イブの流した涙
▼▼▼今回の一言▼▼▼
財布の中身(レシートとかカードの類ではない)がみるみる減っていく

○そのうちに、2003年12月27日(土)「注文をとらない料理店」を完成させる予定

http://d.hatena.ne.jp/Da-Z/
↑というページができました
感想専門の日記です

▼▼▼森博嗣▼▼▼
☆「大学の話をしましょうか」が中央公論新社から発行!
☆「τになるまで待って」が講談社ノベルスより発行!
Gシリーズ第3弾
☆「朽ちる散る落ちる」が講談社文庫から発行!
Vシリーズ第9話
☆「森博嗣の浮遊研究室5 望郷編」がメディアファクトリーから発行!
完結編だそうです
☆「ダウン・ツ・ヘヴン」が中央公論新社より発行!
スカイ・クロラシリーズ第3作
文庫になったらよもうおかな(「ナ・バ・テア」も未読)
☆「君の夢 僕の思考」がPHP文庫より発行!
☆「迷宮百年の睡魔」(スズキユカ画)が幻冬舎コミックスより発行!
◎オススメは「MATEKI−魔的−」(詩集、PHPより発行)です
というより僕が好きなだけ

宝生出演の舞台観ました!(7/26)
詳しいことは月曜の日記にて
・・・と思ったけど
やっぱり水曜の日記分に書きます
と言ってて、未だに書いていない
そのうち書きます
それにしても、もうすぐ一週間経つのか
・・・もうすぐ三週間か
・・・もうすぐ四週間か
・・・一ヶ月越えたな
・・・それどころか二ヶ月経ったな
・・・もうすぐで三ヶ月だよ
・・・経ったな、三ヶ月
そして四ヶ月が過ぎ・・・
半年が過ぎ・・・
七ヶ月が過ぎ・・・
そして八ヶ月(一年の2/3)が過ぎ・・・
驚いたことに十ヶ月が過ぎ・・・
もうとっくに一年経ち・・・
一年と二ヶ月が経ち・・・
二年と二ヶ月が経ち…

2003年11月30日(日) 超絶技巧の二人

昨日、太田光代社長の記事のことを書いたが、それに記されていた一節を抜粋する。

今、複数のテレビ局で、太田が望んでいた企画を実現するお笑い番組の制作準備が進められている。

<太田が望んでいた>というのは、前の文章から推測するに、どうやら作り込んだ笑いの番組のことらしい。
つまり、それはコントのことだろう。
ファンにとっては願ってもない情報だ。

最近は森博嗣のものに加え、筒井康隆の小説も読んでいる。
たぶん彼の最新作だろう「ヘル」は、なんとも摩訶不思議な世界観を描いたものだ。
生も死も、時間も空間も崩壊したようなその世界は一体何なのか?
小説である以上、物語には終わりがある。
今からどんな終わりを迎えるのか楽しみだ。
ちなみにこの本は立ち読みしている。

もう一つ、筒井作品で「敵」というのを読んでいる。
これは愛妻に先立たれた元大学教授の悠々自適な生活の描写が延々と続くかと思いきや・・・

ある日、パソコン通信の画面にメッセージが流れる。「敵です。皆が逃げはじめています―」。「敵」とは何者か。いつ、どのようにしてやってくるのか・・・・・・・。意識の深層を残酷なまでに描写する傑作長編小説。(あらすじより抜粋)

森作品も相変わらず読んでいる。
図書館で「スカイ・クロラ」を借り、読み終えた。
彼の作品は、僕にとっては麻薬のようなものだ。(実際に麻薬をやったことはない)
たぶん、文体そのものが好きなのだろう。
一言で言えば、うっとり、してしまう。

彼の作品は一環して、世の中の曖昧さを表現しているように思う。
普段僕らが意識しないような、暗黙の了解の裏側を覗いているような世界観が、彼の示す物語にはいつもある。
そういった裏側を意識することで、もっと豊かな暗黙の了解上の世界を過ごせるような気がする。
実に参考になる。
ただ、参考になるから読んでいるのではない。
実際には、そういえば参考になるな、と思ったのは今さっき。
さっきも言ったが森作品は僕には麻薬のようなもので、一切酒の飲めない僕にはうってつけのアイテムなのだ。

―END―



2003年11月29日(土) 戻れない明日

今日、僕は涙を流しました。
笑うことも、涙を流すことも、どちらも僕にとっては大切です。
一つ付け加えておきますと、僕は悲しいと思って泣くことはほとんどありません。
自己分析すると、どうやら主には、感動した時に泣くようになっています。
僕は悲しいことが自分の身に降りかかると、反対に涙が枯れていくような気がします。
悲しいことがあると、なるべくそれ以上自分が崩れない様にするため、感情を殺そうとします。(少なくとも僕は)
だから、そういう時は、涙を流すという感情表現を表わせられないのだと思います。
話を戻しますと、僕は感動するとよく涙が出るのですが、今日、某新聞のある記事を読んだ際、自然に涙が眼球を撫で、頬を伝いました。
その記事は爆笑問題の太田光の奥様であり、彼らの事務所社長でもある太田光代さんのインタビューでした。
それの何に感動したのか?
彼女の逞しさに?
それとも爆笑問題と太田光代さんの三角関係の面白さに?
その答えは僕とその記事の間にしか存在しないでしょう。

―END―



2003年11月28日(金) 僕たち三部作

今日は珍しく、○印良品でお買い物。
バナナバウム(クーヘン)、トマト&バジルポテトチップス、そしてミネストローネ(一人前)を一つずつ購入。
○印は割高なのであまり普段は行かないのですが、魔が差したのでしょう。
それにしても、○印というのは、ブランド名が商品に入っていない素朴さをアピールしてそう名づけたのでしょうが、今や、反対に、あまりにもその素朴さが目だち、たとえばそれの服を街中で着ていれば、きっと○印なのでは?と人から思われるかもしれません。
もはや○印良品は、ブランドがないというのがブランドになっているのでしょう。

「痛いのを忘れていく僕たち」
痛いのって嫌だ。
そんなの当たり前。
しかし、子供の頃は、よく走ったり高い所から飛び降りたりして、膝小僧を擦りむいたり足に打撲を受けたりしていたものだ。
まるで痛いことを怖れていなかったように思える。
それが今では慎重になって、転ばないように、周りをよく見てから行動するようになった。
なぜ子供の頃は、わざわざ危険なことに向かおうとしていたのか?
それが危険だと知らなかっただけなのか?
何もかもが経験不足だっただけなのか?
とにかく今では痛いのはゴメンだ。
もう、痛い、っていう言葉を忘れてしまいそうだ。
厳密に言えば、痛い、という言葉の意味を、そして感覚を。
大人になると、痛い、ということを高い確率で忘れてしまうのかもしれない。
他にも色々忘れていってしまうだろう。
きっと、死ぬのが怖いからだ。
死ぬことを忘れるために、わざとそれを連想させることを忘れるのだ。
死ぬ瞬間、人は一瞬ボケる、という話を聞いたことがあった。
根拠があるのかどうか疑わしいが、この話には妙に納得できた。
きっと、死ぬ瞬間の痛みを脳は自動的に受けつけないようにしているのだろう。
生きている間にボケてしまうと、色んな人に迷惑をかけてしまう。
だが、死んでしまえばそうはならない。
死ぬ前にボケるなんて、素晴らしいシステムだ。
でも、仮に、死ぬ前の一瞬にボケるのだとしても、その一瞬を迎えるまでは痛みを伴っている可能性がある。
たとえ純粋な老衰で死ぬのだとしても、体の機能が低下していくことに対して、脳が痛みを感じるかもしれない。
つまり、痛みを避けて通ることは難しいのではないか?
最後の痛みを迎えたあとに、もし一瞬ボケられるのだとしたら、それはとても気持ちのいいことなのかもしれない。
まるで映画「レオン」のエンディングでマチルダが植木の花を地面に植えるシーンのように、清々しいのかもしれない。
そう思うことによって、僕は死の痛みから逃れようと・・・いや、死を迎えるいづれの定めをなるべく遠ざけようとしているのだろう。
健忘症という言葉があるように、忘れていくことはいいことなのかもしれない。
子供の頃は、わざわざ暴れまわって痛みを感じることによってでしか、生きているという実感を味わえなかったのかもしれない。
今は若干そうではない。
体を動かそうとしても、うまく動かないことに苛立つことがある。
機能の劣化が進行しているからだろう。
肉体的な衰えは、体を激しく動かすことを許さない。
もう、生きているという実感を味わうために、体を激しく動かすという手段は使えないのだ。
でも、それは好都合だ。
派手に怪我をすることはもうないだろうからだ。
いや、そうではなかった。
自動車に乗れば、まったく体を動かすことなく長距離を移動することが出来るが、いつ何時事故に遭うかわからない。
ゆっくりと公園沿いを散歩していても、通り魔にグサッと殺られるかもしれない。
痛みを伴いそうな危険など、常にそこら中に転がっているのだ。
だから、僕らは、痛み、というものを忘れようとするのだ。
生命の危機を連想させる、痛み、というものを遠ざけ、そういう存在をも忘れようとするのだ。
子供の頃は、生まれたばかりで昔の記憶なんてないし、その分まだ、死、というものまでの距離感を掴んでいなかったのだろう。
大人になる、ということは、昔の記憶を思い出すようになることなのかもしれない。
つまり、子供の頃、という言葉を使うようになれば、もう大人になったと言えるのかもしれない。
人には、生と死の間を自由にさまよいたいという願望がきっとある。
理由があれば不自由に思うくせに、理由がなければないで不安で、生まれた理由も死んでしまう理由も知らない僕たちは、生きているという不自由さを逃れるように、せめて、死、というものを自分から遠ざけようとする。
そして、死、を連想させる、痛み、をも、遠ざけようとするのだろう。

「じっと黙って立っている僕たち」
どうやら三次元と称されるものの中を移動できる僕たちは
なんとか三次元を移動しているなあと実感しながらも
どうして移動しなければいけないのかとふと思い
どうしても移動したくないと思う時がある
何故か?
どうせ三次元というものに閉じ込められているのなら
せめて<その代わり自由に移動してもいいんだよ>というささやきに抵抗したいからだ

「遅れ熱っ、の僕たち」
どうも鈍くなってきた
機能の低下のせいだろう
指に熱湯がかかり
熱っ!
と反応するまでの時間がどうも長い
そうして僕たちはドロドロになっていく
昔のような原形なんか留めていない
ずいぶん変わった形になった
最近では形が変わるスパンもドンドン短くなり
ついにはそれを楽しむようになった
どこかで仕方がないという気を持ちながらも
そういう現実を現実とする能力を
どうやら僕たちはもっているようだ
今のところは

―END―



2003年11月27日(木) 妙案コンフェッション

来年の年賀状は封筒だぁ〜!

―END―

ついしん
上の表現を見て<封筒ってどういうことだ?>とお思いの方もいるでしょう。
現段階ではぼんやりとしか決めていませんが、封筒に何かを入れようかと思っています。
封筒というもの自体が年賀状らしくないので、せめて中身はそれらしいもの(お正月)をテーマとしたものを封入しようかと画策しておりますのでお楽しみにしてもらってもかまいませんが、期待値を上げておかない様、十分に注意して頂きたく願います。
そしてもう一つ。
毎年一人一人に違う絵や文を書いて送っていますが、今年は全部同じにしてさぼってしまおうと思います。
まさか住所まで同じにはしませんが(仮に住所を同じにしても、僕が直接ポストに届けるのなら問題はない)、中に封入するものを、全員統一したいと思います。
せいぜい一人一人違うものにしようかなと思っているのは、住所氏名以外では、封筒の裏に書く予定の各人へのコメントくらいです。



2003年11月26日(水) 三本だて!

