ヤグネットの毎日
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2002年01月31日(木) ネコのひき逃げ


 最近、歩くことがめっきり少なくなった。車の移動ばかり。だから肥満体質が改善しない。わかっていても、なかなか車生活から決別ができずにいる。今朝、保育園の参観があったので、歩いていった。(といってもガレージから徒歩4分)
 途中、ある団地の自治会の掲示板のはり紙が、目にとびこんできた。
 それは、ネコのひき逃げについてだった。
 「10月24日の深夜12時頃、この場所で車にひかれたネコを見つけました。急いで病院に運びましたが手おくれでした。抱き上げたときはまだ体があたたかく、すぐに処置をすれば助かった命でした。」おおよそこんな中身だった。

 ぼくの記憶が、17年くらい前にフィードバックした。
 当時、ぼくは高校の授業料を払うために、1年ほど新聞配達をしていた。コースを覚えたてのころで、山積みの新聞を時間通りに配達せねば、とあせっていたとき、ネコのれき死体を発見した。
 道路のまん中で見るも無惨なかっこうになっている。「かわいそうに、なんとかしなければ」と思いつつ、配達で精一杯のもう一人の自分が「おまえが手を汚さなくたって、誰かが見つけて供養してくれるさ」とささやく。結局ぼくは、死んだネコをそのままにしてバイクで走り去ったのだった。そんな自分が情けなくて、当時、文芸の同人誌(友人でつくっていた)に「手がよごれるから、忙しいからといって、目の前で苦しむものから目をそらしてしまった自分を許せない。自分のことだけでなく、他人のことを思いやる生き方がしたい」というような趣旨の一文をのせた。いま思うと、自分でもくすぐったいくらい真直ぐだった。

 自治会の掲示板にはり紙をした人も、「生きとしいけるものすべてへの深い愛情こそ、大切だ」ということがいいたかったのだろう。その一文をネコをひいた人が見ている可能性はほとんどないだろう。ひいたことも自覚がなかったのかもしれない。
 でも、はり紙をした人の思いは決して無駄ではなかったと思う。
 
 だって、「手がよごれるから、忙しいからといって、目の前で苦しむものから目をそらしてしまった自分を許せない。自分のことだけでなく、他人のことを思いやる生き方がしたい」
 そんな昔の青臭い自分の「初心」をあらためて、ぼくに思い起こさせてくれたのだから。


2002年01月30日(水) 思い込み


 昨日は、午後から少年少女合唱団の再生に向けてのスタッフ会議。
 あー、新しいことにチャレンジするための取り組みは、本当に楽しい。
 新入団員募集のための打ち合わせが中心。
 もし、少年少女合唱団のスタッフに関心のある方がいれば、メールで
 連絡をしてほしい。

 夜は、党の関係の会議。長く私の議会活動報告のビラが発行できていなかったので、その原稿をみなさんに見ていただいた。積極的な意見もだされたので、さっそく手直し作業にかかる。

 さて、本題の「思い込み」について。

 この日記を読んでいらっしゃる方のなかで、長年自分が「こうだ」と思っていたことが世間の常識とまったく違っていた、という経験はないだろうか?ぼくは今朝、それを経験した。

 「ゴーゴーたからじま」というビデオシリーズがある。子どもが楽しくかけ算やひらがなを覚えていくものだ。息子は大のお気に入り。冒頭に女の子が「ミラクル、ぐるぐる〜、チョコパイ、クレオ、ハムたまご!」と唱える呪文をまねしてみせてくれる。これが、またかわいい!(爆)
 このビデオのなかで、かけ算のコーナーをみた。「1の段」が聴こえてくる。
 「1×1=2」をどうよむのか?ぼくは、「いちいちが、いち」「いちにが、に」…「いちはちが、はち」とずーっと30年近く覚えてきた。これが正解、常識だと思い込んできた。
 ところが、ビデオでは、「いんいちが、いち」「「いんにが、に」…「いんさんが、さん」と読んでいるではないか。

 「ふんっ、このビデオおかしいで。『いんいちがいち』なんていわんやろ?」
  鼻で笑って、妻に同意を求めた。すると、
 
 「お父ちゃん、なにいってんの?『いんいちがいち』よ」と妻。

 「……」。ぼくは言葉を失った。

 もしかしたら、いろんな言い方があるのかもしれない。
 でも、ぼくががく然としたのは、ぼくが「いちいちが、いち」しか答えがない、と思い込んで、「いんいちが、いち」という言い方を想像すらしなかったことだ。
 
 思い込み。これは、恐ろしいことだ。それは、いつしか自分の考えを絶対化して自分の物差しでしかものごとをみることができなくなる。
 でも、そのことに気づいて、えも言われぬ快感を味わった。
 知ったかぶりをせずに、自分の認識不足を素直に受け入れる、そんな柔軟性が大切だ。ストレスをためないためにも、これは必要なことだと思う。
 ぼくは、ひとりで「いんいちが、いち」を「いんくが、く」まで復唱した。
 
 

 


2002年01月29日(火) デスクワーク


 あたりまえのことだが、議員の仕事は、議会に出席して議案を審議し議決すること。行政が提案する条例案や予算案など結構専門的なことが多い。
 肌で感じる市民のくらしの実態をつぶさにつかむこと。
 そして、行政の論理だけにふりまわされないだけの知識や論戦力が必要だ。
 その点、ぼくはもっと地域を歩いて市民の声を聞くという活動が圧倒的に不足していると痛感する。ここ数日も、デスクワークが多い。
 ビラの原稿づくり(宣伝用)から、この間ずっと発行できていない地域の民報の作成、そしてメルマガの発行などなど。これだけで、昼間の大半の時間を使ってしまう。
 夜は、会議が入ったり、息子とスキンシップをはかってりしていると仕事をする時間などなくなる。
 
