はなこせんせいの日記
教育の現場の様子と気付いたことを折々の出来事に載せて綴ります。

2012年03月11日(日) 同じ思いのあなたに

 今日は、あの日です。
2011.3.11.東日本大震災がありました。

 今年は、ちょうど日曜日。
園はお休みです。
 
 金曜日の9日
避難訓練と集会をしました。

 ちょうど、お別れ会の準備をしていた時間。
ベルをならし、抜き打ちでした。

 だって、災害は時を待ってくれない。
訓練でも、あの日を思い出しました。
先生たちも、心なしか
いつもの訓練とは違っていました。

 そして、集会。
去年のことを振り返りました。
大きい子供たちは覚えていました。
そう、去年のあの日は、ちょうどお別れ会の日で
子供たちのお昼のサンドイッチが
少し残っていました。

 帰りの連絡がつかない子供たち。
帰るまでに橋をわたるルートの子もいて
「迎えにこられないかもしれないな」と
覚悟を決めました。

 布団はある。食べ物、飲み物もある。お湯は沸く。電話はつながる。(家庭用の電話が1台あって、停電でもOKでした。)
 水は、どこかでモーターを使っているらしく
停電のため、使えなくなりました。
 
 心配なのは、暖をとること。
理事長が発電機を持ってきてくれ、ストーブを一台動かしていましたが
余震が来るたびに消していたので
「これ以外の方法で何とかしよう」と
子供たちと温かい窓辺ですごしました。

 お湯が沸いたので、子供たちとお茶を飲んで温まりました。

 教室には、机をたくさん広げて
余震がきたら、すぐ下にもぐれるようにしました。

 一人帰り、二人帰り
暗くなってきて、明かりはつけられても
さすがに寒さがこたえてきたので、
玄関に張り紙をして、ホームに移動しました。

 最後のお迎えを終えて、ほっとしました。

・・・・・

 復興支援のパネル展示をみて
私は、何もしなかったことに
ショックをうけました。
募金はしたけど、直接的な支援、していない。

 遠くにいかなくても、すぐ目の前で
さまざまな活動がおこなわれていたのに
いったい、何をしていたんだろう。
被災地域だからといって
なにか、甘えがあったのか。
私は、被災者じゃなかった。
被災者じゃなかった?

 苦しくなります。
被災者というには、被害はほとんどなかった。
でも、被災地域として
影響は確かにあった。
なぜか、この一年が忙しかったのは
いつものように事務仕事がかたずかなかった。
県や国がの流れが滞っていたから。
被災関係の連絡報告の仕事も増えた。
園の防災対策も急務だった。

理由がないわけではない。

でも、、、、心に残る、この申し訳ない感じは何だろう。

もっとすべきじゃなかったか。
やっている人はもっとやっていた。

今からできることもあるはず。

復興支援のイベントの中で
一人ぐらいは私のような
なんともいえない申し訳なさを感じている人もいるかも知れない。

せめて、復興のイベントに顔を出して
忘れていない気持ちを
おいてくるしか
今日の私にはできないのかな。

できることからはじめる。
当たり前のことだけど、
そのスタートに立てないひとも
いるかも知れないのだ。

海が見れない
近づきたくない(私もそうだ)

もっと大変な思いをしている人の前では
決していえない気持ち。

立ち向かえないでいる人を
許してくれないだろうか。

イベントで挙げられるがんばろうコールが
重い人もいるんじゃないかな。

だって、まだ本当に
気の長い「復興」の始まりだから。

あの日から1年。

子供たちには、
「これから、あなたたちが大きくなる間
さまざまな天災があるかもしれない。
だからこそ、訓練を良くして
身を守ることを覚えて
命をつないで欲しい。生きていって欲しい」と伝えた。

教育にできることは何か。
それが私のすることなのかもしれない。

この震災と、その後の大変な中で
命を失った皆様のご冥福を祈ります。
そして、まだ震災の只中で
途方にくれている皆様の
お心が少しでも安らかな日が来ることを
お祈りします。
皆様を忘れることなく、いつかできることを
きっとしますからと
お約束します。
そして、震災の恐怖から子供を助け
放射能の影響から子供を守り
未来につなげる仕事を
細くても長く、続けて行きます。

副園長 松橋でした。




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