「洗いたてのガウン」
洗いたてのガウンは気持ちいいだろうなと思いながら羽織ると、案外毛羽立っていて気持ち良くないものの、爽快な気分にはなる。

「同時」
国鉄に乗り、そのスピードの遅さに文句を言うカレ。
カレはまるで、飼い主の手を噛む犬のよう。

「自分」
人が多くいることは重要だ。
多くいることがこの世を成り立たせているからだ。
イスラム教徒がいるおかげで、僕は豚が食べられるのかもしれないし、アメリカと仲がいいお陰で食べるものにも困らないのかもしれない。
日本が鎖国を続けていたら、きっと日本は滅び、生き残ったとしても肩身の狭い思いをどこかでしていただろう。
もしそうはならなくても、今よりいいことはないように思う。
人は変化を求めたがる。
安全な変化を。
常に自分を取り囲む環境よりも外に目を光らせ、自分自身を忘れるのだ。
一体自分とは何なのか?
自分の胃袋を肉眼で見たことがなくてもそれを自分のものだと言えるのか?
そもそも自分とは実体のあるものを指すのか?
人は自分という見えないものに不安を抱き、少なくとも自分と名づけた形を整えようとする。
不安だから整えるのだ。
要は不安なのだ。
不安が自分を形づくるのだ。
そしてそれが自分であるのだと思い込む。
自分なんて知らないくせに。
不安から逃れたくてそうしているのだ。
しかしそれでも不安が消えないらしく、常に人は変化を求める。
せっかく形づくったものに飽き、壊して新しいものをつくる。
そして世界には多様性を求め、それらの変化をも糧にする。
だからイスラム教もアメリカも必要なのだ。
きっとそうなのだ。
そういったことは全て、自分という存在の不安定さには必要なものなのだ。

―END―



2003年11月25日(火) カタカナ語とか外来語と呼ばれるもの

「何シリーズ第九弾!このカタカナ語を漢字表記では何と表わす?」
・セルフタイマーを<背流負大麻亜>と表わしてみる

・ゲリラを<下痢等>と表わしてみる

・ニコチンを<二個沈>と表わしてみる

・・・これは飽きるね。
第九弾失敗!!

「『家族ゲーム』のパロディ映像」
朝の情報番組で、映画『阿修羅のごとく』に関する特別な映像が流れた。
それは、四姉妹とその父親が一直線に並んで食事を・・・という、明らかに監督自身の『家族ゲーム』のパロディであった。
僕は映画館で『阿修羅・・・』を観たが、もちろんそんなシーンはなかった。
たぶんDVDにでも特典として入れられるのだろう。
森田ファンとしては嬉しい特別映像だが、何より本編の方にそれが入っていなくて良かったと思う。
もし本編に入っていたら、そこだけ白けていたかもしれない。
あくまでも、おまけとして価値のある映像だろう。

「家族再生」
僕は<家族>というハードに<僕>の情報を入れ、再生ボタンを押した。
ディスプレイには、僕の<家族>が映っている。

「言い間違えたらそうなります」
どうやら俺はサイになったらしい。
そしてこの世ではないどこかにいる。
元々俺は、小出正造という名だった。
だが、現世にいる時、コインのことをサインと言い間違えたり、少年のことを壮年と言い間違えたりしてしまった。
よって、<小出>は<サイで>になり、<正造>は<想像>になってしまった。
だから私はサイで、想像なのだ。
サイ、というのはもちろん動物のサイ。
想像というのは、実体がない。
私はこの世にないサイなのだ。
サイは言葉を話せない。
しかも、言い間違えたらそうなるというルールは、この世のルールである。
もしこの世に戻ろうとするなら、この世でない世のルールを見つけるしかない。
・・・驚いた。
たった今、この世に戻った。
どうして戻れたのか?
しかも私は小出正造に戻っていた。
一つ考えられるのは、サイになり、この世でないどこかにいたという想像をしていた可能性である。
しかし、私はついさっきまで、本当にこの世にはいなかったような気がしていた。
あれはどこだったのだ?
ちなみに私は、小出正造という名のサイである。

―END―



2003年11月24日(月) 「プレッジ」はいつもない!

もう、いっつもない!
「プレッジ」。
ジャックと言っても、「タイタニック」の主人公の名でなく、ニコルソンの方の人が主演の映画。
新作でもなけりゃ、いろんなカテゴリーのランキングコーナーにも置かれていない、ただ一本だけひっそりと置かれている映画のくせに。
一本しかないからこそ、借りられ易いとも言えるけど。

「景色がよくとも勝手が悪い?」
尾道は坂なんかが多くて、それが趣のある風景として映画で観ることができます。
有名過ぎる富士山も、フジヤマ・イズ・ビューティフォーなどと言われたりします。

ところで、そういった景色としていいとされている場所というのは、実際に道としては、相当不便なものなんだろうな、と想像できます。
言うまでもなく、富士山を歩きで登頂するのは並大抵なことではありません。
尾道の坂も、地元の人は不便に思っているかもしれません。

反対に、平地である場所を<いい景色だ>とはあまり言いません。
人はなぜ、地盤の隆起を評価するのでしょか?
よくウンナンのナンチャンが、ウッチャンの地元が<盆地>であることを馬鹿にしますが、盆地だって、山の山頂から見れば<いい景色>なのではないでしょうか?

もう、地盤の隆起を<いい景色>だと言うのに飽きたあなた!
これからは盆地を山頂から眺め、<いい景色だ>と言いましょう。

「ハハハ」
今日、うちに友達が<松本人志自選集 スーパー一人ごっつ vol.2>などのDVDを持ってきてくれて、鑑賞会を行った。

<松本・・・>は、コントなどのネタが収録されている作品だが、本編には副音声がついている。
一度副音声なしで一通りのネタを見終わった後、今度は副音声にして見直そうとした。
が、自分では副音声モードにしたつもりだったが、結果的にし損ねた状態のまま見直していた。
作品を見直している最中、しばらくして僕は、副音声のことを思い出した。
<あ、副音声になっていない!>
僕がそう言うと、友達はこう言った。
<今頃気づいたん?>
僕は、その時思った。
(今頃気づいたん?ではない!)

副音声のモードになっていないことに気づく、ということは、副音声でないといけない状態の時に言うことである。
確かに副音声モードにしたつもりでもう一度作品を見直していたのだが、実際見始めてからは副音声モードでないまま見ていた。
ということは、僕が<あ、副音声になっていない!>と言うまでは、副音声モードでなくても都合が良かったわけである。
なんら問題はなかったわけだ。
つまり、気づいても気づかなくても良かった、と言える。
もしかして、初め(副音声にしよう)と頭で思っていても、作品を見始めても副音声が聞こえてこないことに気づかなかったということは、途中で(副音声でなくてもいいや)という気分に、気づかないうちになっていたのかもしれない。
だから、<今頃気づいたん?>と言われても僕はノーリアクションだったのかもしれない。

―END―



2003年11月23日(日) 怒怒怒怒怒怒怒怒

工事現場でドリルが地面を突いている音が聞こえてきた。

怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒・・・

削られていくアスファルト。
なにをそんなに怒っているのか?
削られていく部分のそれが、そうでないアスファルトとの一時の一体感を惜しみ、何者かに怒りを訴えているのか?

―END―



2003年11月22日(土) 一つのない世界

「一つのない世界」
世界のバランスが崩れた。
<昔>、そういうことがあったらしい。
<一つ>というものがなくなったらしい。
なぜ、今まで私たち・・・私?は、モノやコトに対して<一つ>という言葉を用いていたのだろうか?
論理的には解釈できるが、感覚的にはその言葉にはもうピンと来ない。
言葉の通り、<死語>である。

実は、私がこういう文章を海ていることは、皆(私以外の何か)にはヒミツだ。
今の時代、言葉などは使わないのである。
よって、私のこの文章は、きっと推測するに、西暦2000年代初頭の頃と比べるならば、かなり見苦しい・・・いや、聞き苦しい?
違う、そう、かなり気持ちの悪いものなのかもしれない。
反対に私は昔の<文学>というものに対して、何か違和感を感じるのだが。

ところで、なぜ私が(そもそも私というものなどないのだが)こういう文章を海いていることがヒミツなのか?
単に(この言葉の意味がいまいちわからぬまま使っている)恥ずかしい・・・そう、今これを書いている人格が、それ以外の人格(そんなものがあるのか?)に対して、こういうことをしているのを知られたくないのだ。
一目を憚る、ということだろう。

さっき、<私というものなどない>と海た(←漢字に自信がない)が、それはどういうことか?
もともと今の時代、<私>という概念はない。
<私>とは、一人の人間のことを昔では意味していたようだが、今の時代、一人という者はいない。
<一人>とは、昔の定義では一つという肉体に一つの人格がある者を言ったのだろう。
だが、今の時代、一つの<肉体>も一つの<人格>もない。
なんというか、昔の言葉を一つ選んで書けば、今の時代は<うねうねとしたようなもの>なのだ、と表現するしかない。
実は、今までの文章が、今の時代の者以外に通じるかどうかも鼻肌不安である。

昔で言う<一秒>という単位も今はないが、仮に私が把握している範囲のそれに当てはめてみると、どうやら今のところ、この文章を書くのに<0.000000029秒>かかっている。
きっと2000年代初頭以前に生きている人間が聞けば、ビックリするだろう。
そしてもう一つ付け加えておくと、この文章を書いている人格(昔で言う<私>)は、平均的に言えば、あと<0.000000003秒>くらいで消えてしまうだろう。

もう時間がない。
<私>(この言葉が私は好きだ)は、偶然<一つ>という概念を知った。
それが2000年初頭までは確実に使用されていたことも。
もちろん、昔で言う<一年>という概念も今はない。
一体今は、昔で言う何年なのだろう?
なぜ<私>はこんな文章を書いたのだろう?
本能的に言えることだが、きっと別人格は私の言っていることが理解できないはずだ。
一体本能とは何なのか?
どうやらそれは、私という者が、どうにか平均<0.000058秒>程の<私>という人格が生きていくために必要なものであるらしい。
そう、そう思う。

そもそも、この世に私以外の人格があることも疑わしい。
そうか、私以外の人格が、それで一つの人格なのかもしれない。
ただ、残念なことに、それを確かめる術はないだろう。
平均で<0.000058秒>の寿命であるのを知っているのも、きっと本能というものの影響だろう。

昔で言うところの、私は<孤独>な存在なのだろう。
ただ、<孤独>の意味することは理解できても、そう思ったことは一度もない。
私はある時、突然<私>になった気がする。
そういえば、昔は人は、<誰か>から生まれるものだったそうだ。
いまいちそれが、わからない。
私は私だ。
気付いたら、<私>だったのだ。
周りには、所謂<誰>もいない。
私は<孤独>な状態なのだろう。
ただ、私は偶然<言葉>を知り、<昔>を手がかりにこれを書いている。
<言葉>を知った瞬間、<昔>のことを思い出したのだ。
私は、<昔>とつながっているのかもしれない。

