ヤグネットの毎日
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2001年12月31日(月) やはり年末は忙しかった

 ゆっくり、パソコンに向って、今年の反省と来年への抱負をかこうと思っていたのに、やはり年末は忙しかった。
 帰省する電車の時間があと30分後に迫っており、急いでこの日記を書いている。

 僕にとって、今年の一番大きな変化の一つは、
 こうして、日記を読んでくれる人たちをつくることができたことだ。

 ネットのよさを十分生かしながら、来年も大いなる飛躍を遂げたいと思っている。
 
 大晦日のあわただしいなか、この日記を読んでくれてありがとう。
 
 それから、ちょっと蛇足だけれど、僕のホームページのカウンターが
 もうすぐ、5555になる。

 新しい年にむかって、元気いっぱいゴーゴゴーッ!って感じで、縁起がいいので、キリ番ゲットされた方は、ゲストブックにカキコしていただくか、メールをくれたらありがたいな。

 それで、どうこう、っていうわけではないんだけれど。
 ひとつの思い出にっていうことで。

 では、みなさん、よいお年を!!
(あーっっっ!まだ、玄関のポスターを張り替えていない…(


2001年12月30日(日) メルマガ46号を発行

 やっぱり、年末は忙しい。
 なんとか、メルマガの今年最終号を発行して、送信したらホッとしてしまい、結局、ホームページの更新もできないまま、眠ってしまった。
 だから、この日記は、実は大晦日に書いているのだ。

 この日記を読んでくれている方にも、ぼくのメルマガがどんなものなのか、抜粋で紹介しておこうと思う。(実は、日記のネタがあまりないだけだったらして…)

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■ 矢口まさあきの2001年「三大ニュース」■
その1:城陽市長選挙〜勝利こそできなかったが…〜

 三大ニュースのトップは、9月10日に行われた城陽市長選挙です。
四年前に誕生した、「市民が主役の大西市政」を継続させるのか、それとも「大型プロジェクト優先、くらしと福祉を切り捨てる“行革”推進の前市政への逆戻りか」を争点に激しくたたかわれたこの選挙で、私たちが推す大西忠さんは、わずか1616票差で破れました。
国も含め、全国の多くの自治体がバブル期の大型事業のツケと不況による税収の落ち込みで、未曾有の財政危機に陥っているもとで、くらしや福祉の水準を維持しながら、四年間でおよそ40億円もの借金を減らし、財政のたて直しをはかってきた大西前市長の実績は、橋本現市長でさえ、「一定評価をしている」と言わざるを得ないほどです。
 地方のことは、国に左右されず、住民の声にもとづいて、自主的に考え行動する、という姿勢こそ、地方自治体にとって何よりも大切にすべき魂です。
橋本市政は、大西市長時代に空席のままだった助役や収入役を多数与党のもとでそろえ、国や府とのパイプを強調し、第二名神自動車道を起爆剤にした城陽のまちづくりを、市政の中心的な課題にすえていますが、一体これで、多様化する市民ニーズや行政への期待に応えきれるかどうか、私は率直に疑問をもっています。
 だからこそ、もっともっとたくさんの方と対話を広げながら、「いま地方自治体にとって何が必要なの?」という問いかけを「つぶやき」から明確な意志を持った「発言」「世論」へと広げていきたいと思っています。それには、もっと懐の奥深さ、ひろい視野とやさしさが必要です。

 私は、今度の城陽市長選挙で、大西忠さんの後援会長をつとめられた上土新一郎さんを間近にみながら活動をする機会を得ました。
 上土さんは、「大西市長を応援しているから」という理由だけで自民党から除名をされながらも、ビラをまきハンドマイクで訴え、有権者に働きかける支持者、市民をあたたかく激励し、「勝つために何が必要か」を事務所スタッフに熱心に聞き、自らもマイクをもって街頭で訴えられました。
 その上土さんが、市民が主催した「大西市長退任式」のあいさつで、涙を流し、言葉を詰まらせながら、私たちの党と議員の活動をたたえてくださった。
 「自らが傷つきながらも、涙を流して隣人たちの奮闘をたたえる。」
 私は、上土さんの大粒の涙を生涯忘れることがないでしょう。
 そして、勝利できなかったとはいえ、こういう方と選挙をたたかえたことを本当に誇らしく思います。
 そして、何より、大西市政の継続を信じて懸命にたたかったみなさんのその思いが、橋本新市政のもとで、議会の様子を微妙に変化させ、中立会派の誕生など、これまでにない、おもしろい状況をつくりだしています。
 私は、来年も引き続き、市政を市民の立場からチェックし、声なき声を議会で取り上げる役割を果たしていきたいと、思います。

■ 矢口まさあきの2001年「三大ニュース」■
その2:9/11米国テロ事件、そして報復の嵐

 三大ニュースの二つ目は、9月11日に発生した米国での同時多発テロ事件、そして矢継ぎ早にアメリカなどが行ったアフガンへの報復攻撃です。
 多くのみなさんが目の当たりにされたように、あの世界貿易センタービルに2機の飛行機が乗客をのせたたま激突しビルが崩壊する映像が、くり返し流されました。
 そして、テロへの怒りを増幅させ、そしてアメリカの報復攻撃を支持する世論が急速に形成されていきました。
 私は、あのテロ事件が起きた直後から、「この事件を梃子にしてアメリカが軍事力を行使し、日本がそれに呼応して自衛隊を派遣する流れがつくられるのでは?」と危惧しましたが、不幸にもその心配は的中することになりました。
 いまメディアでは、もう報復攻撃は終わって、アフガンに和平が訪れた、かのようなムードがつくられていますが、とんでもない話です。
 いまもなお空爆は続き、当初の目的であったテロの首謀者といわれている、「ウサマ・ビン・ラディン」の行方は依然不明のまま。アフガニスタンの政権が代わったとはいえ、無数の罪のない命の犠牲にもかかわらず、テロの根絶という大目標は何も解決されていないのが現実です。
 私は、インターネットで爆撃によって怪我をしたり、あるいは命を失ったアフガンの子どもたちの写真をみてしまいました。そして、すぐにそのサイトを閉じました。
 私の息子と年がそう変わらない子どもたちが、大義のない戦争で命を失っています。人間っていったい何なんだ!
 そう叫びたくなりました。
 でも、テロを生み出したのも人間なら、戦争の引き金をひいたのも人間。
 そして、人の自由や幸福を奪う、様々なシステム、たとえばそれは、環境の破壊であったり、弱肉強食の金融システムであったり、膨大な借金による社会保障の改悪など、国民へのしわ寄せであったり…。こうしたことをつくりだしているのも人間です。
 ならば、それらを変えていくことができるのも、また人間である、そう思った時、力がわいてきました。


