ヤグネットの毎日
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2002年05月31日(金) 車中読書


 毎週の「しんぶん赤旗」日曜版に、活動ファイルを折り込むことにした(14号まで発行)。毎日の活動や自分の思いは、これまでネット上で紹介していたけれど、まだまだ圧倒的にはネット生活を日常化している人は少ないのだ。
 そこで、一週間の「ヤグネットの日記」からの抜粋と、最新の日曜版のおすすめ記事を紹介することにしている。その活動ファイルの〆きりが毎週木曜日。30日は、視察報告を盛り込みたいと朝から必死に作成した。

 視察では、電車や飛行機での移動がある。その間、視察先の資料の読み込みもするが、僕にとってのひそかな楽しみは、読書をすること。なぜか、視察の移動時の読書ははかどるものだ。

 今回の視察でも、二冊ほど読み終え、もう一冊も半ばまで読んだ。

読み終えたのは、以下の本。

●中村順編著『文化行政 はじまり・いま・みらい』(水曜社)定価¥1600(税別)

 この本は、「日本文化行政研究会」と「これからの文化政策を考える会」によるシンポジウムをベースにして編まれている。興味のある分野だったので、一気に読んだ。とくに、小林真理さんの論文「自治体の生き残り戦略としての文化行政」が印象深く、僕の頭をスッキリさせた。その一部を紹介する。

「文化行政」をするのにどんな「感性」が必要なのかということが話題になったことがある。それは従来の行政のあり方が当たり前だと思っていることに対して何か異議申し立てを心の中に持っていて、行政の仕事が非文化的だと思えることこそが、文化行政を行う「感性」を持っていると言える。つまり、行政の仕事が市民に開かれていない、市民の立場に立っていないし、地域のためになっていない。それに対して、もっと市民のために、地域のために、と考えることができるかどうかということになる。そういう頭の転換ができるかどうかということが「感性」のもんだいになってくる。言うなればその「感性」が行政全体、あるいは個の職員に足りないことに対する異議申し立てが行政の文化化なのである。(127ページ)

 だから、文化行政とは、たんに「アート」だけをとりあげているわけではない、自治体のあり方そのものを転換させる、とても大きな意味をもつ考え方なのだ。議会の質問でも取り上げたいテーマである。


●野口悠紀雄著『ホームページにオフィスをつくる』(光文社新書)定価¥700(税別)

 おなじみの著者の本なので、無条件に買った。帯に書かれてある一文に、ハッとさせられた。

初めてホームページを作る人は、まず自分だけが使うつもりで作るとよい。

 僕のサイトのリンクのページは、ほとんど未整理状態だ。自分でも使い勝手が悪い。これでは、見てもらえるサイトではない。どこを改善すればよいのかが見えてくる等、示唆にとむアドバイスがいっぱいで、期待を裏切らなかった一冊だ。

 残り一冊は、岩波新書で門脇厚司著の『子どもの社会力』。この本もぐいぐいと引き込まれる本で、3色ペンでひきまくっている。後日、まとまった紹介をしたい。




2002年05月30日(木) 視察番外編 新発見・有島武郎

北海道への視察から戻った。とても勉強になった3日間。番外編として残しておきたいことを書く。

 ニセコ町を視察したあと、出発の電車まで少し時間があったので、「有島記念館」を訪問した。ニセコ町と有島武郎は、切ってもきれない関係である。小説『カインの末裔』や『親子』の舞台となったのもニセコ町である。そして、父親から引きついだ農場のすべてを、自身の「相互扶助」という思想にもとづき、農民全員の共有の形で無償解放を宣言したのも、ニセコのまちだ。

 正直に書く。僕にとっての有島武郎は、プロレタリアートや農民など、被支配層へのシンパシーを覚えつつも、ブルジョワ階級出身という自らの階級的限界に悩み続けた、弱い存在という印象が強かった。婦人記者との心中事件など、ショッキングな人生の結末も、「弱さ」という評価に安易にむすびつける原因となっていたのかもしれない。
 だから、彼が作家という顔のほかに、どんな仕事をなしとげたのか、それが彼にかかわった人びとにどういう影響を与えたのか、こんなことに思いを広げることなどしたことがなかったのである。
 
 今回、「有島記念館」を訪問して、いかに僕の「有島武郎」像が浅薄なものかを思い知らされた。

 僕の関心は、「農場解放記念碑案文」という有島本人が書いた文章に集中する。
 まず、案文はこう書かれてある。

「この土地を諸君の頭数に分割してお譲りするといふ意味ではありません。諸君が合同してこの土地全体を共有するやうにお願ひするのです、誰れでも少し物を考へる力のある人ならすぐ分ることだと思ひますが、生産の大本となる自然物即ち空気、水、土地の如き類のものは、人間全体で使ふべきもので、或はその使用の結果が人間全体の役に立つやう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有されるべきものではありません。それ故にこの農場も、諸君全体が共有し、この土地に責任を感じ、互ひに助け合ってその生産を計るやうにと願ひます。諸君の将来が、協力一致と相互扶助との観念によって導かれ、現代の不備な制度の中にあっても、それに動かされないだけの堅固な基礎を作り、諸君の正しい精神と生活とが、自然に周囲に働いて、周囲の状況をも変化する結果にもなるやうにと祈ります。」

 この案文が訴えるのは、21世紀の人類の共通した課題である、「自然物即ち空気、水、土地」をどうするのか、という環境問題に関する有島の鋭い問題提起である。
 自然は人間がつくりだしたものではない。だから、人間は謙虚に力をあわせてこの自然を生かすために知恵を出さなければならない。そして、相互扶助の考え=共生の思想こそがそれを可能にする道であることを、訴えている。なんという先見的な考えではないか。


 そして、僕が釘付けになったのは、次の事実である。
有島の案文を刻み、碑の建立の計画を示す文章の最後には、もともと「狩太共産農団」と書かれてあった。ところが、この碑文の内容は、土地の私有の否定等、体制批判に繋がるとして、《共産》の文字を《共生》に書き換えざるを得なかった、という。しかも、記念碑そのものも建立が許可されず、碑文がたてられたのは、有島武郎の死の翌年、狩太共生農団発足の年であった。
 有島は、自ら無償で農地を解放した。知識人の立場を捨て、農民やプロレタリアートとともに生きる決意をこめて。

 その有島の理想を日本で実現することができず、今日もなお基本的に同じ課題を抱えたままとなっているのはなぜなのか?有島武郎が自らの思想を込めて《共産》という文字を刻んだ、その生き方を僕はもっともっと学ばなければいけない、と痛烈に感じた。

 
 


2002年05月29日(水) 小さく美しいまちの大きな挑戦

 北海道への会派視察二日目。宿泊先の小樽を早朝に出発。1両編成の普通・ワンマン列車にしばらくゆられると、左に「蝦夷富士」とよばれる羊蹄山とスキーヤーにはあまりに有名なニセコ・アンヌプリが出迎え。
 僕たちは、このニセコ町で「まちづくり基本条例」など、先進的な自治体運営について学んだ。
 ニセコ町では、就任した逢坂誠二町長(現在2期目)のもと、行政の透明性の確保をめざし、1)住民との情報の共有、2)住民参加の行政を柱にして、ユニークな取り組みをすすめている。
 住民との情報の共有ではどうか。まちづくり町民懇談会、まちづくりトーク、まちづくり懇談会、こんにちは(おばんです)町長室など、多様な手段で町民にあらゆる行政情報を提供し、町民からの意見を吸い上げる努力をすすめている。町長は、毎月平均3〜4回程度、直接町民のところに足を運んで町政の動き、自分の思いなどを語りかけているという。
 話を聞いて圧巻だったのは、「町民向け予算説明書」。毎年予算議会が終わると、役場の各担当者が町民向けにその年の予算の使われ方について、図表やグラフを駆使して、わかりやすくまとめたパンフレットを各戸に配るのである。たとえば、今年度のパンフレットの48ページには、「道路の整備」が説明されている。
 「本年度は、太田光枝さん宅地先から元町地域コミュニティセンター地先まで260メートルの歩道工事と道路工事をおこないます」との説明の下にわかりやすい地図も記載。しかも、この事業が北海道の事業としておこなわれるものであり町の負担がないことが、町民みんなにわかるように書かれてある。
 「町民みんながわかるように説明する。しかも、行政の仕事のすべての過程が透明にされていること」ーーこの考え方が、行政の仕事の全体に行き届いているのである。
 