もうすぐ<意識>はなくなるだろう。
私は、きっと、本能的にこれを書いているのだと思う。
なぜか知っている。
もうすぐ<私>というものがなくなることを。
だからこの文章を今、書いていることを。
あぁ、これが<一生>というものなのか。
はっ、今初めて本当の<一つ>(一人)という<私>を感じる。
ゼイタク・・・
なんとなくそう思う。
もうすぐ寿命だろう。
私は誰にこれを書いているのか?
何のために?
愛しい私よ、さようなら。
一つの<私>よ、さようなら。
さようなら?
誰に?
私に。
そう、<私>というものに。

(完)

―END―

あとがき
これは、<一つのない世界>というよりも、本当は<一つしかない世界>であり、<一つというものを感じられない世界>を、その世界の住人が描いたものである。
舞台はどこでもいい。
地球でもいい。
簡単に言えば、生命が誕生する前の地球の意識が、上の本編を書いたのだと思ってもらえばいい。
本当は、一度今の地球が解体したイメージを元に書いているのだけど。(<西暦2000年>という言葉が出てくるのがその証拠)



2003年11月21日(金) どうせ阿呆なら踊る阿呆

「劇前死亡」
大変なことになった。
もうすぐ、某公会堂にて、寺崎淳吾の一人芝居が行われる・・・はずだった。
が、演出家である私が、先程最終チェックのために寺崎の楽屋に行ったら、なんと、彼は死んでいた。
しかも、明らかに状況から見れば、それは他殺であった。
その状況を見た瞬間、なぜかデジャ・ビュ(既視感)を覚えた。
他殺された死体なんて、今までに見たことないのに・・・
それにしても一体誰が・・・?
まぁそれは今はいい。
言い忘れていたが、私は寺崎とは兄弟で、しかも彼とはうり二つである。
私は迷いに迷ったあげく、皆にはヒミツで自分が一人芝居を行うことにした。
淳吾の控え室は、やつのズボンのポケットに入っていた部屋の鍵で閉めておくことにした。

芝居の最中のこと。
ふと、淳吾とマネージャーの仲が、最近悪いことを思い出した。
そのことは、淳吾自身からから聞いた話だった。
舞台袖を盗み見ると、そのマネージャーが、何やら驚いた表情でこちらを凝視している。
もしかしてあいつが犯人か?
まさか・・・。

休憩になった。
一部と二部の間に、15分の休憩があるのだ。
私は、淳吾の控え室に戻ることにした。
なんと、ドアは開いていた。
そして何と、死体は消えていた。
もしかして犯人が?
ということは、犯人は、舞台で演じている人間が淳吾でないことをもう知っただろう。
もう休憩は10分を過ぎた。
舞台袖に戻らないといけない。
私はそこへ通じる廊下を急いで進んだ。
すると、途中で例のマネージャーに出会った。
彼は言う。
「お芝居も上手いんですね」
彼はそこを立ち去った。
私は呆然とした。
が、すぐに冷静になり、残りの休憩時間を時計で確認し、舞台袖に向かった。

二部の芝居の最中。
袖にやつはいる。
無表情にこちらへ顔を向けていた。
私は気が気でなかった。
だが今のところ芝居の役をきちんと演じている。
奴が誰か人と耳打ちしているのが見えた。
何を話しているのか?

もうすぐ芝居は佳境に入る。
私は死体を演じなければいけない。
はっ、奇しくもさっき、本物の死体を見たばかりだ。
参考になるだろうか?

芝居は終わった。
私は廊下に出て、自動販売機のコーヒーを飲んだ。
すると後ろから足音が聞こえてきた。
「兄さん」
何と、死んだはずの淳吾であった。
「いや、兄さん俺の立場ないよ。」
あれ、もしかして・・・いや、そうだ。淳吾は・・・
「兄さん気付くの遅いよ、もちろんさっきのはそういう(他殺に見せかける)芝居だよ、劇中にもあった・・・」
そう、私は淳吾の控え室に入った時、デジャ・ビュを覚えた。
それもそのはず、それは、芝居に出てくる他殺を演じる稽古中の淳吾だったのだ。
確かに気付くのが遅かった。
すっかり弟、淳吾は、現実の世界で殺されたものだと思っていた。
だから、脳がそれらを結び付けようとしなかったのかもしれない。
同じ廊下の向こうの方で、淳吾のマネージャーがこちらを向いてニヤニヤとしていた。

(完)

―END―

ついしん
TVである女性が、<女は脳でなくて、子宮で考える>と言っていたが、そう考えたのは、脳でないのか?



2003年11月20日(木) 世界で一番の・・・

何を隠そう、僕は世界で一番ミスチルが好きな人間だ。
ミスチルといっても、ミス・チルトハンドル(運転者の体格に合わせて上下に調節できる自動車のハンドル代表の未婚女性)のことではない。
また、もし人間以外の動物の中に、ミスチルのことが一番好きなものがいても、それは認知できないことなので割愛させていただく。
それにしても、なぜ自分のことを世界で一番ミスチルが好きな人間だと断言できるかって?
言い忘れていたが、世界には色んなミュージシャンがいて、僕はその中で一番好きなのがミスチルだと自分で決めている。
一番に、ミスチルが好きなのである。
なので、ミュージシャンの中で、という条件をつけるなら、一番(に)ミスチルが好きな人間は、世界にいくらでもいるだろう。
ただし、皆一番タイである。
ただ、タイだろうと何だろうと、僕は世界で一番(に)ミスチルが好きな人間なのである。

ところで、ある友人から<『くるみ』のPVに感動した>とメールで伝えられた。
また、違う友人がウェブ日記に<(『くるみのPVに』)ちょっぴり泣けた>というようなことを書いていた。
そこで問題。
『くるみ/Mr.Children』のPVを見ながらカラカラと笑っていた僕は、異常でしょうか?
余談ですが、僕は『掌』のPVの特殊効果に感動しました。
以上。(別に<異常>とかけたつもりはない)

―END―

ついしん
確かに僕は、『くるみ』のPVで感動も泣きもしなかった。
そこで、無理矢理自分のそういった生理現象(感動すること、泣くことをしなかったという点に関して)を説明するならば・・・
僕にとって『くるみ』の歌詞の、そういう世界感には、なじみがあったからである。
なじみがあるので、心地よいとは思うけど、新鮮味に欠けたのだ。
よって、感動も泣きもしなかったのだろう。
そしてソレのPVに関して言うと、映像のシュールさに面白さを見出してしまったので、たぶん感情のベクトルが反対側に向いてしまったのだと思う。
それになにより、受け狙ってるもん、あのPV。
笑わない方がおかしい。(自己肯定)
ちなみに『掌』は曲自体にも、PVとのコラボ加減にも感動した。
とにかく、掌は最高だ。
よく創ったな、と我ながら(ウソ)思う。
また、まるで僕が創ったような歌詞(歌詩)だとも思った。
僕が創ると、5分ももたない長さになっちゃうけどね。
というのはいい過ぎかもしれないが、まぁ、要は常日頃思っていることと、『掌』の歌詞がかぶっているのにビックリしたのは事実。(ウソではない)
また、歌詩に共感できるのも最高だと思う一因だが、メロディーの肉厚ぶりが、より歌詩に説得力を持たせた気がする。(恥ずかしい表現だ)
個人的には『優しい歌』以降のミスチルの曲では一番いいと思う。



2003年11月19日(水) 伝説と願い(過去の映メモつき)

伝説と聞くと、さもそれが神々しいものであるかのような気がする。
しかし、本当は作り話に過ぎない。
それは、こうなりたい、こうなって欲しい、という、短冊に書かれた願望のようなものなのだ。
また、願いは叶う、とよく言うが、それは違う。
願いが実現するまでの時間が、叶ったと思わせるのだ。

―END―

【映メモ44】
2003年10月某日
「グラン・ブルー」を映画館で観た
テンポが退屈だった
話の展開も興味が持てなかった

【映メモ45】
2003年10月24日
「ショーシャンクの空に」を映画館で観た
ビデオで鑑賞済みだったが今回は映画館で
もう冒頭の刑務所の上を俯瞰するカメラからして、雰囲気が良い
時の流れを感じる貴重な映画

【映メモ46】
2003年10月27日
「Kill Bill vol.1」を映画館で観た
活劇っていいね♪
構成もいいね
だからvol.2早く観たい

【映メモ47】
2003年10月28、29日
「そろばんずく」(邦画)を観た
「の・ようなもの」、「家族ゲーム」、「黒い家」、「模倣犯」etc・・・の監督である
生半可な気持ちで観ていたらケガします

【映メモ48】
2003年11月02日
「PARTY7」(邦画)を観た
くだらない話だけど、構成がしっかりしていて最後まで飽きない
くだらないからこそ面白い、会話がキーな、ほぼ密室コメディ!(なんだ、密室コメディって?)

【映メモ49】
2003年11月06日
「(ハル)」(邦画)を観た
これは、「そろばんずく」、最近公開の「阿修羅のごとく」と同じ監督の作品
全体に占める静止画の率が史上最も長い映画かもしれません
その意味は、本編を観て頂けば・・・

【映メモ50】
2003年11月8日か9日
「ペパーミント・キャンディー」を観た。
一応反戦映画だが、戦場のシーンはほとんどない
一人の男の人生の節々を描いたもの
話は時間が逆行していく手法をとっている
自分に合う職に就くことがいかに大事かを実感させられた(魚介類のソレにとって大事という意味ではない)

【映メモ51】
2003年11月10日
「マトリックス レボリューションズ」を映画館で観た
今まで(二部までを観終えた段階)はこのシリーズが好きになれなかった
が、三部を今回観、一気に好きになった
終わり良ければ・・・である

【映メモ52】
2003年11月04日
「ニュー・シネマ・パラダイス」を映画館で観た
詳しくは11/14の日記で



2003年11月18日(火) 誕生日の日記

人は基本的に生きていることを実感したがる動物のようです。
それは、いつか迎える<死>を無意識のうちに反映しているからでしょうか?
実は人は<死>をもってして初めて<生>を感じるのかもしれません。

ただ私には断言できることなど一つもありません。
またそういった断言が出来ないことも、<生>の不安定さによるものである気がします。

不安定さが<生>のもつ要素の一つであると仮定すれば、今度は反対に、安定というものが<死>のもつ要素であるのではないでしょうか?
たとえば一個人が、<死>を迎えたならば、その人は永遠に<死んだ人>として安定することになります。
ただし、そういった考えも、物質的に捉えた場合でのみ有効なのです。
やはり、<死>をもってしても、安定などというものは現れないのかもしれません。

どこにも安定という名の、永遠の幸せの保証であるかのようなものがないのならば、私たちは生きることによってでしか、自身で<生>というものを感じられないのです。
安定は、<生>の中に溶け込んでいる幻想なのです。
私たちが生まれてきたことには残念ながら意味はありませんが、自由にそれを決めることもできますし、それにしたがって自由な考えや行動ができますし、そういったことらができる才能があるのです。
もし生まれてきたことに意味が一つあるとしたら、その時点で我々は大きな想像力を失うことになる気がします。
それは怖いことではないでしょうか?
そう思うことも、一つの想像によるものです。

とにかく、この不安定さがいいと思いませんか?
想像力も、心も、概念も、色んなものが不確定です。
極論を言えば、何一つ決まったものがない。
だから、私たちは生きているのではないですか?