 私は、このテロと報復戦争をきっかけに、アコースティックギターを再開しました。山本さとしさんというシンガーソングライターの「ヒロシマの有る国で」という歌を自分の原点の歌として歌い続けたい、そして、音楽を通じて、人間の、そして生きとし生けるものの素晴らしさ、時として人間の醜さ、怒り、哀しみ、それらを表現したい、そういう強烈な思いに突き上げられました。
 結局、社会を変えていくのは人間であり、その人間の心を変える(ごう慢かも知れないけれど)ことこそが、平和と自由を実現するいちばんの近道であると、私に強く自覚をさせた「テロと戦争」でした。

(三大ニュースのその3は略)

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 ま、こんな感じで46号まで発行してきた。
 来年もますます、がんばりたいな。


2001年12月29日(土) ひとりきりの夜

 28日に岐阜の妻の実家へ妻と息子を送ってきた。
 京都もだいぶ冷え込んでいるが、岐阜の飛騨地方はさらに寒い。
 28日は夕方、道路が少す凍り始めいた。
 舞台峠のあたりがいちばん恐いところ。
 ハンドルを握る僕の背後から、妻が 
 「ほら、凍ってる、気をつけて!だめ、そんなにスピードだしちゃ!」と
 容赦なく、口を挟む。
 最初は、「大丈夫、大丈夫!」と上機嫌だった僕も、
 結構、凍てついている道路に舞台峠をおりるころには、無口に。
 挙げ句の果てに、「後ろから、口を挟むな!うるさいぞ!」と
 怒り出す始末。なんとか、家にたどりつき、風呂から上がって
 一杯引っ掛けたビールの味がたまらなかった。

 僕は、29、30、31日と仕事があるために、
 29日のお昼から城陽に向けて帰った。
 ひだ10号で岐阜駅まで出て、東海道本線の新快速で京都まできた。
 結構、混んでいた。
 でも、東海道本線の米原から京都の間は、夕方走ると夕陽がとても
 きれいだ。山なみが低く、田んぼが続いているので、
 夕陽があたり一面に広がって、なんともいえない。
 
 久しぶりのひとりきりの夜。
 がらんとした家。テレビのボリュームを少し大きめにしないと
 なんとなく淋しい感じ。(おい!お前はいったいいくつだ?!)
 
 健康に悪いとおもいつつ、「いいちこ」のお湯割りを飲み干す。
 さあ、明日は、自分のサイトの今年最後の更新、
 そして、メールマガジンも今年最終号を書かなければならない。
 明日の朝は、しんぶん「赤旗」日刊紙と日曜版の配達。
 集金も残っているし、ポスターもはらないと…
 年末は、とにかく忙しい。

 ひとりきりの夜。
 「おい、お前は今年一年どうだったのだ?しっかりがんばったのか?」     
 パソコンに向いながら自問する。いろんな思いがかけめぐる。
 その一端を、明日とあさってで書き留めておこうと思う。


2001年12月28日(金) 年賀状のこと

 我が家では、出す年賀状も来る年賀状も妻のほうが断然多い。
 僕は、議員という仕事柄、城陽市内への年賀状を出すことが法律で禁止されている。必然、大学時代の友人などが中心となり、数もほぼ固定されている。
 妻は、教師をしている関係で教え子なども多く、人生経験も長いので年賀状の数も多いのだ。
 これまでは、写真屋さんにお願いしていたが、今年から、自家製にした。
 写真をスキャナで読み込み、プリンタで読み出すと驚く程の鮮やかさ。
 宛名職人を使って、表も印刷すれば、あっという間に年賀状が完成だ。
 結婚して8回目の年賀状。全て写真をつけている。
 最初は、二人で、そして途中からは息子も入り三人で。
 妻が流産をくり返していたときは、二人の顔も少し暗い。
 家族が増えたときは、写真全体が明るい雰囲気。
 そして、息子が年ごとにどんどん大きくなっていくのがよくわかる。
 

 妻は丁寧に、それぞれにコメントを直筆で書いているが、僕は、印刷の段階でコメントを打ち込んでしまった。

     「15年ぶりにアコースティックギターをはじめました。
      喜び、哀しみ、怒りを政治と音楽という二つの舞台で
      表現することにこだわる1年にしたいと思っています」

 これが、今回のコメント。僕にとって年賀状は、公約発表の場。
 公約実現は、政治家の基本中の基本。
 公約違反!とお叱りを受けないように、がんばろうっと。
  


2001年12月27日(木) 12月議会終わる

 26日は、城陽市議会第四回定例会(12月議会)の最終本会議だった。
 この日の注目は、なんといっても人事案件の提案と請願の本会議採決。

 まず、人事のことだが、大西前市政の時代は、二人の助役ポスト、収入役ポストが空席のままだった。議会では、野党が多数を占めていたため、(共産党は与党)同意を得ることができなかったためだ。

 橋本市政になって、助役の一人と収入役を庁内から登用し、この日、提案の運びとなった。
 日本共産党は、橋本市政の政治姿勢に対決する野党である以上、市長を支える人事案には賛成できない、との立場でいずれの人事案にも反対した。
 しかし、市政転換後は、多数与党となっているため、賛成多数でこの人事案は可決された。

 次に、請願の本会議採決について書いておこう。
 最初に制度の説明になるのだが、請願は、議会に対して提出されるもので、1人でも提出は可能だ。提出のさいには、議員の紹介がいる。議員の署名と捺印をしたものを議会事務局に提出し、議会運営委員会にはかられ、審査をする常任委員会が決められる。
 今回は、2つの請願が提出された。
 一つは、宇治久世教職員組合から提出された、「教育条件の改善を求める」請願。もう一つは、京都建築労働組合洛南支部から提出されていた、「住宅改修のさいに10%の助成を行う制度の創設を求める」請願。
 前者は、文教常任委員会で、後者は福祉経済常任委員会で審議された。