 相談を持ちかけられればなんとかそれをこなす。議員生活のなかでようやく身につきつつあるが、地域に顔をだし、ひらたくいえば「仕事をとってくる」というセールス的な仕事になると、極端に弱気になる。
 先日、ついに「内気な人の営業にはコツがある」といういわゆるビジネス本を買ってしまった。もちろん、われわれの仕事は営業ではない。でも、思わず手を出した。
 ぼくを普段知る人は、「絶対にそんなはずがない」というだろう。でも、素顔のぼくは、結構そんなことで悩んだりしているのだ。

 昨日も妻は学校の関係で帰宅が遅くなったので、息子を保育園に迎えに行き夕食をつくった。日曜日につくった粕汁がまだ残っているので、それと酢豚をつくった。
 「食べようよ」と息子に声をかけると「どっちもいらな〜い」と冷たい反応。ウインナーを茹でてあげてようやく口に運んでくれた。

 「なんちゅうわがままな奴!」とプンプンしているところへ妻が帰ってきた。すると、息子はおかずを指して、「お母ちゃん、これお父ちゃんがつくってくれたよ」と紹介してくれた。そして、母親が着替えに奥の部屋に入ると、スプーンを使って酢豚をパクっとひとくち食べた。
 ぼくが見ているのに気づかなかったようだ。ぼくの目が少しだけ潤んだ。
 
 


2002年01月28日(月) わかるとはわけること


 26日は、午前中は宣伝カーで街頭宣伝を行った。いちばん最初の場所で、バイクの人に「うるさい!」とお叱りの声をかけられ、それから10秒もたたないうちに別の方から、今度は「がんばって!」の励ましの言葉をいただいた。7ケ所で訴えた。ぼくは自分が宣伝するときは、たいていボイスレコーダーで録音する。
 後で聞き直して、いいフレーズは活字にして残しておくことにしている。こうすることで、少しでもわかりやすく、心に残るような言い回しをみつけたいと思っている。
 ぼくの理想は、やさしく語りかけるようで、しかし、内容は政治への怒りと未来への希望、ともに行動したくなるような具体性にみち満ちた演説。いまだに、一度もできたことがない。

 じつは、今度の土日は部屋の掃除に大きく時間を費やすことになった。「部屋の掃除をやうう、やろう」と思いつつずーっとできずにきた。業を煮やした妻が、ついに「強権発動」で書類の山、本の山に手をかけた。
 みるみる部屋が変化していく。学校が忙しく、体を休めたいはずなのに申し訳ないと思いつつ、後ろでじーっとみているぼくだった。

 だいたい、ぼくは整理整とんが大の苦手。
 仕事ができる人間かどうかは、その人の机の上をみればわかる、と言われる。それは、自分がすべきことをきちんと頭の中に整理されているか、が机の状態にすべて「現象」するからだ。

 昔からそうだった。
やるべき課題が目の前にありすぎると、頭が飽和状態になる。そんなときは、いま自分が抱えている課題をメモにして順番に書き出してみる。すると、並列的に並べていた課題でも、実は「すぐにできること」と「段取りをしなければできないこと。」「他人の相談しないと前に進まないこと」などなど、課題の大きさや性格がみえてくる。すると、自然と気分が落ち着いて、すぐできることをこなして勢いをつけ、一気に他の課題にも手をつけていく。これが、僕の行動パターンだった。

 自分の父親から、説教じみたことを聞いた記憶はないが、「わかるとは分けること」という言葉だけは妙に記憶に残っている。自分ができていないことだから、だと思う。
 少し行き詰まったとき、自然とやっていた課題の書き出し(いつもポストイットを使っている)は、頭の中の整理整頓。
 最近、仕事をうまくこなしきれていないことを自覚している僕にとって、部屋の掃除は突破の糸口をつかむ、大事な「仕事」なのだ。
 
でも、まだ机の周りは雑然としている。
「100均」で整理ケースをたくさん買い込んできた。今度こそ!
  
 

 
 

 


2002年01月26日(土) 1日会議づくし

昨日は、午前中が党の会議で午後からは議員団の会議。つまり、1日会議づくし。夜も外でる用事があったが、キャンセルとなった。
 
 どの社会、どの組織でも「会議」というものは重要だ。ものごとを決定する会議、意見や経験を交流する会議、いろいろある。しかし、どんな会議であれ、いちばん大切なのは自らが主体性をもって参加するか否か。
 だって、24時間のうち何時間かをある意味で「拘束」されるわけだから。せっかくの「拘束」時間をプラスにするのかマイナスにするのかは、自分の心がけや意欲が大切になってくると思う。

 これまでの人生の中で「会議」に費やした時間はどれくらいだろう。これからも自分の生活が「会議」を中心にまわっていくことは間違いない。単なる実務的に終えるのではなく、人と人との心の交流を軸にした実りあるミーティングを心がけたい、合理的かつ建設的に。

 このところ、ギターを弾く時間がなかったので、30分ほど弾いた。
 弾き終わったら、気分がスーッとする。 
 ドラえもんのビデオに夢中の息子の前で、「お客さん、一曲歌わせてもらえませんか?」と流し気取りで声をかけたら、「ビデオ見てるんだから、だめ〜〜!」と一蹴された(爆)
 それから、たまっている仕事をこなそうと机にむかったけれど、熟睡モードに突入。
 
 今日は、マイクを使っての宣伝など昼間は外にでて活動予定。夜は男声コーラスの練習と地域の党の会議があるので、「はしご」をする予定。

 
 