生きていることには理由はありません。
ただそれが、いいのだと思うのです。
あなたが生きていても死んでいても、それは生きていたことがあるから。
この世の長さから言えば、あなたは圧倒的に死んでいるのです。
もしくは死んでいたのです。
今のところ、だからこそ人の<生>には価値がある、と思います。
そう決めることも、私の一つの自由ですし、そういう自由に価値があるのです。
誰がそう言った?
私がそう言った。

―END―



2003年11月17日(月) 何シリーズ特集

えー、今回のバレー大会、女子バレーは盛り上がりましたね。
先日、高橋みゆき選手が気に入ったと言いましたが、全試合終了後の特別番組で、彼女のお父さんが応援する姿を静止画にしたものを見ましたら、お父さん、なんと頭に日の丸の扇子を立てていました。
ほーう、この父にしてこの娘ありか、と思いました。
なんだか面白そうな親子だな、と勝手に思ってしまいました。

今回、大会が行われいる際に、ジャニーズのグループ<NEWS>が、めざましテレビや試合会場で日本女子バレーを応援している様子が頻繁に映っていました。
女子がスポーツで活躍する傍ら、男子が歌って踊って応援する。
そんな光景―まさに、今までの長い歴史と比較すれば、逆転の構図―が、時代を思わせました。
いい時代になったと思います。
それでは<何シリーズ>にいってみたいとおもいます。
初めは高橋選手に関したネタをどうぞ。

「代わりの四字熟語に何がある?(何シリーズ第三弾)」
えー、高橋選手のキャッチコピーは<変幻自在!日本の元気印>となっていましたが、変幻自在とは違う四字熟語の候補もあったようです。

・抱腹絶倒!
【解説】
彼女が抱腹絶倒しているのか、彼女に抱腹絶倒させられるのか?
どちらかというと、<している>様な気がしますが。
現によう笑ってたしな(笑)
どちらにしろ、元気でないと抱腹絶倒できないし、させられないです。
元気な彼女にピッタリ!?

・温故知新!
【解説】
彼女の変幻自在さは、監督やOGの人に教わったことから来ているのかもしれません。
案外そういうことが大切なのです。
新しく見えるものも、実は古いものの変形であり、独立した新しさなんてないのですから。

・天真爛漫!
【解説なし】

・馬耳東風!
【解説】
案外、そうなのかもしれません。
だからこそ、そうなのかもしれません。(何が?)

・爆笑問題!
【解説】
実は爆笑問題はトリオです。(ウソです)

「当てられやすくするために何をする?(何シリーズ第四弾)」
小学生の政夫君は、算数が苦手。
それでも目立ちたがり屋なため、例題程度の問題になら答えます。
でも、例題程度ならクラスの皆が手を挙げます。
先生は、万遍なく当てるのでなかなか当てられなく、政夫君はもどかしい思いをしています。
そこで政夫君は考えました。
彼はどんな工夫をしているでしょう?

・両手をめい一杯挙げている
【解説】
人より二倍のアピールです。

・当てられる前に答えを言っている
【解説】
これは汚い。
皆からブーイングです。

・牛乳を飲みながら手を挙げている
【解説】
少しでも成長して、挙げた手が高い位置に行くようにする努力しているつもりなのでしょう。

・手のひらに答えを書いて挙げている
【解説】
思わず手に出てしまったのでしょう、と思わせるための演出でしょう。
必死さが伝わります。

・モールス信号で伝えている
【解説】
机に爪を立ててやっています。
先生はこの信号を解読できるらしいので、政夫君は他の子供に気付かれずに伝えられます。
なので、先生が<そうその通りだ政夫!答えは○○だ>と言っていても、政夫君以外は不思議そう。

「探偵が苦労することには何がある?(何シリーズ第五弾)」
案外知られていない、探偵の苦労をお教えしましょう。

・自分が尾行されていることがある
【解説】
たまにこういうことがあります。
仕事がやりににくて困るそうです。

・依頼主が消えることがある
【解説】
一体今までの苦労は何だったんだ、という気にさせられるそうです。

・仕事中に自分の妻の不倫現場を発見してしまうことがある
【解説】
それでも仕事を続けないといけない辛さは、計り知れません。

・怪しい奴だ!と警官に言われ、署に連れて行かれることがある
【解説】
下手な探偵はこういう目に合うそうです。

・コートは地味なものを着なければいけない
【解説】
お洒落な人は、探偵に向きません。
これを逆手にとって、オシャレ探偵、という物語があれば、面白いような気がします。

「うさぎの前歯には何の性質がある?(何シリーズ第六弾)」
うさぎの前歯には、ずっと伸び続ける性質があるそうです。
しかし、最近、違う性質もあることがわかってきました。

・いじけている様に見える性質がある
【解説】
だから餌をあげたくなるのかもしれません。

・さみしくなる直前に光る性質がある
【解説】
伝説の特徴である。
光っている間に、かわいがるとずっと死なない。

・奥歯ではないという性質がある
【解説】
前歯は奥歯ではない。

・実は元気なうさぎのソレには、磨くと宝石のように光り輝く性質がある
【解説】
かわいそうなので、今はやりません。

・希に一夜にして20cmほど歯を伸ばす性質を持つうさぎがおり、それを棒高跳びの棒のようにして遊ぶうさぎがいるという
【解説】
基本的に、人前ではそういうことをしません。

「中継先の事件現場で喋っているレポーターの後ろの野次馬を何とかしよう!(何シリーズ第七弾)」

・レポーターが野次馬を刺す。
【解説】
そういうことをしていい権限をレポーターに与えましょう。
かなりの効果が見込めるでしょう。

「コーヒーのかき混ぜ方には何がある?(何シリーズ第八弾)」
えー、上のお題で終わるのは後味が悪いと思うので、もう一つやってみたいと思います。
コーヒーはもっぱらインスタントなサント君。
そんな彼は、ブラック状態のコーヒーにミルクを注げ、それをスプーンでかき混ぜる瞬間に幸せを感じるらしいです。
そこで、もっと大きな幸せを手に入れるべく、彼は様々なかき混ぜ方を試みました。

・スプーン二本で混ぜてみる
【解説】
スプーンとスプーンが触れ合って、素適な音色を奏でてくれます。

・もっぱら指で混ぜてみる
【解説】
慣れましょう。

・メビウスの輪で混ぜてみる
【解説】
一般的なスプーンと同じ素材のものがいいでしょう。
簡単につくれるからといって、紙のメビウスの輪で混ぜるのはやめましょう。
神秘的な味になるそうです。

・いっそメビウスで混ぜてみる
まず、持つ(もしくは抱える)のが大変ですし、それに合わせて大きなカップを用意しなければいけません。

・遊園地のコーヒーカップにブラックを用意し、中の客が混ぜてみる
【解説】
乗客は飲んではいけません。
あくまでもサント君が飲むのですから。

・矢部浩之で混ぜてみる
【解説】
鋭さのあるブラックを、彼が本来持っているミルクで優しく包み込んでくれます。

・Mr.マリックに一瞬で混ぜさせる
【解説】
熱々のブラックの上にハンカチをかけ、ワン・ツー・スリーでハイ、出来上がり!

・ブラック好きな吉原さんに混ぜさせる
【解説】
ブラック好きなので、若干しぶしぶ混ぜています。
しぶしぶな分、不躾です。(味が)

・ミルク自身に混ぜさせる
【解説】
かき混ざっていくその様は圧巻です。
我々はそろそろ、混ぜることをミルクに任せた方がいいのかもしれません。

―END―



2003年11月16日(日) 私的の名言20、など

「映画『ホテル・ビーナス』のCMよりの名言」
目指した訳でもなく
たどり着いただけの街に
生きることも
死ぬことも
出来ない人達がいて
そして・・・
ボクもまた
その中のひとりだった

<生きることも 死ぬことも 出来ない>という部分に共感。

「評論家・宮崎哲弥の名言」
だが、森岡は明らかに意図的に、そうした洗練を拒否している。
思想に用意周到な叙述を求めること自体が無痛文明の詭計に嵌(はま)っている証左だといわんばかりに。
結果として、論考全体が奇妙な生動感と実存的緊張に満たされた。

これは、某新聞に載った、無痛文明論/森岡雅正への書評の一部を抜粋したものである。
つまり、表現というものは、洗練されていればいいというものではない、ということだろう。
確かに、その方がリアルだと思う。
世の中は混沌(カオス)としているかのように思える。
よって、あまりにも題材(宮崎によれば、命の営みに欠くべからざる『痛み』を除去しようとする文明の傾向を批判するもの、らしい)が題材なだけに、洗練された文章だと、反対に胡散臭いように感じるかもしれない。

「女性下着メーカー『トリンプ』の社長の名言」
成功するまでやれば成功する!

こういう当たり前のことを言っている名言は、好き。
そりゃそうですよね、という指摘がすぐ入るような名言ですね。
名言というのは、実践を積んでいる人が自分を振り返って言うものなので、自然とこういうシンプルなものになるのだと思います。
シンプルだが、実践するのが難しい。
そういったものが、名言らしい名言だと思います。

「某番組で」
何とかバンキシャ!という番組(分ってしまうがな!)で、ご意見番として出ていたねじめ正一でない方の人(毎週出ている気がする)が、ある企業(実はトリンプ)の紹介VTRを見て『会社のPRとしてこの番組を使われたという気がします』と言っていた。
野暮だろ、そんな意見。
そういうあなたは、この番組に何のために出ているのか?
何のためだろうが、それがあなたのPRになっていることを考えれば、そんな悪口的意見は言えないはずである。
その点、ねじめはその企業の評価すべき点を評価していたような気がする。

「映画という仮想空間」
冬にマトリックス、と聞くと、ハンドクリームを連想してしまいます。

ところで、映画『マトリックス』では、主には人間が仮想現実からの脱却をはかる物語ですが、そういうあんた(映画『マトリックス』)だって、我々観客を仮想空間(マトリックス、という名の)に引き込んでいるではないか!と指摘できる。
ただ、観客はソレを現実の世界の一部だとは捉えていない。
それどころか、こちらから望んで観に行っているくらいだ。

そもそも、人間は、仮想空間に飛び込みたいと思っている類の生き物ではないか?
たとえば、ディズニーランドに行けくことは、一種のソレであると思われる。
ただ、ディズニーランドが人工的な空間であることは皆知っている。
しかし、僕は思う。
ビルに囲まれた都会で暮らすことだって、人工的な空間に身を置いているということである。
要は、仮想空間(人工的な空間)に身を置くことも、観ることも、現実なのである。

ただ、『マトリックス』に言わせれば、仮想現実に身を置くことは、人が夢を見ている状態のことをいう、と言う。
確かに、その状態では、現実の身を仮想空間に晒していることにはならない。
つまり、この身を、目やその他の器官で認識される空間に晒している状態を、現実に生きている、といい、反対に、簡単に言えば、夢をみている時のことを、仮想現実に生きている、というのだろう。

今現在、客観的に見れば、起きている時間の方が長く、そちらが暮らしの主体であるように思われている。
しかし、体の器官によって受ける現実と、頭の中でつくられる仮想現実に、違いがあるのだろうか?
確かに起きている時の方が、客観的にみても、自分を取り囲む空間から多くの刺激を受けるので、現実に生きている時の方が生きている実感がするのだと思う。
ただ将来、何らかの手段で、外部から脳に刺激を与えることにより、そうすることの方が現実で暮らしているよりも生きている実感がするようになったとしたらどうだろう?(システムとして脆弱である気はするが)
つまり、今でいう仮想現実が現実になる、ということである。
全員、もしくはほぼ全員がそうすることが無理でも、一部の人がそういう暮しを営むことには可能性がある。
なんだかそちらの方がいいような気もする。
しかし、そうなってしまうのは嫌だと思う。
きっと、今のかたちに慣れていて、まだ飽きていないからなのだろう。