 住民参加の行政という点でも、企画立案から実施にいたるすべての過程において、住民参加を位置づけている。その集大成が、まちの憲法ともいうべき、「まちづくり基本条例」の制定である。
 ともすると、行政は「上から民を見下し、施しを与えるもの」という考えや体質に侵されがちである。「施策」という言葉にも、そういうニュアンスが多分にこめられている。そして、権力の側が住民の権利をどこまで制限し義務を課すのか、という発想から様々な法律や条例はつくられてきた。
 ところが、ニセコ町では、発想が逆である。政策立案にかかる、あらゆる情報を町民と共有し、住民に説明することを行政側に義務づける。そして、町民に行政に参加する権利があることを、高らかに宣言したものが、この「まちづくり基本条例」なのである。こうしてこそ、「自分の頭で考え、行動する」ーー真の住民自治をすすめることができる。ここに、逢坂町長の思いが込められている。

 町長の思いは確実に、町民に浸透しつつある。町民との懇談も最初は、「抗議型、陳情型」の意見が多かった。ところが最近では、町民のほうから提案がされたり、行政をまきこんで、町民同士で活発なディスカッションが展開される、など変化しているという。

 羊蹄山が妙に高くみえた。行政マンがイキイキとしているのが印象的だった。小さく美しいまちの大きな挑戦、という自信と意欲がみなぎっている。21世紀の地方自治体のあり方を、自らの試行錯誤をともなう実践によって切り開いていくーー開拓者精神旺盛な北海道の人たちの意気込みにふれて、クラーク博士の「少年を大志を抱け」という言葉を思い出しながら、5月のさわやかな北の大地の空気を思いきり吸い込んだ。


2002年05月28日(火) 会派視察初日。文化行政のあり方とは

北海道に向かう空の上は、雲の絨毯がいっぱいにしきつめられ、幻想的でさえあった。初日は、江別市。保育園と老人福祉施設の複合施設を見学。続いて、「えぽあホール」を見学。ここは、大麻公民館と約450席の小ホールとの複合施設。ホールの稼働率は6割を超し、音楽や演劇など多彩な文化活動が展開されている。文化課長はこう説明する。「これからの文化行政は鑑賞型から参加型・育成型に転換すべき。この考えにたって、単なるイベントではなく、市民が実行委員会等を組織して企画に参加してもらう努力をしている。」力づよい言葉が印象に残った。


2002年05月27日(月) 文化協会10周年記念レセプション

26日は午後から文化協会の設立10周年記念レセプションに出席させていただいた。隣りの席には八幡市の文化協会の方がいらっしゃった。お話をお聞きすると、八幡市で文化協会をたちあげる際に、城陽市の協会にアドバイスを受けるなど参考にされたとのことだ。多彩な文化サークルが活発に活動しているのは、何物にもかえがたい市民全体の財産ではなかろうか。いま僕は文化のまちづくり、という考えにとても関心をもっている。考えがまとまりしだい、この日記で紹介したい。今日から出張。携帯電話から日記の更新に挑戦したい。


2002年05月26日(日) 久世校区 クリーン大作戦


25日は、久世校区のクリーン作戦。朝9時から近くの公園の草引き作業。その後、集会所に集まって、みんなで久世小学校まで歩きながらゴミを拾った。小学校についてから、敷地の清掃をしたあと、グラウンドの側溝のドロあげをした。これが重労働で、体がクタクタになった。
 でも、地域と子どもたちが過ごす学校をきれいにする仕事は、やりがいあるもの。疲労も心地よかった。
 子どもも、お年よりも、お父さんもお母さんも力をあわせる。すばらしい取り組みだ。

 午後からは、城陽市教育委員会主催の社会教育登録団体を対象にした「リーダー研修会」に参加。城陽市少年少女合唱団も今年から、ふたたび社会教育団体の登録団体になった。本格的な活動を軌道にのせたい。
 リーダー研修会では京都教育大学助教授の高乗秀明先生が、「完全学校週5日制と社会教育団体との関わり〜地域が支える子どもの学びと育ち〜」というテーマで講演。
 僕自身とても関心があるテーマだったので、興味深く聞くことができた。

 とくに印象に残ったのは、次の点だ。

 1)将来像を描けず、自己評価も低い日本の子どもたち。1992年の調査だが、小学生を対象にした国際比較研究は、東京、ハルピン、ロス、ストックホルムの4つの都市を比較して、日本の子どもたちが、「しあわせな家庭をつくる」「仕事で成功する」「よい親になる」などそれぞれの設問で、「きっとなれる」と答える割合が、他都市とくらべてもっとも低いことを示している。さらに、自分がどんな人間だと思うか、に「勉強のできる子」「人気のある子」「正直な子」などのいずれの設問に、日本の子どもたちがもっとも低い回答をよせている。
 
 これらのデータも紹介しつつ、高乗先生は「何のために学ぶのか、という目的や学ぶことへの意欲が十分培われいないことがいまの学校教育が抱える課題」と指摘。そして、学校という枠組みから、地域を巻き込んで、「地域で学び、地域を学ぶ」こともこれからの学校教育では求められていると、お話をされていた。
 
 2)これからの教育は、学校と地域の連携がますます必要に。教育センターとしての学校と、地域を支えるボランティア活動(自発的に学び、活動する人たち)のネットワークが求められる。次の世代を担う子どもたちをどうするのか、は広く手を携えられるテーマ。社会教育団体として活動する人びとが、生涯学習という角度と子どもたちを育てる教育活動に、多彩に参加してほしい。

 講演を聞き終わって、「いまの子どもたちが『将来像を描けず、自分に自信がもてないのか』」というその原因まで掘り下げてほしかった、という思いが少しだけ残った。
 そんな思いを引きずって、本屋をのぞいたら門脇厚司著『子どもの社会力』(岩波新書)をみつけた。その疑問に応えているのでは、と直感がはたらいたので買ってきた。楽しみにしている。


2002年05月25日(土) 許せない!京都市議会で「有事法制制定を求める意見書」採択

ショッキングなニュースがとびこんできた。
 京都市議会は、24日、「有事法制の制定を求める意見書」を自民党、公明党などの賛成で可決、採択した。有事法制推進派の異常なまでの執念を感じさせる。
 京都では、大山崎町や八幡市の議会が、「有事法制反対」「今国会での制定に反対」という意見書を次ぎつぎあげているなかでの巻き返しである。
 僕は、CHANCE!というメーリングリストに参加しているが、そこにもこの事態を知らせるメールが入り、メールの転送などで抗議の行動をよびかけられていた。
 ITの即時性を生かして、すぐに行動できなかった自分を恥じた。すぐに街頭に出て、有事法制制定許すなの街頭宣伝をおこなった。
 自分がすぐにできることは何か、「後の祭り」となったけれど、事態を知らせるために自分のサイトで紹介することにした。
 城陽では、6月に入り議会が開かれる。市民が注目している。なんらかの意思表示ができないものか、よく相談をしながらチャレンジできれば、と思っている。こちらは、今からでも遅くはないのだから。
 


2002年05月24日(金) 6月議会にむけて 一般質問のテーマ


 午前中は党議員団の会議。6月議会にむけての対応などを話し合う。
 6月議会での一般質問のテーマで僕の問題意識を発言した。

 城陽市でも、観光協会が今年3月にたちあがった。設立総会のときに、商工会議所の会頭や会場からの発言で、「城陽にも大阪のユニバーサルスタジオジャパンのような大型娯楽施設があれば…」と発言していたのが気になった。そのあとの立原啓裕さんの記念講演で「中途半端な自治体ほど、中途半端な箱ものをつくりたがる。それでよいのだろうか?」という問題提起もあり、溜飲を下げたものだ。城陽市の観光行政がどういうコンセンプトで政策展開をするのか、チェックする必要があると思う。城陽市の草の根の観光資源の発掘にもっと力をつくすべきだ、というのが僕の意見である。
 たとえば、青谷梅林もそうだ。また、市内各地にある古墳や史跡もそうだ。これらの活用を住民の知恵と力を集めてすすめていく。市民参加型を大いに取り入れるべきではないだろうか。こうしたことをただしてみたい、と考えている。
 その他、保育園の問題や文化行政の問題などを取り上げてみたい。準備が間に合うだろうか…
 
 午後からは、新日本婦人の会の城陽支部の事務所にお邪魔して、乳幼児医療費の無料化の拡充についての運動のすすめ方などについて、意見交換する。会議に参加された方がもってこられたカナダのお土産という、キャンディーがおいしかった。

 夕方は、ご近所の方が亡くなられたので、お通夜に出席。妻が所用で京都市内に出ていたので、息子をつれていき、一緒に「のんの」と手をあわせた。

 