 委員会審査での結果は、教育請願は賛成者が共産党の二人のみで「不採択」。住宅改修への助成制度を求める請願は、共産党の二人と無会派の議員の三名の賛成で、採択されていた。

 最終的には本会議での採決結果が優先されるため、委員会で採択されている「住宅改修への助成制度を求める請願」が本会議で逆転されて、不採択となるか、委員会の審査どおり採択されるか、注目を集めたわけだ。


 結果は、逆転されて、「住宅改修への助成制度を求める請願」は不採択に。僕は、賛成の立場から討論をおこなった。
 その賛成討論の全文や、12月議会の特徴などをまとめたものを、メールマガジンで紹介しようと思っている。
(第45号が2週間以上も発行できずにいるので。)

 12月議会が終わった。
 最近、つくづく思う。
 政治とは、国民の為にある。
 考え方がいろいろあっても、何が国民、市民の為になるのかを
 真剣に考える、そこに全知全能を傾けることが政治家の役割だ。
 
 そのことを忘れず追求し続けることができる議員でありたい。


2001年12月26日(水) 少年少女合唱団 復活へ大きな一歩

 25日は、城陽市少年少女合唱団のクリスマスパーティだった。
 朝9時から会場に入り(僕は、ちょっと遅刻。ごめんなさい!)
 午前中は、会場設営とリハーサル。

 午後1時すぎからはじまった。
 集まってくれたのは、7人。

 小学生と中学生、そしてお母さんやピアノの伴奏をしていただいて
 いたし(これからもお願いしたい!)お二人の方も来てくれた。

 シャンメリーで乾杯し
 1500円のお弁当をみんなで食べていると
 地元紙の記者さんが、なんと取材にきてくださった!(感謝します)

 せっかく取材もはいっているので、ということで
 新しい先生とスタッフによる、歌を披露。
 この日のために、練習を重ねてきたのだ。
 僕は、少し高音がでずらかったけれど、
 みんな、とても喜んでくれた、と思う。
 指導者の中島先生もソロを披露してくれた。
 矢野顕子の曲だが、絶品である。CDも出しているので
 ぜひ、おすすめしたい。(詳しくはメールください)


 そのあとは、カラオケ大会
 浜崎あゆみ、とか最近の歌をみんなうたっていた。
 おじさんも、覚えないとついていけないなあ、と思った。

 イス取りゲームなどでプレゼントをゲットして

 なんと最後に、僕が無謀にもギターの弾き語りをしてしまった。
 指がガチガチ、真剣に聞いてくれる子どもの顔をみたら、
 さらに緊張してしまい、
 結局、コードをうまく押さえられなかった所がいくつもありました。
 でも、アコギデビュー。恥ずかしさと少しだけ「やった」という満足感。

 子どもたちの笑顔を見ていたら
 少年少女合唱団をなんとか、活動再開させて
 すばらしい歌声を城陽いっぱいに響かせたい
 夢は、さらに広がる、広がれ!
  


2001年12月24日(月) 父、走る!

 
 23日は、保育園のさくら組のクリスマスパーティ。
 普段、あまりゆっくり顔を合わせてお話しをする機会がない、
 おとうさんやおかあさんたちも顔をあわせて、お話をすることができた。
 
 200円のプレゼントを交換したり、ケーキを食べたり、
 紙芝居をみせてもらったり、と結構みんな楽しめたようだ。
 よかった、よかった。

 24日は言わずと知れた、クリスマスイブ。
 息子は、22日の夜、「サンタさんに何をお願いするの?」と聞く母親 
 に、「ガオレンジャーの百獣剣がほしいな〜」。

 それを聞いていた父親は、ハッスルして翌日、「百獣剣」を探しに
 おもちゃを売っている大型スーパーへ。

 ところが…。ところが、である。
 なんと、百獣剣は、どこにも売っていない。店員さんに聞いても
 「いや、ありませんね。」の冷たい反応。
 最初は、「何軒かあたれば見つかるだろう」と高をくくっていたが、
 まったくないのだ。
 あとでわかったことだが、「百獣剣」は10月いっぱいで、生産を
 中止しているらしい。すぐに売り切れになって、在庫もないそうだ。

 が〜ん!
 
 息子は、サンタさんにお願いをしてしまっているし…。
 
 次善の策として、母親に「百獣剣の次に、サンタさんに何をお願いした 
 い?」と聞いてもらった。すると、「アギトの変身ベルト」と息子。
 ちなみに、「その次は、ウルトラマンコスモスの、落書きっちょ」、だそ
 うだ。

 なんと、自分の意見を順序だててしゃべる子だろうか。(なんという親ば
 か)

 ところが、この変身ベルトもどこにもない。売れ切れ状態。
 こうなれば、何が何でも探さな、と思って、母親に京都市内のおもちゃや 
 さんにも電話をしてもらった。すると、伏見区の大手筋のおもちゃやさん
 に、「変身ベルト」があることが判明した。

 父は、走った。

 そして、ようやくおもちゃを手に入れた。
 サンタさんに今晩中にわたしておこうっと。

 クリスマスのイブの日に
 子どもたちにプレゼントを買ってあげる。

 ささやかな庶民の楽しみではないだろうか。
 
 それでも、いま生活が大変で、「プレゼントどころではない」という家も
 ある。
 彼の南の国、アフガンではいまも戦渦が続く。

 僕は、子どもに夢を与えつづけながら、こうした現実を決して
 忘れない。そのために、また明日から、政治を、社会を変えるために
 がんばらなければ。

 25日は、城陽市少年少女合唱団の復活の日だ。

 イエス・キリスト同じように、希望を抱いて復活するのだ。
 
   


2001年12月22日(土) 息子を叱る、というか怒鳴り散らす

 22日は夕方、息子とふたりで母親の買い物の留守番。
 23日は保育園のクリスマス会があって、そこで交換
 するプレゼントを母親は買いにいっていた。

 僕は、ギターをちょっとさわっていた。
 すると、息子は積み上げていたおもちゃの空き箱を
 崩して、まわりにちらかしたり、
 挙げ句の果てに、椅子から僕の買ったばかりのギターの
 ハードケースに飛び下りたり。
 