―END―



2003年11月15日(土) 固定された風船を指で押せば作用反作用の法則を感じられる

Yahoo!ブックス一般書店売り上げランキングの総合に、「四季 夏/森博嗣」がギリギリランクイン。
20位中19位。
ちなみにそれは、発売になったばかりである。
『世界の中心で、愛をさけぶ』は、柴咲コウが『泣きました!』と言って話題になったり、そのおかげか本人主演でそれの映画化(『GO』の行定監督で)が決まっている。
それにしても、森博嗣の本が話題になっているのを聞いたことがない。
人知れず固定ファンが買うだけなのか?
誰か芸能人が『私、森博嗣のファンなんです』って一言言えば、話題になるのか?
映画化はあるのか?
それとも『爆笑問題のススメ』に取り上げられないだろうか?
そうなって欲しいような、欲しくないような、である。
一番最後のパターンが、一番ないだろう。

「ざらついた世界」
たとえばテレビの中の世界って
なんだかツルンとしていて
装飾に満ちていて
人は皆前を向いていて
大抵決まった時間に決まった番組やっている

そういった定まり
安定感
それらは皆が知っている世界
皆が知っている?
共有している世界
凄いんじゃないの?
条件が整えば
その世界はどこにでも広がりを見せる

その捩れ
それがたまらない
ここにあってここにない世界
届きそうで届かない世界
そんな矛盾
そしてそれは消えてなくなる

矛盾は矛盾でなくなり
そして永遠に矛盾しつづける
さぁ矛盾発見の旅へ行こう
それはそこら中にきっとある

「居たい痛い異体」
居たい
痛い
そして異体
それでも居たい
痛い?
そんな異体
そもそも異体?
痛い
ただ居たい

「ビックリした!!の代わりに何を言う?(何シリーズ第一弾)」
街角で、見知らぬ他人とすれ違う時、どうしても相手に自分の存在を認識されないまま急接近すると、上のように<ビックリした!!>と言われ、なぜか落ち込んでしまうものです。
そこで、ビックリした側の人間が、<ビックリした!!>の代わりにどう言えば、相手を落ち込ませずに済むかを考えてみました。

・ビックリして!!
【解説】
本当は自分がビックリしているのに、相手にそれを促すことにより、落ち込ませないようにする効果がある。

・5秒前、4、3、(2、1、)ビックリした!!
【解説】
()内は、指で。
これは、カウントすることにより、その間に、相手に心の準備をさせる効果がある。
多少、和らぐものとされる。

・ポポン・エス!!
【解説】
これは、冬用のものである。
ビックリした!!と主張するよりも、こう言いながら、カバンの中に常備されているポポン・エスを出し、<これ、風邪引いたら使って下さい>と言う。
相手を驚かすようなことを言おうとしたことへのお返しの気持ちが含まれている。

・お、お前は生き別れた私の妹!!(実際は違う)
【解説】
これを言えば、相手は<?>と思うはず。
あまりの<?>で、相手にビックリさせる隙を与えない効果がある。

「名刺に何が書いてある?(何シリース第二弾)」
普通、名刺には名前、社名、社の住所、役職、メールアドレスなどが書いてある。
しかし、私は以前、こんなものが書いてある名刺をもらいました。

・名刺に経歴が書いてある
【解説】
やらしいですね。
これは履歴書か?ということです。

・名刺にあだ名が書いてある
【解説】
名前の横に、カッコ書きで書いてあります。
どうしろというのでしょうか?
親しくなったら、ソレで呼んで欲しいのでしょうか?

・名刺に妻の悪口が書いてある
【解説】
王様の悪口は穴の中へ
妻の悪口は名刺へ
そういうことでしょうか?
定期的に前とは違う悪口が書いてあるものをつくるそうです。
なので、この人は、以前渡した人にも、新しい名刺を渡すそうです。
ちなみに5種類たまったら、スペシャル悪口つき名刺が貰えるそうです。(5枚の名刺と引き換え)

・名刺に<サバの刺し身二人前>と書いてある
【解説】
しかも手書きで。
裏側に書いてあります。
おもいっきりメモ用紙として使ったものを渡してしまったのでしょう。
しかも、その人は確か奥さんと二人住まい。
いちいち二人前って書かなくても!
でも、なんだか可愛い気もします。

―END―



2003年11月14日(金) 映画の感想、私的の名言19、他

今週のマンハッタン、始まりの10分を見逃して小ショック。
今週のマンハッタン、終わり頃の蒲生君の衝撃的告白を聞いて大ショック。

今日は一日で三日分のものを書きたいと思います。
なので、「キル・ビル」を見習ってvol.1、vol.2、vol.3をそれぞれ一日分として読んで下さい。
(※なぜ分けるのか?
一応同じ日に書いているけれど、分けた方が量の都合上いいだろうという判断からです。)

vol.1
「映画の感想」
そういえば11/4に観た映画の感想書くの忘れてた。
またまた500円で公開されていた映画を観た。
「ニュー・シネマ・パラダイス」。

村の映画館の映写室が世界の中心だった少年が、やがて青年になり村を出、大人になってからその村へ帰ってくるまでの話。(帰るといっても一瞬だが)

よく、この映画のラストに流れる、キス・シーンの羅列が素晴らしいと言われている。
僕も、いいアイディアだな、と思った。
何故、キス・シーンの羅列が流れるのか?
少年が村にいた頃、宗教上の理由からか、神父が映画のキス・シーンをカットしていたのだ。
そして、排除されていたそういうシーンだけが集まり、それを少年が宝物のように集めていたのだ。(一回それらが燃えてしまうという事件があったが)
それを繋げたものを、大人になった彼は初めて見るのである。

少年だった頃、映写室に通っていた彼は、映写技師のおじいさんと仲が良かった。
村に戻ったのは、そのおじいさんが亡くなったからだ。

その少年は、名前をトトという。
トトはおじいさんに迷惑をかけながらも、頻繁に映写室に通った。
ある日、映写室が火事になり、おじいさんはトトに辛うじて助けられるも、顔にヤケドを負い、視力を失った。

僕がぞっとしたシーンがある。
青年になったトトは、好きな女の子ができた。
だが、彼は話しかけるのが面と向かってはし辛いと思っていた。
ある日トトが教会にいると、彼女も教会に来ていた。
教会には懺悔を行う箱(公衆電話のBOX程)があり、その中に神父が入っている。
その箱に彼女が並んでいたので、トトは神父に代わって自分が箱の中に入ろうとした。
トトは、とっさに、神父に言う。
「○○(おじいさんの名前)が重大な悩みがあるんだって。今すぐ聞いて欲しいて」
もちろんトトはおじいさんに、事前に事情を話した。
神父がBOXとは離れたところにいるおじいさんのところへおびき寄せられている間、トトはBOXに入り、やっと彼女に照れくさいことを言う。
その後、おじいさんが悩みを言い終わって、神父さんが悔い改めるように言って、おじいさんもそれを了解して、やっと神父さんはそこから開放される。
もちろんおじいさんはとっさに演技をしたわけなのだが、そのシーンの終盤、神父さんがBOXへ戻っていく時、妙におじいさんは心配そうな表情をしているのである。
本当は神父さんに言った悩みは、演技でなく本音だったのかもしれない。
歳になってから視力を失って、気が参っていたのかもしれない。
そう思うと、その一連のシーンが怖かった。

さて、幼少時代、青年時代をその村で過ごしたトトはそこを出、やがてすっかり大人になってからおじいさんの訃報を聞いて帰ってきたことはさっきも言った。
実はトトが村を出る決心をしたのは、おじいさんの強いススメなのだ。
自分は無学だが、お前には将来がある。絶対こんな村に収まるな。幼少の頃映写室を愛したように、好きな仕事を見つけ、それを愛せ。そして20年30年経つまでここへ戻るな。戻ったって何にもなりゃしない。寂しくなって戻ってきても、今の村の姿は変わる。今までの村でのことは、すべて幻なんだ。
と、そんなようなことを厳しい口調でおじいさんはトトに言った。
そう言われ、彼は汽車に乗り、プラットホームにいるおじいさん、母、妹を残してそこを去った。
そして月日が流れ、彼は大人になり、おじいさんが死んで、戻った。

村の人たちは、トトが村にいた頃は彼をトトと呼んでいた。
が、帰ってくると、皆は彼を○○(名字)さん、と敬語で呼ぶ。
何で敬語で呼ぶんですか?と立派な大人になったトト(どうやら世間的地位も高いらしい)が言うと、村人の一人が言う。
「昔はトトと呼んでいたが、もう君は立派な大人だ。でも敢えて言おう、おかえりトト」
それを聞いて、僕は泣いてしまった。
そもそも、終盤彼がその村に帰ってくるシークエンスの始まりから、僕は何故だかジーンときていた。

そして、ラストのキスシーンの羅列である。
それ以上のラストシーンはないだろう、と思った。

vol.2
「朽ちる散る落ちる/森博嗣よりの名言」
これは、知らない谷だ。
それが、目の前に見えた。
まったく新しい橋を、そこに架ける必要がある。

もちろん、それまでには橋が架っていないものとする。(私談)

「捩れ屋敷の利鈍/森博嗣よりの名言」
それじゃあ、そうですね、シマウマの縞が、黒字に白か、白地に白か、みたいな無駄な会話をしましょうか?

本当にどっちでもいいことだし、くだらない。
くだらないことの例えに相応しい。

「捩れ屋敷の利鈍/森博嗣の引用文よりの名言」
そして、何一ついい前触れをもってこない○○(牙に鳥と書く漢字)さえほほえましいほど、すべてが新鮮な光の中に浸る。

それも一瞬のことだろう。

「六人の超音波科学者/森博嗣の引用文よりの名言」
・・・無生物から生物はできないことになる。

生物の定義にもよるが、とにかく初めての生物とは何だったのだろう?
そもそも、猿と人間の違いだって、曖昧なのではないか?
ほぼ、文明の度合が違うだけ。(それが大きな差とも言えるが)
外見は似ている。
互いの境界線は、非常に曖昧だとも言える。(あくまでも他の生物よりは、ということだが)
それと同じで、生物とそうでないものの境界線も曖昧なのだろうか?
専門でないので知らない。
まぁ、人間が人間なりに考え出した生物の定義があるとして、それに基づく生物というものの一番始まりもきっとあるのだろう。
でも、それは上の名言と矛盾する。
所詮、人間の認知できる現象には限りがあるのだろう。

「六人の超音波科学者/森博嗣の引用文よりの名言」
本質的にいったら、量の大小で生命現象の本質は論ぜられない。
スミス氏のからだをつくっている細胞の何割まで死んだ時に、スミス氏が死んだことにするというのはおかしい。
けっきょくスミス氏が死ぬということは、スミス氏という一人の個人をつくっている体型、モルフェという言葉でいっているが、このモルフェが死ぬことであって、細胞が死ぬこととは別なのである。

ここまで科学的に<死>について語られると、滑稽に思える。

vol.3
「阿修羅のごとく」
上のタイトル通りの映画が既に公開されている。
たぶん観る。

四姉妹が並んでいるポスターを見た。
上から大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子。
容姿がバラバラ、とも言える。
が、それは、ひょっとして、同じ家族であり姉妹であるという枠組みを越えた四人のチームを描きたかった監督が、狙いで容姿をバラバラにし、それを記号化させたことによるものではないか?という深読みができる。

それにしても、出演者の誰かが言っていた。
この物語は時代劇だ、と。
確かに明治時代を描いている、つまり現代ではないから、時代劇だと言える。
どれくらい古ければ時代劇と言えるのか?
80年代を描いても、時代劇と言えるのか?