 


2002年01月25日(金) 家事をこなす


 昨日は、息子が風邪ぎみ。「保育園いくか?」と聞くと、「ねんねしていたい」というので、思いきって休むことに。
 妻は中学校の教師をしているが、いま休める状況にない。
 ぼくは宣伝ビラの原稿を書く、というデスクワークがあったので、仕事をしながら子もりをすればよい、という軽い気持ちだった。

 ところが、ところが。
 息子は、これ幸いとばかりに、ビデオをみはじめた。「お父ちゃんも一緒にみよ、ね。ぼくは教えてあげるから」などといって、引きづり込もうとする。結局、仕事が手につかなかった。読みたい本もあったのに…。
 
 最近、妻が仕事で忙しい。学校現場は、ここでは表現できないくらい相当、タイへン。妻は子どもから逃げるのではなく、立ち向かって行く。
 この気合いと情熱は、夫のぼくがいうのは変なのだが、すごいものがある。
 
 知り合ったころ、学校のマラソン大会で思うように走れなかった女子生徒
 について、キュロットとカーディガン姿で一緒に走り抜いてしまった、という話を聞いた。子どものために、まっすぐに立ち向かう姿に魅せられたことを、知り合って10年目のいま、あらためて思い出している。

 だから、家事もできることはやりたいと思っている。無茶苦茶へたくそだけれど。朝食や夕食もつくる。上手にやりたい、と思うのだが、そこは元来の粗雑なところが出てしまい、目も当てられないときも。

 でも、家事をこなしながら、台所から社会と政治が見えてくる。庶民の目線、毎日のくらし、ここを忘れずに仕事をしたいと思っている。
 
 話は変わるが、昨日、日テレの「ズームインスーパー」で森山良子が沖縄のさとうきび畑から完全生中継、生演奏で「さとうきび畑」を歌っていた。いうまでもなく、「さとうきび畑」は彼女のヒット曲だが、静かな反戦歌だということを、はじめて知った。(なんという世間知らず!)

 アコースティックギターの音色がしみる。そして、森山良子の透き通りながら、しかし、ジーンと胸にしみる歌声。静かにうたって平和の尊さをよびかける。
 これだ。僕のめざすもの。ギターがまた、無性に弾きたくなった。
 でも、時間が、、、、、。
 
 


2002年01月24日(木) 難病指定

 議員活動では、生活相談が結構大きなウエイトをしめる。
 昨日は市役所で二つの相談事を解決するため調べものをした。

 ひとつは、児童扶養手当について。いわゆるシングルマザーへの支援策のひとつだ。ところが、国の財政難からこんなところにも容赦なく「切り捨て」メスが入れられる。たとえば、こうだ。別れた夫から送られる養育費は、従来「収入」からは除外されていた。しかし、来年度からはこれも収入と認められる。所得制限がある児童扶養手当は、元・夫からの養育費を断らなければ手当てをもらうことができない、というケースも出てこないとも限らない。昨今、DV法(ドメスティック・バイオレンス)が制定されるなど、夫や恋人から暴力が大きな社会問題となり、これらに苦しめられ悩む女性を社会的に支援することが喫緊の課題となっている。児童扶養手当ての「改悪」は、明らかにこうした流れとは逆行するものだ。

 もう一つは、難病指定について。相談を受けた方の病名は、「混合性結合組織病」。膠原病だ。この病気は国の難病指定に含まれ、医療費は免除されるもの。私はそう理解していた。相談者のかかりつけの医師もそのことを疑わず診断書を書き、それをもとに相談者は保健所へ申請した。ところが、保健所からは、「診断基準をみたしていませんので認められない」という返事がきたという。
 相談者は、「自分より症状のひどい方はたくさんいるので、自分が受けられなくても…」と納得をされていたようだ。だが、ぼくはどうも納得がいかなった。
 保健所へ問い合わせをした。そもそも難病指定の正式名称は、「特定疾患医療費公費負担制度療」という。原因が不明で治療法が確立していない、いわゆる難病のうち、診断技術が一定確立し、かつ難易度、重症度の高い46疾患を特定疾患に指定して、治療研究事業を行う、というものだ。少しひねくれた見方をすれば、国の研究に役立つかどうかが、判断基準らしい。つまり、「医療費が免除される」というのは、医療研究の対象となることと引き換え、というわけだ。だから、原因不明で治療の難易度が相当高いものでなければ、医療費助成の対象とはなりえない。対応してくれた保健婦さんの話しを総合するとそういうことだった。
 でも、、、。おかしくはないか。
 この方は、かかりつけの医者から難病指定の46疾患に含まれる「混合性結合組織病」と診断された。「難病指定を受けられると思いますから、この診断書を」と言われて保健所に提出した。しかし、審査会では、「診断基準をみたしていない」との理由で却下された。
 この過程のどこに、患者への説明責任が果たされているのか?どういう診断基準があるのか。この方は、その診断基準をどれくらいみたしてないから却下されたのか。「混合性結合組織病」は、難病指定をうけない程度の病気も存在するのか。一向にわからない。
 「好きでかかった病気ではないのですから、特定疾患にあげられる病気であれば、治療法が確立するまで支援してあげるべきではありませんか。それでもだめなのなら、なぜ認められないのかをきちんと説明をしてあげるべきです」と保健所の保健婦さんに訴えた。保健婦さんに責任はないのだが。
 難病とは、現代の医学、科学技術の限界からうまれるものだ。患者本人になんら責任があるものではない。
 現代の医学の限界からうまれるものだからこそ、そこに微妙な診断基準等を設けずに、国で医療費を助成するべきだ。と、ぼくは思うのだが、この日記を読んでいただいているみなさんは、どう思われるだろうか?