 僕は、息子を叱った、というか思いきり怒鳴ってしまった。
 これを、世間一般では“きれる”という。
 
 「はよ、箱元に戻せ。なんで、お父ちゃんの大事なギターの
  ケースの上に乗るンや!!!」

 息子は、一瞬反抗する姿勢を見せたが、黙って箱を片付けは
 じめた。

 いつも、怒鳴った瞬間から後悔する。
 
 虐待問題が世間をにぎわせている。
 虐待をする親は自分が子どものころ、親から同じような扱いを
 うけたケースが多いという。

 でも、僕の場合、父親から怒鳴られたという記憶がない、
 というより、ほとんど放任状態だったのだ。

 僕は、もっと父親にかまってほしかった。
 魚釣りにつれていってくれたしたけれど、結局、自分の趣味に
 子どもを巻き込んでいただけではなかったのか?

 もっと、子どもの立場にたって怒ったり、喜んだりしてほしい
 という思いをもっていた。

 それなのに、いま、自分の気分感情や自分の都合だけで怒鳴って
 しまう自分がいる。あ〜、情けない。


2001年12月21日(金) 25日は少年少女合唱団の復活の日!

 25日が迫ってきた。
 城陽市少年少女合唱団の復活の日としようと、卒団生を中心に「同窓会」
 的なクリスマスパーティーを計画している。
 思い出のCDもスタッフがすべて手作りでつくった。
 これがプロ以上の腕前。
 
「tomorrow」とか「トトロメドレー」とか計7曲が入っている。
 ひとりでも多くの人に聞いてほしい。

 参加人数は小規模なものになりそうだけれど、
 音楽は、美しさに感動する心
 自分を表現する力を与えてくれる。
 それは、ジャンルを問わない。
 
 必ずこの日が復活の出発点となるようにがんばりたい。
 
 でも、資金が足りなくて…。
 カンパに協力してくれる人がいたら、いちどメールをしてくれたら
 ありがたいな。
 なにせ、行政からの支援はゼロからの再出発だから。
 


2001年12月20日(木) 市町村合併のこと

 昨日と一昨日と城陽市議会では、市町村合併の問題が一般質問で
 とりあげられている。
 わかりやすくいえば、いま約3000ある市町村を約1000程度、
 つまり1/3にするというものだ。
 でも、別にこれは地方が声をあげたものではなく
 もっぱら国が財政難なので、地方に支出お金を減らしたいという
 不純な動機から持ち出されているものだ。

 わが城陽市でも、市民の間ではなんの議論もはじまっていないのに
 総務省や京都府などが、何パターンかの合併例を出して、
 その場合、向こう10年間の起債の対応はこうです、交付税はこう
 いう割合で措置します云々のはなしをもちかけている。

 僕は、安易な市町村合併には懐疑的だ。正直いって。
 国の財政負担の軽減という動機が不純すぎるし、
 下からの合併の必要性の論議の積み重ね抜きには、
 うまくいくはずがない、と思う。

 僕の妻の田舎の岐阜県でも合併論議がさかんだが、
 たとえば、農協などは先行して大規模合併が進んでいる。
 その結果、気軽に相談にいく農協の窓口がとても遠くなってしまい
 足が遠のく、という事態さえ生まれている。
 市民サービスが後退するのだ。
 合併の必要性として、高齢化への対応云々がいわれるけれど、
 高齢化社会にとっては、できるだけ身近に必要な施設が整備されて
 いることこそが必要なのではないか?
 広域化は、逆行していると思う。

 とはいえ、あくまで大切なのは住民の間での十分な話し合い。
 最後は、住民が結論を出すこと、それに行政は従うという姿勢
 こそが、市町村合併の論議で忘れてはならないカギだ。


2001年12月19日(水) ふたたび、山本さとしさんのこと

 ここ数日間、昼間は議会で缶詰め状態。
 大切な本会議だから仕方ないが…。

 17日に、シンガーソングライターの「山本さとし」さんに
 メールを送った。

 そしたら、ご自身のホームページで僕のメールを二通も紹介
 していただいていた。むちゃ、うれしい!

 「歌の友だち」なんて紹介してくれていた。
 とても、励まされた。
 
 僕のサイトでリンクをはらせていただているので、
 関心のある方はみてほしい。人柄がよくにじみでている
 あたたかいサイトだ。

 山本さんのサイトをみると、
 2月にN響をバックオーケストラに
 「ヒロシマの有る国で」を歌われるそうだ。
 
 イベントでは、ジョンレノンの「イマジン」を大合唱するそうだ
 日本語訳のイマジンの歌はあまり聞いたことがないけれど、
 「ヒロシマの有る国で」は、文字どおり日本の歌。
 (英訳の歌もあるそうだけれど…)

 ぼくは、現代のイマジンこそ「ヒロシマの有る国で」だと
 思っている。

 だから、ギターの練習もこの曲を弾き語りできるかどうかがポイント
 だと目標に決めて、毎日少しの時間だけれど歌っている。

 山本さんは、ソーシャルワーカーでもある。
 人間をみる視線がやさしい。だから、歌もあたたかい。
 
 いつか、山本さんのように歌えるときを夢見て
 ギターを鳴らしている。
 
 いつの日か一緒に歌えるときがあれば、
 僕の青春の軌跡を導いてくれた人だから、これ以上の喜びはない。
 来年の初夢でみようっと!(おっと、鬼が笑う笑う)

 


2001年12月18日(火) お母さん、お父さんの声が行政を動かす

 17日は、本会議で一般質問。
 準備不足が否めなかったが、なんとか終えることができた。
 僕のサイトで詳しく質問と答弁の内容は紹介したいと思う。
 質問を終えて、荷物をまとめていたら他会派の議員さんが
 「いい質問やった。よく調べて質問していたな」と
 声をかけてくださった。
 いつも、いろいろと教えてくださる議員さんからのやさしい
 言葉で、とてもうれしくなった。
 