2002年05月23日(木) 心から反省した朝


 22日は午前中は、今週の「しんぶん赤旗」日曜版に折り込む活動ファイルを作成。活動ファイルを読んでくれた方が「『音楽療法のレポートがよかったよ』と主人がいっていました。」と話してくれた。こういうときが、一番うれしいものだ。自然体で、かつ継続して発行したい。
 
 午後からは、議会での議事録を公式サイトにのせるための作業にあてる。この間の3回分を一挙にアップしようと考えて議事録からスキャンニングしていくのだが、これが結構時間がかかるもの。完璧に写し取れるわけではないので、誤字や脱字を原稿と照会しながらの作業。今週中にはアップしたい。
 
 作業をしながらテレビをみていると、中国・瀋陽事件の5人の家族がフィリピンにむけて出発した、とのニュースが流れる。ひとまずホッとした。日本大使館に「突入」する直前に、北朝鮮の民謡を替え歌で歌っているシーンがテレビに映し出されていた。幻のヒット曲「イムジン河」もそうだが、どこか哀愁を帯びた人の心にしみ入るメロディー。いく山も越えながら自由を求める家族の心情が伝わる。これが、「フォーク・ソング」なのだろう。厳冬の冬山をこす時も、この歌をうたって励ましあったのかもしれない。歌いながら頬をつたう母の涙を2歳の娘さんがぬぐってあげるシーンには、いつものことながら涙してしまった。

 話はかわって、今朝のことだ。
 いつものように、息子を保育園におくり車からおろすときに、息子が車窓の枠に手をかけているのに気づかず、後部のドアを閉めてしまった。
 「痛い!」と息子が声をあげたことで、はじめてはさんだことに気づき、あわててドアをあけた。
 全身から冷や汗が吹き出し、鼓動が高鳴る。すぐに、骨折をしていないか確かめた。どこの病院に駆け込もうか、頭をめぐらす。

 ところが…。息子は、「もう痛くないよ」ケロリとした顔。
 なんと、後部ドアを閉めても、上の部分であれば、子どもなどの小さく細い指では挟まらない構造になっているではないか。
 僕がのっているのは、某三○自動車。欠陥車などの発覚で世間を騒がせていたが、このときばかりは、心の底から「すばらしい!」と叫びたくなった。
 それにしても、一歩間違えば、大けがに発展するところだった。息子に何度も謝りながら、保育園へと向ったのだった。子どもの安全を守ることは何よりも親をはじめ大人の責任。
 心から反省した朝だった。
 
 


2002年05月22日(水) 変わる風景 変わらぬ味

 僕は1991年から99年までの8年間、日本共産党京都府委員会の勤務員だった。
 21日は、午後から来年のいっせい地方選挙にむけての会議があったので近鉄と市営地下鉄に揺られ、丸太町新町にある府委員会の建物に足を運んだ。
 かつて働いていたまちを久しぶりにゆっくりと歩く。
 昼食の場所は最初からきめていた。丸太町通り沿いにある、洋風レストラン「白扇」だ。
 府委員会の勤務員時代に、近くの本屋さんで小説を買ってこの「白扇」に駆け込み、食事をしながら読みふけったものだった。「いらっしゃいませ」とのれんをくぐる、おかみさんの姿もちっとも変わらなかった。とてもうれしかった。昨日は、「ハンバーグカレー」を注文したのだが、お店はひっきりなしにお客さんが訪れ、立ちながら席があくのをまっている。「変わらない味だなあ」と思いつつも、ゆっくり味わう間もなくお店を飛び出した。
 京都府委員会の周りはずいぶんと様変わりをしていた。お肉屋さんが100円パークの駐車場に変わり、文房具屋さんは、コンビニに衣替え。まち並みは時代とともに変わっていくものだが、変わってほしくないものまでどんどんとなくなっていくのは、もの悲しい気がする。お店を構えていた人たちは、どんな思いで住み慣れた土地をさっていったのだろうか。

 夕方は、息子を迎えに保育園。園庭でかけまわって遊んでいた。
 園庭にある咲き始めたばかりの花の花びらをむしりとってしまった、と年長の子から教えられた。昨日も小さなトマトをとってしまい、怒られたばかりなのに。いたずら坊主を抱え上げ、いそいそと帰宅。

 夜は、地元の党支部の会議。議会が始まる前に「市政懇談会」を開こうという話しになった。市民の声を聞いて議会に反映させる、このスタイルを確立したい。できるだけ小さな単位でできたほうが効果的、という提案もあり今後具体化していくことに。さっそく、6月8日(金)に城陽団地集会所(予定)で午後7時30分から開くことになった。変更があればまた、この日記で報告したい。
 


2002年05月21日(火) おすすめの一冊『集団的自衛権と日本国憲法』

 午前中、精神障害者の方から頼まれていた資料の印刷。自治体レベルでの精神障害者の福祉の充実を強く要望される。午後からは、二週間発行が遅れていたメルマガの発行などにあてる。
 携帯電話を変えた。通信費が高くついて困っていた。妻の携帯電話の利用期間が7年ともっとも長いので、そちらの会社の電話にあわせてファミリー割引を適用することにした。携帯電話でのパケット通信などを控えることで、これまでの半額近くまで電話代を抑えることができる計算だ。ただ難点がある。僕の携帯電話に登録されている300件を超す電話帳。携帯電話会社が変わるので、自分で一から登録し直さなければならない。これが結構時間がかかる。肩が凝って仕方がない。新しい番号は希望のある方、必要な方だけに教えるようにしようと思っている。
 
 宿題になっていた、浅井基文さんの『集団的自衛権』(集英社新書)の感想を書いておく。
 
 本書で一貫しているのは、日本の安全保障をアメリカの世界戦略のなかでとらえることだ。
 「日本がその領域防衛以上に安全保障を拡大し、連合の作戦を支援する適当な能力を取得するよう、日本憲法改定の努力を支持するべきである」。アーミテージ国務副長官(ナンバー2)が対日戦略を詳細に記したとされる報告書は、とてもあけすけだ。こうした報告も紹介しながら、浅井氏は、そのアメリカの当面の脅威が中国であることを指摘し、台湾の独立をめぐって中国との軍事衝突の危険性もある、というショッキングなシュミレーションまでアメリカが描いていることを紹介している。
 僕が、なぜいま有事法制なのか、で目からウロコだったのは、アメリカのシンクタンクのランド研究所が発表した「アメリカとアジア」という報告書。浅井氏は、この報告書を細かく分析し、日本がアメリカの軍事行動に巻き込まれる危険性が極めて高いことを警鐘する。少し長いが紹介したい。 
 
 まず浅井氏は、報告(「アメリカとアジア」)が、台湾での独立の動きなどが生じた場合、中国がとる可能性のある行動をアメリカが事細かに明らかにしていることを紹介し、台湾そのものに対する武力行使に至らない段階の軍事行動もシュミレーションしていることを指摘。そのうえで、浅井氏は次のように述べる。

「アメリカの軍事行動も、中国の武力行使にいたらない軍事行動の段階で開始されるということです。アメリカの軍事行動は、すべて日本を発進基地としておこなわれます。日本が米中軍事衝突にまきこまれる可能性は、きわめて早い段階からであることを認識しておかなければならないのです」(54ページ)
 
 今朝(5月21日付)の新聞をみると、有事法制の国会審議で、政府は武力攻撃のおそれや予測の段階でも、武器や弾薬の提供を米軍におこなう、と答弁している。浅井氏の指摘と恐ろしいほどに一致しているではないか。

 その他、本書では次のようなことが述べられている。3点ほど紹介したい。
○自衛権を歴史的にとらえること。とくに集団的自衛権は、アメリカなど大国の政治的思惑で意図的につくられてきた政治的考慮にもとづく産物であること、日本国憲法はもちろん国連の精神からいっても認められるべきものではないことを強調している点。ゆえにこうした考え方は、永久不変のものではなく、歴史的にとらえるべき考えであること。
○いま、私達にとって必要なことは、平和に関する認識を正確なものとすること。そして、日本の安全保障のあり方と日本の進路を自分たちの判断で選びとること。
○九条をはじめとした憲法が示す日本の安全保障政策は、「一国平和主義」などとは無縁で、日本の安全保障を国際の平和と安全にむすびつける、すぐれて国際主義の立場にたったものであること。軍国主義を排し、非軍事に徹することこそ、新生日本の安全保障政策の中心であること。