 

 


2002年01月23日(水) 京都知事選挙

京都は、4月7日投票で知事選挙がある。ぼくの生活も選挙中心になり、忙しくなる。昨日も、午後と夜に会議があった。
 京都はもともと、蜷川民主府政が28年間続いた革新の力が強い地域。それだけに、反共シフトもつよく、この24年というもの自民党府政のもとで、共産党をのぞく「オール与党」体制がつくられてきた。
 ところが、いま、その体制に微妙な「亀裂」がうまれようとしている。

 いや、正確に言うと府議会のなかでの「オール与党」体制には亀裂はない。あの京セラの名誉会長である稲盛和夫さんをはじめ、京都財界が吉田和男・京都大学教授(旧大蔵官僚)を知事候補に担ぎ出そうとしたが、自民党をはじめ府会与党会派は、それをしり目に山田啓二副知事に立候補要請をおこなってしまった。稲盛和夫氏や堀場雅夫氏など京都財界のメンバーは、「府民が知らないところで決まっている。今回はおとなしく引くが、今後もこういうことがあれば、心ある人は許さないと思う」(「京都」1/22)と怒り心頭だ。同じく心中穏やかではないのが、京都財界とともに吉田和男氏推薦で動いていた民主党京都府連。会長の前原衆院議員は、「知事を総務省のポストのような形にしていいのか」と不信をあらわにしている。

 府会与党会派に担がれる山田副知事とは、総務省から順送りで二年前に副知事としてやってきた官僚だ。
 京都財界は、沈滞する京都の活性化と、京都府民を主人公とする府政を実現する人物が京都の中から立っていただくことを強く念願する」とアピールして、吉田和男氏を推した。しかし、その吉田和男氏は「十分な支持の広がりが見られない」として早々と立候補辞退の記者会見を行った。

 結局、政党間の駆け引きで府民不在の「オール与党」体制のツケが出たわけだ。なんでも国いいなりで、大型プロジェクト優先、くらしや福祉は切り捨てる自民党府政のゆきづまりが、こんどのドタバタ劇ではないのか?

 ぼくは、これからもことあるごとに知事選挙のはなしを書き留めておこうと思う。政治と京都と、そしてそれらに僕がどうかかわっていくのかを、確認する意味もこめて。


2002年01月22日(火) 小説を読むことの醍醐味

 昨日は、朝から雨。保育園に息子を送るときがいちばん激しかったようだ。こんなときに限って、「だっこがいい」と息子はいう。車からおろして土砂降り雨のなかをまず息子をだっこして保育園に駆け込み、あとから布団と荷物をもっていった。
 仕事がたまっているのだけれど、風邪をひいてしまって思うようにはかどらない。メールマガジンも二週間も発行できずにいたので、なんとかこれだけは仕上げることができた。
 いまの風邪は咳きと鼻水、のども痛くなるので要注意。

 話はかわるが、ぼくの日記を読んでくれている人は、活字が好きな人が多いと思う。ぼくも本は大好きだ。
 最近、ネットで本が好きな人たちのつながりが生まれてきて、本を読むのが楽しくてしかたない。
 ぼくの場合、以前は社会科学系の本が多かったが、最近はもっぱら小説を読む時間のほうが多い。社会科学は自分の仕事に直結しているので、本来はもっと時間と册数を多くしなけれいけないのだけれど…。
 小説を読む醍醐味とは、他人の人生を架空の世界で生きることを可能にすることではないだろうか。人は、自分の人生を重ねて共感や反発や思索を小説に登場する人物に重ねる。なぜ、小説を読むのかを僕流にいえば「自分の人生をより豊かにするため」ということにつきる。
よくよく考えれば、「ウェブ日記」というのも、自分の人生を他人にさらけだすこと、読み手からみれば、他人の人生をのぞいてみることだろう。ぼくも結構他人の日記を読むけれど、「なるほど」と思うことが多い。大概そう言う時は、自分の生活にもこういうふうに生かしてみよう」とプラス思考がはたらくものだ。
 ところが、世間を震撼させている、東京・新宿の公園での爆発物事件は、直木賞作家の藤原伊織さんの「テロリストのパラソル」に類似点が多い、とのこと。エンターテイメントとして小説を受け取ることができないばかりか、仮に犯罪に利用しようとして、小説を読んでいたとすれば、全く許せない話である。
 藤原さんのコメントが大変印象的だった。一部をご紹介しておきたい。。

「犯人が万一、僕の小説を読んで参考にしたとすると、極めて憂うつだ。(中略)爆発の状況から、ホームレスの方々を対象にした可能性が高いと思うからだ。失業率が5%を超える時代。自ら望んでホームレスになった人はほとんどいない。政府の無策によって生み出された弱者が、さらに傷つけられた。我々サラリーマンの世界も含め、より弱い者に暴力が向う日本の負の側面を象徴している。憤まんやるかたない」
                 (「朝日」1/20付 社会面から)
 
 こういう時代だからこそ、他人の人生を生きてみること=小説を読むことがますます大切なのではないでろうか?