 議会が始まる前、ビッグニュースが飛び込んできた。
 この日記でも紹介したが、
 城陽市の公立幼稚園である富野幼稚園に一時移転問題。

 築47年もたっているのに、一向に建て替えがすすまずに
 結果として放置されたきたのだが、
 急に、保護者の意見を無視して、近くの小学校に「危険回避」を
 唯一の理由にして、ごり押しをしようとしていた。

 僕は、次のような意見をもっている。
 富野幼稚園を存続させることを前提に早急に建て替えるという
 方針を明確にした上で、十分な保護者や関係者との協議と合意
 を前提に一時移転するのならよいが、
 建て替えの方針もなし、まして富野幼稚園を存続させることの
 言及もなし、移転したときの安全対策や受け入れる小学校の側
 でも種々の問題がクリアできていない段階で、
 期日を一方的に決めて方針を押し付けるのは、子どもたちの教育
 に責任をもつ教育委員会のやるべきことではない。

 幼稚園や小学校の保護者の間でも、疑問の反発の声があがった。
 そして、ついに、昨日、「一時移転を来年4月まで延期する」と
 の方針が伝えられたのだ。

 もちろん、問題が解決したうえでの「移転延期」ではないので、
 これからが正念場だが、お母さん、お父さんの声が行政を動か
 したことは、まぎれもない事実だ。

 やはり、声をあげてこそ、行動をおこしてこそ行政を動かし、
 変えることができる。そのことを実感した。

 (少し長くなるけど…一気に書いてしまおう)


 今朝(18日)は、家族三人で家を出てガレージに向う途中に
 庭にいちごの苗が植えてあることに気付いた。
 そうだ、この前家族で買い物にいったときに買ってきたものだ。

 この前の日曜日は、僕は仕事で一日留守だったが、そのときに
 妻と息子が植えたのだ。普段忙しいと小さな変化を見落としが
 ちだ。
 「大きくなったらいいね。」と妻と子どもにいった。
 普段からの、コミュニケーションとスキンシップ。
 ネットで知り合った友人の間で、話題になっているテーマなので
 意識して、習慣にしようと思っている。(つづけることが大事だ
 けれど…)

 

 
 


2001年12月17日(月) 本日、議会で一般質問

 本日17日が議会での一般質問。
 原稿はできているけれど、第二質問以降の組み立てがまだ、おぼつかない。でも、ホームページをチェックしたり、ゲストブックにカキコをしていたら、あっという間に時間がすぎてしまって…。ちょっと焦りぎみ。

 昨日は文字どおり、1日会議。他のことを何もできていない。
 おとといは、議会の質問の準備におわれた。

 夕べ、富野幼稚園の保護者の方から「ホームページをみて電話しました」とお電話をいただいた。
 教育委員会がごり押しをしようとしている、富野小学校への一時移転問題で、意見の交換をした。
 ホームページでの情報発信がまた一つ、人の輪を広げることができた。
 同世代のお父さん、なんとも頼もしい!とってもうれしかった。

   
 


2001年12月15日(土) 自分を表現する

 
 昨日は、午前中が党関係の会議。
 午後からは、知り合いの息子さんの就職のことでお話を聞いた。
 僕より1つ年上だけれど、以前つとめていた会社が
 まるで軍隊ような厳しい環境で、とてもついていけないと思ったそうだ。
 できるだけ力になってあげたいと思った。
 以前にも書いたけれど、僕らの仕事は
 自分の力を発揮して、やりがいをもって働くことができるように
 支援をすることだ。
 がんばりたいと思っている人をできる範囲で応援してあげたい。

 それから4時からは、
 来年発足される、「くらし・平和・民主主義を考える城陽懇話会」についての相談
 6時前に保育園へ息子を迎えにいき、
 妻が仕事で遅くなるので、レトルトの八宝菜を作った。

 夜は25日にひらく「城陽市少年少女合唱団」で披露する
 新スタッフのコーラスの練習。
 前にも書いたように、女性二人と僕の三人で
 モー娘。の「でっかい宇宙に愛がある」と
 アメージンググレイスを歌う。

 僕はあまり練習ができていなかったけれど
 音を重ねるのが何とも心地よい。
 一日、人の話しを聞く役回りばかりだったので
 というか、議員という仕事は選挙で演説をするとき以外は
 ほとんどの仕事が周りのひとの話しの聞き役なのかもしれない。
 
 「リーダーではなくリスナーこそ必要だ」
 そんなアドバイスをいただいたこともある。
 でも、ときには自分を表現したい時もある。 
 それが、いまの僕にとっては歌うときだ。

 ギターの練習も1日少しずつだけれど、続けている。
 「ヒロシマの有る国で」を一応通しでストロークだけだけれど
 弾けるようになってきたよ。スローテンポなら止まらずに歌える。
 コードについての基本的な知識が不足しているし、
 アルペジオなどはまだ全然スピードについていけない。
 でも、少しずつ少しずつ上達すればいいと思っている。

 


2001年12月14日(金) 人身事故で電車が遅れた

 13日は朝から岐阜の病院へ行ってきた。
 ちょいと事情があって、あまり詳しくは書けないのだけれど。

 朝は、新幹線と東海道線を使って、岐阜バスというで病院へ直行。
 はじめて歩くまちだったのに、あいにく雨。
 
 帰りは、新幹線を使わず、しなの18号(大阪行)を使った。
 事故の影響で20分以上遅れた、駅員さんに聞くと人身事故の
 影響だそうだ。

 人身事故。電車での人身事故といったら命に直接かかわるものだ。
 大丈夫だったのか?心配になる。なんで、事故ったのだろう?
 
 この不況、出口が見えにく社会状況。明日に希望が見出せず
 飛び込んだのだろうか?そうだとしたら、なんともやりきれない

 電車が遅れたためか、三号車は僕ひとりきりだった。
 まわりは、立ち往生をくらわせられた乗客のいらだちを象徴する
 ようにお酒のつまみの袋か、おかしの袋が捨てられずに座席の下に
 ほかされていたり…

 なにかやりきれない思いがして、
 ビールを飲み干して、しばし眠ることにした。
 窓の外は、真っ暗な夜とネオン街と住宅のあたたかい灯が交互に
 やってきた。遅れても、電車は走っている。
 
 
 


2001年12月13日(木) 富野幼稚園を守ろう!

