は、
 初めての人が見れば“あれで良く生きているな”というほどボロボロなんです。
 でも、私が最初に見た時(2年前)からあまり変わっていませんのでね。
 それだけ強いってことでしょう。
 だけど、今回のように熱が出るなどの感染があると、一気に悪くなってしまいますからね。
 (入院の時に延命について聞かれたというのは)それだけ危険な状態だったと言うことでしょう。
 私は木曜日にしかいませんので、
 わからないことがあったら他の先生に何でも遠慮なく聞いてください。
 自宅に帰ったら、また酸素に戻るとは思いますけど。」

K先生の話しが、私を納得させるものであったとは言い切れないのだが、
今の私には主治医と話しができたというだけで充分だった。 

なんと言うのかな、コミュニケーション?

ホンの5分程度のやり取りで、私たち母娘は救われたような気持ちになれる。
担当の患者もうちだけじゃないのだし、
5分と言っても積もり積もれば大きな時間になるのだけど、
やはり、こう言うコミュニケーションは一番うれしい。


2003年04月02日(水) 入院10日目 ( 病室の他の患者さん )

今日も担当医には会えなかった。
MRIの結果はどうだったんだろうか・・・

母は今日も落ち着いていた。
病院での生活に慣れてきたということか。



今日は同じ病室に新しい患者さんが入っていた。

ナースステーションのすぐ隣のこの病室は、元々は6人部屋らしいが、
2人分のスペースには機材等が置かれているので実際のベッドは4つである。



母の隣の人はほとんど白髪で、80後半だろうか・・・
上品な言葉遣いからすると、それなりのお育ちなのだろう。
病院にいて、歩くこともできず、楽しみは食事だけだと言うのだが、
塩分制限を受けているので、大好きな梅干も許可されているのは1日1個だけで
おせんべいもダメ。
食事には塩・しょうゆの味付けができないので「何も味がしない」と寂しそうだ。



その向こうの窓際に、新しい患者さん。
しかし、カーテンで仕切られているので年齢もわからない。
ライフスコープのアラームが常にピンポンピンポンと鳴っていてうるさく感じた。
きっと母がライフスコープをつないでいた時には、
母が動くたびにアラームが鳴っていたので他の患者さんはうるさかったことだろう。
看護婦や医師が何度か出入りして話しをしている声を聞く限りは、5〜60代か? 



その向かいには、銀行のお客さんのお母さん、体の大きな推定70台。
東北っぽいなまりがあり、言葉も少なく単語なので、聞き取りが難しい。
「骨折を放置していたのが原因で歩くと痛むので、もう3〜5年歩いていない」と
息子(おそらく50代)が看護婦に説明していた。
毎日の夕飯時、上体を起こしているのも大変そうで片側にもたれかかり、食事も進まない。
看護婦が食べさせてくれるわけでもなく、寝たいのにベッドは立てられたままで・・・
食事の介助をすべきか、ベッドを倒してあげるべきか・・・
しかし、私はこの数日間、迷いながらも何もせずにいた。

でも、今日は食べるのを手伝うことにした。
先日、息子さんが帰ったすぐ後で食事を運んできた人が、
「あら、帰っちゃったの? これから食事だって言うのに・・・」と
漏らしていたのを聞いたのも引っかかっていた。
いつもちょっとだけしか食べていなかったが、
食べるのが大変なので、疲れて辞めちゃっているんじゃないかとも思えた。

まず、スプーンを取るのでさえ、置かれた食器の向こう側にあって、
手前の食器を倒しかねない状況にあった。
食事を運ぶ人は、せめてスプーンぐらい、手渡してあげれば良いのにと思った。

見ると重湯に、豆腐のあんかけ、ホットミルクに、オレンジゼリーだった。
野菜は、なかった。 噛むものがなかった。

スプーンで、豆腐を少しづつすくってあげたが、あの淵の浅い食器では、
最初は良いが、その後、片手ですくうのは困難だと思った。
こういう場合私たちは、左手で食器を持って傾けている。

重湯にしても、スプーンですくって口まで運ぶにはベッドテーブルが遠い。
やはり、両手が使えなくては食事は無理だ。

スープ用のカップに入ったホットミルクにしても1人では飲めそうにない。

私が食事の手伝いをしているところに看護婦が来て交代したが、
結局は1分もしないうちに放置されてしまい、私が再び介助した。

お豆腐全部と、重湯を5口くらいと、ゼリーを全部。
ホットミルクは「いらない、まずい」と言った。

それにしても、私がそういう状況になった時、
食べたいのに人の手を借りないと食べられない・・・となると、
「食べさせてくれ〜」とも言いにくく、結局は諦めてしまいそうだ。
なんだか切なかった。
病院側も『完全看護』と言うのなら、動けない人にはちゃんと食べさせて欲しい。
人手が足りないのなら、食事介助要員を募るとか、家族に来てくれと言うとか。

前の入院の時にもそうだったな・・・
忙しいし、何十人も抱えているって言うのはわかるんだけど、
一口食べさせると他に行ってしまう。
もしくは急かす。
あるいは、キレる・・・



1日3時間程度、母の付き添いをしていると、いろいろ見えてきます・・・


2003年04月01日(火) 入院9日目 ( 点滴終了 )

病室が何だか広くなったような気がしたと思ったら、
ライフスコープがなくなっていた。
酸素のカニューラだけが母につながっていた。

心電図がなくなったので、パジャマの着替えも自由にできるようになり、
指の洗濯バサミ(動脈血酸素飽和度)がなくなって、お茶碗を持つ手も安定するようになった。
ライフスコープときたら、動くたびに警報がピンポンピンポンと鳴り響き、
心電図の波長が乱れたり、心拍数が上がったりするのを目で確認してしまうので、
どうしても神経質にならざるを得なかったのだが・・・

そう言えば、点滴スタンドもない。
夕食前、看護婦が手首に刺したままの針を回収に来た。
(最近は点滴の度に針を刺すのではなくて、
 最初に刺した針をそのまま手首に固定して、点滴チューブに接続する方法らしい)
「もう、点滴は終わりですからね〜」
ってことは、これでステロイドパルス療法が一段落着いたのか。

テーブルの上にメモ書きがあった。
「明日は11:15から胸部MRI検査をします」

先週は血液検査もしたし、明日の結果と合わせて、今後の診療方針が決まるのだろう。

薬は効いているのか? 退院できるのか? どうなんだよっ?

ベッドからポータブルトイレまでの移動でさえ、ものすごく息切れをするし、
少しの間でも立っているのが苦痛みたいだし、
ベッドの背もたれがなければ座っていられないし・・・
自宅に帰ってからのことを思うと不安になってしまう。


夕食後に飲ませる薬をもらったが、今日はなにやら大きなカプセルがあった。
「SANDOZ SANDIMMUN(=シクロスポリン)25mg」を3つ。
変な臭い・・・というより臭い。(-_-;) ネットで調べたら免疫抑制剤らしい。
もうひとつは「791 エンドキサンP錠」 抗悪性腫瘍剤と書いてある。
悪性腫瘍って言ったら、普通はガンだろう。

いろいろ調べてみると、結局はこっちを治すためにあっちに副作用が出る。
間質性肺炎を治すための薬の副作用に、間質性肺炎と書いてあるし・・・(-_-;)


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