2002年01月21日(月) 子育てこんだん会 「食育」を学ぶ


 16日以来の日記。日をあけると書きはじめるのに気合いがいる。
 出張の報告はメールマガジンに譲るとして、通常どおり日記を書こうと思う。

 20日は午前中、保育園保護者会主催の子育て懇談会が開かれた。
 テーマは、「親と子のわかりやすい食育講座」。
 現役の保育園の保護者の方で栄養士をされている方のお話と、食育アドバイザーの方がパネルシアターで、子どもたち自身に食べることの大切さ、などを歌や踊りもつけて楽しく解説していただいた。保育園保護者以外の参加もあり、子どももあわせると30人以上の参加があった。

 「食育」というのは、あまり聞き慣れない言葉だ。しかし、今回勉強させてもらって、この言葉が大好きになった。少し受け売りになるのだけれど、欧米では昔から、自分の健康は自分で守るという考え方が強く、幼稚園や小学校の教育のなかで、すでに『食育』が組み込まれているそうだ。日本では、年間に交通事故で亡くなる人より生活習慣病で亡くなっている人のほうが多いというのが実状。交通安全週間などの機会に幼い頃から危険から身を守る方法を学校でも家庭でも徹底して教える。しかし、学校では給食週間や栄養指導、また学級活動で健康を守るための方法を指導するものの、それが学校まかせになっており、親も一丸となって、家庭での食事のときに、親が子に「何を、どうように、どう食べるのか」を教えることが大切だ。
 子どもたち自身に食べるものを選ぶ力を身につけさせるーーこれが「食育」に込められた思いだ、ということである。
 
 たしかにそうだ。私たちは、よりよく生きるために「よい本を読み、よい映画を観なさい」と教えられ、また子どもにも言いたいと思っていたが、よりよく生きるために「よいものをしっかり食べなさい」とは、言われてこなかったし、また子どもにも言っていない。
 
 「キレる子」や昨今増加傾向にある「少年犯罪」も何を食べているか、と深いかかわりがある、というお話もあった。
 とても興味深い話で、もっと広げていきたいと思った。


2002年01月16日(水) 今日から議会運営委員会の出張

 16日から三日間、仕事の関係で出張だ。共働き家庭では、出張は痛い。妻には三日間、迷惑をかけてしまう。ごめんなさい。出張先は、広島県の福山市と熊本県の宇土市。
 いま全国の自治体では、市町村合併が大きな焦点となってきている。
 行政機関や公共施設の配置問題なども課題だが、議員定数をどうするのか、ということも議会サイドとしては問題になってくる。今回の出張でも、そういったことが議論の一つとして浮かび上がってくるかもしれない。

 余談だけれど、議会出張の場合、移動時間が結構ある。新人議員の僕にとっては先輩議員からいろんな話しを聞くというのも大切なことなのだが、それ以外にも読書ができる、という密かな「楽しみ」がある。鞄が重くなるので、文庫本を二冊入れた。(ここだけの話し)

 


2002年01月14日(月) 「'01最新実録決定版!究極のワケあり家計簿超ノゾき見SP」をみた

 13日の日曜日、TBS系列で再放送された「'01最新実録決定版!究極のワケあり家計簿超ノゾき見SP」をビデオにとって妻と一緒にみた。
 のぞき見とは、いただけない表現だが、中身は必死に生きる人たちの姿が映し出されていた。
 たとえば、こうだ。8人の子宝に恵まれた10人家族の話し。
 お母さんがパートでトラックの長距離運転手をやっていたのに、ある月に給料が口座にふりこまれず、子どもの誕生日が数日後に迫っているのに、冷蔵庫のなかは、空っぽに近い状態。出勤前の父親に相談する母親。すると、父親は財布のなかから、数カ月も大切にしまってあった二千円札を出して、これで子どもたちのお祝をしてあげて、とそっと渡す。その夜、小さなちいさなケーキがテーブルに出されているシーンが映し出された。その後、母親はラーメン店に勤めるのだが、朝5時から夜7時という超ハードな勤務。子どもたちのため、そして将来子どもたちと自営業をやりたい、という夢を実現するため、母親は父親とも相談して決断をしたのだ。番組ではリポーターが「いまの時代に食べるものがない、という現実がショックでした。」とコメントをしていた。また、「子どもが多いと仕事を休みがちになるので」という理由で、就職を断られる、というナレーションもあった。これが現実なのだ。子どもをたくさん産んでも、いや、そういう人たちこそが安心して暮らせる社会をつくりたい。そう、強く思った。

 もうひとりは、男の子二人を抱え、4年前に離婚した42歳の父親の姿。
 手取り28万円で教育費などの貯金をしようと思えば、相当切り詰めた生活が必要なのだ。
 子どもたちを育てるために必死に働く父の姿も学ばされたが、ぼくが、感動したのは、子どもたちの姿だ。
 小学校6年生のお兄ちゃんは、朝食の支度から、家の掃除、夕食の準備と家事のほとんどをこなす。
 弟の面倒もよくみる。そんなお兄ちゃんは、毎月1200円ずつもらうお小遣いを貯金して、父の日に洋服をプレゼントした。
 なんというやさしい子どもなんだろう。
 ぼくは妻と一緒にテレビの前で泣いてしまった。ゲストのトミーズの雅さんの「あのお兄ちゃんは、いま小学校6年生やけど、父親が離婚した当時はまだ小学2年生。ということは、いま、お兄ちゃんがやっているような家事を父親がずっとやってきた。それを、お兄ちゃんはジーっとみていたわけですよ。ほんまにえらい。」というコメントもよかった。

 庶民は、毎日を生きるために必死にやりくりをしている。
 自分は、1円の大切さをかみしめながら毎日をいきているだろうか。自分の息子に自分の生きざまをしっかりとみせているだろうか。そんなことを考えさせられた。

 13日は、午後から宣伝カーで久しぶりに街頭から訴えさせたいただいた。散歩中の方から声援を受けた。 
 新年から、ぐずぐずして外で訴える機会を失っていただけに、うれしかった。
 14日は午前中、党の会議。午後から、京都府知事選挙のポスターを地域にいっせいにはりだした。
 予定候補の森川明さん。お公家さんみたいな顔をしているけれど、中身は正義感あふれる熱血漢でやり手の弁護士。24年間続いた自民党府政を転換するためも、がんばるぞ。
 