 昨日は文教常任委員会
 富野幼稚園園舎の一時移転をめぐって大きな議論になった。
 
 信じられないことだが、富野幼稚園は築47年が経過している。
 遊戯室となっている木造園舎はすでに耐用年数をこえ、
 「危険建築物」となっている。
 再三の建て替えの要望に対し行政は、あれこれの理由から
 建て替えを実現できずにきた。

 市長が変わった。
 「民間でできることは民間で」を標榜する現市長のもとで、
 富野幼稚園を存続させるという前市長の方針は立ち消え、
 いくら議会で、富野幼稚園は存続させるのか?と聞いても
 「公立園は存続させます」の一点張りで、固有名詞をださない。

 自分たちの園、地域に根付いてきた園が今後どうなるのかも
 わからずに、不安を抱えたまま、まして移転先の小学校で、
 安全面、教育面で十分幼児教育ができるのかという保護者や
 学校関係者の疑問に十分にこたえぬまま、来年1月という
 学期途中で移転をすることになる。

 
 ひとことでいえば、問答無用ということだ。
 こんなことが許されていいはずがない。

 富野幼稚園を存続させ、建て替える。この方針をまず明確にして
 幼稚園、小学校双方の保護者、双方の教員の意見を十分ふまえ、
 合意と納得のもとに移転をすべきだ。

 「危険な園舎をこれ以上放置できない」と教育委員会はくりかえし
 いう。しかしいいたい!

 危険な園舎を放置し続けてきた責任を棚上げにして、危険だ、危険だ
 とまるでどう喝するような言い分で、すぐ移転しなけれ安全を保障で
 きない、などという主張がいかに、市民感覚、市民感情から乖離して
 いるか、まずそのことを深く認識すべきである。
 
 もし、僕の日記をよんでくれている富野幼稚園の保護者の方がいたら
 あるいは富野小学校の保護者の方がいたら、あるいは双方の教員の方
 がいたら、ぜひ僕の掲示板にあなたの意見や思いを書き込みをしてほ
 しい。ネットでも大きな世論をまきおこそう!

 13日は、岐阜の病院にいる義父のところにいってくる予定。
  
 


2001年12月11日(火) 就職についての相談

 最近、不況のあおりをくらってか、「就職口がないか」という相談
 を多くうける。

 50歳代のリストラも深刻だが、若年の就職先がない、という問題も
 たいへんなことだ。

 さきほども、就職でいいところがないか、という相談にみえた方が
 いた。36歳で現場の仕事をされていたそうだけど、腰を悪くして
 しまったらしい。気の毒なことだ。

 でも、正直にいって、小さなまちの一市会議員に就職を世話できる
 力があるものではない。というか、「どこそこの会社はどうか?」
 と世話をするのは、議員としての仕事ではないと僕は思っている。

 その人が、自分の力で自分がやりたい仕事をみつられるように、
 側面援助をしたり、相談にのることが議員としてやるべきことだ。

 「とにかく何かないか…」という相談は、頼られるのはありがたい
 けれど、「ごめんなさい」としかいいようがない。


2001年12月10日(月) カラオケ

今週末は、バタバタとして日記もとばしてしまった。

◆8日の土曜日は、会議で夕方から夜まで缶詰め状態。
 そのあと、僕が入っているジョイナスグリーという男声合唱団の忘年会の二次会に参加。カラオケだった。さすがに、歌好きの集まりだけあって、プロ顔負けの歌ばかり。
 指導していただいている中島先生も歌ってくれて正真正銘のプロの歌を聞かせていただいた。
 
 僕は、文字どおりカラオケ世代だ。
 はじめて書くが小学生の頃だったと思うが、クリスマスが近かった頃、親父によびだされてカラオケスナックに連れていかれた。(そんなところに小学生を連れていく親父も親父だが、のこのことついていく僕も僕だ!)
「そこには、ちょうど世間にではじめたばかりの歌の採点をしてくれる機械」があって、カラオケ大会となった。
 ホステスのお姉さん達に囲まれて、「ぼく、何歌う?」と聞かれて、真顔で「じゃあ、氷雨をお願いします」とこたえたのを覚えている。
 歌い終わると、「なに?このませた男の子は!」と周りのお客さんから拍手喝采だった。点数はたしか、85点ぐらいだったと思う。

 僕とカラオケのつきあいは、この頃からなのだ。
 
 学生時代は、音楽とほとんど縁のない生活だったがカラオケだけはよくいった。
 社会人となってからも当時、学生を相手にした仕事をしていたので、夜な夜なカラオケボックスに行ったものだった。

 カラオケは自己陶酔の世界だ。
 でも、それでいいのでは、と思う。
 自分にスポットライトがあてられる、自分が注目をされる、そんなことが人間にとってはとても大切なことなのではないだろうか。
 
 僕にとってカラオケは、夜の四条木屋町のネオン街というイメージが強いが、最近では、パソコンのインターネットからでもカラオケができるし、テレビにつないでもできる時代だ。
 おおいに自分に酔ってみよう!そうすれば、自分のいいところも悪いところもきっとどちらも見えてくるにちがいない。


 そうそう、それで、翌日の日曜日は家の掃除などをした。以上! 


2001年12月08日(土) ホームページアクセス5000!

