moonshine  エミ




2003年01月12日(日)  『ショコラ』 誰もかれも解放されうる

 休みの日、会社がある博多駅で降りずに、二つ先の箱崎まで乗っている電車は、何となくいい感じ。
 しんちゃんの家へ行く。
 シンザン記念などぼうっと見ながら、そのまま、何となく寝入ってしまう。
 時間がもったいないような気もするけど、しんちゃんちでする少しの昼寝は何だか心地いい。
 
 ビデオで『ショコラ』を見た。
 フランスの小さな田舎の村、強い北風の日に赤いマントを羽織った母娘がやってきて、チョコレートショップを始める。
 最初のほうで、すぐに「よその者(革新)―そこの者(保守)」のような対立の図が見え、その先の和解、という筋まで想像できるつくり。
 ヴィアンヌ、という名前からしてセクシーな、美しい未婚の母。
 壁に緑のペンキを塗り、呪いの道具のような民族調の置物を置き、魔法のように美味しそうなチョコレート菓子を作って、古くからの慣習に縛られて生きる人々の心を掴む彼女は、さながら魔女。
 でも、この物語のキモは、村から村へとさすらってきた母娘が、この村に腰を据えると決めるところで、
 それが和解でも母の勝利でもなく、解放だってことなんだろうな〜、と思った。

 定住しないから、しがらみや掟など関係なく自由に生きてきたヴィアンヌ自身も、
「さすらい」という生き方に囚われていた、ということ。

 このヴィアンヌの解放によって、大家のおばあさんや、暴力亭主に悩まされた妻や、急にラブラブになった夫婦、恋するおじいちゃんなどが、やけにあっさりヴィアンヌの術中にハマったのに、ぐんと説得力が増す、というか。
 ヴィアンヌは魔女でも伝道師でもなかったんだなー、てこと。
 外圧であれ内圧であれ、みんな、何か不自由なものに捕らわれている。
 そして誰でも、それから解放される可能性があるのだ。
 チョコレートとヴィアンヌは、ほんのちょっと、そのきっかけになっただけ。
「はじめから、何もかも元のままよ」
 村を出て行こうとしてそう言ったヴィアンヌも、村人に解放のきっかけをもらう。
 甘い美味しいチョコレートは、すばらしいだけの魔法の道具じゃない。
 良くあるきれいなおとぎ話のように見せかけといて、なかなかリアルな、骨のある物語でした。

 川から川を流れていくジプシーみたいな役のジョニー・デップ、すごくすごくかっこよかった。惚れる。ギターも良かった。
 でも、いちばん、必要性に疑問のある登場人物だったかも。
 娘の心のお友達、カンガルーの扱い方とかは、さすがによくできてるな〜と思った。

 この作品、私の大好きな『サイダーハウス・ルール』のラッセル・ハルストロム監督で、画面の雰囲気は良く似てたけど、サイダーハウス・ルールほどに胸が詰まる感じはなかったな。
 広い世界に出て行って、知らなかった世界を知り、純粋でも無垢でもなくなって、哀しくもなお美しい『サイダーハウス・ルール』。
 小さな村の小さな出来事の数々を通じて、人々の心が解放される『ショコラ』。
 やっぱり、青っぽいのって、せつなくて眩しいよね。
 うん、でも、この監督の作品は、好きだなあと思う。

 見終わった後で、しん氏がすぐに
「チョコレートってとこがミソやね。これが暴力ってのはよくあるけど」
 と言ったのも面白かった。最初、意味がよくわかんなかったけど、そう言われればそうだよね。こういうことを言ってくれるからしんちゃんがいないとつまんないよなー。
 
 夜は御島のちゃんこ鍋、いつもは鶏だしを頼むのだが、今日は味噌唐辛子のだしにしてみた。
 辛くて熱くておいしかった。





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