 
 


2002年01月12日(土) 新春のつどい


 城陽市の日本共産党後援会では、毎年1月に「新春のつどい」をひらく。
 今年も12日に開かれて、170名を超える参加で大きく成功した。
 この「新春のつどい」の目玉は、なんといっても地域後援会ごとの「出しもの」だろう。回数を重ねるごとに、すばらしい「出しもの」が披露されるようになってきている。

 私の地域である久世では、新日本婦人の会の「唱歌小組」のみなさんがたが、女声コーラスで参加していただいた。「ふるさと」「冬景色」「灯(ともしび)」の三曲を歌っていただいたのだが、これが絶品である。二部合唱でハモり、しかも声に張りと伸びがある。大きな拍手が送られたのはいうまでもない。

 また、民謡と三味線は手拍子とあいの手が自然と入り、会場を大いに沸せた。さらに富野地域では昔話、そして深谷地域では混声コーラス。ぼくは、このコーラスに特別出演で一緒に歌わせていただいた。「見上げてごらん夜の星を」「君の祖国(くに)を」「知床旅情」の3曲だったが、練習不足でみなさんに迷惑をかけてしまったかな。

 それにしても、私たちの後援会のみなさんは、芸達者の方がなんと多いことか。これは、とても大切なことだと思う。それぞれが自分を表現する力をいろんな形でもっているということだ。
 
 ぼくは、すばらしい出しものを見させていただいて、あらためて思った。
 最近の日記でも書いているが、ぼくは音楽と政治の二つの舞台で人間の喜怒哀楽を表現し、人の心に訴えていくことに力をいれていきたい。その意味では、エンターテイメントに磨きをかけて、自分らしい輝きをどうつくるのか、がますます大切になっているのだ。
 
 とても、楽しい「新春のつどい」であった。

 夜は、保育園の保護者会の新年会。みんなで、鍋をつついた。二次会はカラオケ。幹事役なのに、いちばん僕が歌ってしまっていた。
ごめんなさい、みんな。


2002年01月11日(金) 何気ないことだけれど


 11日は、妻の銀行口座の解約の手続きのため、午前中に京都市内までいってきた。都市銀行のAという銀行なのだが、支店が近くにないので、いろんな手続きが面倒だ。

 準備するものは?と思って朝、電話をしたら、

 「届け出印鑑、通帳、キャッシュカード」と言われた。準備をして、電車で約30分ほど揺られて銀行の窓口につくと、すごい混雑。
 1時間以上も待たされて、「39番の番号をお持ちのお客さま、8番の窓口へおこしください」と案内された。「妻の口座の解約手続きにきた」と用件を伝えると、窓口の女性の行員は開口一番、

 「お客さま、申し訳ありません。口座解約の手続きは、ご本人さまの自筆でないとお手続きができません」

 「が、が、が〜ん!」というショックは、たちまち怒りに変わった。
でも、ぼくの仕事からいって、ここでキレれるわけにはいかない。
 できるだけ平静を装って、
「それって、おかしくありませんか?わたしは、朝電話をして、『妻の口座の解約で必要なものは何か?』とわざわざ確認をして、仕事も休み、電車に1時間もゆられてきたんですよ。代理の解約ができないなら、その旨電話で問い合わせをしたときに、説明するべきではないのですか?」と一気にはなした。

 女性の行員は、「相談をさせていただきます」といって、上司に相談にいき、しばらくたってから、「お電話で対応させていただいたものと確認がとれましたので、旦那さまの署名で結構でございます。」と手続きをすすめてもらうことになった。

 何気ないことかもしれないが、確認の電話や相談をするとき、あるいは受ける時は、聞かれたことに正確にこたえることは第一義的に必要なことだ。しかし、相手の立場にたって話しを聞き、「ほかに御心配なことやご質問はありませんか?」と聞くぐらいの親切さが必要ではないだろうか?
 
 なにごとにも応用できる話だし、人と人とのコミュニケーションでも大切なことだ、と思う。
 
 結局、銀行についてから2時間以上もかかってしまった。


2002年01月10日(木) 慶山市議会との研修&交流会 続報

 
 10日、午後から韓国・慶山市議会との研修&交流会が行われた。
 城陽市と慶山市とは姉妹都市となって、今年で11年となる。
 
 この日の研修会のテーマは、行政監査制度と市町村合併問題。
 慶山市議会のほうから、行政監査制度について知りたいとの要望があり、
 城陽市からは、慶山市ではすでに、郡と市の合併が1995年に実施されたいることから市町村合併問題について聞こう、ということになったそうだ。

 詳細は別の機会に譲るとして、熱心な質問のやりとりが交わされた。
 他国のしかも地方都市の経験を聞くことは、それ自体はとても意義のあることだと思った。

その後、交流会となった。
 いくつかのテーブルに分かれて懇談したのだが、ぼくたちのテーブルには、通訳をしてもらえる方が常時いなかったので、大変だった。このときほど、自分が外国語をしっかりと身につけておいたらよかったなあ、と思ったときはない。

 ハングル語はおろか英語でしゃべろうとしても、単語をつなげるだけで全然会話になっていない。
 ならば、と思ってメモ用紙とペンをもってきて、筆談を試みた。
 
 僕の席には、議員ではない方がすわっていたので、市役所の仕事のことなどを聞いた。
 「既婚or未婚?」とか、「仕事 多忙?」と書いて、渡す。これが、うまく通じて、けっこう盛り上がってしまった。