 ホームページへのアクセスが5000を超えた。
 
 今年の4月20日に立ちあげていらい、
 たしかに、自分の中で「何か」が変わった。
 
 いつも、自分が何を伝えたいのか、
 それを考えながら生活するようになった。
 これからも、肩肘をはらずに、自分のペースで
 表現できる場でありたいと思う。

 この間、ネットでいろんな方と知り合うことができた。
 貴重なアドバイスももらうことも多い。
 ありがたいことだと思う。

 7日の一日を少し書いておく。
 
 午前中は会議。午後からは、ようやく散髪にいけた。
 散髪にいくと髪型が変わる。
 どんなにふうに変わるかというと、ホームページの
 トップにある写真のようになるのだ。
 でも、一日か二日するともとのように変わる。
 ストレートヘアで昔流行った「まことちゃん」風にだ。
 
 散髪後、議会事務局に顔を出したら、
 「誰かとおもいましたよ」とからかわれた。
 
 自分なりのヘアスタイルというのがない、それが僕の特徴
 なのかもしれない。

 議会の控え室で、一般質問の準備をした。

 夜は、保育園保護者会の三役会議。ごくろうさん会をかね
 ての会議だった。
 
 保育園に通わせている保護者の忙しさが話題になった。
 不況のもとで、会社づとめの人たちの労働強化が深刻だ。
 仕事におわれ、「保育園の会議で先に帰ります…」みたい
 なこともいいづらい状況もあったり。
 
 お父さんたちも、仕事でくたくたで保育園の行事に参加する
 までの元気が… などなど。

 それでも、保育園は、働きながら子育てをしたいという人に
 とってますます重要性が高まっている。

 仕事で自分を輝かせたい、子育てでも子どもに健やかに育って
 ほしい、この願いにこたえるために、保育運動がもうワンランク
 レベルアップすることが求められている。

 
    


2001年12月07日(金) 高い要求についていけず

 6日から議会がはじまった。
 今回も、一般質問をさせていただく。
 一般質問とは、いわば議会の花形ともいえるもので、市長の政治姿勢をはじめ市政にかかわる問題ならば、どんな問題でも質問ができる。
 僕は、初当選いらい、一度だけ質問できなかった議会があったが、あとは毎回質問させてもらっている。

 今回は、精神障害者福祉の問題と自治会活動への支援について、質問をさせていただく。詳しくは、ホームページで事前に質問原稿をオープンにするので、幅広い方からの意見をお聞きしたいと思っている。

 さて、夕べは生協で注文していた、クリスマスツリーが到着しさっそく部屋に飾った。光ファイバーで七色に変化するもので、とてもきれいだ。
 心がとてもなごんだ。

 その後、息子が僕のギターをみつけて、「バイオリン(息子は、何度教えてもギターをそうよぶのだ)弾いて!」とせがんできた。

 ギターを10数年ぶりに再開した僕にとっては、この間の練習を息子に見せる絶好のチャンスだ。

 「よ〜し、お父ちゃん弾いてあげるぞ。『幸せなら手をたたこう』をうたおうね。」と僕。これなら、GとD7とCコードしか使わない。
 しかも、四ビートでストロークすればそれらしく聞こえる。
 弾きながら歌うのは、難しいが、いわば「弾き語りでビュー」だ。

 「しあわせなら、手をたたこう…」と歌い始めたら、息子が手をたたくどころか、手を横にふる。

 「違うよ、さとしくんは『ウルトラマンコスモス』の歌をうたってほしいの!」

 「そんな難しい曲弾けるわけがないやろっ!」といいながら、冷や汗をかいた僕だった。

 それから、ネットで仮面ライダーアギトのサイトをみたあとで、
 
 「お父ちゃん、アンノンウンの絵を描いて」とまた息子にせがまれた。

 絵を描くのはきらいじゃないけれど、これももう10〜15年とまともに描いたことがない。
 いかにクリエイティブなことから遠ざかっていたか、がわかる。

 「よ〜し、アンノンウンをかくぞ〜!」とスケッチブックに挑んだものの、できあがった絵をみて、息子いわく

 「これ、なに?」…

 高い要求についていけない自分が情けない。
 でも、できないことにチャレンジしていくこともまた楽しいことだ。


2001年12月06日(木) イルミネーション見物

 6日から12月議会がはじまる。最終本会議は26日。
 また、忙しくなるぞ。

 昨日の夜は、息子を保育園を迎えにいったあと、またまた「クリスマスイルミネーション」を見物に宇治の新興団地にいった。

 新しい団地で素敵な家にクリスマスイルミネーションがきらめている。
 不況でしかもアフガンでは戦争がやられていて、世間では明るい話題が
 ないときだけに、イルミネーションは心にしみて、あたたかくなる。

 息子はといえば、
 「あのおうち、すごくきれい!みてみて、あっ!、家のなかにサンタ
 さんがいるよ」とおおはしゃぎ状態。

 でも、広くて新しい団地だからこそできること。
 わが家のように、平家建てで密集しているところで、しかも人通りがめったいにないところでやっても、「意味ないじゃん!」となる。

 幸い、息子は「うちでもやろうよ」とはいっていない。
 早く、クリスマスツリーを出して、せめて家のなかでイルミネーションを
 満喫させてあげようと思う。

 それにしても、少し心配だったのは、
 イルミネーションが素敵だったけど、家の中の灯りがついていないお家が多かったこと。
 5〜6000万台はする団地だけれど、この不況下、ローンを払うためにも残業をくり返しているのでは、などと考えてしまった。

 家族そろって夕食を。家族みんなの心にイルミネーションを
 そんなことをふと考えた。

 さあ、議会がはじまるはじまる!
 


2001年12月05日(水) 新しい仲間をふやす活動


 僕は、市議会議員。他に職業をもっていないので、市民のみなさんの税金で生活をさせていただいている。
 同時に、日本共産党という政党の役員でもある。
 
 小泉首相の「構造改革」。地金がみえてきた。
 結局、国民には、社会保障や医療制度改革などで、痛みばかりを押し付けるむき出しの弱者切り捨ての政治路線にほかならない。

 しかし、いぜんとして内閣の支持率は高い。
 それは、小泉内閣、いや、自民党政治に変わる明確な対抗軸としての理論、政治勢力が国民の中に十分浸透していないからだ。
 
 いくら、国民と政治との間の矛盾が大きくても
 自動的に政治は変わるわけではない。
 
 「政治を変えよう」という主権者である国民の思い、うねり
 これが大事なのだ。

 だから、いま、新しい仲間=党員をふやす活動にとりくんでいる。
 自分の幸せを大切にするとともに、自分の幸せをみいだすためにも
 社会を政治を変えましょう。

 そう訴えている。昨日も新しい方に仲間になっていただいた。
 涙がでるくらい、うれしかった。

 政治を変える底力を、もっともっと強めたい。


2001年12月04日(火) ギターのこと


 最近、ギターの練習を再開した。
 再開というのは、10数年ぶりということだ。
 中学校1年生のときの担任の先生が
 ザ・ナターシャセブンの高石ともやさんと大学時代の同級生で
 その先生もギターが好きだった。