―END―



2003年11月13日(木) 考察学

リモコン付きのDVDデッキがある。
ディスクを入れる時は、直接隙間に刺し込むタイプのものだ。
取り出す場合は、本体の<ディスク取り出し>ボタンを押すか、リモコンの同様のボタンを押せば、ひょっこりと頭を出す。
そんなシステムのものを持っている。

一つ思うのは、リモコン側の<ディスク取り出し>ボタンはあまり必要がない、ということだ。
ディスクを取り出すには、結局直接本体に接近しなければいけない。
その時に、本体のソレを押せばいのである。
確かに、本体から離れている時にリモコンでディスクの頭を出し、接近してから取り出せば、多少効率がいいかもしれない。
でも、ほんの僅かな効率のよさである。

本体のボタンはただでさえ滅多に使わないので、せめて<取り出しボタン>は本体のものを使おうと思う。

あと、ディスクを取り出すと同時に、必ず画面に<ディスクを入れて下さい>と出るが、常に何かを入れてないといけないのだろうか?
空であっても、デッキは困らないはずである。
あの表示は何なのだろう?
わからない。
せっかち、というのとも違う。
全くやらずに済むことを、まるで急かすように言うなんて。
ひどい。

―END―



2003年11月12日(水) いかにも・もっとも・らしい・こと・ら

「価値」
伝統を守ることも
新しいものを創ることも
同様に価値がある
要は
価値がある
と思うことに価値があるのだ

「演技」
<演技をします>
と宣言をしてから演技をすれば
第三者の目を演技する者が意識することになる

そういう視線を受けながらの演技は
それをしている本人にとっては
たとえばコップの水を飲む演技をしていても
本心では飲みたくないのかもしれない

普通、演技とは
自分の利益のためにするものである

もちろん
興行の一環として第三者に演技を見せている場合
それの代金は演者にとっては利益になる

しかし、本当に水を飲みたいわけでないのに
水を飲む

もし
演者が水を飲む演技自体に利益を見出しているとすれば
それはどういうことなのだろう?
それは演者にしかわからない

「飛行」
翼を持つものは
一度
ゆっくりと地上を歩いてみたいものだ
と思っている

「不安」
マークシートの解答の記号が同じものばかり続くと不安なように
私は変わらない毎日が不安だ
ただ不安であることが悪いとは思わない
そういった感情は
きっと何かの役に立っている
そう信じる

「代理」
帰り道のバス停
急いで帰るほどの大した用事もないくせに
時刻表を覗き
少し前にそれが発車したことを知ると
何故か悔しい
そんなこと、おみくじで<凶>を引くのと同じくらい
意味のないこと

何故<凶>を引くと悔しい?
まるでそれは呪文のよう
そう言って私は
様々なことをそれのせいにする

「調和」
元に戻る
もしくは代わりのものを使い
特定の範囲内のものが元の状態に戻る
それならいい
一瞬バランスが崩れても
かえってそれが面白いと感じるくらいだ

しかし
元に戻らないものがバランスを崩すと
それはたちまち恐怖の対象となる
それが未知なるものである証拠だ

―END―



2003年11月11日(火) 幸せとはこんなもの加奈?

大山加奈が一番人気なんだろうな、と思う。
まあそんなわけでしてバレーボールが熱いようですね。
勝ってれば必然的に盛り上がるんですけどね。
それと矛盾するするように、面白いコント番組(つまり松本人志系列のコント番組)なのに視聴率が取れなかったのは・・・。
それは、話が長くなるので短く言えば、笑い、とはそもそもメインなものでなく、アウトサイダー的な役割でなければいけないからだと思いますが。

国内で年中やっているスポーツ番組より、こういった何年かに一回期間集中でやる大会の番組の方が、僕としては好きです。(特定の競技によらず)
たまだからこそいい、という感覚が僕にはあります。
それはコント番組が毎週ある、というのに無理があるのと似ていると思います。
コント番組が毎週あれば、コントを量産しなければいけません。
そうなると、質の低下、もしくはパターン化に伴うマンネリ化が生じます。
だから、久しぶりのスペシャルコント番組「ダウンタウンのものごっつええ感じ」は質的に成功したのだと思います。(視聴率敵失敗番組ではあったが)
コント番組は、一年に二回くらい、多くても一ヶ月に一回くらいがいいような気がします。
もしくは週に一回だが一放送15分、とか。
あと、同じ枠の番組なのに、週によってグループが変わるとかね。
今週は松本組、次の週はウンナン組、その次は爆笑問題組とかね。
それでもいいと思うというか、それはかなりいいと思います。(お互い張り合い出るしね)
いい例が、笑う犬シリーズです。
明らかに深夜帯での20分の時は面白かったと(個人的に)思います。

話が逸れました。
なのでスポーツ番組も、年中やってる野球など、何で皆いつも見ているのか?と疑問に思いますが、きっと<好きだから>見るのだと推測しています。
人のことを言えません。
僕は映画を週に二回は観ますから。(ビデオ含む)
でも映画はバリエーションあるしなぁ・・・。
やはり週に何回も野球観るのは信じられない。
一生信じられないかもしれません。(断定はできない)
でも、毎回しっかり野球を観ている人しか知らない面白さがあるのかと思うと、それを知りたい気もします。(フォロー)

そう、で、なかなか熱いバレーですが、僕はパワフル加奈(大山加奈)やプリンセス・メグ(栗原恵)より、日本の元気印こと高橋みゆき選手を何だか応援しています。
試合中も彼女はいいファイトしているなぁと思うんですが、(身長低い割に。でも、低くてもリスクでないポジションモあるから問題はないと思う。そもそも全員バレー選手は身長が高い、という思い込みが問題)接戦の末に勝った今日の試合後、選手らにインタビューをするはずだった男性(強調)インタビュアー(アナウンサー?)が感極まって泣き声が上ずり、それを見て変わりにそのインタビュアーからマイクを受け取って『はい、勝ちました〜!!(観客らにアピール)どうでしたか今日の試合は、色々助けてくれましたけど、栗原さん?』と隣にいた栗原にマイクを向けてズン(飯尾ともっと地味な男のコンビ名のことではない)ズンやり始めた高橋選手には感動した。
試合そのものより感動したといってもいい
その即興インタビュアーに扮した彼女を見て、余計彼女を気に入った僕でした。

そんなことなどを思った今日ですが、今日は何だか終始幸せな気分だった一日でした。
『マトリックス レボリューションズ』を観てハイになり、バレーの番組を観て興奮し、爆笑問題の番組で感心し、観っぱなしなものの、いいもの観れたな〜という気分で一杯な一日(11/10)でした。
他にも今日(実は昨日の10日のこと)感じたことは他にも無数にあり、なのでこの先それぞれにタイトルをつけ、短めにそういったものを記しておこうと思います。
それでは既に長いこと書いていますが、この先も楽しんで頂ければ幸いです。
気分がいいので口調もどことなく丁寧です。
ではいってみたいと思います。
と思いましたが、以下にはマトレボに関することだけをまとめることにしました。(長くなり過ぎるため)

▼▼▼▼▼

「マトレボ(※マトリックス レボリューションズ)を観て思ったこと(面倒なので箇条書き)」
・人間の考えることってなんでこう複雑になっていくのだろう。(日常の僕ら、この映画の表現etc…)

・一部、二部を観た時にイマイチだと思ってた理由がわかった。
つまり三部を観ていなかったからだ。
なので、三部を見終わり最高だった、と言える。

・一部はサスペンス、二部はアクション、三部は戦争映画だったような気がする。

・たとえ救われなくても信じるしかない、という状況の凄まじさを感じた。

・エンドロールでローマ字の日本人の名前を見つけると、心の中で『見つけた』と思う。

・観念の視覚化的映画でもある。

・監督は、色んな妄想を何とか三部作というものにまとめあげたのだろう。
それは大変な作業だったろうと思う。

・これ(マトレボ)を観ると、ドラゴンボールの実写は成功するだろうと思う。
(技術的には)

・パンフレットに印字ミスがあったらしく、<林 完治>と印刷されたシールのようなものが、<字幕翻訳>という文字の右隣に貼ってあった。(映画の感想ではない)

・フォトグラファー、辺境文化評論家、元警視庁刑事、エディター&インタビューライター。
この四人に共通するものは?
答えは、『マトレボ』のパンフレットにコメントを寄せた人。
元警視庁刑事のところにどうしてオファーが?
敢えてこの人のコメントを載せたパンフ製作者は面白い。

・・・他にも思っていたはずだが、残念ながら忘れてしまいました。
またDVDがレンタルされて見直したら思い出すかも。
もう、映画でしかできないことを思いっきりやっている清さがこの映画の最大の魅力でもあると思う。
が、それは観念に裏打ちされた、力強い映像でもある。
ただ、個人的には、仮想現実でのアクションシーンは浮いていると思う。
その代わり、三部でのザイオン(現実世界)でのアクションは迫力があって良かったと思います。
やはり記念碑的作品だと言えるでしょう。

―END―

ついしん
今日は祖母の誕生日。
よく年齢がわからない。
「昔だと今より二つ歳の計算だから・・・」(本人談)
よくわからない。



2003年11月10日(月) ターイムスリーップショッピンダ〜ン

「休日を楽しく過ごすイスの座り方 番外編」※昨日の日記参照
・騙されない奴として座る

【解説】
よく、イスに座ろうとしている人のイスを後ろに引き、転ばせようとする人がいる。が、座ろうとする側の人が、そういう悪戯の存在に気付きながらも気付いていないようなふりをし、丁度いい具合に後ろに移動しながらうまく座れば、ビジュアル的に面白い。

「ありがとう、松っちゃん」
DVDの彼のコント集、スーパー一人ごっつvol.1を見た。
個人的にはかなり満足している。
多種多様のコントなどが詰まっていたが、こんなに幅広い作品を創れるのは松っちゃんくらいなのではないか?
どれか一つくらいは他の芸人らもやれるかもしれないが、(主に)一人の人間が全てのコントなどの作品の中で演じているのは、凄い。

作品で言うと、<マネキンとコント>というコントでは、次第にマネキンがマネキンであることを忘れさせるのが凄い。
これは松っちゃんの演技の賜物だ。
あと、<タイムスリップショッピングダンス>は、死ぬ前に一つ見るとしたらこれかな、と思う。
きっと、(何だろう、この人は何でこんなことしてるんだろう?)と思いながら果てていきたい気がする。

「捩れ屋敷の利鈍」
そういうタイトルの小説がある。
この<利鈍>という意味について、友達と二人で考えた。

彼は、利益の伸びが鈍い、という意味に解釈した。
僕は、利益を得ることによって、今までの人間としての能力が鈍る、という意味に解釈した。

さて、あなたはどんな解釈を?