 「あとがき」で浅井氏は、日本が平和大国として行動することになれば、アメリカの暴走をチェックする大きな力となると確信する、と述べている。そのためには、日本の政治を主権者である国民の手にとりもどすことが不可欠、と強調する著者は、さいごに、こう喝破する。
「日本の政治を変えれば、国際社会を変えることができる。」
「危険をきわめる国際政治と日本政治を根本的に方向転換させることができるかどうかは、ひとえに私たち日本国民の政治的自覚にかかっている。」
 
 永年にわたり外交官として世界と日本を現場から見つめてきた著者からの、強烈なメッセージである。僕からもひとりでも多くの方におすすめしたい、一冊である。
 


2002年05月20日(月) 有事法制許すな!100名がピースウォーク

 アメリカの介入戦争に日本国民を総ぐるみで協力させる有事法制。小泉内閣は今国会での成立にむけて、今週中に衆院を通過させるねらいだ。そんな中、城陽でも「有事法制反対の一点で共同の輪を広げよう」と「有事法制反対城陽ネットワーク」がたちあげられ19日、100名をこす市民が集まった。
 集会では、事務局団体の城陽市職労働組合から、「国民総背番号制など行政の分野でも国民を管理統制する動きがすすんでおり、有事法制を許さないたたかいと結んで、今こそ声をあげていくべきときだ」とあいさつ。
 続いて、京都平和委員会の戸田昌基理事長が、約30分で有事法制の問題点などについて講演。短い時間だったにもかかわらず、わかりやすいお話で力になった。
 話しのなかで戸田さんは、国連のガリ前事務総長が新聞へのインタビューに語ったコメントを何度か紹介されていたが、とても印象に残った。
 ガリ前事務総長は在任中、超大国・米国による一極支配では世界は安定しないと考え、国連機能の強化を図って米国に嫌われ再選を阻まれた方である。
 そのガリ氏はいう。「国連の弱さは冷戦後に超大国が一つしかいないことに起因する。軍事、技術、経済…米国に肩を並べられる国はない。より決定的なのは主要な国、機関が米国主導を受け入れていることだ。一カ国でもいい、『ノー』と声をあげればすべてが変わる。超大国の力がそがれるわけではないが、国連の力は増す。」(「朝日新聞」2月15日付)

 憲法九条をもつ国として、日本がアメリカに対して平和外交の必要性をとき、アジアにおける平和の砦の役割を果たすなら、確実に大きな変化を世界情勢に与えることは間違いない。その方向への転換こそ必要だ。戸田氏の話を聞いて、そう感じた。

 そのあと、教職員組合や新日本婦人の会からそれぞれ発言。
 集会終了後は、国道24号線を通ってアルプラザ前まで「ピースウォーク」。
 原水爆禁止世界大会にむけての平和大行進を除いては、城陽市独自でのデモ行進は久しぶりのこと。沿道やドライバーからも注目度抜群だった。

 
 アルプラザ前では、僕もマイクをもって訴えさせていただいた。
 とくに僕は、この有事法制が子どもたちの世代に大きな影響を与えること。人権や人の命の尊さを教えるはずの大人が、人を殺すための戦争にむけて準備をすすめる法律の議論を国会で行っている。こんな異常な事態をやめさせよう。そして、子どもたちは、法律をつくることができないのだから、大人の責任で有事法制という馬鹿げた法律をつくるのではなく、限られた地球資源をどうやって人類が守っていくのか、人間が大切にされる地域社会はどうすればつくれるのかを真剣に議論するときではないか!と訴えさせていただいた。

 情勢は緊迫している。自分ができることをどんどんすすめていきたい。


2002年05月19日(日) ひたすら一筋の道を 清水喜代司さんを悼む


最近になって、人間の命も有限なのだ考えることが多くなった。6月で35歳。一度しかない人生を自分が納得いくように、そして少しでも人のためになるように生きるとはどういうことか?18日に行われた「故・清水喜代司さんを偲ぶお別れ会」は、あらためてそのことを考えさせられる機会となった。
 清水喜代司さんは、今年2月に亡くなられた。享年77歳。6期24年、日本共産党の城陽市議会議員をつとめられた大先輩だ。僕は、この「お別れ会」でメッセージを読ませていただいた。こくた恵二衆議院議員が、自分で心をこめて書いたというメッセージはとても味があり、読んでいてもグッとこみあげるものがあった。
 「温厚、まじめ、ユーモアたっぷり」。それが、「偲ぶ会」に訪れた人たちが口々に語る、在りし日の清水さんの人物像である。その典型が「毎日の駅掃除と赤旗宣伝」だ。議員時代、14年もの間、文字どおり例外なく毎日、早朝に近鉄寺田駅をはき掃除をしてから「赤旗」宣伝を行っていた。その回数は3000回を超える。僕は毎週金曜日の久津川駅の宣伝でさえフーフーいっているのに…。
 「言うは易し行うは難し」で、簡単にできることではない。「偲ぶ会」では、10年ほど前同志社大学の学生たちが清水さんの活動ぶりを撮影したビデオが上映された。その最後に、清水さんがマイクで訴えるシーンがある。もう片方の手には、くしゃくしゃになった「赤旗」が握りしめられていた。3000回をこえる「駅掃除と赤旗宣伝」を支えたものは、「いまのアメリカべったり、大企業言いなりの政治は、国民の立場から変えなければいけない。一緒に政治を変えよう。そのためのヒントがこの新聞に書かれてある。」という熱い思いだった。僕は、このシーンをみたときに涙があふれてきた。

ひたすらに、一筋の道を歩む姿は、美しい。それは、思想にまで高められた知識や理論とそれを実践にうつす勇気によってこそ培われる。毎日、赤旗をくしゃくしゃにして、その日の「主張」の中身を心を込めて訴えていた清水さんの姿が、そのことを教えているように思えるのだ。
 「お別れ会」で、妻のとみ子さんが「激動の20世紀をコツコツを歩んだ夫のあとを半歩ずつでも歩いていきたい」とお話されていた。最後は、とみ子さんの手に包まれながら永遠の眠りについた、という。
 清水さんが歩いた道を、社会進歩と政治革新のさらに大きな道へとしっかりと拡げていけるかどうか。残された僕たちの大きなおおきな責務である。
 清水さん、安らかにお眠りください。
 


2002年05月18日(土) 岐阜から帰る

 岐阜での田植えの手伝いも十分にできないまま、17日の午後城陽にむけて出発。15:43飛騨萩原発のひだ号に乗車。直前まで眠っていた息子は、電車にのるなり「サンドウィッチが食べたい」とか言い出したり、空いている席に移ってまわりの乗客に愛想をふりまいたり、全然落ち着きがない。
 京都に着いてから、近鉄ではなくJRの奈良線にのったのが失敗だった。
 桃山駅に10分程停車しているとき、「おしっこ」と言い出した。「もうすぐだからガマンして」といっても聞かず。結局、その電車をおりて次の電車まで20分も待つことに。新田の駅で待ち合わせた妻の車で家に行き着いたのは、京都駅におりてから1時間半もたっていた。
 子ども連れでは、計算どおりにいかないことは百も承知でいたけれど、予定どおりに行かず例によって機嫌を悪くしてしまった僕。ガランとした桃山の駅で、「なんでおしっこガマンできないんだよ!」と叱り飛ばす声を響かせてしまった。よく考えたら、生理的欲求を我慢せよというのが、無理な話。ごめんなさいね。
 16、17日と妻は学校の宿泊学習だった。中学校1年生から宿泊学習を行っている学校があることに驚いたが、1年生からやっていると知ってさらに驚いた。引率が大変なのは、自分の中学校や高校の修学旅行でよく知っている。クタクタだったようだ。ごくろうさまでした!