 学活の時間だったか、社会の授業中だったか忘れたが
 ギターを持ちだしてきて、歌を歌ってくれた。

 「丘の上の校舎」「私に人生と言えるものがあるなら」
 「街」…
 
 かつてのフォークソングの全盛期を知っている人ならお馴染みの曲ばかりだ。次の年の立志式という昔の元服を祝う行事(当時はこういう儀式が残っていた)でなんと、その高石ともやが講演と歌をうたってくれた。

 「僕は、ギターが大好きです。これ一本あれば、どこでもコンサートがで きるしみんなで楽しむことができます。」

 そんなことをよびかけていたのを覚えている。
 それ以来、ギターに魅せられて、
 松山千春の曲をコピーしたりして歌っていた。
 「旅立ち」「銀の雨」「君のためにつくった歌」…。
 
 ところが、高校受験が近くなってピタッとやめてしまった。
 今思うと、勿体ない思いがする。続けていれば、上達していただろうに。

 大学時代、京都市長選挙の宣伝で無謀にも三条河原町でギターをもって
 デモ行進をした時がある。たしか、「そんなまちを」という曲を弾いたと思う。

 それ以来、完全に遠ざかってしまった。
 でも、最近、歌うことの喜びをまた実感している。
 伝えたいことがある、訴えたいことがある。知ってほしいことがある。

 僕の心の底から歌いたい、という思いがありそれを伝える手段としてのギターなのだ。まるで、青春時代にもどったように、わずかな時間をみつけてはポロポロ練習している。

 いま、「ギターの練習日記」をたちあげようかどうか迷っている。
 テクニカルな問題とともに、歌いたいという心持ちをあわせて書き綴ろうかと思っている。
 
 この日記を読んでくれている人たちは、どう思うだろう? 


2001年12月03日(月) 年賀状用の写真


 最近、風邪ぎみで身体がしんどい。
 のどの痛みだけだったのが、昨日などは咳き込みはじめた。
 息子からうつされたのかもしれない。息子はすっかり治って
 やんちゃしているし。

 日曜日は、宇治の平等院に年賀状用の写真を撮りにいってきた。
 先週の土曜日に日本テレ系の「ズームインサタデー」で紹介されたためか
 ものすごい人、人、人。
 その間隙をぬって、自動タイマーでパシャ…。
 
 僕たち議員は基本的に選挙区内、つまり城陽市内には年賀状を出すことは
 できない。だから城陽以外には三人でうつったものを、市内用には妻と息  
 子の二人のショットと使い分けることになる。
 95年から、もう6年連続で家族の写真。これからも続けたいと思ってい 
 る。

 あらためて気付いたこと。
 鳳凰堂にむかって右肩のところに、高層マンションがニョキッと2つのぞ 
 いている。
 宇治市は、なんと景観に配慮のないまちか、と以前に問題になった。
 不粋だ。
 それから平等院ミュージアムものぞいたが、仏像のコーナーでのこと。
 なんという仏像かは、忘れてしまったのだが、
 檜の一刀彫りの仏像がとても美しかった。
 正直いって、これまで仏像をみて、感動を覚えたことなどはなかったのに
 昨日は、癒され、きれいだという感情がわいてきた。
 なんでだろう…
 義父の手術などもあり、「生きていてよかった」ということばがいまも
 僕の心に残っているからでは、と思った。
 仏像に対面し、幾百万もの人々が死ぬことへの怖れと生きていることへの
 感謝をこめて、手をあわせてきたことだろう。
 ぼくは、とくに信心をもたないが、仏像をみつめることでなんとも落ち着
 いた気分になることができた。
 来年は、35歳。いつまでも青年の気分でいたけれど、
 死を意識しながら暮らす、そんな年代になってきたのかな?

 皇太子の妻、雅子さんが女の子を出産した。
 ひとしく、新しい生命の誕生は喜ぶべきことだと、僕も思う。
 でも、過剰反応、過剰報道にはいつもながら、「おいおい、そっとしてあ
 げろよ」と思ってしまう。
 政治的利用には意識的に批判的精神をもつべきだ、というのが僕の基本ス
 タンスだ。

 
 


2001年12月01日(土) 宇治振興局との交渉で思わぬ朗報

 30日は、午前中に京都府との交渉があった。
 宇治振興局、宇治土木事務所、宇治保健所に対して
 2002年度の予算要求書の提出と交渉を行ってきた。

 地域の問題は、市町村レベルで解決する問題もあれば
 京都府や国の施策を変えなければ解決しない問題もある。

 城陽市にかかわるところでは、思わぬ朗報があった。

 
 府道山城運動公園城陽線で街灯設置を求めていたのだが、
 このたび、その工事に具体的に着手する旨の答弁があった。

 
 府道山城運動公園城陽線の安全対策は、私が街頭宣伝をして
 いるとき、ウォーキングをしている方に声をかけられて要望
 をうけたもの。質問をするために私も、現地を何日間か歩い
 てみた。本当に真っ暗だった。

 具体的にいうと、サンガタウンから太陽が丘方面へいく途中の
 カーブになっている付近、それから、府道山城運動公園城陽線
 の宇治方面への上がり口付近。

 歩行者の安全対策として工事をすすめるということだったので
 さっそく、要望をうけた方をはじめ住民のみなさんにお知らせ
 をしたい。


 こうして、パソコンをうっていると左の指先がいたい。
 ギターを練習しているのだが、
 ついつい、熱を入れて練習してしまったためだ。

 歌を歌うことが大好きな僕にとって、ギターによる弾き語りは
 自己表現のすばらしい手段だ、と最近思いはじめた。

 すばらしい歌を聞いて、涙があふれてくる経験というものは
 誰でもあることだが、
 人間を自然を社会を世界を、歌うことを通じて見つめ直す
 そんなことができたら、どんなにすばらしいか、と思って。

 まだまだ、人前で歌えないが、僕はこの夢をそう遠くない
 ときに実現させようと思っている。

 (こんな大風呂敷広げて、いいのかなあ〜)


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