 だんだん話し込んで(筆談で)いくうち、「あなたの夢はなんですか?」と聞いたときのこと。

 その方は、「市長になりたい」とこたえた。韓国軍にも在籍をされていたそうで、韓国では軍隊で経験を積まれた人は、比較的ハイソサエティな仕事とくらしをされているそうだ。
 しかし、私が話した方は、「自分は、生活が困難な人たちのことをいつも思って、その人たちのためになるような仕事がしたい」とこたえていた。
 大志と夢をもって仕事をされている方だ、と思った。私は、感動してしまって泣いてしまった。
 「わたしも、手段や方法は違うかもしれないが、日本で、このまちで、弱い立場の人たちのための政治をしたいと思って仕事をしています。お互いが、自分の国を愛して、そこに住みいきている人たちを愛して、そういう地に足をつけた者同士の国際交流が、草の根の交流として意義深いですね」と、これは通訳の方に頼んで伝えさせていただいた。
 
 思い出に残る交流だった。 


2002年01月09日(水) ようこそ 慶山市議会代表団

 城陽市は、韓国の慶山(キョンサン)市と姉妹都市をむすんでいる。
 その慶山(キョンサン)市の議会の代表団が、9日城陽市を訪れた。 
 
 午後4時30分に市役所に到着。
 僕は、「ようこそ」ということばを韓国語でどういえばいいんだろうと、モゴモゴしているうちに、むこうから握手を求められて、結局、無言で顔をこわらばせたまま握手をすることになってしまった。

 10日は、プレムインで両議会の議員が参加して研修会と交流会が行われる。
 慶山(キョンサン)市は、数年前に合併をして城陽市よりはるかに大きな市になっている。議員は、無報酬でボランティアで活動しているそうだ。
 どんな話が交流できるか、楽しみだ。

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 いまプライベートサイトの立ちあげに取りかかっている。
 もうすぐ完成する。昨日は、このために結構時間を費やしてしまった。


2002年01月08日(火) 賀詞交換会


 8日は、城陽市の賀詞交換会。
 城陽市の各界の人々が一堂に会し、新年のあいさつを交わすという恒例行
事だ。
 僕は、2000年の賀詞交換会から出席し、今年が三回目。
 新人議員の僕にとっては、よく存じあげない方ばかり。
 それでも、年を重ねるごとに、あいさつが交わせる方も生まれてきた。

 共同作業所の所長さんや自治会の会長さん、中学校の校長先生、そして
 先輩の議員のみなさんなどに、ごあいさつをさせていただいた。

 今回の賀詞交換会は、去年の市長選挙で市政が変わったため、
 さながら祝勝会という雰囲気。例年を上回る300人が集まったという。
 本当は、そういう中に飛び込んでいって、人脈をつくっていくことも
 また大切なことなのだろう。頭ではわかっているけれど、
 そこに踏み出せない自分がいる。

 深刻な地元経済、きびしい地方の実情、課題を共有しあうには絶好のチャ
ンスなのだが…

最近、息子がテレビのアニメや子ども番組の主題歌をよく歌うようになってきた。何度も聞いているためか、歌詞を正確に歌っているようだ。
 前にも書いたかもしれないが、最近の子ども向けの歌って、メロディも歌詞も難しくなっていないだろうか?そんなことを考えているのは、僕だけだろうか?


2002年01月07日(月) 音楽療法士

 
 最近、音楽療法に関心がある。現代社会において、心の病などが増加するなかで、「癒し」「安らぎ」をいかに享受するか、というのはきわめて大事なテーマだと思うからだ。
 音楽が、人間の心身にきわめてよい影響を与えるということは、最近の研究で実証されてきている。
 音楽を使って、リハビリを行うなどの音楽療法(士)は、日本では、まだ国家資格などの公的身分が確立しておらず、多くはボランティアとして活動しているそうだ。僕の知り合いの子どもさんも、「歌うことを通じて喘息の発作が治った」、という話しや、「歌うことでストレスが発散できて体調が戻った」という話しを聞く。とても、この問題に関心がある。もっと情報を集めてみようと思っている。

 午後、近所の十字屋へ行ったら、ギタレレがなんと6250円で売られていた。
 傷が少しついたものだったので、この値段にしてあったそうだが、一度聞いたギタレレの音色が忘れられず
 いつか手に入れたいと思っていた。幸い、我が家の財務大臣(旧大蔵大臣)も一緒だったので、「起案」したところ、「決裁」が超スピードでおりたので買ってしまった。
 ギタレレは、6本弦でコードの押え方はふつうのギターと同じだ。少しだけ鳴らしてみる。
 とても、かわいらしくて、それでいて哀愁のこもった音色。一所懸命練習しよっと。

 夜は、党の会議で宇治市内へ出る。すごい雨だった。


2002年01月06日(日) 妻と息子をのせて京都へ戻る

 6日の午後5時30分に京都に戻ってきた。
 昨日は、やはり交通機能はマヒ状態。
 午後1時に京都を出発したのに、下呂駅につくのが1時間ぐらい遅れて、
 そこから普通電車に乗換えたまではよかったけれど、一駅ごとに「ただいま、特急列車の通過をまっております」のアナウンスが流れ、結局、実家についたのが午後7時すぎ。
 駅で待っている間にも、しんしんと雪は降りつづけた。
 でも、外を見ると駅の外灯に照らされて落ちてくる雪も、ロマンチックやな〜などと、思って見入ってしまった。
 結局、電車のなかで、歴史作家として有名な童門冬二さんの著作「わたしの『超』時間活用法」(中公文庫)を読んでしまった。とても参考になった。どこかで書評を書こうと思う。