「集団的自衛権と日本国憲法」の感想はまた後日、ということで。今日は、以上。


2002年05月17日(金) 『集団的自衛権と日本国憲法』を読む

飛騨地方は雨。苗が届かなかったり、その他の準備が間に合わずなどで、田植えそのものができず。代かきをおえた田んぼに雨がポツポツと降り落ちる。そうなると晴耕雨読の世界。浅井基文氏の『集団的自衛権と日本国憲法』を読み終えた。感想は、明日まとめて書きたい。今日、城陽へ戻る。


2002年05月16日(木) もののけ姫

息子が最近はまっているのがビデオ鑑賞。実家に帰るときにも宮崎アニメの『もののけ姫』を持ち、実家につくなり「セットして」とせがんだ。つられて観る。恥ずかしながら、映画でもビデオでも初めて観る作品。息子には少し難しかったようだが、僕はまたまたはまってしまった。自然との共生や不殺生の思想。共感できるテーマだ。山々の深緑の描写が印象的。宮崎ワールドからこれからも目が離せそうもない。


2002年05月15日(水) 田植えで帰省


 午前中から、議員団室で仕事。僕が15〜17日で田植えで帰省するので、18日の「故・清水喜代司さんを偲ぶお別れの会」や19日の「有事法制許さない市民のつどい」などの諸準備をすすめる。
 午後は団会議。6月議会への対応などを話し合う。
 
 夜は、今年度第1回目の城陽保育運動連絡会の役員会。忙しい中にもかかわらず、17人も集まっていただいた。昨年度の三役を代表して僕が、保運連の活動とおおまかな年間スケジュールを報告し、最後に今年度の役員をきめた。会長職は、僕がつとめさせていただくことになった。
 城陽の保育運動の前進にむけて、微力ながら力を尽くしたい。

 15日から田植えで帰省。息子も一緒。息子にとって、二回目の電車での長旅だ。
 自然を体験し、ものづくりの大変さと大切さ。一緒に学んでくるぞ。

 明日からの二日間は、携帯電話からの日記記入となるので、とても短い内容になる。帰ってから肉付けをしたい。


2002年05月14日(火) 風の谷のナウシカ

 学校5日制がスタートして、妻は土曜日が休みになった。でも、いろんな用事で外にでなければならず息子をつれて出る機会がふえた。おまけに日曜日は保護者会総会で「裸踊り」など大ハッスルしていたものだから、疲れがでたのかもしれない。13日は、「保育園行かない!お休みする」「眠たいの〜」の連発。
 10時頃まで粘り強く「説得」をしたが、ついに断念。僕は、仕事上を約束をキャンセルしてつきあことにした。一眠りして息子が「ビデオみたい」と言い出した。土曜日に借りてきたビデオ「風の谷のナウシカ」。

 「風の谷のナウシカ」は、実をいうと僕の人生にとって忘れられない思い出の作品である。
 高校3年の春のこと。長崎への修学旅行から帰って、「平和のために何かできないか」と考えていたとき、街角で「白いまちヒロシマ」という映画のお知らせのポスターを見つけ、会場に駆け込んだ。観賞後の感想に、「自分も何かしたい」とメッセージを書いたところ、後日、電話が入った。「高校生平和ゼミナールで、『風の谷のナウシカ』の上映会をするのですけれど、一緒にやりませんか?」とのお誘いだった。
 母親は、「何か組織に入るんじゃないの?」と心配したが、僕は「何か新しい出会いや発見があるのでは」とワクワクしながら参加したことを覚えている。
 「ナウシカ」の上映運動は大きく成功した。その直後、この取り組みの中心になって活動していた民青同盟の仲間に誘われ加盟した。17年前の、そう5月だった。それから4ヶ月後、日本共産党への入党をすすめられ、いまの僕がいる。

 当時の僕にとって『風の谷のナウシカ』は、反戦映画という印象が強かった。平和運動=反戦運動という受け止めがあったからかもしれない。
 だが、今回、息子とビデオで鑑賞しながら見ていたら、むしろ環境問題と人間についてのメッセージのほうが強いのでは、との感想をもった。

 自然を征服した人類が、巨神兵による「火の七日間」という大戦争で栄華を誇る産業文明を自らの手で壊してしまう。それから1000年後、わずかに生き残った人類は、蟲(むし)と瘴気(しょうき)の森「腐海」に征服されようとしていた。風をあやつり、忌み嫌われおそられる存在の蟲(むし)とも通わせるナウシカ。
 産業文明が滅んだことへの反省ぬきに争いごとにうつつをぬかし、「腐海」を焼き払おうとする人間に対して、ナウシカは「腐海」こそが人間の手によって汚れ切った自然を浄化し再生させる重要なはたらきをしていることを、命をとして訴える。その強さ、そして木々を愛で蟲と語る優しさ。
 生きとしいける者への限り無い愛情とは、人間が一段高いところからまわりを見ることからはうまれない。むしろ人間も自然や地球の一部という、謙虚な気持ちに立ちかえることから生まれるものではないか。

 息子は、ナウシカの目が好きだという。あふれるやさしさと勇気に満ちた目だ。それが何より大切だ、と思える人間に育ってほしい。

 国会に目をむける。鈴木宗男議員と自民党の「卑しさと汚さ」には辟易する。公設秘書をはじめ7人も逮捕者を出して、利権に手をそめたことが明らかになりつつあるのに、国会での議員辞職勧告決議案の上程に、自民党はあくまで反対するそうだ。前にも書いたが、辞任させるようなことがあれば、「橋本派の裏献金をすべて暴露する」(加藤昭『鈴木宗男研究』)と息巻いていた話しが、ますます信ぴょう性を帯びてくるではないか。
 この醜悪。こういう人間の集団が、有事法制の制定を急いでいるかと思うと、空恐ろしい。国民の声が、世論が行動が大切だ。



  15日から17日まで、妻の実家の稲刈りに帰る。妻もこの間、学校の宿泊学習の引率。そこで、息子をつれて帰ることにした。息子は、去年も稲刈りを手伝ってくれた。写真は、そのときのもの。稲刈りの様子は、僕の公式サイトのプライベートルームで紹介している。
 田植えの様子も、写真付きで紹介できれば、と思っている。(その余裕があるかな〜?)



 


2002年05月13日(月) 2002年度久世保育園保護者会総会ひらかれる

12日は、久世保育園の2002年度の保護者会総会が開かれた。10時開会の予定が準備の関係で20分ほど遅れてスタート。オープニングは「みんなで歌おう」のコーナーで、不肖わたくしがギター伴奏で「幸せなら手をたたこう」と「大きな歌」を歌った。「大きな歌」は、7番までどうしても歌いたかったが、時間の関係で3番まで。そのかわり、作者の中島光一さんがこの歌に込められた思いなどを解説させていただいた。
 昨年の活動報告と今年度の基本方針の説明。今年は「一家庭一役」を大切にし、クラス活動を重視すること、改築問題や延長保育実施などによる保育内容についても積極的に保護者の声をあげていくことなどが、提起された。役員体制と方針が拍手で承認されたあとは、学習講演会。保育園の給食の献立を作成されている現役の栄養士の方を講師に招いて、「乳幼児期の食事で大切にしたいこと〜保育園と家庭で考えることは〜」というテーマでお話をしていただいた。みんな熱心に話しに聞き入っていた。
 その間、子どもたちは、仏教大学の児童サークルのみなさんによる遊びのコーナーで目一杯体を動かして、楽しく遊んでいた。
 お昼は、朝からみんなでつくったカレーライスをほおばり、その後クラス会。ワイワイガヤガヤ、話し合いが続いた。
 僕にとって、保育園の保護者会活動とは、子どもの未来と僕たちの生きる力を育む源だと考えている。自分にとってもプラスになる「成長できる場」と思うからこそ、元気もわいてくる。
 準備などで忙しくしたけれど、保護者の交流が深まり、よりよい保育が行われて、子どもたちのためになると思えば、力仕事による疲労も心地よい。
 
 わが息子といえば、後片付けのときに、二回も裸になって廊下を駆け回り、すっかり開放的な気分。親としては無茶苦茶恥ずかしかった。

 昨日は、母の日。双方の母親に花を贈るのが恒例となっている。携帯の留守電に僕の母からメッセージが入っていた。折り返しかけると、何年たってもちっとも変わらない、元気そうな母の声。
 たくさん話したいことがあるだろうに、こっちの電話代を気にして、早くきろうとする。
 「それから…」といいかけながら、言葉を切ってしまった母。「勿体無い」「お金かかるから」とそんなことばかりを心配していた母。やはり何年たっても変わらない。


2002年05月12日(日) 京都合研現地実行委員会に参加

 全国の保育にかかわる関係者が年に一度つどい、保育にかかわる情勢や実践、保護者会活動などを交流するイベントとして、「全国保育団体合同研究集会」(通称「合研」)がある。今年で34回目を迎え、来年は京都が会場となる。その現地実行委員会が11日、京都市内で開かれた。
 僕は城陽保育運動連絡会の役員としている関係で、出席させていただいた。