―END―



2003年11月09日(日) 今日の占いは、いい結果が出るまで次々に新しいのを試す

「普段の哲治」
隣の哲治という親父は古めかしい程の頑固な親父だ。
そんな親父がニュースで紹介されていた。

『次のニュースです。近頃では珍しい頑固親父が、天然記念者として捕獲されました。名前は哲治。生後996ヶ月のオスで、頭部が剥げており、特徴としては、近所の子供のボールが自宅の窓ガラスを割ると<コラー>と怒るということです。天然記念者保存委員会では近々・・・』

そんなコメントと共に、僕らが怒られている時の映像や、普段僕らが見慣れない、家族団欒時の哲治の様子がVTRに流れていた。
そのVTR(家族団欒時の哲治)は、アナウンサーの後の説明によれば、家族から提供されたものだという。
その、普段の哲治に僕は違和感を覚えた。
本当はこんな人なのだろうか?

色んな作戦を試みて、普段の哲治を垣間見ようとした。
しかし、僕らの作戦は尽く失敗に終わった。
やはり、僕らにとっての哲治は、頑固親父であった。

「お茶持ってお笑い番組見るな!」
私の息子は大のお笑い好きで、その上大のお茶好きでもある。
そんな息子は、よく熱いお茶をすすりながら、お笑い番組を見ている。
だが、それでは困る。
彼がお笑い番組を見ながらお茶を飲んでいると、笑った拍子に手に持ったお茶を宙に飛ばしてしまうのである。
家族は彼に迷惑しているのだ。
だから私はよく、<お茶持ってお笑い番組見るな!>と彼に忠告をするのだが、一向に聞かない。
そこで私は、お笑い番組に茶々を入れることにしたのだった。
効果はてき面だった。
どんな茶々を入れたのかは、ここではヒミツだ。
それを話す機会が、今後あるかもしれない。
それまで待っていてくれ。
待っていて欲しい。

「私はコントさえあれば・・・」
私は大のコント好き。
なので、好きな芸人のコントのDVDを何枚も集めている。
好き過ぎて、それさえあれば何でもできるほど、好きだ。
例えばコントさえあれば、苦手な逆上がりだって楽々とこなせる。
他にも、コントさえあれば、取引先との商談、夕ご飯の献立決め、散歩中の暇な時などに役に立つ。
コントは私の生活には欠かせないものだ。

「無くし屋ジョニー」
彼はカッコイイ。
一言で言えば、黒尽くめの男だ。
彼に頼めば、何でも無くしてくれる。
とても手際良く無くしてくれるので、いつも大助かりだ。
たまに危険な<無くし>を依頼することもあるが、いつも難なくこなしてくれる。
ありがとう、ジョニー。

「寝る子は重い」
寝る子は重い。
うちの子は、必ず家で寝る時は、私の肩の上だ。
お前は肩乗り文鳥か!
おかげで年中肩凝りだ。
寝る子は重いと言うが、まさにそう思う。
どうにかならないか?

「部屋男」
私の友人は人でない。
厳密に言えば、友部屋だ。
彼は見かけは人間なのに、まるで一室の部屋のごとく振る舞う。
そんな奴だ。
ちなみに片方の乳首は単なる飾りだそうだ。

「休日を楽しく過ごすイスの座り方」
・騙されてブーブークッションを仕掛けられ、その余韻に浸る。
・頭だけ乗せてみて、その様を俯瞰の視線で見てみたら面白そうだなと想像する。
・大の大人が高齢の母親の膝の上に座る。
・カバをイスに見立てて座る。
・オペ(腹部切開を伴う)をされている時に座っている。(一瞬面白いが、決死の覚悟が必要だ)
etc・・・

「交通手段」
あらゆる交通手段の中で、運転のプロでもない人間が運転する車ほど不必要なものはない!!
子供が夜中急に熱を出し、病院へ行くにはタクシーがある。
車より、自転車の方が小回りが利くし、駐車スペースを取らない。
旅行へ行くなら電車、飛行機、船を使えばいい。
通勤通学だって、この先会社が時間差通勤への対応をしてくれれば、もっと地下鉄が使い易くなるし、本数も増やせばいい。
これで、運転嫌いの人は、無理をして車を運転しなくて済む。
なんとなく誰もが(特に若者は)運転しなければいけない、という風潮に喝っ!

―END―



2003年11月08日(土) ついに

ついに、DVD「松本人志 自選集 スーパー一人ごっつ vol.1」が今日のお昼に到着する予定。
こんなに見る前から楽しみな気分な作品は珍しい。

「軌跡2」
昨日、「軌跡」というのを書いた。
それに関係したことをもう少し。(実は話が次第に反れていく)

白い画用紙に赤いクレヨンで円を描く。
それを人に見せ、「これは何ですか?」と聞くと、どう答えるだろう?

丸、とか、円、とか言うのが普通だろう。
もしくは赤い丸、とか。
白い画用紙に赤いクレヨンの集合体、と言ったら、その人は変わっているだろう。
もっと捻くれた人なら、赤いクレヨンの集合体に白い画用紙がくっついているもの、と言うかもしれない。

つまり、それが何であるか?という質問は、ある特定の答えを解答者に求めるものではない、と言える。
そもそも、特定の答えを求める質問など少ない。
大抵、解答者によって答えが変わる。
変わるからこそ、質問するのだろう。

例外として、専門的な内容の質問は、その内容に解答者が精通していれば、解答者の答える内容は定まっている場合もある。

質問とは、一つには、解答者の個性を見るものとも言える。
世の中の様々な質問に対する、一人一人の違う解答は、現れては消える、点滅する軌跡のようだ。
そしてそういった軌跡らは、もっと大きな軌跡(真理)の点であり、一部である。

「耳かき」
綿棒で耳かきしていると、咽る(むせる)ことがある。
なぜ?

「図書館」
図書館の本棚から、一冊の本を取り、その本の裏表紙のあらすじを見ていた。
と思ったら反射的に驚いた。
その本の横にあった本が、棚から落ちてきたからだ。
もし視線が手に取った本にでなく、まだ本棚に残っていれば、そんなに驚かなかっただろう。
が、完全に棚に視線がなく、落ちてきたことを知らないまま、急に手の上に何かが落ちてきたのでかなりビックリした。

―END―

ついしん
<森 博嗣>と<森巣 博>は似ている。(どちらも作家)
本棚で森作品を探していて<森巣博>の字を見ると、騙された感じがする。
騙される方が悪い。
早く慣れたい。



2003年11月07日(金) 百人のイナバ物置の社員(社長、重役含む)

「似ている」
一卵性双生児は似ている
これは誰もが納得することだろう
また、A家の現在56歳の一卵性双生児の二人(C男とD作)、B家の現在13歳の一卵性双生児の二人(E太郎とF二郎)は、互いに自分の兄弟とは似ているが、たとえばC男とE太郎は似ていると言い切れない。(似ているかもしれないが)

(あ、似ている)
人はそう、似たものを関連付けようとする。
ほぼ、無意識にそうするだろう。
ただし、その似ている二つのものを、観測者が両方とも認識しているものとする。

この世には自分に似た人が、何人かいるだろう、国境を越えて。
ただ、その人を自分が知らない場合、その人と自分が似ていることは知り得ない。(他人を介してそれを知っても、厳密に言えば知っていることにならない。そもそもその人が言っていることは疑いの余地がある。自分と人との感覚が違うせいである)
似ている二つのものを似ているものだと認識する場合、さっきも似たようなこと言ったが、知っていなければいけないのである。

よって、N氏という人がG子とH代の顔を似ていると認識しているということは、N氏はG子とH代を知っている証拠である。
少なくとも顔の情報を知っているのである。
つまり、(似ている)ということは、それを思う人間が対象となる相手の似ている部分を知っていて、勝手にそう思うことに他ならない。

「凄い天国、凄い地獄」
凄いのがいいのか
ずっと凄くなければいけないのか

凄く球体に整った泥団子がいいのか
それに価値はあるのか

凄いことが価値のあることに思えて
いつも人にそう言ってもらいたくて
そのために努力するとしよう
それが何になるのか
本当に嬉しい?
嬉しいのならいい
嬉しくないのなら
嬉しくないんだろうね

凄いことは
君の目の前にしか現れない
決して人を介しては現れない
だから君は
凄いことをしたい時に
凄いことをすればいい
たとえそれが凄いことでなくても

「軌跡」
軌跡ってなに?
それは
その軌跡のように見える集合体

クレヨンで丸い円を画用紙に描けば
その軌跡は円であり
クレヨンの集合体である

本質的には
それは単なるクレヨンの集合体に過ぎないと言ってもいいだろう
ただ
それではあまりにも可哀想だということで
それを円と名づけたのだという

なぜ可哀想なのだろう?

―END―



2003年11月06日(木) どうしよう!

どうしよう!
おならが凄く(回数)出るんだけど、家で。
これでブタミントンやろうか?ってくらい出るんだけど。
もしくはこれでお墓に立ててある線香の火を消そうか?ってくらい・・・。
さらにはこれが貯まったら、いずれ宇宙へ飛んでいきそうなくらい・・・。

―END―

ついしん
ヤフオクで、DVD「松本人志 自選集 スーパー一人ごっつ vol.1」を落とす。
本体2,600円、送料300円。(定価税込み4,500円)

ついしん2
人の考えを知りたいということは、結局自分の考えを知りたいということだろう。

ついしん3
個人的には唯心論も唯物論も信用できない。
だが、やや唯物論寄り。

ついしん4
他人と共有できるもの、厳密に言えば最も共有率が高いものは、ある特定の物体であろう。(その物体と光源からの距離が、自分と他人とで差がほぼ無いものとする)

ついしん5
人は自分と異質な自然に魅了されたりする。
たとえば、人はシンメントリーに成りたがり、反対に自然はそうでない。
なぜ異質なものに魅了される?
自分が不自然な存在なくせに。
自分が自然でありたいとは思わないくせに。



2003年11月05日(水) 犬とコントを

うちの家の裏に、犬のいる家がある。
その家には、庭が広く、その庭には一匹の犬がいる。
どうやらもう、家の中にも一匹いるらしい。
その犬は庭にいる犬よりも大きい。
家の中の大きい方の犬は庭には来ないし、庭にいる犬はいつ見ても庭にいる。
うちの窓から見えるのは、庭にいる犬だ。
いつも庭にいる犬しか見えないので、その犬は、まるで家の中の大きな犬を羨ましがっているように見える。
その犬が時々その家の一階の窓から中を覗くが、その姿を見るとまさに外にいることが寂しそうに見える。
そんな、裏の家の庭にいる犬と、僕とでコントをしたい。
もちろん、一方的に僕が自分のうちの窓からその犬を見ながら(もしくは見ていなくてもいいが)コントをしたい。
要は、その犬と僕とがさも関わりを持っているかのような互いのやりとりを演出したいのである。

例えば、元々その犬は僕のうちの犬だったことにする。
で、うちが嫌になり、裏の家の庭に居候していることにする。
で、僕がそろそろ戻ってこいよ、と言う。
でも、知らんふりする犬。
そんなコント。
一度やってみたい。
DVカメラがあれば、できると思う。(今はまだない)
極端な話、そこの家の犬でなくてもいいのだが。(だって見知らぬ人の家の庭の撮影許可取るのも面倒だし。PFFアワードにでも出すテンションであればそれくらいの許可は取ろうとするだろうけど)