 6日は、朝から道路の状態を携帯電話のiモードを使ったり、警察の派出所に電話したりして、情報を収集。
 結局、雪の影響はないとわかったので、お昼前に出発して、ゆっくり帰ってきた。
 ハイウェイの真直ぐ続く道の向こうには、雲で覆われた空の切れ目から陽がさしこんできている。その陽光がとてもあたたかく、力強そうでとても元気になって、父は一気にアクセルを踏んで京都へと走り通したのであった。
  


2002年01月05日(土) ホームページの更新ができていないが…

 昨日京都に戻って、5日は朝から挨拶まわり。ご近所と普段なかなかごあいさつができないお宅を回らせていただいた。

 でも、午後からはまた岐阜へ戻って、明日妻と息子を車にのせて帰ってこなければいけないので、先に書いておこうと思う。

 僕のホームページは、12月28日に更新したままだ。
 実は、新年から大幅なリニューアルを、と思っていたのだが、作業がおいついていない。

 僕の構想はこうだ。

 yagunetのホームページをメインにおいて、メルマガ、議会報告、掲示板、リンク集、日記、活動ファイルなど、これまでのコンテンツを盛り込む。

 加えて、プライベートな活動については、「くまのブーさんの『あったかネット』(仮称)」で立ち上げて、ここに、書評、音楽観賞の感想、ギターのこと、家族のこと、日記(これはyagutnetと共通にする)というコンテンツをおくようにしたいと思う。

 こうすることで、「『くま』という人間は、おもしろいことをやっているけれど、よくよく見てみたら職業は議員だった」とより広い層のみなさんに、僕のことも、議員活動のことも、共産党のことも知ってもらえると思う。

 とはいえ、立ち上げることができるのは、いつからになるか。
 帰りの電車の中で、さらに構想を練ろうと思う。


2002年01月04日(金) 帰省電車のなかでの小さなピース

 あわただしく、年末岐阜の妻の実家へ帰った。
 家族がみんなそろって、正月を迎えられることの喜びを
 心から感謝しつつ、心身ともリフレッシュさせてもらった。
 
 飛騨を含む東海地方は、この正月記録的な大雪となった。
 名古屋では41年ぶりの大雪。飛騨地方も白川村で120cmをこえ、
 実家のある萩原町でも、30〜40cmはつもっていたと思う。
 おそらく、生まれて初めてだと思うが本格的な「雪かき」というものを
 やらせてもらった。
 積もったばかりの雪はまだ、さらさらとしていて軽い。
 でも、一日たつと水分を含み、ぐっと重くなる。
 氷点下なのに、汗ばむぐらいだった。

 この記録的な大雪は、帰省にも大きな影響を与えた。
 もともと、僕は3日に戻る予定だったが 
 高山線は完全にストップ。車などとんでもない。
 仕方なく1日ずらして、4日の朝、高山線に乗った。
 「14〜15分遅れになります」との駅員の説明があったので、その程度の遅れなら大丈夫と思っていたのが大間違いであった。

 飛騨小坂駅から出発した直後、車内アナウンスが流れた。
 要旨次のようなことだった。
 
 下呂から先のところで、雪の重みで木が倒れて線路に接触するという事故が発生、最初は二ケ所だったが、もう一ケ所発見され、合計三ケ所で倒木の除去作業を行うため、復旧するまで、運行を見合わせる。復旧のメドはたっておらず、大幅な遅れとなる見込み。

 ただでさえ、前日のダイヤが完全に麻痺をしたために、僕がのった電車も乗車率200%ぐらい。デッキですしづめ状態だった。
 
 ついに、3時間も遅れて名古屋につくことになった。
 でも、この電車のなかで、人間のやさしさにふれることができた。
 新年の最初に、この日記に今日の出来事を書き記しておきたい。

 特急電車のなかは、自由席、指定席を問わず、通路やデッキまで人、人、そして人。僕は、デッキにたつことにした。
 
 お年より、若いカップル、赤ちゃんを抱いたお母さんとおばあちゃん…。
 ずーっと駅で止まったまま。
 赤ちゃんが泣きさけぶ。
 すると、見ず知らずの乗客が、思いおもいの方法で、あやしはじめた。
 携帯電話を使ったり、面白い顔をしたり…。
 誰かが、トイレに行きたいというと、少しだけみんな我慢して通路をつくってあげる。

 ようやく、名古屋駅につくころ、おんぶされていた赤ちゃんが
 少しだけ嘔吐した。無理もない、すし詰め状態だったのだ。
 するとどうだろう。いろんなところから、ハンカチがタオルが飛んできた。
 「これ使って!」「赤ちゃんもうすぐやで〜」
 僕も、自分のハンカチでお母さんの吐瀉物で汚れた袖を少しだけ拭いた。

 「困った時はお互い様」「せっかくだから、楽しくいきましょう」

 こんな言葉が交わされていた。なんと、ピースなことだろう。
 心があったかくなった。


 人間は、苦しい時こそやさしくなれる、そんなことを実感させた
 ささやかな帰省電車のひとコマだった。

 いま、世界では戦争が続いている。
 暴力によって、武力によって、強制力によって、ものごとの解決をはかろうとする。これに対して、話しあいによって、人びとの連帯によって、
 協力によって、ものごとを解決し発展させていく。これこそ、21世紀に人類が歩むべき道ではないだろうか。
 それを平和というのなら、僕は内側から湧き出てくる平和への思いを大切にして、毎日を過ごしていきたいと思う。

 家族が、地域が、まちが、友人が平和であるために。
 このことにこだわる1年にしたい
 
 ささやかだけれど、1年の日記の出発にあたっての決意としたい。


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