 会議では、冒頭に子どもたちによる「半日村」という音楽劇(?)が披露されたそうだが、残念ながら僕は見ることができず。(会場を間違えるという、初歩的なミスを犯してしまったので!都大路をタクシーで飛ばしました。あ〜あ恥ずかしい。でも、窓から吹き込む風はさわやかだったな。)
 記念講演では、全国保育団体連絡会の横田昌子さんがお話をされた。横田さんは、日本の保育運動の草分け的存在。第1回目の合研の立ち上げから関わっている人で、話しの一つひとつに歴史の重みと実績にもとづく確信が満ちあふれていた。
 僕がとくに印象的だったのは、集会を通じて組織づくりをすすめることの大切さ。そして、子どもを真ん中にして未来への希望を共に育むことができるのが保育所であり、「家庭保育」の限界、どの子どもの親も保育所や学童保育所などを求めるように時代が変化してきていること。そして、子育てや保育行政をめぐる困難な攻撃の矛盾の中から新しいエネルギーが生まれるものであり、社会を発展させていく原動力にねざすのが保育運動でありすばらしい可能性を持っていると、力強く訴えられたこと。
城陽では14日に今年度第1回目の保運連の会議がある。実行委員会の様子も伝えながら、積極的にかかわれるような合意がはかられるよう努力したい。

  実行委員会の会場となったのは、京都市中京区にある京都市子育て支援総合センターで「こどもみらい館」。たしか、廃校になった小学校を改築した施設だ。パンフレットを開くと、「子どもたちを取り巻く環境が著しく変化する中、子育てに不安や悩みをもつ若い保護者の方々を支援し、安心して子どもを産み、育てることのできる環境を整備する施策の一環として、京都市が平成11年12月に開館」したもの、と書かれてある。「気軽に集まり、交流し、相談や情報交換ができる施設」として、多くの市民に親しまれ利用されている、ということだ。
 驚いたのは、僕が会場に入ったのは午後2時前だったが、一階の「こども元気らんど」や「多目的ホール」に親子づれが所狭しとあふれていた。そして、会議が終わった午後4時半でも、グラウンドでたくさんの親子が遊んでいた。京都市内では、ボール遊びや親子で気軽に遊べる施設そのものが少なくなっているのかもしれない。それにしても、こうした施設があるのは、正直うらやましいかぎりだ。
 


2002年05月11日(土) 情報を公開し、説明責任を果たすこと


午後まで雨がしとしと降っていた。しとしと雨は、多忙でない時は落ちていく雨を眺めながらいろいろと思いをめぐらせ、季節を感じる癒しを与えてくれるが、仕事や時間に追われているときなどは、「鬱陶しい」と思うことがある。人間の感情とは、なんと都合よくできているものだろう。
 10日は、午前中が党の会議。午後からは、相談事で調べることがあり市役所へ。
 いま相談を受けていることで、担当課に聞きに回ったり調べたりしたのだが、僕は議員に公開した情報というのは、基本的に市民にもオープンにすべきであると考えている。
 もちろん、個人のプライバシーにかかわることなどは別だけれど、それ以外のものは、未だ未成熟で意思形成過程のものであれ、公開をし「いまどうなっているか、これからどうなるのか、何が課題か」をしっかりと説明をする責任が行政にも、議員にもあると思うのだ。

 市民に可能な限りの情報を提供し、それらをもとに市民自らが主体的に考え、判断し、行政に要望すべきところは要望し、市民自らの手で解決できるものは解決する。その中にあって、議員の果たすべき役割とは、議員固有の権利(行政の細かい内容まで立ち入って調べることができる)を存分に生かしながら、行政との橋渡しをしたり市民に必要な情報を提供することだ。その中で、市民の
代表として、最大市民の利益になる方法とは何かを見い出し、市民に積極的に提言し、市民とともに行政を動かすことではないだろうか?
 具体的な相談のなかみは、現時点でこの日記に書くことは控えるが、議員の役割について考えさせられたので、いまの自分の気持ちをしっかりと書きとどめておきたいと思い、書かせてもらった。
 


2002年05月10日(金) メールマガジン送信のドタバタ

 昨日、この日記でも報告したが、二週間以上も出せずにいたメルマガをいざ送信しようと思ったら、なんらかのトラブルで送信できずにいた。
 管理会社にメールで問い合わせたり、設定を1からやり直したりで復旧作業をやっていたが、うまくいかずイライラしていた。夜、もう一度指示通りに落ち着いたやろうとはじめたら、見事復旧!
 といっても、原因はいま一つ理解できていない。ドタバタ劇で読者のみなさんに、ご迷惑をかけてしまった。それに、僕のおっちょこちょいぶりが露呈する羽目になった。ごめんなさい。

 午後は団の会議。午前中からその準備などで議員団室へ。
 5月19日(日)午後2時から、城陽市の産業会館3Fで「有事法制許すな!市民のつどい」が開かれる。団としてどう取り組むか、その打ち合わせ。有事法制の問題では、城陽ネットワークが結成され、「有事法制ノー、憲法九条を守れ」の一点で政治信条などを乗り越えて、幅広い個人と団体が力をあわせようとつくられたもの。
 この「つどい」で、戦争体験者の方で5分程度のスピーチをしていただける方をさがしている。推薦したただける方はいないだろうか?自薦、他薦を問わないのでご一報いただけたら有り難い。

 会議中に生活相談の電話。不況の中で生活が苦しいという趣旨のご相談が増えている。詳しいことは書けないが、お名前を名乗っていただけなかったので突っ込んだ話にならず、残念。

 昨日の朝、テレビをみていたら中国の日本領事館に北朝鮮の市民と思われる家族五人が駆け込もうとしたところ、中国の武装警官に取り押さえられた、というニュースが報道されていた。そのニュースでは、小さな子どもを背負った母親が取り押さえられるシーンが映し出されていたが、どうやら全員取り押さえられてしまったようだ。
 在外公館の治外法権を公然と無視した今回の対応は、「ウィーン条約」違反ではないか。それなのに映像では、日本領事館の職員はその一部始終を見てるだけだった、ように見えた。その後、日本政府として抗議と引き渡しを要求したそうだが、日本も中国も道理と誠意ある解決にむけての話しあいこそ必要だ。取り押さえられた母親を前にして、泣きじゃくる小さな子どもの姿を見ていたら、泣けてきた。

 


2002年05月09日(木) 息子が4歳の誕生日


8日は午前中、保育園の保護者会の仕事で広報の作成と印刷、午後からは二週間も出せずにいたメールマガジンの作成と先週から毎週発行に切り替えた「活動ファイル」の作成にあてた。ところがここ数日、メルマガを送信がなんらかのトラブルで不能になっている。何度チャレンジしてもダメ。「cookieを有効にして下さい」と表示されるので、「表示を受け入れる」と設定するのだが、同じ結果に。「いい加減にしてほしい!」と思いつつも、もうこれ以上先延ばしができないので、自分の公式サイトにお詫びと当分の間、活動報告はこの「ヤグネットの日記」でお伝えするとともに、公式サイトに直接アップすることにした。読者がようやく三桁になった矢先だったので、とても残念。大きな管理会社に頼るのではなく、自前でメルマガの発行ができるようなシステムはないだろうか?そうすれば、もっと小回りがきくと思うのだが…。

 8日は、息子の4歳の誕生日。夜、誕生日のケーキをみんなで食べた。今回は、宇治市役所の近くにある「ツア・クローネ」というお店で注文。妻が宇治市内の学校に通勤していたとき、いつも「食べてみたい」と思いつつ、ついにそれが果たせなかったもの。
 息子は、妻の3回の流産の末、ようやく授かった命。幸い、すくすくと(最近では縦にのびるより体重が増えてきて、父親に似てこないかと母は不安になっている)育ってくれている。
 自己主張をすることが多くなり、僕が「マジ切れ」することも増えてきたけれど、とことん向き合って、ともに育っていきたいと思っている。
 少年犯罪や児童虐待、人間のみならず、自然がどんどん壊され、経済は疲弊するばかり。政府は自国の経済をどう発展させるかよりも、アメリカの飽くなき欲望の忠実な僕(しもべ)となって、力による世界の制圧の一端を担おうと狙う。こんな大変な時代に、果たして人間らしく、自分らしく生きるとはどういうことだろう。とても難しい課題だけれど、一つだけ言えること、それはこの現実から逃げることだけはしてはいけないということだ。
 息子ともに育ちあいをしていくなかで、家族で「人間らしく、自分らしく輝くために」現実と格闘していく営みだけは、忘れずにこれらも生きていきたい。