―END―



2003年11月04日(火) 私的の名言18

もはや、<名言>というよりも、<名文>と言った方が的確ですが、間違いとは言い切れないと思うので悪しからず。

「『六人の超音波科学者/森博嗣』よりの名言」
紅子は、その犬の屍骸を、自分のベッドの中に入れて、隠していた。
それが、眠っている間に、見つかってしまったらしい。
彼女が目覚めたときには、犬の死骸がなくなっていた。
代わりに、芳香剤の匂い。
そのときから、大嫌いになった、あの人口的な香。

解説の余地なし。

―END―



2003年11月03日(月) 気候

「今日みたいな気候」
今は秋
めっきり涼しくなって
肌寒い

そんな肌寒さにも慣れた今日この頃
昨日に引き続き今日も
暖かい
これはどういうことなのだ!
と文句を言いたくなるくらい
暖かい

「<秋>へ」
君は<秋>っていう名前じゃなかったのか?
僕はてっきりそう思っていた
でも勘違いだったみたいだ
君は<秋>じゃない
君に名前なんてない

<秋>は涼しい子だった
でも時々、その涼しさに飽きたかのように
暖かくもなった
そんな<秋>に私は戸惑うこともあった
でも、そんな彼女の気まぐれにも慣れた・・・
と言いたいところだけど、やはり慣れない
でも、慣れないことには慣れた・・・
そう言っておこう

<秋>ってのは、そういう子なのだから
それでいいんだ

―END―



2003年11月02日(日) 非冒険時代

「太田と田中」
田中:どうもこんにちわ、爆笑問題です
太田:太田です
田中:いちいち自分の名前だけ言わなくてもいいでしょ?コンビ名言ってるんだから
太田:そう?
田中:それにしてもですね、いつの時代も若者っていうのは注目されますけれども、世間の声は若者に対して結構厳しいのが常ですよね
太田:若者が怖いんじゃない?
田中:え、太田さんそれどういう意味ですか?
太田:いや、結局自分が優位な立場でいたくて、威張ってるんだよ、大人ってのはね
田中:そんな人ばっかりじゃないでしょ?
太田:まぁね
田中:でもね、僕も子供だった頃はよく「今の若者は・・・」っていうのを枕詞のように説教される時につけられて言われましたよ
太田:でもお前は今でも間違えて「今の若者は・・・」って言われちゃうんだよな
田中:いくらなんでももう言われないし、もうすぐ40だよ!
太田:そうだっけ?
田中:でもね、話戻しますと、そんなに世間のイメージほど若者って悪くないと思うんですけどね。いつの時代もいい子もいれば悪い子もいますからね
太田:まぁね、俺なんかよく誉められてたね、若者の頃は
田中:そう?例えばどんな風に?
太田:なんかね、そう、たとえば焚き火がしたくて落ち葉を探しててさ・・・
田中:はい
太田:自分のうちの庭に見当たらなかったんだよ
田中:ほーう
太田:だから隣の家の庭に行ってそれがいっぱいあったからかき集めてたんだけどね、「あーら太田さんちの坊ちゃん庭のお掃除してくれてたの?ありがとうね」って言われてさ・・・
田中:良い話じゃないですか
太田:でもさ、俺としては人のうちに勝手に入り込んで落ち葉を盗んでるような気分だったんだよ
田中:はぁ
太田:だから誉められたというか、隣のうちのおばさんが良い人なだけで、俺は何も誉められるようなことはしてないんだよ
田中:じゃあ例え話で出すな!

「矢田亜希子込みのプリンタ」
たとえば矢田亜希子が出演しているプリンタのCMがあるとする。
N氏は矢田亜希子が好きなので、そのCMに惹かれる。
どこのメーカーのプリンタか、なんてことは印象に残らず、矢田亜希子がプリンタの横で何やらそれの説明をしているシーンばかりが頭の中で繰り返し再生される。
そして矢田亜希子が欲しくなる。
どこの店に行けば矢田亜希子が買えるのか?
探してもとうとう本人を見つけることは出来なかった。
ただ、彼女の等身大のパネルがある店で見つかった。
部屋に飾った。
なんだかウキウキした。
でも、何か物足りない。
そうだ、あのプリンタだ!
インターネットで、あれがどこのメーカーの何ていうものか調べた。
注文し、購入した。
部屋にある彼女のパネルの横に、そのプリンタを置いた。
これでいい、とN氏は思った。
そうしてN氏がそのプリンタを購入するに至った。

「太田と田中2」
田中:でもね、やっぱり悪い若者ってのもいるものですね
太田:どっちなんだよ!お前は若者の味方なのかそうじゃないのか・・・
田中:どっちでもないですけど・・・
太田:はっきりしろよ
田中:いや、はっきりさせる必要はないでしょ!でもね、やっぱり良い若者に皆がなってくれればな、とは思ってますけどね
太田:偽善者だな
田中:いや本当に思ってますよ
太田:世の中ってのはね、色んな奴がいるからね、お前の都合の良いように、お前にとって良い若者ばかりであるはずがないんだよ!
田中:なんでそんな風に怒られなきゃなんないんだよ!
太田:だからな、世の中には良い奴もいりゃ悪い奴もいるっていう風が丁度いいんだよ
田中:そうかな?
太田:まぁ客観的に言えばね、悪い奴は悪いことしたいからそうなわけで、良い奴ってのは、世間から良い奴だって見られたいからそう言われるに相応しい行動をとってるんだよ
田中:凄い考え方だな
太田:だからさ、お前は良い奴だって自分のこと思ってんだろ?
田中:・・・まぁ、そんなに悪くはない、とは思うけど
太田:それはな、俺様がお前を苛めているように振る舞ってるからなんだよ
田中:なんだよ<俺様>って!
太田:そうやって俺が苛めてお前が拗ねちゃうとするだろ?そうするとお前が(もう苛められる役なんてうんざりだ。悪い奴になってやる!)ってなるんだよ
田中:そうかな?
太田:そうして世の中真っ暗になっていくんだよ
田中:ならないよ!俺もいじめキャラになっちゃったらコンビとして成立しなくなっちゃうでしょ?
太田:そう、だから世の中はまさに爆笑問題なんだよ
田中:なんだよそれ
太田:いじめる奴と、いじめられる奴
田中:嫌だよそんな分け方!どうせならボケとツッコミにしろよ
太田:まぁね、世の中良い若者もいれば悪い若者もいるってことですよ
田中:まぁそうだけどね

「夜は怖い」
夜は怖い
人や景色が見えにくくて
怖い

同じように
人の心も
怖い

しかし
人は怖いものを
まるっきり嫌おうとはしない
もの好きな生き物だ

夜は怖い
でも突然
夜に散歩したくなることがある
それが人というもの

「太田と田中3」
田中:まぁ色んな若者がいるっていうのはわかるんですけどね、やっぱりそういう世代の起こした事件のニュースを聞くと嫌な気持ちになりますね
太田:お前の顔みてるより嫌じゃないよ
田中:関係ないだろ!で、若者って犯罪の動機が独特じゃないですか、遊ぶ金欲しさに盗んだとかね
太田:パンティを?
田中:それは下着泥棒だろ!遊ぶ金欲しさに何でパンティ盗まなきゃいけないんだよ
太田:ブルセラ持っていけば儲かるんじゃない?
田中:面倒だろ!直接お金を盗めばいいだろ
太田:良くはないよ、お金盗むのは
田中:そういう意味じゃないよ!でね、まぁ罪の意識がないってのが若者の起こす犯罪の特徴ではあるよね
太田:そういうお前も罪の意識を持ってないよな
田中:いきなりなんだよ。なんで俺が?
太田:だってバスでも電車でも子供料金なんだろ?もうちょっと大人らしくしろよ!
田中:しょうがないだろ身長は。それにちゃんと大人料金払ってるよ
太田:大人ぶりやがって
田中:大人だよ!もうすぐ40歳だよ!
太田:まぁそういう田中みたいな若者の犯罪者はまだ切実で同情できるけどね
田中:え、どういうことですか?
太田:「大人料金との差額の分はシークレットシューズ代にあてようと思っていました」って泣けるよね
田中:買わないよ!
太田:それで見た目には身長が伸びて俺を越えちゃってね
田中:そんなに高いシューズあるのかよ
太田:やっぱり俺は「お前は身長が高すぎるんだよ!」って苛めてるんだろうな
田中:状況変わんないのかよ!もういいよ!!

―END―



2003年11月01日(土) 笑いで笑えなくて何が笑い?

えー、ふと普段思うことを書こうと思います。
一文で<思う>が二回出てきて、くどい表現であるのはわかってますが、気にしながらもほっておきたいと思います。

「だんだん志村がわからない」
理由あって、<志村けん>と紙にボールペンか鉛筆の類で書いた。
書いたそれを見ていると、次第に、<志村>というのがわからなくなってきた。
なんであの人(もちろん志村けんのこと)の名前の名字はこんな漢字なのか?
そもそもこんな漢字ってあったっけ?
初めて見るような気分にもなった。

「ノー根っから仙人」
この仙人は、前は俗人でした。
わりと最近に、仙人になったのです。
いわば新米仙人のようなものです。
たまに俗人に戻りたいという欲求に駆られるそうです。
なんか、そんな半端な仙人がいるそうです。

「あるなしクイズ」
あるなしクイズの<ある>側の一連のワードには何か共通するものがある。
だから<ある>側にあるのだ。
一方<なし>の方のそれらには、共通するものがない。
ないのに、<なし>という共通点はある。
この不思議。

「真っ赤だな」
真っ赤だな
真っ赤だな
お庭のお花が真っ赤だな
その色気に入らない僕は
黄色のペンキをかけました

黄色いな
黄色いな
お庭のお花が黄色いな
その色大好きな僕です
ほんとは真っ赤な色だけど

はがれてる
はがれてる
お庭のお花がはがれてる
黄色いペンキがはがれても
真っ赤な色ははがれない

「私には怖がる才能がある」
怖がる、という機能は重要だ。
怖がる、という本能が、あらゆる危機から人を救う。
ただ、ジェットコースターが好きな僕は、それにはあまり怖がらない。
スリルはあるものの、安全なものだと思い込んでいるからだ。
たしかに安全ではあるが、万が一の故障で怪我をしたり、悪いと命を落とすことがあるかもしれない。
だが、万が一のことよりも、スリルを楽しみたいと思う気持ちの方が強いのだろう。
一方、今や歩道を歩いていたって、通り魔に襲われるかもしれない。
本当はいつでも危険と隣り合わせなのかもしれない。
よって、私は基本的にいつも何かが怖い。
ジェットコースターに乗っても、歩道を歩いていても、同じくらいわずかに怖い。
だからといって、何もしないというわけでもない。
なにもしない状況も怖いと思う。
だから、何かはする。
でも、危険なことはしたくない。
よって、私の行動の全ては、恐怖から逃れるために行われていると考えられる。

「あり得ないよりアリエールの時代」
よく、女の人が<あり得ない>と口にするのを聞く。
その度、(あり得ないことはないだろう)と思う。
何かを<あり得ない>と否定してしまうということは、現実にその何かが起こったことを信じたくないと思うのだろう。
そしてきっと、再び起こることは考えられない、もしくは考えたくない、と思っているはずだ。
そういう考えは、危険だと思う。
何事にも<あり得ない>と思うより、<あり得るかも>と、納得しなければ、現実に呼応できなくなる人になるかもしれない。
だから、世間で何が起こっても、他人がどんな考え方をしていても、<あり得るかも>と僕は思いたい。
だから、様々な現象を<あり得ない>と言うより、<アリエール>と言って現実を認めていきたい。

―END―


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