2002年05月08日(水) 憲法九条もつ国が海外での武力行使の準備の議論

 昨日から、有事法制3法案の審議が衆院の特別委員会で始まった。家で仕事をしていたので、思わずテレビ中継に見入ってしまった。
 自民党はもちろん、民主党や自由党は「有事法制」必要論から質問をしていた。民主党の中には旧社会党系を中心に根強い反対論があり、今回政府が提案した法案には、慎重な対応をせざるを得ないようだ。
 それにしても、「今国会会期中に成立を」と意気込んで提出した政府が、まともに答弁できない姿にはあきれた。中谷防衛庁長官は、官僚が脇につきっきり。あたかもベンチで監督の指示を受けてバッターボックスにたつ野球選手のようだ。「海外で戦闘を行う米軍を支援中に、戦闘に巻き込まれるおそれがあると判断した場合、自衛隊は活動を中止するのか?」と志位委員長が鋭く突っ込んだ質問にはシドロモドロになり、なんと委員会席からの「離脱するんだよ」のヤジに促されて、ようやく答弁する有り様。
 志位委員長の質問で明らかになったことは、この「有事法制」がアメリカの介入戦争に日本が参戦できるようなしくみづくりであり、そのために国民の自由と人権をしばる戦時体制をつくることを最大の目的としていることだ。しかも、アメリカのラムズフェルド国防長官が「ときには先制攻撃も必要になる」と雑誌に掲載した論文で述べていることに対して、小泉首相は「理解している」と答弁した。
 これは、「侵略にどう対抗するか」という論理ではなく、憲法九条をもち交戦権を永久に放棄したはずの日本が、テロや地域紛争を口実に行うアメリカの介入的な先制攻撃に参加する可能性が十分あることを示唆したもので、きわめて重大な発言である。「備えあれば憂いなし」の諺を小泉首相が使う真の意味は、国民に対して備えを説くのではなくて、目下の同盟者としてアメリカに深々と頭を下げ「備えは出来ています。ご心配なく」という卑屈な態度そのものなのだ。

 8日は、息子の4歳の誕生日。夜、ささやかなお祝をしてあげようと思う。共同通信のインタビューで、一橋大学の渡辺治教授が「日本が参加しようとしている戦争は、グローバル秩序に歯向かう国をつぶす戦争だ。強い国が弱い国をつぶす。戦前のように国民を総動員する必要すらない。米国のようにテレビで戦争を見ながら、豊かな社会を守るために受け入れていく。むしろそれが怖い」と答えていた。
 わが息子には、テレビの前で何の疑問も持たずに、目の前を戦争を受け入れるような人間には育ってほしくない。感性を磨き、理性と考える力、他者と共感できる心をいっしょに育んでいきたいと思う。

 「戦後、日本の平和運動が盛り上がったのは悲惨な戦争体験に基づいている。『殴る側』の大国で、大衆的な平和運動が盛り上がるのは難しい。国民が憲法九条の平和主義を堅持できるか。世界から真価が問われるのはこれからだと思う」これも渡辺治さんの言葉。かみしめたい一言だ。


2002年05月07日(火) 緑を守り後世に伝えること

6日はお昼には、京都に向けて出発しようと思っていたが、結局午後2時すぎに。家路についたのは、夜8時すぎになってしまった。
 途中からぐっすり眠っていた息子は、家に着くころに起きだした。例によってグズリはじめ、車の中で大声をだしてしまった。車に揺られていたので熟睡できなかったようだ。

 この連休中は、田植えの作業がなかったので5月15日から改めて手伝いにいくことにした。
 飛騨の山あいのまちは、緑に囲まれている。この季節は、どれ一つ同じ緑がなく鮮やかだ。このまちにも市町村合併の波が押しよせている。益田郡を一つの市にする動きがあるようだ。
 高齢化は否応なく進行している。一方で少しずつだが緑が削られつつある。「南飛騨国際保養地構想」というものがあり、他の地域から南飛騨地方で「保養」してもらうための種々の施設を整備するという。
 それよりも地元の高齢化にどう対応するのかなど、地元の課題に目をむけるべきだという議論もある。地元の女性の党議員が奮闘しているようだ。
 3月に宇治市で開かれた「市町村合併」のシンポジウムに参加したさい、「過疎化がすすむ小さい町では合併が避けられない」という趣旨の発言があった。
 たしかに高齢化が進み、過疎化がすすむとその分住民税も減る。国からの財政支援も増えるだろう。
 「だから、国の財政負担を減らす必要がある」というのが国の言い分だが、本当にこの基準だけでよいのだろうか?
 美しい緑、自然は一度失えば回復するのに相当の時間がかかる。二度と同じ生態系を回復するのは不可能だ、という声もある。そうならば、この緑を守り後世に伝えるためには、どういう方法が考えられるのかを出発点にして、物事のなすべき順番をきめることが必要な時代なのではないか。
 右肩上がり、高度成長の時代が終わったいま、「持続可能な社会」の中身こそ問われる時代に入った。
 自然に囲まれてあらためてそんなことを考えた。この精神、考え方はどの地域にいても共通するものだ。この理念を大切にして、議会活動にとりくみたい。


2002年05月06日(月) 「鈴木宗男研究」を読む


 5日は、午後からお蕎麦を食べに、下呂町まで足を伸ばした。僕は、ざるそばに自然薯をすりおろしたものをつけて食べる「自然薯そば」を注文。口のなかで自然薯がフワッと広がり、そのあとからそばの香ばしさがゆっくりと追いかけてくる。腰が強いものだから、ゆっくり噛むごとに美味しさがお腹の中にしみていくようだ。注文をうけてから麺を茹ではじめるなど、味へのこだわりも感じられとても好感がもてるお店だった。お店の名前は、「福○内」(これで「ふくわうち」と読む)国道257号線沿い、下呂町の宮地というところで、舞台峠の手前。お薦めしたいお店の一つに加わった。電話(0576)26-3510。
 
 連休前、鈴木宗男代議士の公設第一秘書をはじめ7人が逮捕されたが、ちょうど加藤昭さんの『鈴木宗男研究』(新潮社)を読みかけていたので、三色ペンを右手にもって、昨日一気に読み終えた。「週刊新潮」に連載をされていたものだ。政治とカネをめぐってのスキャンダルの連続。政治家としての歩み=利権あさりの歴史であることがよくわかる。地位や名誉、利権や政治的ポストのために議員バッチをつける、もっとも憎むべき政治家像だ。リアリティがあるとおもったのは、3月の自民党離党騒ぎの舞台裏。ある自民党幹部との“密約”を交わしたという下り。「宗男は“自分を辞任させたら橋本派への裏献金をすべて暴露する”と抵抗しています。そして、仮に議員辞職を受け入れた場合の取引条件として、一年後の復党と、その際に北海道比例区での名簿順位第一位の確約を要求しているのです」(自民党関係者)」(137ページ)
 自民党、そして橋本派の金庫番であった鈴木氏だからこそ言える「脅し」。自民党の金権腐敗ぶりをあらためて怒りを覚える。


2002年05月05日(日) 五平餅


 斉藤孝さんの『三色ボールペンで読む日本語』(角川書店)を読み終えた。前にも書いたが、本を読む姿勢が根本的にあらためさせられるほどのインパクトを与えてもらった一冊だった。三色ボールペンを引きながら本を読むことは、「技」である、と斉藤孝さんはいう。著者がその本で何を伝えたいのか、客観的要旨を的確につかむことが何よりも大切だと主張する斉藤さんは、本を読みすすめるさいに、「まあ大事」は青、「すごく大事」は赤、「おもしろい」は緑という具合に、引き分けていくことをすすめている。青と赤は客観、緑は主観。こうして、主観と客観を上手に使い分けていくことで、著者のいわんとすることを掴みながら、そこに角度をつけた自分のコメントを加えていく。これは、日本語の読解力の向上にとどまらずコミュニケーション力のレベルアップにも役立つものだ。これまで「線を引くと勿体無い」などといった自分が恥ずかしくなった。これからは、どんどん線を引いて本を読んでいきたい。

 妻の実家の近くで五平餠のお店を始めた方がおり、昨日さっそく買ってきたものをいただいた。「あぶらえ」を擦って、ペースト状にしたものを平にした御飯に塗り込む、という簡単な料理。一度食べたら癖になる、飛騨ならではの美味でお薦めだ。(写真)
 
 


2002年05月04日(土) 「有事法制」への反応


 3日の午前中、地元の党支部のみなさんと、「有事法制反対」の署名を集めに、地域を歩いた。やはり支部のみなさんとワイワイ話しながら活動するのは、楽しい。マイクを握る手にも力がこもる。
 署名と対話では、考えさせられることが多かった。
 「自分は有事法制は賛成です。早く通ってほしい。あなたたちは大袈裟に考え過ぎだ」と、あっさり署名を断った初老の男性。
 「わたしゃね、毎日会社でいつクビになるかわからないほど、苦しい思いをしているんだ。これは、社会の中での戦争なんだ。」「反対か賛成か自分は割り切っては考えられない」と訴えるサラリーマン。
 「私は軍隊を経験したので、うんと年が若ければ徴兵を受ける覚悟はある。」そう訥々と話す老人。それでも、最後には「戦争はイヤだが。」と付け加えたのが印象的だった。

 小泉首相は、連休あけからの本格審議でこの国会会期中に成立を企んでいる。その一方で、国民の「有事」への受け止めは、まだ漠然としたものなのだ。「備えあれば憂いなし」の宣伝が相当入っていることを実感した。一緒に署名を訴えた戦争体験者の方は、「あのような経験は二度としたくないんです」と切々と訴えられていた。ところが、いま日本社会の中心をになっているのは、どの分野でも戦後生まれだ。(もちろん、僕もそうだ)それだけに、「戦争はあかん」という当たり前のことさえも、それを共有するにはいろんなプロセスを踏まなければ、「わがこと」として実感をもって受け止めることにはならないのではないか。
 事実を伝えともに考えるディスカッション、自分が体験をしていないことでも体験者の話を聞くことによる「疑似体験」等々。そのためには、賛成や反対の意見があってもそれを突き合わせて「何が真実か」をみきわめていく努力、たとえ意見が違ってもそれを最大限保障する寛容さ、すぐに結論が出なくても系統的に考えていくねばりづよさ、などが求められる。
 ところが、「そんな『寛容さ』をも奪い去るのがこの有事法制だ」ということを理解してもらうのに苦労するところに、今日の困難の深刻さがあるのかもしれない。

 でも、僕は根本的には楽観主義だ。あきらめず、人間の本性とでもいうべきものへの根本的信頼を寄せて、引き続き働きかけをつよめていきたい。

 夕方6時に、岐阜にむけて出発した。3連休の初日ということもあって高速道路は渋滞。結局、飛騨についたのは午後11時30分。5時間半もかかってしまった。本を10册以上も鞄につめこんだ。時間が許す限り、読破したい。

 


2002年05月03日(金) 活動ファイル発行


 2日は、午前中党の会議。帰り道に小倉の「TUTAYA」で野口悠紀雄さんの「ホームページにオフィスを作る」(光文新書)と藤竹暁さんの「ワイドショー政治は日本を救えるか」(ベスト新書)を買う。ほかに、いま話題の「機密費」を取り上げた本があったが、今回は2册に絞った。
 公式ホームページは今年リニューアルを宣言していたのに、いまだに着手できず。少し焦っていたので野口さんの本に飛びついたわけだ。

 午後からは、「活動ファイル」を作成した(写真)。「しんぶん赤旗」読者のみなさんに「定期的」に僕の活動をお伝えしているものだが、いまのところ「不定期」状態。
 「しんぶん赤旗」をおすすめするときに、「読む時間がない」「読めへんし…」という返事をよく聞く。仕事をもっておられる方などは、たしかにそうだと思う。そこで、今週から僕がぜひおすすめしたい記事を裏面で紹介することにした。なによりも、僕自身が「しんぶん赤旗」のどこがおもしろいのか、どこをすすめたいのかを読者のみなさんにお伝えしながら、「おもしろさの共有」ができれば、というのがねらいである。
 
 3日から岐阜の妻の実家へ帰省。戻るのは6日の夜。日記の更新ができるか自信がないけれど、チャレンジしてみたい。
 


2002年05月02日(木) 雨のメーデー

 5月1日は、言わずと知れた「メ−・デー」。あいにくの雨模様だったが、午前10時から宇治市の通称「塔の島」公園で「第49回南山城統一メーデー」が行われた。僕も壇上に並ばせていただいた。またパレードでは、宇治橋商店街の入り口に宣伝カーをつけて、マイクでお話をしながら、メーデー参加者のみなさんに連帯と激励のあいさつをさせていただきた。
 今年のメーデーは、有事法制や医療改悪、最悪の失業率など、くらしと平和の重大な岐路の真只中で開かれた。パレードの途中で雨もあがった。工夫を凝らしたデコレーションが担ぎ手の意気込みが乗りうつったかのように、生きいきと踊っていた。

 午後からは、深谷郵便局へ送金に行く。最近は郵便局もカードによる順番制になっていて、僕の前に7人ほどお客さんが待っていた。城陽市の東部には郵便局が少ない。コンビニなどに郵便局のATM機などが設置されれば、ずいぶん便利になるのではないか。

 家に戻ると、葉書が届いていた。 前の僕の勤務先で一緒に仕事をしてきた先輩からのもので、22年間勤めた職場を辞し、新しい仕事につくことを知らせる内容だった。40代半ばでの「FA宣言」。いろんな意味で重大な決断となったことだろう。僕は、大きな決断に拍手を送りたい。
 
 連休に入ってから読もうとおもって購入してきた「読書術」の本を読む。
 斉藤孝さんの『三色ボールペンで読む日本語』が抜群におもしろい。三色ボールペンも本を購入するとついてくる、というユニークな企画。まだ50ページほど残っているけれど、すっかりのめり込んで三色ボールペンで線をひきまくっている。読み終えたところで感想をこの日記にも書くことにしたいが、これまでの読書に対する姿勢、本への向い方を根本的に改めさせることを迫った一冊だ。なにか、もう一度学生をはじめるようで、ワクワクする気持ちも沸き上がっている。


2002年05月01日(水) うれしい感想

 激動の4月が、あっという間に過ぎていった。
 前半は知事選挙。そして後半は有事法制問題や党を大きくする運動など、僕自身は必ずしも十分な働きが出来ているとは言いがたいのだが、課題が山積でプレッシャー続きだった。
 自分の力不足に落ち込みがちだった僕を励ましてくれたのが、25日に同志社大学で行った学習会の感想文だ。主催者の方が気を利かしてファックスで送ってくれた。つたない僕の話しに耳を傾けてくれ、しかも素直な若々しい感想を寄せてくれている。その一部を紹介したい。

 ●有事法制がどうして法案として提出されたのか分かった。今後の小泉内閣がどのような行動をとるのか興味をもった。アメリカの子分みたいな感じになっていることを知ってムカついた。共産党は今まで敬遠しがちだったが、今日、講演を聞いて考え方を改めた。今後も、様々なことを聞いて、いろいろと考えたい。(男子学生)
 ●今日の情勢について、やはり世界全体が右傾化しているということに強く危機感を覚えた。9・11以降の情勢は、「対テロ包囲網」という名のもとにアメリカ中心の世界が築かれつつある。これは権力層にとってかっこうの機会である。この流れは21世紀をも「戦争の世紀」といたらしめる危うい道ではないかと思った。そして、体制が戦前までに戻されてしまうのではないかと「メディア規制法案」とあわせて思った。(男子学生)
 ●今まで戦争がこわい、起こってほしくないという気持ちでいましたが、今日の学習会で自分たちの力で戦争をなくしていくんだという気持ちに変わりました。有事法制が問題になっている中で、自分がどのように、主体的にこの問題に関わっていくかということが大事なんだということがとてもわかりました。自分が主体的になることで、今までの戦争に対する不安感や恐怖感に立ち向かっていけるように思いました。とても勉強になりました。(女子学生)
 ●新聞に書いてある有事法制は、具体的内容が欠落していて全然わからなかったけれど、今日、話を聞けてすごくためになりました。大学ではまだ学び始めたばかりなのですが、自分なりに意見を持って考えていきたいと思います。親切にいろいろ教えてもらい、自分の考えが広がったような気がします。友達にも話せる機会があれば、有事法制について話してみよーかと思います。

 人間は、自分の行動や言動が他者に役立っていると感じた時にやりがいや生き甲斐を感じるもの。
 これからも学んで自分が考え感じたことを自分なりの方法でまわりに広げていきたい。

 GWに読む本を二冊買い込んできた。
  ・朝日新聞編集部顧問の轡田隆史さんの「うまい!と言われる文章の技術」(三笠書房刊)
  ・「声に出して読みたい日本語」の著者、斉藤孝さんの読書術を紹介する「三色ボールペンで読む日本語」。三色ボールペンで線を引きながら読みすすめることで、日本語力が驚くほどに向上する、とのこと。どんな内容か、さっそく線を引きながら読んでみたい。

 正しい日本語やわかりやすい文章をもっときちんと書きたい、という衝動に最近つよくかられる。なぜなら「感性の伝えあい」の大切なツールは、「ことば」なのだから。早く読みたい。

 
 


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